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うすらひ(13/18)

2019.10.31.Thu.
101112

 ひたすら歩き続けて5分ほど経った頃、背後から近づいてくる足音があった。ひと気のない夜道、走って近づいてくる足音に少し警戒していたら「久松さん!」大きな声で名前を呼ばれ、びくっと体が飛びあがった。

「こんなところでなにしてるんですか」

 振り返えると、はぁはぁと荒い息をする周防が目の前に立っていた。マンション前ならいざ知らず、そこから離れた場所で周防に会うなんて想定外で、なにも反応できなかった。

「どうしたんですか?」

 ぽかんとしたままの俺に周防がいぶかしんで顔を覗きこんでくる。瞬間的にこみあげてきたのは羞恥だった。こんなところまで男をおいかけてきて、待ち伏せまがいのことをした。それを一番見られたくない周防に見つかってしまった。

「べ、別に」

 恥ずかしさを隠すために俯いてつっけんどんに答える。

「どうしてこんなところにいるんですか?」
「ちょっと……知り合いと飲んでた」
「こんなところで?」

 たくさん店のある駅前ではなく、住宅街のなかだ。周防が怪しむのも無理はない。

「俺がどこで飲もうが勝手だろ」
「そうですけど」
「おまえこそ、どうしてこんなところにいるんだよ」
「さっき南さんを駅まで送っていく時にコンビニで久松さんを見かけたんです。駅からの帰り道ですれ違わないし、マンションの前にもいないから最初は見間違いかと思ったけど、少し気になって探してたんです」

 俺が気になったから、息を切らすほど探してくれたのか。周防が元からそういう奴だとわかっていても期待したくなった。俺だから、居ても立っても居られなくなったのだと、言ってほしかった。

「周防の家には行ってない」

 嘘をついたのは、付き纏うような鬱陶しい男だと思われたくないし、俺にもプライドがあったからだ。でもきっと嘘だとバレてる。

「そうですか。ならいいですけど」

 俺から目を逸らし、周防は自分の髪を撫でつけた。その時、微かに揺れた空気に乗って、石鹸の匂いがほのかに香った。さっきまで南と一緒だった周防から風呂上がりの匂いがするということは、つまり──。ぶん殴られたような衝撃に眩暈がした。

 全身から血の気が引いて行く。指の先が痺れたように痛かった。

「俺のことはいいから、早く、帰れよ」

 声が震えた。

「久松さんは?」
「周防に関係ない」
「でももう遅いし……、駅の近くまで送りましょうか?」

 南を抱いて駅まで送り届けた直後に、よくそんなことが言えたもんだ。こいつの神経はどうなってるんだ? 周防が女と2人で歩いてるところを見て俺が平気でいられると思ってるのか? 俺はそこまで図太くない。いまだに周防のことを引きずって色々支障も出てるって言うのに、こいつはもう次の女を家に連れこんでいる。この差はなんだ?

 最初に告白してきたのは周防だ。仕事でミスをするほど俺に夢中だったのに、いつの間にか立場が逆転している。俺の方が周防のことばかり考えている。

「なんで俺に優しくするわけ? もう俺の顔を見たくないくらい嫌いなんだろ。きっぱり諦められるんだろ? 所詮その程度の俺に、なんで優しくできるわけ?」
「どうして怒ってるんですか?」

 本気でわかっていないようで、周防は困惑顔になった。

 負の感情で頭も心もぐちゃぐちゃだった。俺が子供だったら泣き叫んで地団太を踏んでいるところだ。

 説明してやるのも馬鹿らしくて周防に背中を向けた。歩き出すと足音もあとをついてくる。静かな住宅街に2人の足音が響く。

「あの」
「なんだ」
「久松さんのこと、嫌ってなんかいません」

 さっき俺が言ったことへの反論を律儀にしてくる。

「へえ、そう」
「あっ」

 何か思い出したように周防が声をあげた。

「南さんとはなにもないですよ」

 歩調が崩れそうになったが、なんとか歩き続けた。

「さっきまでうちの部署の同期4人で飲んでたんです。立花さんと名取くんは先に帰ったけど、南さんは最後まで片づけを手伝ってくれて、だから駅まで送っていったんです。本当にそれだけですよ」
「……俺に関係ないだろ」
「でも、怒ってるみたいだから。嫉妬してるのかと思って」

 鈍感なのは許せても、無神経なのは許せるものじゃない。ぶん殴ってやろうかと思ったが、結局強く拳を握っただけで、それを使うことはできなかった。

「なにもないことはないだろ、風呂あがりのくせに」
「えっ? 風呂……あ、いやっ、違いますよ!」

 慌てた声とともに肩を掴まれた。加減を忘れた力で強引に振り向かされる。

「今日! バレーの試合に出てたんです! 本当はうちの部署の同期4人で旅行の予定だったんですけど、計画立ててるときに、高校時代の先輩から連絡があって、試合のメンバーが足りないから助っ人を頼まれたんです。もともと旅行には乗り気じゃなかったから事情を話して断ったら、旅行をやめてみんなで応援に来てくれることになって。それが今日だったんです。風呂に入ったのは試合で汗をかいたからで、南さんとなにかあったからじゃないですよ!」

 早口の必死な言い訳。周防は嘘をつかない。だからきっと本当のことを言っている。それを聞いて少し気が落ち着いた。嫉妬が完全に消えたわけじゃないが、確かめようもないことを疑うより、周防の言葉を信じたかった。でないと俺は嫉妬でおかしくなる。

 真正面から周防の顔を見るのは久しぶりだった。とても真剣な顔で俺を見ている。

「あ、すみません」

 ずっと俺の肩を掴んでいたことに気付いて周防は手をはなした。離れていく周防の手を、今度は俺が掴み返した。

「好きだ」

 周防の顔が強張る。

「やり直したい」
「無理です」

 即答だった。

「ちゃんと考えてくれ。どうしても駄目か? もう望みなしか?」
「久松さんは結婚してるじゃないですか」
「離婚するから」
「やめてください、僕にそんな責任は取れません」
「頼む、もう一度よく考えてくれ。俺はやり直したい」
「無理です、勘弁してください」
「こんなに頼んでも?」

 周防は無言で頷いた。

「だったらもう俺に優しくしないでくれ。期待するだろ」

 何か言いかけて周防は口を開いたが、言葉は出てこなかった。険しい顔で黙り込んだまま俯く。

「ここまででいいから。じゃあ、おやすみ」

 前に向き直り歩き出す。角の建物に見覚えがあった。もう駅に近い。

 聞こえる足音は俺の分だけ。周防は追いかけてこなかった。

 ※ ※ ※

 年が明け、わずかに残っていた正月気分も満員電車に乗って出勤したら跡形もなく消えた。久し振りに顔を合わせる同僚たちと挨拶をし、旅行土産の話を聞いて盛りあがった。

 仕事始めは関係各所への挨拶と、メールや問い合わせの対応に追われた。やっと一段落して給湯室へ行くと、南もお茶をいれていた。

「コーヒーですか?」
「あ、うん」

 頷くや南が俺のコーヒーをいれてくれた。礼を言って受け取る。休み中、旅行へ行った人たちの土産が給湯室に置いてある。それを物色していたら周防がやってきた。俺と目が合うとビタッと足を止めて一歩後ずさる。露骨に俺を警戒する態度にはさすがに傷ついた。

 クッキーを1つ取り、給湯室を出た。俺がいなくなった給湯室から、南の笑い声が聞こえてくる。ただの被害妄想だとわかっていても、自分のことを笑われたようで、下唇を噛んだ。

「なんかあった?」

 俺の顔つきがよほど酷かったのか、村野が椅子をすべらせて横へやってきた。

「なにもないよ。ちょっとコーヒーが苦くて」
「去年のだから、ちょっと悪くなってんのかもな」
「今日の夜、予定ある?」
「鍋がいいな」
「了解」

 オフの日に会うほど親しい付き合いではないが、長く一緒にいた同期の村野とはツーカーで話が通じる。気を使わないでいいから、なにも考えたくないときに一緒に飲む相手として村野は適任だった。

 少し残業をしたあと村野と会社を出た。予約を取っておいた店に入り、鍋を注文した。ビールで乾杯して、まずは仕事の愚痴を言い合った。そして正月休みの話題へ移り、家族の話になり、金の話、将来の話、そしてまた会社の話に戻った。

「今日見てて思ったんだけど、南ちゃんと周防ってデキてんの?」

 シメの雑炊をハフハフと頬張りながら村野が言った。目聡い村野でなくても、2人は傍目にそう見えていた。

 お互いのデスクを頻繁に行き来し、顔を見合わせクスクスと笑い合い、昼休みは当然のように2人で出かけ、仕事が終われば2人揃って退社した。何かあると誰もが気付く急接近だ。

「仲はいいみたいだけど、付き合ってるかまでは知らない」
「南ちゃんて最初は超絶地味だったけど、立花ちゃんの影響かなんだか、ちょっと良さげになったよな。押しも強そうだし、周防みたいなボーッとしたタイプにはああいう尻に敷いてくれそうな娘が合うと思うわ」

 無理矢理笑って話を合わせる。客観的に見れば周防と南はお似合いなのかもしれない。俺にはまだそんな距離感も冷静さもないけれど。

 プライドも恥も捨て、離婚してでもやり直したいと周防に頼んだのに、あの男は考えるまでもなく拒んだ。振られた相手に二度も三度も縋りつく真似はみっともなくて俺にはできない。あれが最初で最後の、俺のなけなしの勇気だった。それを無下にされたのだ。しばらく立ち直れなかった。年末年始は風邪気味だと理由をつけ帰省せず、美緒の実家も一人で行ってもらった。

 ようやくショックから立ち直って出社したらイチャつく2人を見せつけられて俺の精神状態はボロボロだ。南の鼻にかかった笑い声を聞かされるたびに、勘弁してくれ、と頭を抱えたくなった。いっそ異動願いを出そうかと思ったほどだ。実際、新天地でやり直すのも悪くないかも、と思う。

 店を出て、村野とは駅で別れた。電車に揺られているとスマホが震え、見ると「帰りに牛乳買ってきて!」と美緒からのメールだった。

 お天気お姉さん似で、仕事をしながら家のこともほとんどやってくれて、申し分のない奥さんだと思う。なのに俺ときたら男を騙して浮気をするような屑だ。俺には勿体ない。

 コンビニで牛乳を買って、美緒の待つマンションへ帰った。明るく、温かい我が家。

「まだごはん出来てないから、先にお風呂入ってきて」

 と可愛くて優しい妻。鋭い痛みが胸を刺す。

 もう、いろいろ限界だった。

「美緒、話がある」
「なに?」
「離婚して欲しい」




うすらひ(12/18)

2019.10.30.Wed.
1011

 クリスマス直前に公祐からメールがきた。今まで延び延びになっていた飲みの誘いだ。やましく不純な動機で誘っていた俺としては、今更という気がしないでもなかったが、久し振りに顔を見たかったし、誘われた金曜日は家に居ても周防のことを考えてしまいそうだったからすぐOKの返事をした。

「奥さん、そんなに仕事忙しいのか?」

 居酒屋で乾杯をし、近況報告も一通り終わったあと、公祐が言った。

「かき入れ時だし、福袋の準備だとか、とにかくやることいっぱいで営業時間が終わっても毎日残業続きだよ。おかげで俺はここんとこだいたい一人で飯食ってる。だから公祐が誘ってくれて嬉しかった」

 口に出してからしまったと思った。普通の会話でも、俺たちの間では思わせぶりな台詞になる。自分でそう聞こえるのだから、公祐もきっとそう感じ取っているだろう。

 窺い見た公祐は目を伏せて穏やかに微笑んでいる。高校生のころのように顔を赤らめたりしないし、目を泳がせたりもしない。ただ聞き流したのか、気付いてもいないかは、その表情からはわからない。

「学校が冬休みに入っただろ、だから時間に余裕ができたんだ」

 俺に気を遣わせないため? それともおまえに気はないって牽制?

 そんなことを考える自分に嫌気がさす。

 当たり障りのない会話を探し、公祐に学校の話を聞いた。

 今時の高校生は概ねいい子が多く、目立った悪さをするような生徒は学年に数人程度らしい。

「でもまあそれも表立ってしてないだけで、俺たちが気付かないところではやってんのかもしれないけどな。いまはネットのほうが問題だよ。全てを把握しておくことなんて無理だから、生徒がなにを閲覧してなにを投稿してるかなんて、問題になってから知っても手遅れだしな」
「ネットは確かに怖いな。出会い系とか援交の温床だろ」
「ああ」

 公祐は自虐のような、照れ隠しのような、不思議な笑い方をした。

「もしかしておまえ、出会い系とか利用してる?」
「してないよ」
「ほんとかよ」
「ほんとほんと」

 と笑うが俺の目を見ない。怪しい。

「そういえば、プライベートも忙しそうじゃん。付き合ってる子いるの?」
「うーん、まあ」
「歯切れが悪いな。どっちだよ」
「──いる」

 悩んだ末に公祐は頷いた。

「へえ、どんな子」
「かわいいよ、素直で。なんでも俺の言いなりだから、ちょっと心配なとこもあるけど」
「のろけかよ」
「でも要求が多くて、俺も手を焼いてる」

 と言うわりに顔は緩みまくって幸せそうだ。高校時代、俺には見せたことのない満たされた顔だった。

「そっちこそどうなんだ。奥さんとは」
「まあまあ普通だよ」
「大事にしてやれよ」

 それは公祐からの決別の言葉に聞こえた。俺と公祐の不確かで不明瞭だった恋愛関係は完全に終わりを告げた。公祐が見ている俺は、もうただの友人の一人でしかない。

 口をつけたビールがまずかった。

 俺は公祐とは正反対だ。最近、美緒との夫婦生活はうまくいっていない。美緒に誘われてもその気になれず断ることが増えていた。いざ始めても、中折れして最後までできないこともある。最初は気遣ってくれていた美緒も、だんだん俺の浮気を疑い始めた。

 でも平日はまっすぐ帰ってくるし、土日も出かけなくなったから、確信は持てていないようだ。実際いまは浮気をしていない。

 勃起不全は俺の精神的な問題だった。

 俺はまだ周防が好きだ。気付けば周防のことを考えている。周防に言われた言葉や、触れられた感触を思い出すことが止められない。毎日周防が恋しい。

 会社で会えるのが嬉しかった。たまに話ができると心が浮ついた。それも年末の休みに入ってなくなった。

 また俺を見て欲しい、また俺に好きだと言って欲しいと、勝手なことばかり願ってしまう。

 だから美緒と一緒にいると罪悪感と違和感で気が休まらない。こんな気持ちで美緒に触るのは憚られるし、逆に触れられると緊張する。もう美緒を受けつけなくなってしまっているのだ。

 二時間ほど飲み食いして店を出た。2人ともそこそこ酔っていた。

 駅に向かう道を歩いていたら、公祐のスマホが鳴った。俺に断りを入れて公祐が電話に出る。優しい声と顔で、「どうしたんだ」というのを見て、相手は恋人だろうとわかった。

「うん……うん、そう言っただろ」

 公祐の横顔を見ながら、ふと公祐とキスする自分を想像した。笑ってしまうほど違和感しかない。俺のなかでも公祐はもうただの友人になっているようだ。

「悪い、俺ちょっと行くわ」

 通話を切ったスマホをポケットに捻じ込みながら公祐が言った。

「恋人に呼び出された?」
「うん、近くまで来てるらしいから、悪いけどここで」
「わかった。彼女によろしく。またみんなで飲みに行こう」

 公祐と途中で別れ、1人で駅に向かって歩いた。急に寒さが身に染みる。コートのポケットに両手を入れた。

 周防は今頃、同期の4人と旅行に出かけているはずだった。

 以前、偶然聞いた立花と南の立ち話しでは、年末年始の休みが始まった最初の金土で、穴場の観光スポットへ行こうという計画だった。計画通りなら、今頃は食事を終えて風呂も済ませて、4人で楽しく飲んでいる頃かもしれない。

 立花か南、どちらかとくっつく可能性はゼロじゃない。想像したら腹の底がグルグルと気持ち悪くなった。

 まっすぐ帰る気にはなれず、かと言ってどこか行くあてもなく、電車をおりたのは会社の最寄り駅だった。会社とは反対方向へ歩く。この先に周防のマンションがある。

 行っても周防は旅行で留守だ。もしいたとしても、訪ねてはいけない。行っても追い返されるのがオチ。わかっていても他に行きたい場所がない。

 途中のコンビニに入って、手を温めるために缶コーヒーを一本取った。あてもなく商品の棚を見て回り、興味のない雑誌の表紙を眺めた。

 窓の外を一組の男女が通りすぎるのが目に入った。長身の周防と、髪をおろした南だった。

 驚きと疑問で立ち尽くす。どうして2人が? 旅行中じゃないのか?すぐ我に返ってその場にしゃがみ込んだ。見つかったら面倒なことになる。たっぷり時間を取ってから立ちあがった。2人の姿はない。急いでレジで会計を済ませ、外へ出た。駅の方へ向かって歩く周防と南が見えた。他に連れの姿はない。

 あとを追いかけたい衝動にかられた。なぜ2人なのか。どんな会話をしているのか。今までどこにいたのか。周防の家ならなにをしていたのか。

 気付けば強く歯を噛みしめていた。寒さを感じない。腹の底をグツグツと熱いものが煮えたぎっている。顔だけじゃなく、指先まで火照っていた。

 気持ちを引き剥がして、2人とは反対方向へ進んだ。2人の間になにがあったのか、なかったのか、そればかりを考えていたらいつの間にか周防のマンションに辿りついていた。

 明かりの消えている部屋を見上げながら、周防は戻って来るだろうかと考えた。もし戻ってこなかったら? 2人でどこで何をする気だ? ついこの前まで俺を好きだと言っていたくせに、もう次の女か。

 苛々が募る。大声を出してしまいそうだ。手の缶コーヒーを地面に叩きつけたい。なにかに八つ当たりしないと収まらない。

 マンションの前をウロウロしていたら通行人から不審な目で見られたのでその場を離れた。行く当てもなく周防のマンションの近くを歩きまわった。だんだん冷静になって自分は何をしているんだと情けなくなってきた。

 いつまでもここにいても仕方がない。もういい加減家に戻らないと、美緒もそろそろ帰ってくる時間だ。

 知らない場所を歩きまわったせいで方向感覚が鈍っていた。勘を頼りに駅を目指して歩いた。



こいの徒花【分冊版】 2話


うすらひ(11/18)

2019.10.29.Tue.
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 電車と新幹線を使い12時前にN県に到着した。目に入った店で昼食を取り、法務局で用事を済ませ、また駅に戻って電車移動。そのあとタクシーで幸村先生の自宅へ向かった。

「幸村先生って、誰なんですか」
「元議員で、地元の有力者ってやつ。今回の仕入れでいろいろ根回しに協力してくれたから、粗末に扱えない人なんだ。N県に来たのに素通りして帰ったってヘソ曲げられたら困るからね、だから毎回挨拶してるんだよ。いつもは村野がしてるんだけど、あいつ風邪で休みだから」
「2人で出張っていうのは、よくあることなんですか」
「やることいっぱいで人手が必要な時はよくあるよ。部長と2人っきりっていうときもある」

 顔を歪めて言う俺を見て、周防は「ハハ」と笑った。それを見て嬉しく思う。と同時に切なくなる。俺はまだこんなに周防を好きなんだと再認識させられてしまう。

 大きく立派な門の前でタクシーが止まった。勝手口の横のチャイムを鳴らすと「ハイ」と元気な女の人の声。会社名と名前を名乗ると「少々お待ちください」と返事があって、小柄な中年の女の人が出てきた。

 中に通され、立派な応接室で待たされた。大理石のテーブルだとか、鎧だとか、お金持ちと聞いてイメージする通りの部屋だ。

 たっぷり待たされて幸村先生がやってきた。恰幅のいい初老の男。風邪ごときで、と言いかねない年代なので、村野はインフルエンザに罹ったと嘘をついて、事前に村野にメールで聞いておいた手土産を渡した。

 1時間ほど幸村先生と話をしてお暇しようとしたら寿司が運ばれてきた。それをご馳走になり、また幸村先生の長い話が始まった。

 法務局だけなら最悪日帰りでも可能な仕事だが、幸村先生のこれがあるから一泊前提の仕事になる。

 酒を飲んでご機嫌になった幸村先生が、ご自慢の日本刀を見せてやる、と言いだしたときだった。いきなり応接室の戸が開いた。露出度高めの若い女性が俺たちを見て、「お客さんだったの~?」と甲高い声をあげた。

「瑠美ちゃん、どうしたんだい」

 幸村先生からびっくりするほど甘ったるい声が聞こえて俺と周防は思わず顔を見合わせた。

「今日、ご飯行く約束でしょ~。いつまで経っても迎えに来てくれないから瑠美が来てあげたの~」
「ああっ、そうだった、そうだった」
「もう~、しっかりしてよ、ボケるにはまだ早いんだからね」
「ごめんごめん、すぐ支度するからね」

 デレッとした顔だった幸村先生は、ひとつ咳払いをして元の貫禄を取り戻すと「姪の瑠美と約束があるので、悪いが今日はこれで」と女を連れて部屋を出て行った。

 呆然としたまま腰をあげ、さきほどの中年女性の案内で玄関を出た。手配してくれていたのか、門の前にタクシーが待っている。それに乗り込んだ。

「あれ絶対姪じゃないよな」

 ポツリと呟くと「そうですね」と周防が同意した。

「さっき僕たちを見送ってくれた女性は奥様じゃないんですか」
「あれはお手伝いさんだろ。奥さんは確か何年か前に亡くなってたはずだ」
「じゃあ、別に問題ないですね」

 周防は窓のほうへ顔を向けた。

 俺もなにも言えなくなって、駅まで無言だった。

 コインロッカーに預けておいた荷物を取って、ホテルのある駅まで電車に乗った。もうすっかり夜だ。移動ばかりで今日は疲れた。隣の周防もさすがに疲れた顔をしている。

「ごはんどうする?」
「少し食べたいです」
「ホテルの近くで探すか」
「はい」

 電車を下り、ホテルのほうへ歩きながら、途中で見つけた店に入った。さっき寿司を食べたばかりなのに、周防はそんなこと忘れたように注文した。

 食べ終わるとまたホテルに向かって歩く。コンビニに寄って飲み物と下着と靴下を買った。ホテルにチェックインして部屋に荷物をおろした。

 ベッドが二つ並んだ同じ部屋。本当に周防は気にならないのだろうか。こっそり盗み見した周防はベッドに腰かけてあくびをしている。

「先にシャワー浴びていいぞ」
「いえ、久松さん、お先にどうぞ」
「俺はちょっと出てくる」
「えっ、こんな時間にですか?」
「こっちにいる知り合いとちょっと会ってくる。遅くなると思うから、先に寝てて」
「でも」

 何か言いたげな周防に気付かないふりをして、財布と携帯を持って部屋を出た。

 こっちに知り合いなんかいない。周防と2人きりの空間が気まずくて、咄嗟についた嘘だ。

 寝るまでの間がもたない。なにを話せばいいのかわからない。風呂上がりの周防を見て平常心を保てる自信がない。だったらあいつが寝るまで外でいたほうがましだ。

 駅に戻る道を歩いて、明かりがついている飲み屋に入った。一品料理と酒を注文して、スマホを見ながら時間を潰す。

 30分が限界だった。いま帰っても周防はまだ起きているかもしれない。仕方なくまた酒を頼み、チビチビ飲んだ。さっきから溜息ばかりが出る。

「久松さん」

 驚いて振り返ると周防がいた。まだスーツ姿だ。

「おまえ、なんでここに」
「心配であとをつけたんです。知り合いの方はまだ来ないんですか?」

 俺を心配してくれたのか。それが嬉しいのに、なぜか腹が立った。俺を好きじゃないなら、もう優しくしないで欲しい。思わせぶりな態度を取らないでくれ。

 ハッとした。これは俺がいままで周防や公祐にしてきたことだ。人の気持ちを知った上でそれを弄ぶような、傲慢な行為。やったことが全部自分に返ってきている。

「知り合いは遅れるって連絡があった」
「じゃあ、来るまで隣にいていいですか」

 返事を待たずに周防は隣に座った。周防のいる左側がじんわり温かい。

「嘘だよ、知り合いは来ない」
「だと思いました。もうホテルに戻りませんか」

 俺の顔を覗きこんで言う。俺と違い、下心のない純粋な優しさだとわかる。だから余計、自分のしてきたことが恥ずかしかった。子供みたいに頷いて、周防と店を出た。

「悪かったな」

 周防の顔を直視出来ず、視線を前に向けたまま言った。

「僕と同じ部屋が嫌だったんですよね」
「違うよ、ただ、気まずかったんだよ」
「僕もです。ほんとは同じ部屋で一晩過ごすことにすごく抵抗がありました。2人だけの出張も、本当は嫌だったし、断りたかった」

 これが包み隠すことのない周防の本音だろう。それを聞いて落ち込む俺は、まだどこかで期待していたらしい。予定だったら今月は周防と泊りでどこかへ出かけているはずだった。それが仕事とは言え思わぬ形で実現した。気まずさはあっても、俺は少し浮かれていた。そして周防も同じなんじゃないかと、いまだに淡い期待を抱いていた。

 それが完全に否定されて、体から力が抜けていく。歩く足を前に出すのさえ大儀だ。

「だったら、ツインは嫌だって言えばよかったじゃないか」
「仕事だから我慢しようと思って」

 がまん、と口のなかで呟く。自虐的な笑みが自然と口に浮かんだ。

「周防はこのままホテル帰れ。俺はどこか空いてるホテルがないか探してみる。なかったら漫喫でもいいし」
「どうしてですか?」

 周防はびっくりした顔でこちらを向いた。俺はその反応に面食らった。

「俺といるのが嫌なんだろ?!」
「嫌じゃないですよ」
「はあ? さっき嫌だけど仕事だから我慢するって、おまえが言ったんだぞ?!」

 周防はキュッと唇を引き締めた。俺をじっと見つめていたかと思うと、前に向き直り「そうですね」と気の抜けた返事をした。

「最初はそう思ってたんです。でも今日一日一緒に行動して、そんなに嫌じゃなかったんです。久松さんはやっぱり頼りになる先輩だし、一緒にいて楽しかったです。だから余計に、どうして嘘をついたのかって、すごく腹が立つときもありましたけど、それも僕がまだ久松さんに気持ちが残ってるからなんですよね」

 前を向いたまま訥々と喋る周防の横顔を見つめた。

「前は好きじゃないって言いましたけど、本当はまだ好きなんです」

 噛みしめるように周防が言う。胸が締め付けられた。思わず「俺もだ」と言ってしまいそうになる。

「でも、今日一緒にいて、久松さんのことを諦められるような気がしてきました」
「……なんで?」

 自分でも泣きそうな声だと思った。周防は微かに笑った。

「だって、前みたいに普通に話ができるようになったきたじゃないですか。前はそれすら無理でした。でも今は同じ部屋でも平気だし、こうして追いかけて来ることもできた。久松さんとのことは忘れて、ちゃんと終わらせられる気がします。だから久松さんも早くそうしてください」

 吹っ切れたような口調と、軽い足取り。俺が立ち止まるとどんどん距離は開いて行った。周防の背中を見つめる視界が滲む。奥歯を噛みしめ、足を動かした。

 俺が遅れていることに気付いた周防の歩調が緩む。

 頼むからもう優しくしないでくれ。俺を気にかけないでくれ。

 そのあと突き放されるくらいなら、無視されたり避けられてるほうがましだった。

 ホテルでも、帰りの移動車のなかでも、俺たちは口数こそ少なかったが、それこそどこにでもいる会社の先輩後輩として振る舞うことができた。

 俺のほうは胸を締め付けられるような痛みをことあるごとに味わったが、周防のほうはいたって普通にお土産の話なんかをしていた。

 新幹線で周防は居眠りを始めたが、俺は一睡もできなかった。




うすらひ(10/18)

2019.10.28.Mon.


 肌寒い朝だった。着々と秋が深まっているのを感じる。今日はニットのベストを着て出社した。一階のエレベーターホールで村野と一緒になった。

「おはよう」
「おす。今日寒いな。俺ヒートテック着てきたわ」
「今年もあと二ヶ月だからな」
「来月のボーナスだけが生き甲斐だわ」

 笑い声が聞こえて振り返ると立花と南がいた。2人と朝の挨拶をする。その後ろに気まずそうな周防が立っていた。

「おはよう、周防」
「おはようございます」

 俺と目を合わさないで頭を下げる。先月、仕事場では普通にして欲しいと頼んでから、周防は律儀にそのようにしてくれた。まだぎこちなさはあるし、積極的に話しかけて来ることはないが、最低限の会話はしてくれるようになった。

 これが「普通」と呼べるまで元に戻った時、俺たちの関係は完全に終わってしまうんだろう。こんな終わり方は不本意だが、周防が拒絶している以上俺にはどうしようもない。

「ボーナスが出たら何に使うか決めてるんですか?」

 立花が俺たちに話しかけてきた。

「俺んちは半分は家のローンで、半分は家族旅行かな」

 村野が答える。

「久松さんは?」
「俺は貯金かな」
「奥様と旅行には行かれないんですか?」

 立花の何気ない言葉。ハッとして思わず周防を窺い見た。周防もぎくりとした顔つきをしていた。俺と目が合うと、慌てて横を向く。

「向こうは年末年始忙しいからね。あっちが休みに入るころ俺は仕事だし。お互い実家に帰省するくらいで、なかなかね」

 降りてきたエレベーターにみんなで乗り込んだ。前から順番に入って振り返る。今度は周防が俺の前になった。見上げる後頭部。刈りあげられた襟足。最近散髪したらしい。

「周防は何に使うんだよ」

 村野に声をかけられた周防は、首だけ動かしてこちらを向いた。満員のエレベーターで身動きが取れないのだ。

「僕は貯金ですかね」
「つまんねえな。彼女いないのかよ」
「いませんよ」
「まぁ、お前はモテなさそうだもんな」

 村野の失礼な言葉に周防は苦笑して頷く。俺は隣で腹を立てた。何か言い返そうとしたら、

「そんなことないですよ」

 立花に先を越された。

「周防くんて、実はけっこうモテますよ。ね、香織」

 香織と呼ばれた南が立花の隣でウンウンと力強く頷いている。

「この前同期の4人でご飯食べに行ったんですけど、そこの店員さんが元バレー部で周防くんのこと知ってたらしくて、連絡先交換してくださいって、声かけられてたんですよ」

 そう話す立花は誇らしげだった。村野に言い返したかった俺としても誇らしいが、同時に少し複雑でもあった。嫉妬で目が曇った村野に見えないだけで、周防がかっこいいことなんて、誰も彼もが知っている事実だったのだ。

 周防は作ろうと思えばすぐ、恋人を作れるだろう。そして俺のことを忘れ、俺にしたように毎日好きだと伝え、優しくしてやるのだろう。

 腹が捻じれるような不快感があった。嫉妬なんてできる立場じゃない。嫌だと思う資格すら俺にはないのに。

 周防は恐縮しているのか、背を丸め小さくなっていた。この男は、いつか誰かのものになる。それもきっと、そう遠くない未来に。

 エレベーターを出て、自分たちの部署へ行き、デスクにつく。つい目が周防を追う。周防の隣に立花がいて、何かを話している。立花がそっと周防の腕に触れた時、カッと腹の中が熱くなった。

 仕事仲間にさえこんなに嫉妬してしまうのに、周防に恋人ができた日には、俺はどうにかなってしまうんじゃないだろうか。それまでに、周防を諦めないといけない。終わらせなくてはいけない。

 集中して仕事をこなし、昼は村野と一階のカフェにおりた。今日は雨だからか、周防も立花と南と一緒にやってきた。3人は俺たちの近くのテーブルに座った。

 聞いちゃいけないと思っていても、つい3人の会話に聞き耳を立ててしまう。一通りお互いの仕事の話を共有しあったら、「そろそろ申し込まないと、どこもいけなくなると思うんだよね」と立花は旅行のパンフレットをテーブルに出した。

 南と周防が身を乗り出し、パンフレットを覗きこむ。どうやらこの面子で旅行に行くつもりらしい。

 ほとんど上の空で村野に返事をしながら、俺の意識は完全に周防たちの会話に持って行かれた。

「名取くん、ほんとに行く気あるのかな? 連絡してもぜんぜん返事くれないし」

 パンフレットをめくりながら南が口を尖らせる。

「何日までに連絡なかったら不参加ということで、ってことにしとけばいいよ。計画全部私たちに丸投げだし、正直いてもいなくてもって感じだしね」

 仕事ができる立花らしい言い方だ。でも待てよ、そうなったら……

「名取くんが来ないなら、僕も不参加ってことで」

 周防の言葉を聞いて安心した。もしメンバーが周防、立花、南、名取の4人なら、名取がいないと男は周防1人だけになる。誰かと間違いが起こったり、仲が発展する可能性だってある。旅行とは、それだけ親密になれる行事だ。

「周防くんは一緒に行くの。男1人だからって遠慮しないで。だって休みの間、どこにも行く予定ないんでしょ。だったらみんなで遊びに行こうって決まった話なんだから」

 朝のエレベーターでの会話といい、立花の口から俺の知らないことが色々明かされる。パンフレットが用意されているということは、以前から予定について話し合っていたということだ。いったいいつ、そんな話をしていたのかと、そんなことが気になった。

「立花さんと南さん、二人だけのほうが気楽で楽しいと思うよ」
「同期の親睦深める目的もあるの。わかった、ぜったい名取くんも連れてくから。それならいいでしょ?」

 立花に押し切られるように、周防は頷いた。

 午後からの仕事はあまり集中できなかった。頭の隅にずっと周防たちが行く旅行のことが居座っていた。男女で泊りの旅行。ただでさえ仲のいい周防たちは、これからも絆を深めていくだろう。いまは友情とか仲間意識かもしれないが、いつか恋愛感情に変わるかもしれない。

 俺には関係ないと割り切るには、まだ時間が足りなすぎた。

 ※ ※ ※

 その日、出勤すると部長に呼ばれた。「急で悪いが」とN県への出張を頼まれた。なんでも今頃になって必要書類に不備が発覚したから、N県の法務局まで行ってくれということだった。

「ついでに幸村先生のところへも、挨拶頼む」
「それは村野の担当では」
「村野は今日は風邪で休みだ」

 そういえば昨日は体の節々が痛む、と言っていたっけ。

「周防も行かせるから、仕事を教えてやってくれ」
「えっ」

 大きな声が出た。

「法務局だけなら周防1人で行かせるんだが、幸村先生のところは新人に行かせるわけにはいかないだろ。紹介も兼ねて、あいつも連れて行ってくれ。今後なにかと関わることがあるかもしれないからな」

 呆然としていると、周防が横へやってきた。

「お呼びですか」
「説明は久松から聞いてくれ」

 しっしと手で払われた。困惑顔で周防が俺を見る。俺は呻った。

 とりあえず時間がないので周防をつれてデスクへ戻る。N県へ行く理由を簡単に説明しながら、会社指定のサイトを使って新幹線とホテルの予約をする。

「ああ、クソ、ツインしか空いてない」

 周防をここに泊めて俺はほかに泊まろうか。実費になるが仕方がない。

「僕は構いません。久松さんが嫌じゃなければ」

 ぎょっと周防を見た。パソコンを覗きこむためにすぐ近くに顔がある。目が合うと周防は体を反らした。

「すみません」

 なにが。顔が近かったことに対して?

「いや、別に。本当にいいのか?」
「はい」
「じゃあ予約するぞ?」

 何度確認しても周防は「はい」と頷いた。気まずくないのだろうか。俺は気まずいし、めちゃくちゃ意識しているのに、周防はもう平気なのか。予約を確定させる指が少し、震えた。

「今すぐ帰って一泊分の荷物まとめてこい」
「久松さんは?」
「俺はあっちで適当に揃える」
「じゃあ僕も」
「おまえは家が近いだろ。引っ越したばっかなんだから無駄使いはやめとけ」

 俺のために引っ越しをさせたようなものなのに、こんなことになって申し訳ないとずっと思っていた。周防もきっと後悔しているに違いない。

「俺は総務に連絡とかあるから、その間に用意しとけよ」

 はい、と返事をすると周防は自分のデスクへ戻った。鞄を持って走るようにフロアを出て行く。

 大きな溜息が出た。周防といると緊張する。体も強張っていたらしく、いなくなってから力が抜けた。こんなので周防と2人で出張なんて大丈夫だろうか。

 総務部に出張依頼のメールを送り、少し時間を置いてから確認の電話をかけた。その場で承認をもらうい、次に村野にメールを送った。そのあと必要書類の確認。仕事の引き継ぎを終えた頃、周防が戻ってきた。手に大きめの鞄。

 俺のせいでなくなった周防との旅行。仕事とは言え実現するとは。少し浮かれてしまう自分がいる。




うすらひ(9/18)

2019.10.27.Sun.


 仕事終わり、うろ覚えの道をなんとか迷わず歩いて周防のマンションへ到着した。手ぶらもあれかと思って途中のコンビニで酒やらおにぎりを買ってしまったが、誠意がないと思われたりしないだろうかと部屋の前に立ってから後悔した。

 周防は俺より先に退社していた。寄り道していなければもう部屋にいるはずだ。もしいなくても、部屋の前で待つつもりだった。

 いきなり訪ねて驚かせるのも悪いと思って、インターフォンを鳴らす前に周防に電話してみた。かすかに中から呼び出し音が聞こえるが途切れる気配はない。周防は帰宅している。扉一枚隔てたこの中にいる。

「いまから周防の家に行っていいか?」

 メールを打った。送信しようとして、これを見た直後にチャイムが鳴ったらホラーだよな、と送信ボタンを押す指をためらった。着信をシカトされた。メールもきっとシカトされる。

 騙し討ちのようだが、メールは送信せずにインターフォンを鳴らした。応答はない。扉も開かない。モニターで俺だとわかって無視することに決めたのだろう。

 今日こそちゃんと話をしようと決めてきたんだ。俺も引き下がれない。意地になってもう一度チャイムを鳴らした。それが通じたいのか、『……はい』と低い周防の声が聞こえた。

「突然ごめん、久松だけど、開けてくれないか」
『……すいません、いま飯食ってて』
「待つよ。とりあえず入れてくれ」
『ご用件はなんでしょうか』
「わかってるだろ。俺たちのことをちゃんと話し合いたい」
『話なら終わりましたよね。資料室で』
「あんなんじゃなくて、もっとちゃんとした話し合いをしたいって言ってるんだ」
『必要ないと思います。久松さんが結婚していたことがわかった時点で終わったことですから。今日も奥さんが待ってるんですよね。早く帰ったほうがいいですよ』

 ほんの数日前までは、甘く蕩けた顔と声で好きだと言って憚らなかった周防が、いまは別人みたいに冷たい。当然のこととは言え、扉を開けてもくれない仕打ちは堪えた。

「……入れてくれないなら、ここで暴れるぞ」

 インターフォン越しに周防の溜息が聞こえた。

『どうせ、できないでしょ』

 ショックを受けると同時に、頭のなかで何かが切れた。

 鉄の扉に飛び掛かり、殴って蹴って暴れながら周防の名前を叫んだ。こんな真似、今まで一度もしたことない。できないと言う周防の冷めた口調がショックだった。見捨てられたくないと、藁にも縋る思いだったのだ。

「やめてください!」

 扉が開いた。慌ててやってきた周防が隙間から怒った顔を見せる。前はいつでもこの部屋に来ていいと言っていたのに、今は10センチほどしか扉を開けてくれない。

「なに考えてるんですか」
「おまえが、どうせできないって言うから」

 眉間にしわを作った険しい顔で、周防はしばらく俺を見ていた。根負けして「10分だけなら」と渋々扉を開けてくれた。

 前回来たときと比べて部屋がずいぶん片付いていた。段ボールはなくなっているし、衣装ケースは奥の寝室で秩序を保って並んでいる。前はなかったテーブルとソファもある。このテーブルはあの家具屋で買ったものだろうか。思い出すと腹の底がずんと重くなった。

 テーブルには食べかけのコンビニ弁当。食事中というのは嘘じゃなかったらしい。

「どうぞ、座ってください」

 俺にソファを勧め、周防は床に正座した。弁当に蓋をしてテーブルの端に寄せる。

「周防の家なんだし、おまえがソファに座れよ」
「いいですから」

 厳しい口調で遮るように言う。ソファに座るか迷って、結局周防の正面の床に座った。

「これ、途中のコンビニで買ったやつ。よかったら」
「ああ、すいません」

 無感情に言うと、受け取ったコンビニの袋を中身も見ないで横に置いた。雑な扱われ方はいまの俺と同じだ。

「それで、まだなにを話し合うって言うんですか」

 そう切りだされるとぐうの音も出てこない。会話の糸口。なにかとっかかりを。

「周防に……、謝りたくて」
「謝罪ならもう聞きました。それに謝る相手は僕じゃなくて、奥さんですよね」

 俺のことが好きだとひたむきに見つめてきた目が、いまは厳しく俺を見据えていた。好ましく思っていた嘘や保身のないきれいな目が、いまは刺さるように痛い。

「やっぱり怒ってるよな」
「怒るというより、ショックでした。自分が不倫の片棒を担がされていたことが」
「ほんとに最初からそういうつもりじゃなくて……、断るつもりだったからわざわざ言う必要もないと思って」
「断るつもりだったなら、どうしてあの日、エレベーターのなかで僕とキスしたんですか」
「それは……、俺もしたいと思ったから」

 言葉を選んで少し言い淀む。

「断るつもりだったんでしょう?」
「最初は。でも、だんだん」
「だんだん?」
「俺も、周防のことが……好きになって」

 俺がやっとの思いで吐き出した言葉を、周防は悲しそうな顔で受け止めた。

「初めて好きだって言ってくれましたね。いま聞いても、むなしいだけですけど。今まで言ってくれなかったのは僕に言質を取られないためですか?」
「そんな言い方しなくたって」
「どう言えばいいんですか。久松さんは結婚しているのに喜べるわけないでしょう」
「だからそれは何度も謝ってるだろ」
「いつまで黙っているつもりだったんですか?」

 追及の鋭い目が俺を射貫く。たじろいで、取り繕うことも出来ずに間が空いた。

「ずっと黙っている気だったんですか?」

 いつ本当のことを話そうか、それは俺も考えてはいた。でも具体的なことはなにも決めていなかった。いつかバレると思いながら、どこか楽観的で、憂鬱なことを先送りにした。そんなことをしても良いことはないとわかっていたのに。

「でも……、周防だっていつか結婚するだろ」
「それはまだわかりません」
「いつまでも男同士で続けられるとは思ってなかっただろ。まさか俺と墓場まで一緒にいられると思ってたのか? 思ってないだろ?」
「そんな先のことは考えてなかったけど、別れる前提で久松さんといたわけじゃありません。ずっと長く一緒にいられたらいいと思っていました。でも、久松さんは違ったんですよね。結婚してるのに俺の告白を受け入れてくれたのは、最初から遊びだったからなんですよね。そりゃあ気軽に男と付き合えますよね。本気じゃないんですから」

 確かに最初は遊びの感覚だった。男同士がどういうものか、俺にベタ惚れの周防で試して、一通り楽しんだら後腐れなく終わらせる気だった。

 周防の気持ちなんて、なにも考えていなかった。

 自分でも予想できなかったのは、本気で周防を好きになってしまったこと。まさかこんなにのめり込むなんて、想像もしていなかった。

 その気持ちまで否定されたら、俺も黙っていられなかった。

「勝手に俺の気持ちまで決めつけないでくれよ。ほんとにただの遊びだったらもうとっくにおまえとは終わってる。そりゃ最初は不純な動機だった。それは認める。でも今は違うって、俺の態度でわかんなかったのかよ。誰だってよかったわけじゃない。周防だったから、俺も本気で好きになれたんだ。その気持ちまで嘘だって決めつけないでくれ。そんなの、寂しいだろ」

 周防に拒絶されることがこんなに苦しいことだと思いもしなかった。思い返せば、俺は周防に自分の気持ちを素直に表現してこなかった。いつも与えられるばかりで、その優越感に浸っていた。

 公祐のときと同じだ。自分に示される好意が気持ちよくて、それを引きだすために気のあるようなふりをした。公祐の気持ちをないがしろにして、自慰行為をしていたようなものだ。だから公祐は俺に告白してこなかった。そして最終的に俺を諦め、吹っ切った。

 俺はまたそれを繰り返そうとしている。

「久松さんの言うことはなにも信用できません」

 周防は目を伏せて硬い声で言った。周防の言うことはもっともだ。

「もう、出て行ってもらえませんか。10分経ったし……、明日も仕事なので」
「でも、周防」
「迷惑なんです」

 好きだという気持ちを雄弁に語った周防らしく、こんなときも容赦がない。

 もう少し話を、と粘ることもできた。でも俯いた周防が怒っているようで泣く寸前のような顔をしているのを見たら、これ以上わがままは言えなくなった。

「飯時にごめん」

 立ちあがり、鞄を持った。

「もうなにを言っても信じてもらえないかもしれないけど、俺は周防を好きだったし、いまも好きだよ。結婚してる俺がこんなこと言うのは間違ってるってわかってるけど、もう周防に嘘はつきたくないし、これが俺の本当の気持ちだから」

 俯いたまま周防はうんともすんとも言わない。

「最後に一個だけ聞かせてくれ。もう、俺のことは好きじゃない?」
「……好きじゃありません」

 顔を歪めながら、絞りだすように周防は言った。

 自分できいておいて、切りつけられたように胸が痛んだ。俺を見ない周防を見ていたら「本当か?!」と肩を揺さぶりたくなる。そんなかっこ悪い真似はさすがにしたくない。

「できれば仕事場では普通に接して欲しい。勘づく奴らも出てくるし、お前の評価が下がったら嫌だから」

 周防は微かに頷いた。

「最初からやり直したいよ。ちゃんと結婚していることを話して、先輩後輩よりちょっと仲のいい友達みたいになりたかった。周防と一緒にいるのは、本当に楽しかったから」

 最後、声が濁った。目の奥が熱くなって、顎が震えた。幸い周防は俯いたままだ。素早く横を通りすぎ、見送りのないまま、周防の家をあとにした。