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往時渺茫としてすべて夢に似たり(5/15)

2018.06.11.Mon.


 昼前から急激に気温があがりだした。初夏だ。目前に迫った夏の気配にうんざりする。

 昼過ぎの車内は日影にあっても蒸し暑かった。車に乗り込んですぐ冷房を入れる。待ち合わせ場所につく頃には車内の熱気は消えて、涼しくなっているだろう。

 一週間前、店に国見さんから電話があった。自分の映画が公開されたから一緒に観に行こうと誘われた。すでに観たあとだったがそれは言わずにOKした。

 二人の時間が合ったのが今日。二人とも休みだから、映画のあとまた部屋に招いて食事でもと思い、午前中は家の掃除と近所のスーパーマーケットへ買い物もしておいた。

 併設の駐車場に車を停めて、事前に教えてもらった番号へ電話をかけた。

『はい』
「国見さんですか。諸井です」
『南のカフェにいる』
「すぐ向かいます」

 あの国見栄一と待ち合わせをしているなんて、スタッフの若い子たちが知ったらさぞ驚いて羨ましがるだろう。

 店に入ってあたりを見渡す。ただ眼鏡をかけているだけの国見さんを見つけた。爽やかな水色のシャツがよく似合う。

「お待たせしました」
「何か飲む?」
「いえ。先に映画を観ましょう」

 他の客が何人か国見さんに気付いてチラチラと見ていた。ただ休日に映画を見るだけなのに、どこへ行っても人の目が付き纏う。

 店を出てエレベーターに乗り込む。他の乗客から見えないように国見さんを体の壁で隠す。どうしてマスクかなにかしてこないのだろう。もうそんなことすら、嫌なのだろうか。

「眼鏡、似合ってますね」
「普段はコンタクトなんだ」
「視力悪いんですか」
「0.01」
「それはひどい」
「諸井さんは?」
「調子がいいと1.5あります」
「うらやましい。俺はこの距離でやっと諸井さんだってわかる」

 眼鏡をずらして顔をちかづけてきた。息がかかってしまう20センチの距離。先月キスしたことが否が応でも思い出される。

「眼鏡をなくしたら大変ですね」

 階数表示へ視線を逃がした。顔が少し熱い。

 エレベーターが止まり、外へ出た。チケット売り場に並んでチケットを買い、待ち時間の間に飲み物とポップコーンを買った。国見さんはグッズ売り場でパンフレットを買っていた。

「自分の映画観るのなんて久し振り」
「今まで来られなかったんですか」
「亮介……ほら、例の医者。あいつ、俺が芸能人だってことが気に入らない奴だったから。映画もドラマも何も一緒に観てくれなかった。芸能界の仕事なんて水商売だって言ってたような奴だから」

 そんなことを言う男のなにがよくて好きになったのだろう。

「俺がちょっと仕事で時間に遅れたり行けなかったりするとすぐ不機嫌になったりね。そういう自分も、宿直があって生活が不規則だったり急に呼び出されたりしてたくせに。とにかく向こうは俺の仕事が気に食わなかったんだ。付き合う時、芸能人扱いはしてやらないからなって言われたし」

 思い出して国見さんはクスクスと笑った。親しみと愛情のこもった表情。彼はまだ医者の恋人のことが好きなのだろう。

「あれから連絡は?」
「してない。向こうからもこない」
「一度してみては?」
「この話は終わり。始まるみたいだ。行こう」

 入場開始のアナウンスが流れていた。彼に腕を引かれ、ゲートへ向かった。



「とても贅沢な時間でした」

 映画を観終わり、車に戻ってすぐ彼が「どうだった?」と訊いてきたので素直に答えた。

「スクリーンに映っている人が隣にいるなんて、今までにない貴重な経験でした」
「どっちの国見栄一が良かった?」
「もちろん、どちらも両方です」
「さすが接客のプロ。ぬかりないね」

 本音を言えば実物のほうが良いに決まっている。役を演じ切っている彼は仕事をする一人のプロフェッショナルとして尊敬している。だが私の隣で素の顔を見せてくれる彼のチャーミングなことと言ったら。三十過ぎの男に言う言葉でないことはわかっているが他に言葉が見当たらない。そう、彼はきれいであり、かわいいのだ。これを一時でも独占できている歓びは、何物にも代えがたい。

 私の部屋へつくまでの時間、映画の感想を言い合った。ほとんどが私の彼への賛辞だ。お世辞ではなく、心から出た言葉だ。彼は時折照れたりしながら、嬉しそうに聞いてくれた。

「まさか俺を口説いてる?」

 と彼の冗談にはぎくりとした。無意識ぶりながら、意識的に言葉で愛撫していた。彼を悦ばせる言葉を紡ぎ続けていた。笑ってごまかすしかなかった。

 なんの確認も取らずマンションへ車を入れたが、彼もそれを当然のように受け入れて一緒に車をおりた。

「少し早いですが、夕飯を作りましょう」
「作れるの?」
「簡単なものですが」
「一人暮らしに慣れ過ぎた男って感じ」
「国見さんは料理は?」
「僕がすると思う?」

 首を横に振る。想像できない。

 食事を作り、国見さんにテーブルへ運んでもらった。今夜のために買ったワインをあけて乾杯する。

「諸井さん、兄弟は?」
「弟が一人」
「仲はいい?」
「昔は悪かったんですが、大人になったら普通に会話できるようになりましたね」
「取っ組み合いのけんかとかしてたの?」
「してました。殴りあいなんて日常茶飯事です」
「諸井さんが殴りあい? 想像できないな」
「男兄弟なんてみんなこんなもんですよ。国見さんは?」
「俺は一人っこ。そういえば喧嘩したこともないな」
「映画のアクションシーンは慣れたものでしたよ」
「二十歳の時にやった映画でアクションは徹底的に仕込まれたんだ。ついでに、他のいろんなことも」

 国見さんは意味深に笑った。色々なこととはアレのことだろうか。追及していいものか迷っていると「食事中にごめん」と国見さんは顔を赤くした。色事の指南で正解だったらしい。

 アクションシーンの多い二十歳の時の映画といえば、不良少年たちの縄張り争いの映画だろう。線は細いのに体は鍛えあげられてとてもセクシーだった。

 あの体に手を出した男がいるのか。一体どこのどいつだ。嫉妬する立場でもないのに、重くて黒い感情が腹の底でドロドロと動く。

「その人のことは好きだったんですか?」

 踏みこんだことに国見さんは少し驚いた顔をした。

「好き……だった。本当の自分を教えてくれたし、それを受け入れてくれたことが嬉しくて」

 国見さんは純粋すぎる。何も知らないネンネの彼をうまくたぶらかして手籠めにしてしただけだ。

 私が二十歳の頃は、大学に通いながらハッテンバに出入りして、毎回違う相手とセックスしていた。大人が仕掛ける駆け引きのずるさは身をもって知っている。

「諸井さんはモテそうだ」
「あなたほどじゃありませんよ」
「謙遜だ。諸井さんみたいな人ほど、裏ではめちゃくちゃ遊んでること知ってるよ」

 芸能界の裏側を知り尽くした目がまっすぐ私に向けられる。その目の前で嘘なんかつけるはずもない。

「昔の話です。いまはすっかり落ち着きました」
「悪い人ほど、そう言うんだよね」

 国見さんの笑い声に携帯の着信音が重なった。

「ちょっとごめん」

 ポケットからスマートフォンを出して、国見さんは顔をしかめた。操作して耳にあてる。

「まだ僕の番号残してたんだ? なにか用?」

 つっけんどんで、ずいぶん砕けた口調。相手はかなり親しい相手。

「亮介のところにも記者が? 店で僕をぶったりするからだよ。用件はそれだけ?」

 電話の相手は国見さんの恋人の医者らしい。空いた皿をキッチンへ運んだ。水を出して皿を洗いながら、耳をそばだてた。

「なんで今更? 会ってなにを話すんだよ。……嫌だよ、亮介の話なんか聞きたくない。あっちこっちフラフラするような奴……やだって……そんなこと言っても許さない。どうせまた研修医のとこへ行くくせに」

 最初の勢いが薄れていく。だんだん声も甘えて拗ねているような感じになる。これが国見栄一が恋人に見せる姿か。

「今から? 仕事はもう終わったの? わかった。じゃあ話を聞くだけ。僕もあんな終わり方は嫌だし。だから話は会ってから聞くってば。迎えに来なくていいよ。タクシーで行くから。……二十分後くらいには着くと思う。うん。じゃあ、あとで」

 スマホをポケットに仕舞って彼は顔をあげた。

「ごめん、あいつがどうしても会って謝りたいって言うから、俺行くよ」
「ええ。仲直りできるといいですね」
「冗談!」

 彼は鼻にしわを寄せた。

「片付け、手伝わなくてごめん」
「気にしないでください」
「また連絡する」

 急ぎ足で彼は行ってしまった。今日は遠ざかる足音はすぐ聞こえなくなった。

 ソファに座り、深く息を吐いた。

 国見さんは彼とよりを戻すだろう。小泉さんの時と同じだ。やっぱり、同じだった。口説かなくてよかった。好きにならなくてよかった。小泉さんというブレーキをかけ続けていたおかげだ。

 彼から連絡がくることはないだろう。この家に来ることも、夜中に店の外で待っていることも、もう二度とない。落ち込むことはない。日常が戻って来ただけだ。

 この喪失感も、数日で消える。





往時渺茫としてすべて夢に似たり(4/15)

2018.06.10.Sun.


 店に記者が来て二週間が経った頃、仕事終わりの私を店の外で呼び止めたのは国見栄一だった。

「お疲れさま」

 と突然植木の影から現れた。ほとんど毎日パソコン画面で見ていた人物が目の前に現れて呆気に取られていると「驚いた?」と国見さんは可笑しそうに笑った。演技ではない素の笑顔が私に向けられている。

「そりゃあ……、驚きます」
「そっちに週刊誌の記者が来なかった?」
「国見さんのところにも?」
「鬱陶しいだろうけど、無視していいから。迷惑かけたね」
「迷惑だなんて。国見様にお土産をもらったことが嬉しくて、お客様がネットにあげてしまったようです」
「みたいだね。仕方がないよ。初めから予想はしてたし。有名税だと思って諦めるしかない」
「大変なお仕事ですね」
「仕事なんてみんな大変でしょ。俺は高校からこの仕事してるから他の仕事の大変さはわからないけど」

 調べたから知っている。中学卒業後、母親と買い物をしているところをカウトされた。バイトの感覚で興味本位で芸能界入り。そこからモデルをしたりドラマの脇役などをこなし、十代後半に出演した恋愛映画で当時注目の若手ヒロイン女優をさしおいて人気に火が付いた。

 それから常に第一線で活躍している。

 不動の人気を獲得した国見栄一がいま、目の前にいる。

「それを言うために、わざわざこちらへ?」
「それもあるけど、またあんたと飲みたいなと思って」
「私とですか」
「芸能界に繋がりがなくて興味もない友人って貴重なんだよ」

 友人。口の中で呟く。そんなことを言われて子供みたいに喜んでしまう。

「個室のあるいい店を知ってます」
「あんたの家がいいな」
「構いませんが」
「じゃあ決まり。行こう」

 と駐車場へ歩き出す。急に立ち止まって振りかった。

「そういえば名前は? まだきいてなかった」
「諸井です。諸井千秋」
「行こう、諸井さん」

 自由奔放なふるまい。不快じゃないのは、私が彼に好意を抱いているからだ。小泉さんを失ってまだ半年。そう簡単に次の誰かを好きになれるほど、小泉さんへの想いは軽くない。一生を共にできると思えるほど、深い愛情を感じていた。

 確かに国見さんは魅力的な人だ。でも恋愛をする相手ではない。彼も私は恋愛対象外だろう。

 何も期待しないし、期待させない。友人だと言ってくれるならその境界線を踏み越えることは私からは絶対にしない。



 一緒に家に帰り、小腹がすいたという国見さんのために夜食を作った。その後、二人で酒を飲んだ。

「明日はお休みですか?」

 深夜二時半をまわって、さすがに心配になって訊いてみた。

「夕方から雑誌の取材が入ってるだけ」
「取材、ですか」

 まさか例の雑誌記者か。

「ゴシップ雑誌じゃなくて、女性誌のほう」

 私の顔色を読んで彼が否定する。

「別にもうなにを書かれてもいいんだ。慣れっこだよ」
「誰にでもプライバシーを守る権利はあります」
「こそこそするのも嗅ぎまわられるのも面倒臭いから、カミングアウトしてもいいんだけどね。でも相手がいることだし、それで役の幅が狭まるのも嫌だし。まぁ、それも、あと数年ってとこかな。どんどんいい若手の俳優が出て来てるからね。俺の時代はもう終わりだよ」
「そんなことありません。あなたは素晴らしい役者さんです」
「俺の演技、観てくれたの?」
「国見さんを知らないなんてと、スタッフに叱られました」

 嘘だ。誰にも何も言われていない。でも知らないと言っていた奴が次に会ったときやたら詳しくなっていたら気持ち悪いだろう。引かれたくなくて嘘をついた。

「どうだった?」
「とても良かったです。他の女優や俳優が霞むほど、あなたの演技は光っていました」
「それって自己主張強すぎってことじゃない?」
「他の役者が弱すぎるんだと思いますよ。画面の隅に台詞もなく映っているだけなのに、あなたには存在感がありました。素人意見ですが」
「すっかり俺のファンじゃない」
「ええ、すっかりあなたの虜です」

 冗談めかして言ったが、本当だった。来月公開の映画の前売りチケットも、実はすでに買ってある。

「来月、映画が公開するからそっちも見てよ。また感想きかせて」
「私で良ければ」

 また次、会う機会を作ってくれるというのだろうか。社交辞令。本気にするな。私の心のなかにはまだ小泉さんがいる。本気だった気持ちがそう簡単に移ろうはずがない。

「ずっと気になってたんだけど、いつまでその喋り方? 俺のほうが年下なんだから、丁寧なのはもう止めてよ」
「すみません。職業病というか、癖のようなもので」
「俺はもう諸井さんと友達のつもりなのに」
「光栄です。ではお言葉に甘えて、徐々に」
「そうそう」

 にこりと笑ってワイングラスをカチンとぶつけてきた。人の懐にするりと入ってくるこの無邪気さは天性のものだろう。演技であったとしたら私は彼の嘘は何一つ見抜けないことになる。

「もう一本空けますか?」
「いいの? なんだか悪いな。俺もなにか持ってくればよかった。次はちゃんと用意してくる」
「気にしなくていいですよ。買うばかりで飲む機会がなかったからちょうどいい」
「……半年前に振られた人のこと、まだ好き?」

 一瞬言葉に詰まった。自分から打ち明けた話だ。でも何気ない瞬間、心の隙間に鋭く入り込まれるとギクリとする。

「振られてから毎日、思い出しています」
「そんなに好きだったんだ」
「一生、一緒にいられると思える相手でした」
「結婚したかった?」

 相手はあなたと同じ男ですよ。そう言ってしまったら、出来たての友人という関係は壊れてしまうかもしれない。

「そうですね。できることなら」

 嘘はついていない。

「そんな相手に巡りあえるなんて羨ましい」

 ソファに深くもたれて国見さんはため息を吐くように言った。医者の彼とはどうなのだと質問したい。彼は遠慮なく訊いてきたのだから私だって同じようにしたっていい。なのに咄嗟に言葉が出てこない。

 不自然な間があいた。何か言葉を──。

「俺はそんな相手が見つかっても無理だろうな。いまの仕事を続けている限りはね」

 小さな呟きだった。でもしっかり私の耳に届いた。微笑んではいるが、声はとても寂しそうで胸が締め付けられた。と同時に騒いだ。

 国見さんは恋人とうまくいかなくて弱っているだけ。その隙に付け入るような真似はもうしない。前回と同じことの繰り返しだ。好きになってはいけない。恋愛をする相手じゃない。医者とのよりが戻れば私のところへ来ることはもうなくなる。芸能人のただの気まぐれに心を乱されてはいけない。

「あなたの孤独ごと理解して愛してくれる人がきっと現れますよ」

 彼はじっと私を見た。こんなに綺麗な目で見つめられて間違いを犯さない者がいるのだろうか。

「それっていつ?」
「それはわかりませんが、いつか必ず」
「十年経っても現れなかったら?」

 返事に困る質問だ。頭に浮かんだ言葉を言ってしまっていいものだろうか。でもこの眼差しはそれを求めているようにも見えた。思いきって口に出した。

「その時は、私がいますよ」
「約束」

 ソファに手をついて彼が体を傾けてきた。目の前に顔が迫る。私は初めて好きな子とキスをする少年みたいに体を固まらせたまま、彼からの口付けを受けた。

「ごめん。我慢できなかった」

 ワイングラスをテーブルに置いて彼が立ちあがった。

「帰るよ」
「ではタクシーを呼びます」
「必要ない。外で捕まえる。それに少し歩いて酔いを覚ましたい」

 スタスタと玄関まで歩いて行く。慌てて彼を追いかけた。

「タクシーが捕まる場所まで送らせてください」
「僕は女じゃないよ」

 振り返って彼が苦笑する。でもあなたは国見栄一だ、という言葉は飲みこんだ。

「急に悪かったね。諸井さんには迷惑かけてばかりだ」
「そんなことありません。会いに来てくれて嬉しかった」
「また来てもいい?」
「ええ。もちろん」
「ありがとう。おやすみ」

 手を振る彼の姿が扉の隙間から消える。微かに聞こえる遠ざかる足音。いつまでも耳を澄まして追いかけた。





ほどける瞳

往時渺茫としてすべて夢に似たり(3/15)

2018.06.09.Sat.


 開店前の準備中、裏口のチャイムが鳴った。

 応答に出た木原さんが支配人室にやって来た。

「雑誌の方が取材をお願いしたいって来られたんですけど」
「わかりました。私が行きます」

 木原さんと交代して裏口へ向かう。雑誌の取材なら過去に何度かあった。どれもオーナーを通してこちらに話がおりてきたものばかりだ。直接こっちへ来るなんて嫌な予感がした。

「お待たせしました。私が支配人の諸井です」
「お忙しい時にすいません、望月と申します」

 40代半ばの男性が名刺を渡してきた。あまりメジャーではない出版社名。もう一人、30代半ばの男性は微動だにせず私を見ている。二人ともスーツではなくラフな格好。嫌な予感が濃くなる。

「取材というのはどのような内容でしょうか」
「いいお店ですよね。僕も今度の結婚記念日に嫁さん連れて来させてもらおうかな」
「ご予約なら承りますよ」
「こんないいお店なら、芸能人もけっこう来るんじゃないですか」

 望月の目が鈍く光る。ずっと笑みを絶やさないが、わずかな異変を見逃さない目はプロのものだった。そしてとても嫌な感じだ。

「たくさんの方にご利用いただいております」
「最近来た芸能人有名人って誰がいます?」
「お答え致しかねます」
「芸能人御用達って雑誌に載ったら、もっとお客さん増えると思うんですよね。これ以上ない宣伝ですよ」
「ありがたいことに、今月はもうご予約のお客様で埋まっております」
「宣伝の必要はないってことですか? でもそんなのいつまで続くかわからないじゃないですか。どんどん新店がオープンしてますよね。みんな目新しいものが好きですから」
「ではそちらの新店に取材に行ってあげてください。飲食店は軌道に乗るまでが大変ですから」
「ネットで見たんですけど、先週、国見栄一がこちらに来られたそうですね」

 やはり用件はこれだった。

「お答え致しかねます」
「なんでもお客全員にお菓子を配ったとか。なぜそんなことを?」
「答える立場にございません」
「誰と一緒に来たんですか? あなたから聞いたなんて絶対書きませんから。謝礼もお支払いしますし」
「申し訳ございません。わたくし共ではお役に立てませんのでお帰りください」
「国見栄一が男と二人で来たかどうかだけでも!」
「お役に立てず申し訳ありません。私も仕事がございますので、失礼致します」

 強引に話を切りあげて扉を閉めた。従業員全員を厨房に集めた。

「雑誌記者が、先日ご来店のお客様のことで取材に来ました」
「国見栄一だ」

 作業を中断されて不機嫌そうな三井くんが呟いた。

「私は皆さんを信じていいですね?」

 全員の顔を見渡す。みんな私の目を見返して頷いてくれる。木原さんがスマホを見ながら手をあげた。

「お客さんがネットに書いちゃったみたいですね。国見栄一におみやげもらったって、インスタにあげたみたいです。でもなにがあったかまでは書いてないですね。調べて出て来たのはこの一件だけなんで、他はわからないですけど」

 お客から漏れてしまうのはある程度は仕方がないと思っていたが、目の当たりにするとやはり腹立たしい。何もかも、いちいちネットに書きこまねばならないのだろうか。

 それを元に記者がやってくる。こうなったら国民全員が記者であり情報元になる。国見さんのような有名人には大変な世の中になってしまった。

「また来るかもしれません。なにを聞かれても答えないように。誰のことであっても、お客様の情報は一切店の外へ出さないでください」
「はい」

 全員の返事を聞いて支配人室へ戻った。

 三井くんが知っていたぐらいだから、以前から彼に男の恋人がいることは週刊誌に載ったりして噂されていたのだろう。ただ人が人と付き合うだけで騒ぎ立てられてしまう。芸能人はプライベートまで暴かれる大変な仕事だ。

 できれば今回のことは店の中だけの事にしておきたかった。男の恋人がいるという世間の好奇から、面白おかしく騒がれることのないように、彼を守ってあげたかった。

 彼は素晴らしい俳優だ。その評価が、そんなくだらないことで左右されるようなことがあってはならない。

 彼と会った日から、空いた時間を見つけてはパソコンの前で彼の出演作を観ていた。

 名前で検索すればたくさんの情報があがってくる。昨夜見たのは、去年公開された映画の舞台挨拶の模様。今と違う髪型。横に並ぶ主演女優に見劣りしない造形の美しさ。今年34歳。私より12も年下だった。

 彼が出演する映画を見たいがために有料配信に手を出した。出演するほとんどが知らない女優と俳優ばかり。そのせいもあって、実際会って言葉も交わした国見栄一の存在感はいや増した。

 彼はただ、若い女性を虜にする見た目がいいだけの俳優ではなかった。演技力も一流だった。演技経験のない素人の私でもわかる。

 役柄によって雰囲気がまるで違った。国見栄一の顔と声なのに、全部別人のように見えた。コミカルな役からシリアスな役までを難なくこなしていた。彼が演じるとどんなキャラクターであっても魅力的になった。

 木原さんが言っていたドラマも見た。金を持っているところからは成功報酬を踏んだくったり、悪徳企業からは握った弱みを盾に合法的に大金を手に入れたかと思えば、金を持たないものからは微々たる依頼料で弁護する、二面性のある弁護士役だ。

 悪を追い詰めるときの彼は冷血漢。本当に困っている人と対するときは明るい三枚目。二重人格かという変わり様を演じ切っていた。

 使い古されたチープな脚本でも、彼が演じれば登場人物に深みがでた。ただ目を伏せるだけで憂いが出る。鋭く流し目を送るだけで迫力がある。善良な依頼人に見せる笑顔は人を安心させる。声は耳に心地よく、動作の一つ一つは滑らかで目が離せない。

 こんなに素晴らしい役者を、無責任な好奇心で潰さないで欲しい。




夜が終わるまで

往時渺茫としてすべて夢に似たり(2/15)

2018.06.08.Fri.
<前話>

 閉店後、片づけをしている木原さんを支配人室に呼んだ。

「うわあ、この部屋いい匂いがする! これが国見栄一の匂いかあ」

 木原さんはスンスンと空気を吸いこんだ。

「木原さんもあの人を知ってるんですか?」
「当たり前じゃないですか。日本であの人を知らない女はいませんよ。この前放送してたドラマも視聴率良かったみたいですしね」

 確かに女性受けのいい容姿だ。

「お客さんの口から今回のことが広がることは防ぎようがありませんが、うちの従業員から漏れることのないように、あとでもう一度全スタッフに言っておいてください」
「わかりました」
「それと、ちょっと急ぎの用があるので、今日の戸締りをお願いしたいのですが」
「やっておきます」

 彼女に頼りすぎている、と気付いて少し申し訳なくなる。しかし私に何かあった時、店を任せられるのは彼女しか思い浮かばない。そろそろ彼女を副支配人という役職に推す時期だろう。

「すみません。ではあとを頼みます」

 店を飛び出し時計を見る。0時31分。車を飛ばして10分。パーキングから歩いて5分。1時までに店につく。

 かすかに胸が高鳴っていた。芸能人に誘われて浮ついている? それもあるかもしれない。もう1度彼に会ってみたかった。誘われた時は冗談か社交辞令だと思った。そう思いこもうとしたのは落胆したくなかったから。

 ぶたれたショックで体を震わせていたのに、それを押し隠して堂々と歩く姿は健気で気高かった。支配人室で見せた隙のある姿は庇護欲を掻き立てられた。人懐っこい笑みはどこかコケティッシュでとても魅力的だった。

 芸能人だという客は今まで何度か店に来た。確かに容姿は際立っている気がしたが、彼は別格だった。放つオーラが違った。否が応でもひきつけられる。一流の証。彼が人気俳優だというのも納得だ。

 そんな人間と時間と空間を共にできるのは、貴重な経験だ。

 それに、あんなことがあった直後、独りにしておくのは心配だった。一緒に店に来た男とはかなり親しい間柄だろう。三井くんが言っていたことが事実なら、恋人かそれに近い存在。二人はそんな雰囲気だった。

 別に何かを期待して行くわけじゃない。私なんて相手にもされないだろう。ただもう1度逢いたい。彼が今夜、少しでも軽くなった心でベッドに入れるように、その手伝いができれば、それだけでいい。初対面でよく知りもしないのに、そう思わせる何かが彼にはあった。

 半年前のことがある。同じ轍を踏む気はない。私の中でまだ小泉さんは過去にはなっていない。私はそんな浮ついた男ではない。

 0時45分に店の前についた。間にあった。髪を撫でつけ、襟を正す。店の扉を押した。薄暗い店内、前から歩いて来る帰りの客がいた。壁に寄って通路を空ける。近づいて気が付いた。国見栄一だ。

「お帰りですか」

 国見さんはハッと顔をあげ、私だと気付くとバツの悪そうな顔をした。

「来てくれたんだ。無視しても良かったのに」
「お待たせしては悪いと思って。お帰りでしたら、タクシーを呼びましょう。この辺りはなかなかつかまりませんから」

 早口になった自覚はあった。彼だと気付いた時、知らん顔をして通りすぎねばならなかった。彼が待つと言った1時よりも早い時間に帰るのは、私に会う気がなかったから。やはりただの社交辞令だったわけだ。

 そうだと言い聞かせていたつもりだったが、1時前に帰る姿を見て少し腹が立った。木原さんに無理を言って早く抜けてきたのに。浮かれた自分もあまりに滑稽で。芸能人は一般の人間なんかどうでもいいのかと。ただの八つ当たりで声をかけてしまった。

「せっかく来たんだから一緒に飲もうよ」
「お帰りなのでは?」
「怒ってる?」
「まさか。心配で様子を見に来ただけです。あんなことがあった直後でしたから」

 国見さんは少し表情を強張らせた。そしてため息をついた。

「あんなことがあった直後だから、あんたにも振られたら立ち直れないだろ。だから時間より先に帰ってやろうと思ったんだ。もし来なくても落ち込まないで済むから」

 私を誘った時、今すぐ返事はいらないと言った理由はこれか。彼も私と同じように落胆したくなかったのだろう。もちろん、真っ赤な嘘の可能性もあるが。

「お待たせして申し訳ありませんでした。お見送りさせていただきます」
「飲もうよ。機嫌直して」
「ですから、怒ってなどいません」
「頼むよ」

 とスーツの裾を引っ張る。頼まれては仕方ない。

「そこまでおっしゃるのなら」
「結婚はしてる?」
「いえ。一人ですが」
「あんたの家で飲む? 誰の目も気にせず飲める場所がいい」

 今日はもうこれ以上噂の的にはなりたくないだろう。彼と一緒にパーキングに戻り、車で自宅へ連れて帰った。

「いい部屋だね」

 部屋を見渡して国見さんが言う。自分の家に俳優の国見栄一がいる。芸能人と関わりを持つことなんてないと思っていたのに、不思議な感覚だ。

 同性愛の噂がある彼が来たからと言って、期待はしない。向こうにもその気はない。前回と同じ過ちを繰り返したりしない。

 半年前、小泉さんに振られたショックは大きかった。一生を添い遂げられる相手かもしれないと思っていた。最初からわけありなのはわかっていた。私の腕の中に落ちてきたときは舞い上がった。その直後、小泉さんの元彼が店に来るとは夢にも思わなかった。運命の糸というものは存在するのだと思い知らされた。離れても引きつけ合うようにできているのだ。

 小泉さんが店を去ってから、彼のことを思い出さない日はない。今頃、あの若い恋人と幸せにやっているのだろうかと。私の何がいけなかったのか。急ぎ過ぎなければ彼はまだここにいたかもしれないのに、と未練たらしく過去に浸っている。

「お酒はなにがいいですか」
「なんでも」
「では、ワインを開けましょう」

 値の張るワインも国見さんのためなら惜しいと思わなかった。ワイングラスに注いでソファに座る彼に渡した。チーズとクラッカーとピクルスがあったので皿に出した。それをテーブルに並べ、一瞬迷ったあと、彼の横に腰をおろした。

「ほんとにテレビ置いてないんだね」

 ピクルスを口に運びながら彼が言った。

「なくても困りませんよ」
「芸能界で仕事してる俺に言う?」
「そうでした。失礼しました」
「ほんとに俺のこと、知らないの?」
「……ええ。すみません」
「謝らなくていいよ。そういう人もいて当たり前なんだから。じゃあ俺の噂も知らない?」
「ゴシップには興味がなくて」

 ふうん、と彼は目を伏せた。なにか見定めるように横目に私を見る。切れ長できれいな目だった。口元は笑みを湛えていて、妖艶だった。なのに汚しがたい花のように清楚だった。

「一緒に店に行った男、あいつ、俺の恋人なんだ」

 そんなことを初対面の私に打ち明ける彼の真意がわからない。「そうですか」と無難に返事をした。

「驚かないの?」
「そういう方もいて当たり前ですから」
「あははっ、それ俺が言ったやつだよ」

 愉快そうに彼はワインをあけた。空になったグラスにワインを注ぐ。

「あいつも俺のこと知らなったんだ。医者になるためにずっと勉強してきたから、テレビ見る暇もなかったんだって」
「お連れ様はお医者さんでしたか」
「役作りのためにあいつが働く病院に行って、そこで知りあった。俺のこと芸能人扱いしなくて、1人の男として扱ってくれたのが嬉しかったんだ。月並みだけどね」
「素敵な出会いだと思いますよ」
「好きになって俺から告白した。二年付き合ったけど、もう駄目かな」

 寂しそうな顔で、最後は呟くように言った。

「そうと決まったわけじゃありませんよ」
「研修医にのぼせてるんだ。バカみたい。あっちはその気かどうかもわからないのに。手取足取り、教えてやってるんだってさ。やりすぎだって言ったら女みたいに嫉妬するなって。頭にきたから水をぶっかけてやった。これって俺が悪い?」
「そうは思いませんが、少しやりすぎかもしれませんね。どうしてそんなプライベートな話を私に?」
「接客のプロって感じで、あんたなら信用できる気がして。こう見えて人を見る目はあるつもりだから。それにどうせなら俺のことを知らない人に聞いてもらいたかったんだ。酔っ払いの愚痴だって聞き流して欲しくて」
「そうします」
「あんたは恋人いないの?」
「いません。振られたんです。恋人になれそうな瞬間、別の男に取られました」
「わかる気がするな。あんた、物わかりいいふりして、指咥えて見てそうだもん」
「その通りです」
「ほんとに好きなら必死になったほうがいいよ。後悔しても遅いから」
「半年前にその言葉を聞きたかったです」

 彼が笑う。少しは気が紛れただろうか。彼を独りにしなくてよかった。自分の判断は間違っていなかった。

「今日、ここに泊まってもいいかな?」
「えっ」

 ドキッとして彼の目を見返す。期待してない。同じ轍は踏まない。そう言い聞かせてきたくせに、たった一言で心がぐらついた。

「あんたを襲ったりしないから安心して。帰るのが面倒臭いだけ。このソファでいいから」
「それならベッドを使ってください。お客様をソファで寝かせられません」
「いいの? じゃあ遠慮なく借りるね」

 私に向かって微笑む。店で私に「触るな」と言った時とは別人のようだ。このギャップに心を鷲掴みにされた人間はいままで何人いるのだろうか。

 他愛ない話をしたあと、就寝した。もちろん別々に。何事も起こることなく朝を迎え、彼はタクシーに乗って帰って行った。

 現実味のない夜だった。




往時渺茫としてすべて夢に似たり(1/15)

2018.06.07.Thu.
<「支配人」スピンオフ>

 ある一組の客に視線が集まっていることに気付いた。

 二人とも三十前後の若い男性。予約名は城田さま。額の広さを補うように肩まで髪を伸ばした長身の男性と、整った顔立ちの男性客。他の客がチラチラ見ているのはこの綺麗な顔をした男性のほうだろう。

 食事の仕方も佇まいも優雅で、注目を一身に集めて動じる気配もない。品格さえ感じる。

 最初は穏やかな雰囲気で食事をしていた二人だが、だんだん雲行きが怪しくはりはじめた。声のトーンを落としているが、なにやら言い争っている様子だ。

 突然、一人がグラスの水を相手の顔にひっかけた。店がシンと静かになった。周囲の視線が当然二人に集まる。ホールスタッフの視線は私に集まった。

 私が近づく前に、水をひっかけられた長身の男が立ちあがり、連れの男を平手打ちした。大きな音がした。かなり強い力だったらしく、ぶたれた男性は椅子から転げ落ちた。

「勝手にしろ」

 床に手をついて俯いている男性に言うと、長身の男は店から出て行った。徐々に店に喧噪が戻る。この騒ぎについて噂をしている。

 ホールスタッフの木原さんに目配せした。彼女が客の様子に注意しながらホールを歩く。それだけで店に落ちつきが戻る。他のスタッフも業務に戻った。

「大丈夫ですか」

 床にへたりこんだままの男性に声をかけた。男性はぶたれた頬を手で押さえて茫然としていた。無理もない。だが最初に水をかけたのは彼だ。

「お顔を冷やしましょう。こちらへどうぞ」

 動かない彼の脇の下へ腕を入れて持ち上げる。自力で立ちあがると、彼はぼんやりと私を見た。そして突然、眦を吊り上げ「触るな」と厳しく言い放った。

「失礼致しました。冷たいタオルを用意致します。こちらへ」

 私が先導すると彼はあとをついてきた。姿勢よく、胸を張って、真っすぐ前を見据えたまま。本当は震えていたことなど、おくびにも出さずに。

 支配人室に入り、ソファを勧めた。その前に彼はソファに腰をおろしていた。人の目がなくなったことに安堵した表情で細く息を吐きだしている。その息遣いはまだ細かく震えていた。

「やっぱり個室のある店にしてもらえばよかった。どうせネットに書きこむんだろ」
「はい?」
「俺が男に引っぱたかれたって。ネットに書きこむんだろ? なんなら再現写真、撮らせようか?」

 青白い顔を歪めて笑う。それすら、彼の美しさを損なわなかった。

「わたくし共はそのようなことは致しません」

 言いつつ、あとでスタッフ全員きっちり口止めしておこうと思った。

「面白いネタだろ。国見栄一が男と喧嘩。週刊誌にでも売ればいいのに」
「週刊誌?」

 ただの一般人のネタを売っても……と不思議に思ったがやっとわかった。おそらく彼は芸能人なのだ。注目を集めていたのはこの整った容姿だけじゃなかったわけだ。

「ふふっ、知らんぷりしてくれるの。それとも本当に俺を知らないの?」
「申し訳ございません。家にテレビがなく、芸能に疎くて」

 嘘をつくか迷ったが正直に答えた。彼はちょっと驚いた顔をしたあと、目を泳がせて顔を伏せた。

「ほんとに? 俺、すごいうぬぼれた奴じゃない」

 うっすら白い頬が赤く色づく。見惚れていたが、ハッと我に返った。

「お顔を冷やしましょう。少し腫れているようです。唇も切れているし」
「思いきりぶたれたからね」

 切れて血の滲む唇の端を触って彼は顔を顰めた。

 急いで厨房から清潔なタイルに氷を包んで戻った。それを彼に手渡す。

「騒がせてすまなかった。今いるお客さん全員奢らせてもらうよ」
「それほどの迷惑だとは思いませんが。ならばプティフールのお土産を差し上げてはいかがでしょうか。これだとお持ち帰りいただけます」
「プティフール?」
「焼き菓子の詰め合わせです」
「そんなものがあるの?」
「すぐに用意できます」
「じゃあ、それをお願い。悪いね。余計な仕事を増やして」
「とんでもございません」

 彼に一礼し、また支配人室を出た。厨房に行って料理長の三井くんにテーブル数のお土産を頼み、こちらを見ていた木原さんを手招きして事情を説明した。その時、先ほどの一件の口止めを頼んだ。

「俳優の国見って奴でしょ。男に殴られたんだって? 痴話喧嘩? ホモって噂ほんとだったんだ?」
「三井くん。営業時間中は口を慎む様に」
「へーい」

 料理の腕は一流だがそれ以外は粗雑さが目立つ。三井くんの欠点だ。これが直れば自分の店を持ち人を使うこともできるだろうに。

「もし口外した者がいたとわかったら必ず見つけ出してクビにします。そのことでうちの評判が落ち、目に見える損害を被った時は賠償金を請求します。これは決定事項なので全員に伝えるように」

 居合わせた全員の顔を見渡した。みんなが神妙な顔で頷いた。それを見届け、支配人室に戻った。

 国見さんはソファに座って頬を冷やしていた。どこか虚ろな表情だ。もしや脳震盪を起こしているのか。

「大丈夫ですか」
「ああ。もう平気。支払いはこれで」

 とカードを渡された。

「それと、タクシーを呼んで欲しい。ついでにこのあと飲み直せる静かな店を教えてくれないか。まっすぐ家に帰る気分じゃないんだ」
「タクシーはすぐ手配します。お店は私のおすすめでよろしいですか?」
「タクシーの運転手に教えておいて」
「かしこまりました」

 支配人室を出ようとしたら「待って」と呼び止められた。

「あんた、仕事は何時に終わるの?」
「私は一番最後に出るので夜中の一時前になります」
「気が向いたらあんたも来てよ。返事はいましなくていいから。気が向いたら来て。一時まで待って、来なければ諦める」

 突然の誘いに戸惑って咄嗟の言葉が出なかった。いたずらっぽい笑みを浮かべる彼をただ見つめるしかできなかった。

「タクシーが着いたら呼んで」

 彼はソファのひじ掛けに足を乗せて寝転がった。行儀のいいことではなかったが、彼がやると映画のワンシーンのようで絵になった。

 結局何も言えないまま、会計のために部屋を離れた。





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