FC2ブログ

往時渺茫としてすべて夢に似たり(10/15)

2018.06.16.Sat.


 翌日、出勤したスタッフ全員を休憩室に集めた。寝不足と、ゆうべ女にもらった頭突きと、複数のひっかき傷のせいで酷い顔の私を、みんなが興味津々に見つめる。

「私はしばらくホールには出られません。皆さんには迷惑をかけて申し訳ありません」

 頭を下げて謝罪する。この先のことを考えると、気が重い。

「どういうことですか。その傷も、何があったんですか?」

 からかいと詰問が混じったような口調で三井くんが言う。当然の疑問だ。

「いずれわかることだと思うので先に皆さんには言っておきます」

 リモコンを取ってテレビをつけた。さっそく昨夜の事件の報道をしている。

 昨夜、国見さんのマンションにストーカーの女が侵入し、逮捕されたこと。国見さんは一人ではなく、知人男性と一緒だったこと。知人男性は軽傷、国見さんに怪我はないということを深刻な顔で伝えていた。

「この知人男性は私です」

 一瞬の間のあと、全員から「えっ」と驚きの声があがった。中にはテレビと私を何度も見比べる者もいる。身近な人間がテレビで報道されるような事件に巻きこまれたと知ればこうなるのも無理はない。その目が好奇心にまみれているのを責めることはできない。

「マスコミがまた店に来ると思います。皆さんは何も知らないで通してください。今朝、オーナーには店を辞めることを伝えました。辞めた人間のことは何もわかりませんと言ってくれればいいです」
「国見栄一のマンションに支配人がいたんですか?」

 遠慮のない三井くんが質問する。この際、言えることは全て言ったほうがいいだろう。

「そうです。以前国見さんがお食事に来られた時に知りあって、それ以来何度かお誘い頂いています」
「え? 二人は付き合ってるんですか?」
「三井くんが思っているような付き合いじゃありません。知人の一人として、たまに会っていただけです」

 昨夜、警察が来た直後に国見さんのマネージャーと事務所の人がやってきて、今後のことを話し合った。というか、一方的にこうしてくれと押しつけられた。

 私と国見さんは恋人ではなく、あくまでただの知人で、昨夜は酔っていた国見さんを家まで送り届けただけ、その時、襲い掛かってきた女を私が取り押さえた、と。

 マスコミになにを聞かれても詳しいことは話さないようにと釘をさされた。俳優、国見栄一を守るためだと。

 そんなことを言われなくても、私が自分から国見さんの恋人だと名乗るつもりはなかった。

 世間もワイドショーもそうだと決めつけるだろうが、決して認めることはせず、否定をして欲しいと頼まれた。

 その話をしている間、国見さんは腕を組んでそっぽを向いていた。不機嫌なのは横顔でもわかった。

「俺を助けてくれた諸井さんに、どうして嘘をつかせなきゃいけないんだ。そんなことなら全部公表しよう。いい機会だ。」

 彼が憤慨して言うと「諸井さんに迷惑がかかる」とマネージャーに叱責されて黙った。

 私が被る迷惑なんて微々たるものだ。一時耐え忍べばいいだけ。でも彼への影響は計り知れない。医者との彼のことがあるから公然の秘密にはなっているようだが、それを認めたことは一度もない。認めてしまえば彼の仕事の幅は大幅に狭まるだろう。

 彼ほど華があり、存在感もあり、画になる俳優はそういない。所属タレントを守りたい事務所の意向はよくわかる。私だってこんなスキャンダルで彼の俳優生命を危険にさらしたくない。

 だから了承した。

「今回の事件のことについて、これからマスコミが押しかけて来るかもしれません。オーナーには臨時の警備員の配置をお願いしました。お客様に迷惑がかからないよう、敷地に入ってくる部外者は全部追っ払ってもらいます。この顔なのもありますが、引継ぎが終わるまでは私は裏方に回ります。みなさんには迷惑をかけて本当に申し訳ない」

 もう一度頭を下げた。

 今朝、オーナーの広田に今回のことは全部話した。寝ているところを起こされて不機嫌だった広田は、私が話し終わるまで相槌もなく黙って聞いていた。

 広田は「お前が辞める必要はない」と言ってくれたが、そういうわけにもいかない。今回の件は、他の従業員とお客様も巻きこんでしまうだろう。その責任はとらなければならない。

 それに国見さんを失ったと感じた時期に、一度仕事への情熱が消えた。国見さんが戻ってきてくれたことに安堵して、しれっと仕事を続けてはいるが、その時芽生えた、何か新しいことをしたいという気持ちはまだ残っていた。

 いまがちょうどいいタイミングなのかもしれない。

「辞めるって、いつ辞めるんですか?」

 ぶすっとした顔で三井くんが言う。

「木原さんに引継ぎができ次第。長くても一週間。あとは有給を消化させてもらいます。その間、他店から応援もお願いしておきます」
「ふーん。ま、俺は厨房の人間ですから、いつも通り仕事ができればそれでいいですよ」

 もう聞くべきことは聞いたと三井くんは「行くぞ」厨房スタッフの背中を叩いて休憩室を出て行った。あとに残されたホールスタッフは指示を待って私の顔を見つめる。

「私からは以上です。あとは木原さんの指示に従ってください」

 休憩室を出ると木原さんが追いかけてきた。

「本当に辞めちゃうんですか?」
「大変なことを引き継がせてしまってすみません」
「そんなことはどうだっていいんです。でも一週間で支配人がいなくなってしまうのは本当に困ります。まだ私一人じゃ無理です。年内は店にいてくれるんじゃなかったんですか?」
「辞めるから無責任に言うわけじゃありません。木原さんならできます。その器がある」
「ありません。支配人がいてくれると思うからなんとかできてるんです」
「じゃあそろそろ独り立ちをする時期ですね。オーナーも木原さんに期待していましたよ」

 まだ縋る目を向けて来る木原さんを振り切るように支配人室に入った。トボトボ遠ざかる足音に罪悪感がないわけじゃない。こんな状態で引き継ぎたくはなかった。彼女にやる気と自信をつけるにはまだ少し不十分だとわかっている。でも仕方がない。私が残るほうが店と従業員に迷惑をかけてしまう。いなくなって事態の収束をはかるほうが賢明だ。

 目に見えない大きな力と流れが目前に迫っている。今は嵐の前の静けさだ。もうすぐ嵐のなかに巻きこまれる。その予感があるのに何もできない。己の非力さが情けなく腹立たしい。

 ため息をつきながら椅子に座った。机に置いておいたスマホが点滅している。

 国見さんからメールが一通。

『昨日は僕のせいで大変なことに巻きこんでごめんなさい。傷の具合はどう? お見舞いに行きたいけどこんな状況だから行けなくてごめん。捕まった女のことも会って話したいけど、しばらくは無理だね。うちの弁護士が全部話をつけるから、そっちは安心して。諸井さんの悪いようには絶対しない。マスコミ対策も、出来る限りのことはさせてもらうから。色々話したいことがある。今夜電話してもいい?』

 自宅に侵入され、襲われたのは国見さんだというのに、昨夜から私のことを気遣ってばかりだ。普通あんな目に遭ったらショックで冷静ではいられないはずだ。彼は優しいだけじゃなく、心も強い。

 メールの他にオーナーから着信が一件あった。メールの返事は時間をかけたかったので、先にオーナーへ電話をした。

『ニュースになってるぞ、お前』

 電話に出るなり、オーナーの広田は楽しげに言った。朝はまだ寝ていた頭も覚醒したようで、溌溂とした声だった。

「申し訳ありません。これからもっと騒ぎになるかもしれません」
『なるだろうな。国見栄一をストーカー女からお前が救ったんだ。ヒーローだ』
「ですが皆には迷惑をかけることに」
『だから責任取って辞めるって話だったな。今朝も言ったがそれは却下だ。責任を感じるなら残れ。自分の尻ぬぐいは自分でしろ』
「実は前から辞めようと思っていたんですよ」
『辞めて何する気だ。お前みたいなオヤジの再就職がどれだけ難しいか現実わかってんのか』
「わかってるさ」

 決めつける口調にムッとしてつい素が出た。

『アテがあるのか? どっかから誘われてるのか?』
「そんなものはない。何か新しいことにチャレンジしてみたくなっただけだ」
『……なんか危ねえこと、やってんじゃないだろうな』

 広田は声のトーンを落とした。

「危ないこと?」
『金のあるところには変な奴らが寄ってくる。国見栄一ほどの人間なら、そんなのはじゃんじゃか群がってくるだろうよ。そういう奴らから妙な仕事の話されてないかって聞いてるんだよ』

 そういうことか。広田も過去に少なからずその手の不快な目に遭っている。今までそういったものと縁遠かった私も、国見栄一を通して接点ができてしまったと心配してくれているのだろう。

「彼の周りでそんな話は一切ない」
『信じていいんだな』
「信じろ」

 広田と私の出会いは大学時代。ハッテンバに出入りしていたところを偶然広田に見つかった。無知だった広田はあの場所はなんなのだ、男ばかりでなにをしていると私を質問攻めにした。

 本当のことを教えてやるとひどいショックを受けていた。別の日にまた話しかけてきて、あの場所は恋人を作る場所なのかと訊いてきた。違うと答えたら、いつか危ない目に遭うかもしれないから、利用するのは止めろと言ってきた。

 放っておけと突き放した。言いふらすなら言いふらせ、とも言った。広田は誰にも何も言わず、ただ俺に病気の危険や、付き纏い、強/姦のリスクがあることを懇々と説明した。そんなことこっちは百も承知で通っているというのに。

 聞く耳もたないでいると押しかけて来るようになった。私の遊びの邪魔をした。いくつかで出禁をくらい、私のほうが根負けした。

 あの頃の広田の口癖は「俺はいい男だけど惚れるなよ。俺には彼女がいるから」だった。惚れるもんか。鏡を見ろ、といつも返していた。恋愛の好意はなかったが、広田のことは恩人に近い友人だと思っている。広田の言う通り、嵌り込むには危険な遊びだった
それを止めてくれた広田に嘘はつかないし迷惑もかけたくない。

『だったらなおさら辞める必要はないな』
「私がいると店の評判に影響が出る」
『これしきで影響が出るような商売はしてないぞ。むしろいい宣伝になるだろ。前に国見栄一が来たってテレビで取りあげられた時も、売り上げが伸びただろ』

 広田の言う通りだった。あの一件の直後女性客が増えた。国見さんが居合わせた客全員にご馳走したプティフールのお土産はいまでも前年比三割増しの売り上げを維持している。彼の影響力は想像以上だった。

「前回と今回はまた違う」
『前回はただ国見栄一が利用しただけの店、今回は国見栄一をストーカーから助けた英雄が働いてる店だぜ』
「そんな噂話を目当てに客が来るような店になっていいのか?」
『今までとは違う客層に広く知ってもらう機会だと思えばいい』

 なにを言っても無駄か。

「私が辞表を出せばお前は受理しなければならない立場なんだぞ」
『頑固者。また言わせたいのか。お前が必要なんだよ。これで満足か』

 広田のもとで働くきっかけになった言葉を、ずいぶん久し振りに言われた。

 大学卒業後、就職してしばらくした頃に広田に呼び出されて会った。仕事の手伝いをして欲しいと頼まれた。親の仕事を引き継いだことは知っていた。なぜ私だと問えば、「表と裏の顔をきっちり使い分けられるのは理性が強い証拠だ。お前は優秀だし、愛想を振りまくのもうまい。接客業に向いている」とのことだった。

 やっと少し仕事に慣れてきた頃、新しい職種への転職なんて考えられないと断ったら「五年以内に俺がイチから作りあげた店をオープンさせる予定だ。店を守ってくれる信用できる奴が必要なんだ。諸井になら任せられる。お前が必要だ。頼む」と頭を下げられた。そこまでされて無下にすることもできず、迷ったが引き受けることにした。

 ハッテンバで誰彼構わず寝ていた私を、時間と労力を使って止めてくれたお人よしの頼みを一度くらいきいてもバチは当たらない。

「もう私は必要ないだろ。信用できるスタッフはたくさんいるじゃないか」
『まだ足りないのかよ。新しいことがしたいんだったな。よし、お前は来月から統括マネ―ジャーだ。俺一人じゃ全部の店は見て回れないから前からどうにかしたいと思ってたんだ。これでどうだ。出世だぞ。給料も上がる』
「また急にそんなことを」

 広田は有言実行の男だ。宣言していた通り、私を引き入れて五年目に自分の店をオープンさせた。「この店の支配人はお前だ」と別の店で働いていた私が急に呼び出された。

「どうしてそこまでして引き止めたいんだ」
『お前が俺のため、店のためって言いだす男だから俺は止めるんだ。この程度の騒ぎで親友を放りだすわけないだろ。お前も知ってるだろ、俺がそうする男だってことは』

 知っている。お節介で正義感が強くて自分の信念を決して曲げない男。それが広田だ。よく知っている。そのまっすぐさ故に誤解されたり人に妬まれることがあることも知っている。広田を陰から支えようと思っていた若かりし頃の自分を思い出した。

「お前には負けたよ」

 ため息が出た。電話の向こうで広田は笑い声をあげた。

『惚れるなよ。お前には国見栄一がいるんだから』
「当たり前だ。彼とお前じゃ月とスッポンだ」
『おい、その発言、給料査定に響くぞ。とりあえず木原ちゃんに引継ぎが終わったら一遍俺んとこに顔だせ。正式な辞令とかはそのあとだ』
「仰せの通りに、マイボス」

 私はまた広田に借りを作ってしまったのかもしれない。




往時渺茫としてすべて夢に似たり(9/15)

2018.06.15.Fri.


 私と国見さんの交際は驚くほど順調だった。喧嘩も口論もない。干支一回り違う私が甘やかしているのもあるが、彼の言動すべてが愛おしくて気に触ることがひとつもないのだ。

 簡単に言ってベタ惚れしている。

 彼もあれこれ私に気を遣ってくれる。会えない日、私の手すきの時間を見計らって連絡をくれるし、会いに来るときは事前に予定を聞いてくれる。マスコミから守ると宣言した通り、会いに来るときは眼鏡とマスクで顔を隠して、タクシーも最低二回は乗り継いでいるらしい。

 撮影でどこか地方へ行ったときは、その土地のお土産を買ってきてくれるし、いつか私と行きたいと言ってくれる。彼の描く未来に私が存在している。こんなに嬉しいことはない。

 二ヶ月も経てば、もう彼なしの生活は考えられなくなっていた。毎日彼からの電話やメールを待ってしまう。会える日は前の夜から待ち遠しい。

 一緒にいる時間は短く、別れる瞬間は寂しい。彼も同じ気持ちでいてくれるようで、何度か冗談めかして一緒に住みたいということを仄めかされた。

 一泊二泊は平気だろう。でも毎日一緒に暮らしていたら周囲に必ずバレる。私のせいで彼がまたマスコミに追われ、ワイドショーでネタにされるのは避けたい。俳優としての彼と、彼の人生を守りたい。

「失礼します」

 ノックのあと支配人室に顔を出したのは木原さんだ。副支配人もすっかり板についてきた。

「こっちの仕事は終わりました。なにか手伝うことはありますか?」

 今はまだホールと支配人業の雑務を半々でやってもらっている。

「いえ、もうあがってください。私も終わりますから」
「はい。お疲れさまです」
「お疲れさま」

 閉まりかけた扉がまた開いた。

「どうしました?」
「支配人、恋人できたでしょ? 前にネクタイをくれた人じゃないですか?」
「よくわかりましたね」
「顔を見てればわかります。最近の支配人、デレデレですよ。お疲れさまでした」

 にこりと笑って木原さんは扉をしめた。そんなに顔に出ているだろうか。自分の頬を撫でる。確かに少し弛み気味かもしれない。このあと会えると思うと、自然とこうなる。

 明日の準備をして店を閉めた。車に向かいながら国見さんに電話をする。友人と食事していたそうで、自分も外にいるから迎えに来てほしいと頼まれた。お安い御用だ。指示された場所へ車で向かった。

 住宅街のなかにある公園の前に車をとめた。あたりに人の姿はなく、明かりのついている民家の数も少ない。エンジンを切って車の中で待っていると先の角から国見さんが現れた。

 助手席のドアが開いて国見さんが乗り込んでくる。外の空気と一緒に彼の匂いが車内に漂う。今日は酒の匂いもまじっている。

「ごめんね、遠回りさせて」
「構いませんよ」
「謝謝」

 彼は手を合わせて軽く頭を下げた。楽しいお酒だったようだ。

 公園を離れ、彼のマンションに向けて車を走らせた。つけられている気配はないが、ドライブもかねてでたらめに走ってから駐車場に車を入れた。

 深夜のエレベーターに乗り込み、一気に27階へ。上機嫌な彼に手を引かれて部屋の中に入る。扉が締まる前に、彼がキスしてきた。体を抱き返し、こちらも応じる。仕事の疲れも吹き飛ぶ。

「泊まっていける?」
「ええ」
「一緒にお風呂入ろう」

 くるりと私に背を向けた彼がピタリと動作を止めた。

「どうしました?」
「ん、いや」

 彼の視線の先を辿る。壁一面のシューズクローゼットの扉が少し開いている。彼はそれをそっと閉めた。

「ハウスキーパーの人が閉め忘れたんだと思う。最近こういうの多いんだよね。テーブルの下にリモコンが置いてあったり、パソコンのマウスの電池がプラスマイナス逆で入ってたり」

 自分がいない間に見ず知らずの他人が家の中を掃除していることにまず私は慣れないだろう。しかもこんな雑な仕事をされたら気になって仕方がない。

「苦情を入れてもいいのでは?」
「もうちょっと様子をみる」

 家主の彼がそれでいいなら私がこれ以上言うことはない。手を繋いだまま奥のリビングへ行ったが、彼はまた固まった。

「なんか変だ」

 囁くような小声で彼が言う。

「なんか変。おかしい。なにが……」

 リビングを見渡していた彼の首が止まった。カーテンの閉まった窓を見つめている。その顔つきは険しい。

「カーテンが違う。なんだよ、これ」

 窓に近づいてカーテンを見た。白いカーテン。記憶の中のカーテンも白かったように思うが。

 振り返って彼を見た。彼は私の考えを読んだようにかぶりを振った。

「そんな色じゃなかった。前はもっと白い……、それはアイボリーだ」

 持ち主しかわからないような微妙な色の違い。彼が取り替えたのでなければ、一体誰が?

「気に入ってくれました?」

 突如、ぬるりとした音が聞こえて、二人で顔を見合わせた。空耳じゃない。気のせいじゃない。こ こ に は 二 人 し か い な い はずなのに、何か意味のある言葉のような音を聞いた。彼は怯えて私のもとへ駆けてきた。

「アイボリーのほうが、お部屋が落ち着いてみえていいと思うんです」

 不快な感触を残す音の出所を探した。部屋の隅、気配を消して壁に同化するように女が立っていて息が止まった。医療関係の制服のようなものを着た女。年は私と同じか、少し上。ひっつめ髪で、上目遣いに私たちを見ていた。

 後ろで国見さんが私の腕をぎゅっと掴んだ。彼を守らなければいけない。少し冷静を取り戻した。

「あなたは?」
「国見栄一の一番の理解者です」

 熱狂的な彼のファン。彼女は気味の悪い笑みを口元に浮かべたまま、一歩また一歩と私たちに近づいて来る。相手は女。こちらは男二人。なのに恐怖で身がすくむ。得体が知れない。なにをするかわからない。危害を加えるつもりかもしれない。なにを隠し持っているかわからない。

「あなた、栄一くんの新しい恋人ね。抜け駆けはよくないと思います。ちゃんと順番を守ってください」
「順番?」
「そうです。やっと城田さんと別れて次は私の番だと思っていたのに。私の我慢も限界です。栄一くん、あまり女を焦らしちゃ駄目よ。女の扱い方を私が教えてあげるから、そんな奴とは早く別れなさい!」

 目を吊り上げた女が飛びかかって来た。素手なのを確認して女の腕を掴んだ。女は頭突きをしてきた。一発目はモロにくらった。膝蹴りもしてくる。力も強い。足を払うと、女は後ろに座り込んだ。引っ張られてつんのめると、歯を剥きだして噛みついてくる。なんて女だ!

「お前に栄一くんはふさわしくない! 私が栄一くんと付き合うんだ! この部屋で私が栄一くんと暮らすんだ!!」

 喚き続ける女をなんとか裏返し床に押さえつけた。

「国見さん! なにか縛れるもの……ガムテープとか、ありませんか?!」

 私の息もあがっていた。

 青い顔で携帯電話を握りしめていた国見さんが私の声にハッと我に返り走りだした。玄関のほうからガムテープを手にすぐ戻ってきた。国見さんの力を借りながら、なんとか暴れる女を縛りあげた。

「諸井さん、血が出てる」

 床に座り込む私の横で、彼が心配そうに手を伸ばしてきた。

「君に怪我は?」
「ない、僕は大丈夫。警察にも電話した」
「よかった。君になにかあったら、どうしようかと」

 彼の肩を抱きよせた。耳の奥で心臓がドクドクと聞こえる。全身汗びっしょりだ。アドレナリンで体の震えが止まらない。彼が強く抱きしめてくれた。もし今夜、私がいなかったら。そのことを想像したらゾッと血の気が引いた。

「ごめんなさい、僕のせいで」

 か細く震えた彼の声が耳元で囁く。

「君のせいじゃない。この女のせいだ」

 女が身をよじって喚く。あとで口にもガムテープを貼ってやろう。

「でも、僕のせいで諸井さん、怪我を」

 頭突きをされた額を触ると腫れていた。指先には血がついた。今はまだ興奮して痛みはない。

「このくらいなんてことない。大事な人を守れた勲章だ」
「僕は何も出来なかった」
「君がいてくれたから私は立ち向かうことができた。女を取り押さえれたのは君のおかげです。守る存在があると強くなれるって本当だったんですね」
「ありがとう、諸井さん」

 彼がぎゅっと私の首にしがみつく。国見さんの体を抱きしめ、背中を撫でた。警察が来るまでの数分間、ずっとぴったりくっついていた。




往時渺茫としてすべて夢に似たり(8/15)

2018.06.14.Thu.


 季節はすっかり夏になり、うだるような暑さが続くことが天気予報を見るまでもなく予想された。今日も高くて青い空がどこまでも続いている。素晴らしい快晴。こんな日に休みだと、いま働いている店のスタッフに申し訳なく思ってしまう。

 今日は国見さんのオフに合わせて休みをもらっていた。

 いつも私の家では悪いからと国見さんの部屋に招かれている。見上げた高層マンション。ドアマンに迎え入れら恐縮する。フロントの女性がにこやかに私に会釈した。

「諸井といいます。2702の国見さんをお願いします」
「お伺いしております」

 女性は手元の受話器を取りあげた。

「国見さま、諸井さまがいらっしゃいました。……かしこまりました」

 受話器を戻すと「こちらへどうぞ」とエレベーターに案内してくれる。中に手を伸ばし、ボタンまで押してくれた。

「27階、右手のドアへお進みください」
「どうも」

 笑顔の女性に見送られてエレベーターは動きだした。別世界すぎてわけがわからない。

 音もなくエレベーターの扉が開く。ホテルのような絨毯の廊下を右に歩いた。ドアは1つだけだ。インターフォンに見えないボタンをイチかバチかで押したら音が鳴った。

「いらっしゃい」

 扉が開いて国見さんが顔を出す。その顔を見てホッとした。

「ホテルみたいですね」
「そうそう。賃貸契約のホテルみたいなもんだよ」

 家賃を聞いてみたいが、下衆なのでやめた。

 だだっ広いリビングに通された。全面磨きぬかれたフローリングだ。センスのいい使い勝手の良さそうな家具が並んでいる。ファブリック類も品があって初めて来た部屋なのに居心地よく感じる。

「なに飲む?」

 キッチンの冷蔵庫の前で彼が手招きしていた。鏡面仕上げの大きな冷蔵庫。中は飲み物がほとんど。

「開演は18時だから、それまではここでゆっくりしよう。タクシーで行くし、飲んでも大丈夫だよ」
「そうですね。じゃあこれを」

 外国語のラベルがある瓶を取った。英語でもない。どこの国のお酒だろう。

 彼は棚からナッツの袋を出し、皿に移すとそれを持ってソファへ移動した。私も彼の隣に腰をおろした。柔らかすぎない座り心地は私の好みだ。

 このあと、数日前に彼から一緒に行こうと誘われた舞台を見に行く予定だ。舞台に出ている俳優と仲がいいらしい。

「やっぱり人の演技を見て勉強するんですか?」
「勉強になる時もあるし、ただヘタクソなのを笑いに行くときもある」

 彼はにやりと悪い顔をした。

「でも侮れないんだよね。ヘタクソは通りすぎると個性になる時があって、気付くと主役差しおいて注目集めてる時もあるから。いいことじゃないけど、そのおかげで助かるときもあるしね。なんだかんだ、持ちつ持たれつの業界だから」
「潰しあいと助け合い。飲食業界も似たようなものです」
「俺は高校からこの仕事してるけど、諸井さんは? 俺のことはネットで調べればすぐ出て来るけど、諸井さんのことは何も知らない」

 国見さんのことは知りあってすぐパソコンで調べた。過去の仕事も、プライベートなことも、表に出ているものは全て知っている。確かにこれはフェアじゃない。

「大学卒業してからほとんどずっとこの仕事です。オーナーは同じ大学の同級生なんですよ。卒業して半年経った頃、うちに来ないかと誘われました」
「大学卒業したばかりの人がオーナー?」
「当時からお父さんの仕事を手伝っていたんです。今は完全に引き継いでいますが」
「……もしかして付き合ってた?」
「まさか。彼は今の奥さんと学生の時から交際してましたし、それにあいつは私の趣味じゃない」
「諸井さんの趣味って?」
「あなたみたいに、かわいい人」

 体を傾けたら彼も顔を近づけてきた。唇が合わさる。抱きよせると抱きついてきた。何分だってこうしていられる。

 国見さんに胸を軽く押されて離れた。やけに真剣な顔をしている。

「どうしました?」
「諸井さんは絶対俺が守るから」
「なんのことです?」
「マスコミにバレないように注意する。俺は慣れてても、普通の人は四六時中見張られてカメラを向けられるなんて耐えられないからね」
「君に交際を申し込んだ時に覚悟はしてますよ」
「覚悟してても耐えられなくなるんだって」

 彼はもどかしそうに言った。私の想像が甘いと思っているのだろう。それも理解できる。彼のほうがこの業界に詳しい。私たち一般人が知らない汚く卑怯な目に色々遭っているのだろう。まともな精神では耐えられないようなことを。

 そういったものから彼を守ってあげたいのは私のほうだ。

「君が私のそばにいてくれるなら耐えられる」
「俺と付き合うと色々我慢させたり、不愉快な思いをさせると思う。それでも俺でいい?」
「君がいい」
「俺に嫌なところがあったらすぐに言って。直すように努力するから。隠し事もしない。だから諸井さんも俺に隠し事はしないで。なんでも言って」
「もう一度キスしても?」
「真面目な話をしてるのに!」
「わかりました。正直に言います。初めて会ったあと、君のことはネットで調べました。あなたが芸能界に入ったいきさつも、身長体重生年月日血液型、全部頭に入ってる。出演作も色々見ました。こんなに綺麗でかわいくてチャーミングな人を他に知りません。店でぶたれたあなたを助け起こした時にはもう好きになっていたのかもしれません。ずっとネガティブな言い訳ばかりをして我慢してきました。やっと恋人になれたのに、これ以上私に我慢をさせないでください。……こんなに正直に話してもまだ不十分?」

 赤く染まった頬に手を添える。彼の頬も私の手も熱い。

「そこまでぶっちゃけなくていいよ」
「君に隠し事はしません」

 キスしながらソファに押し倒した。背中にまわされる彼の手に興奮する。服のなかに手を入れた。滑らかな手触りのする肌を撫でた。

「はっ……あ……諸井さんっ……」

 掠れた声で名前を呼ばれる。堪らない。誘うように太ももで腰を撫でられた。内ももからその奥へ手を滑らせる。彼のものはもう硬くなっていた。

 チャックを下ろして前を広げる。一旦キスをやめて視線を下にずらした。それまで綺麗な形と色をしている。握って擦った。

「う、あ……あ、はあっ」

 彼の声と表情に私まで高まる。このまま進んでいいものか迷いが頭をよぎる。ソファを汚してしまうし、こんなやり方、彼は好まないかもしれない。

 どうしようか考えながら手を動かしていたら「出る」と彼から申告があった。ティッシュを探したが見当たらない。口で受けるか? 引かれるか? 欲望に従い、口を開いた。

 咥えると、彼の声は少し大きくなった。

「ああっ、あ、そんな……!」

 促すように口淫する。いきなり口に出すことへ躊躇する彼の心がよく伝わってくる。構わない。むしろ出して欲しいと私も伝える。

 彼の息遣いが一瞬止まった。私の口のなかに温かい液体が吐きだされる。もちろんそれを飲みこんだ。

「はあ……はぁ…………ごめん、出しちゃって」

 肘をついて彼が体を起こす。乱れた着衣の隙間から、ちゃんと筋肉のついた均整の取れた体が見える。色っぽい体だ。

「僕にもやらせて」

 前に手をついて身を乗り出してくる。視線はもう私の股間を見ている。

「止まらなくなります。このあと舞台を観に行くんでしょう?」
「まだ時間はあるよ」
「君の体が辛くなりませんか」
「そっか……ちゃんと準備したほうがいいか。シャワー浴びてくる。ソファもいいけど、続きはベッドでしよう」

 私の手を取って彼は立ちあがった。奥への扉を開けて「待ってて」と私に言うと、自分は右手のバスルームへ入った。カーテンの閉まった寝室は薄暗かった。大きなベッドが見える。部屋の中はいっそう彼の匂いが濃くなった。ここで彼が毎日寝起きしているのだ。

 私の前には医者の彼がここで国見さんと過ごした。医者の前は他の誰かと。私もいつか彼を通過した過去の点になる日がくるのだろうか。

 ベッドに腰かけて女々しいことを考えていたら、タオルを腰に巻いただけの彼がやってきた。私の前に立つとタオルを外す。一糸まとわぬ彼の肉体はとても美しかった。

「跪きたくなるよ」
「ははっ、なにそれ」

 片足をベッドに乗せる。突き出された膝に恭しくキスした。視界の隅で彼のものが立ちあがるのが見える。思わず生唾を飲みこんだ。

 膝、内ももへと唇をすべらせて奥へと進む。中心のものを舌ですくいとり、口に含んだ。控えめな彼の声を聞きながら口淫を続ける。引きしまった尻を撫でた。指先を秘めたる場所へ潜り込ませる。

「もう立ってられない」

 彼の手を引いてベッドに寝転がった。私の上に彼が覆いかぶさってくる。キスしながらまた奥に指を入れた。充分な頃合いを見てから体を入れ替えた。

 ベッドに横たわる彼を見下ろす。身震いするほど美しい。

 自分の前をゆるめ、彼の膝をすくいあげた。自分のものを握って入り口を探る。国見さんの体が少し強張った。

「大丈夫?」
「大丈夫、きて」

 私の二の腕に彼の手が添えられる。ゆっくり押し進める。苦悶の表情で国見さんが耐える。私のために耐えてくれている。愛おしくて額にキスした。汗でしっとりしている。柔らかな前髪が張り付いていた。

 全部収めるまで、ずいぶん長く時間をかけた。おかげで太ももが少し震える。彼の体を思えばこそ耐えられた。

「セックスにも人柄が出てるね」

 下から国見さんが微笑む。

「私のセックスは退屈?」
「違う違う。ねちっこくていやらしそうで、すごく大事にしてくれそうだから楽しみだよ」
「ご期待に添えるよう頑張りますよ」

 そろそろ形に馴染んだだろう。体を起こしてゆっくり腰を動かした。彼も目を閉じた。開いた口からは不規則な息遣いと、たまに甘ったるい声が漏れる。徐々にスピードをあげた。彼の中で私が鋭くなっていく。気を抜くともう果ててしまいそうだ。

 彼の声も大きくなっていた。自分で自分を慰めていた。彼の自慰の姿まで見られるなんて。眼福にあずかり思わず舌なめずりした。

 彼の肌に触れた瞬間から、一回目はあまりもちそうにない予感があった。その実現が目前まで迫っている。

 突然、ギュッと締め付けられた。中が細かく痙攣している。彼の射精を見届けて私も達した。

 

 国見さんの体についた精液を拭う間、彼はぼんやりと私を見ていた。

「どうしました?」
「出会いって不思議だなと思って」
「本当ですね。俳優の国見栄一がレストランの支配人と付き合うなんて、誰も想像しないでしょうね」
「名前も知らない初対面の人を飲みに誘ったの、初めてだったんだよ」
「光栄です」
「この人は信用できるって、一目見た時にわかった。最初一緒に飲んだあと、また会いたいって思った。週刊誌の記者が店に行ったのは、諸井さんに会いに行くいい口実になったよ」

 思い付きで自由に行動しているのかと思っていたがそうではなかった。私はまだ芸能人の国見栄一としてしか、彼を見られていないのかもしれない。

「もっと君のことが知りたい。もっと話を聞かせてください」
「いいよ。たくさん教えてあげる。なにを知りたい?」

 体を起こした国見さんが腰に抱きついてきた。私の足の上に頭を乗せて無邪気な顔で見上げてくる。

「まず今日のセックスは何点でした?」

 吹きだしたあと、彼は「100点」と教えてくれた。

「次は120点を目指します」
「さすが。セックスまでプロ意識高い。僕は何点?」
「最高でした。数字では表わせられません」
「ずるい。僕はちゃんと答えたのに」
「だって本当のことですから」

 彼の髪を撫でつけると、気持ち良さそうに目を閉じた。

「疲れましたか?」
「少し。今日はもうずっと家にいようよ」
「舞台は?」
「また今度にしよう」

 と彼は横向きになると手足を寄せて丸まった。しばらくして寝息が聞こえてきた。




渾名をくれ

往時渺茫としてすべて夢に似たり(7/15)

2018.06.13.Wed.


 シフトの相談のために休憩室に顔を出した。今週からホールスタッフの制服ではなく、スーツに身を包んだ木原さんが、テレビを見ながらみんなと談笑中だった。

 彼女なら支配人になった時も、こうしてみんなとの和を大事にしてうまくやれるだろう。

「あっ、支配人、どうしたんですか」

 私に気付いて木原さんが立ちあがる。

「時田さんからさっき電話があって、ご家族が事故に遭ってしばらく休みたいそうなんです」
「事故?! 大丈夫なんですか?」
「足を骨折する重傷みたいです。入院が必要なので、実家に戻って看病したいとのことで」
「それじゃ仕方ないですね。そっかー……、明日からのシフトを調整する必要がありますね」
「任せてもいいですか?」
「はい、かしこまりました」

 私からシフト表を受け取ってまたイスに座る。テーブルにシフト表を置くと、他のスタッフが周りから首を伸ばし「この日、僕かわりますよ」「私、ここ入ります」と次々穴埋めをかって出た。これも彼女の人望のおかげだ。

 安心してその場を離れたようとした時、テレビから聞こえた音声に足を止めた。

 ワイドショーの芸能ニュース。したり顔の芸能記者が国見さんのことを話していた。

「あくまで噂なんですが、某有名レストランで、とっても仲のいいお医者さんのお友達と国見さんが喧嘩したらしいんですよ。それもなかなかの喧嘩だったらしくて、国見さんがその場にいたお客さん全員にお菓子のお土産を奢ったらしいんですね」

 休憩室の誰かが「これうちのことじゃん」と呟いた。全員がテレビ画面に注目した。

「で、そんなことがあったからなんでしょうかね。どうも最近、その彼とはうまくいってないみたいなんですよ。前は最低でも週一でお互いのマンションを行き来してたのに、最近はまったく会ってないみたいなんです」

 わずかな情報と推察だけでさも見てきたかのようにテレビで喋られる。国見さんは慣れっこだと言っていたが、こんなことに慣れていいはずがない。有名税としても高すぎる。

 見るに耐えず、休憩室を出た。支配人室のドアノブを掴んだ時、ポケットのスマホが鳴った。

 噂をすればなんとやら。国見さんからだ。

「はい、諸井です」
『いまって休憩だよね。ちょっとだけ外に出られる?』
「外?」
『店の外。裏口で待ってる』
「えっ」

 慌てる耳に通話の切れた音が聞こえた。裏口で待ってるだって?

 誰にも見られていないことを確認しながら裏口を開けた。いつもの植木の陰から国見さんが姿を見せる。

「どうしたんです、急に」

「ちょっと空き時間ができたから。誕生日プレゼント」

 とラッピングされた箱をくれた。

「これのために、わざわざ来てくれたんですか?」
「早く渡したくて」
「開けても?」

 うんうん、と彼が頷く。そんな無邪気な顔は反則だ。

 包みを破り箱をあける。ストライプ柄で深みのある綺麗な濃紺のネクタイだ。手触りもとてもいい。質がいい証拠だ。

「すごく気に入りました。ありがとうございます」
「付けてみて。似合うと思うから」

 いま付けているネクタイを外し、もらったばかりのネクタイを締める。

「どうです?」

 彼の手が伸びてきた。ノットの位置やディンプル調整をする。最後にシャツの皺を伸ばすように手で撫でると「うん」と満足そうに頷いた。

「やっぱり諸井さんに似合ってる」

 私のことを思いながらネクタイを選んでくれたのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。

「ありがとうございます。宝物にしますよ」
「俺の誕生日は11月25日だから」
「もちろん。お祝いさせてもらいます」

 喜んでもらえるプレゼントを渡したい。彼のためならどんな高価なものでも買ってあげたくなるが、欲しいものは大抵自分で買える人へのプレゼントは難しそうだ。

 気付くと国見さんの顔から笑みが消えていた。緊張した面持ちで目を伏せる。

「どうしました?」
「ひとつ、質問っていうか……お願いがあるんだけど」
「なんです?」

 よっぽど言いにくいことなのか、国見さんは私のスーツの下襟をそっと引っ張った。言うのを迷う目が不安気に揺れている。そんな仕草を間近で見たらなんだって叶えてあげたい。

「言ってください」

 国見さんはゆっくり顔をあげた。震えを見せた唇が開いて息を吸いこむ。

「あの──、俺のこと……どう思う? 恋愛対象として見れる? 一度考えてみてほしいんだ。無理ならそれで構わないから。返事はすぐじゃなくていいよ。また今度、会った時にでも」

 早口に言うと国見さんは足を一歩引いた。初めて会った日、待ってると言った時間より先に帰ろうとした時みたいに、結果を知る前に逃げようとしている。

 襟から離れた手を咄嗟につかんだ。怯えたような目が私を見る。

「いま返事をさせてください」
「なんで……? 今じゃなくていいって言ってるのに」
「国見さんのことをどう思っているか? とてもかわいい人だと思っています。恋愛対象としてずっと見ていました。今度は私からひとつお願いがあるんですが、私と付き合ってくれませんか。私の恋人になってください」

 国見さんの目が大きく見開かれる。

「ほんとに? 本気で言ってる?」
「本気です。付き合ってくれますか?」

 私の顔をじっと見たあと「付き合う!」と抱きついてきた国見さんにキスされた。彼の体を引きよせながらそれに応えた。

 温かく柔らかな感触を堪能する。離れたそばからもう恋しくなった。赤くなった彼の唇が艶めかしい。ここが屋外でなければどうなっていたか。

「もう仕事に行かないと」
「そうですね」
「離れたくない」
「私もです」

 お互いの気持ちを慰め合うように軽いキスを何度もした。

「また電話する」
「待ってます。お仕事、頑張って」
「諸井さんからも電話して」
「必ずします」

 何度も振り返る彼が車に乗って見えなくなるまで見送った。1人になってから自分の口に手を当てた。彼の唇に何度も触れた。舌も味わった。細身だがしっかり筋肉のついた体も抱きしめた。

 夢みたいだ。絶対手に入らないと思っていた。あんなに素敵な人、言い寄ってくる男も多いだろう。その中から選り取りみどりなのに、まさか私を選ぶなんて嘘みたいだ。

 そうだ。嘘かもしれない。夢かもしれない。小泉さんの時もそうだった。腕の中に入ってきてくれたと思った途端、昔の男に取られてしまったじゃないか。

 国見さんも医者と別れたばかり。傷心のタイミングに、そばにいた私がたまたま選ばれただけかもしれない。自分のことはある程度客観視できるつもりだ。たまには平凡な一般人を相手にしようと気まぐれが働いただけかもしれない。

 あまり浮かれるのは止そう。

 気持ちを引き締めて店のなかに戻った。

 しばらくして木原さんが支配人室にやってきた。

「シフト、なんとかなりそうです」

 と訂正の入ったシフト表を渡してきた。それをチェックする。アドレナリンのせいでなかなか集中できない。

「あれ? 支配人、ネクタイ替えました?」
「ええ。ちょっと気分転換を」

 指摘されることは想定していたのに実際言われると動揺して顔が熱くなる。

「綺麗な色ですね。素敵です」
「ありがとうございます」
「誰かからのプレゼントですか?」
「そうです。誕生日の」
「恋人ですか?」

 恋人、と言っていいのだろうか。国見さんは付き合うと言ってくれた。自分からキスもしてくれた。いまの私たちの関係は恋人同士だ。でもまた振られるのではと一抹の不安は消えない。

「そうなればいいと思う相手からです」
「どうりで。支配人、さっきからずっとニヤけっぱなしですよ」
「えっ、そうですか」

 思わず自分の顔を撫でる。

「ご馳走さまでした」

 からかうように言うと木原さんは部屋を出て行った。必死にかけ続けたブレーキはとっくに壊れていたらしい。




往時渺茫としてすべて夢に似たり(6/15)

2018.06.12.Tue.


「誕生日、おめでとうございまーす!」

 支配人室で雑務をこなしていたら突然扉が開いて、小さなケーキがたくさん乗ったワゴンを押す木原さんと、グラスと飲み物を持った他の従業員たちがやってきた。

「……あっ、そうか、今日は私の誕生日でしたね」
「自分の誕生日を忘れないでくださいよ。47歳、おめでとうございます!」
「ありがとう」

 ケーキに刺さったロウソクを吹き消した。

「これ、みんなからです」

 大きな箱を受け取った。開けるとフットマッサージャーだった。立ち仕事は足にくる。

「これは嬉しいな。さっそく今日から使わせてもらいます。みんな、本当にありがとう」

 スタッフ一人一人の顔を見る。毎年こんな風に祝ってくれることがありがたい。仕事の仲間として、少しは慕われているのだとしたらとても嬉しいし名誉なことだ。

 一口大のケーキを食べて、ソフトドリンクを飲んだあと、片づけをする木原さんを残してみんなは仕事に戻った。

「喜んでもらえて良かったです」

 手を動かしながら木原さんが言う。

「最近の支配人、元気がなさそうでしたから」
「暑くなってきてバテ気味でしたから」

 さすが木原さんだ、と感心する。よく周りのことを見ている。

「ちょうどいい。ちょっと話があるんですが」
「はい、なんでしょう」

 片付けの手をとめ、木原さんは体をこちらへ向けた。

「木原さんがここで働きだしてもう六年目ですね」
「もうそんなに経っちゃうんですね」
「副支配人の仕事をやってみる気はありませんか? とりあえず来月から」
「私がですか?」

 木原さんは目を大きくした。

「私がいなくなった時、代わりが務まるのは木原さんしかいません。木原さんにはその能力があると判断しました」
「支配人、いなくなっちゃうんですか?!」
「いえ、すぐというわけじゃありません。まだ悩んでいるので話半分できいて欲しいんですが、なにか新しいことを始めたいなと、最近よく思うんですよ。年齢的に迷っている時間はないので、今年中に結論を出したいとは思っているんですがね。みんなにはまだ内緒ですよ」

 恋人の元へ急ぐ国見さんを見たときから心に残された喪失感は一カ月が経ったいまもまだ消えていなかった。なにをしても、なにを見ても無感動で、手の先に力が入らない感覚がずっと続いている。

 朝起きて仕事へ行くのも億劫で、気分一新する環境がいまの私には必要だった。

「そんな! 嫌です! 支配人がいなくなったらお店、どうなっちゃうんですか!」
「君がいます。木原さんなら、スタッフみんな付いてきてくれます」
「やだっ……、嫌です……! 支配人のかわりに働くなんて、私嫌です……!」

 木原さんは顔を歪め、目から大きな涙を零した。ハンカチを出して彼女へ渡す。木原さんはそれを受け取り、顔を覆って泣きだした。

「いきなりこんな話をきかせてしまってすみませんでした。急な話で動揺しますよね。ゆっくり考えてみてください。嫌なら断ってくれていいんです。オーナーには私が話しますから。もしやってみようと思ったなら、私が全力でサポートします」
「どこにも行かないでください」

 しゃくりあげる木原さんの背中を撫でた。彼女にばかり負担をかけて申し訳ない。でも木原さんなら支配人の仕事もこなせるはずだ。丸五年、木原さんを見てきた私にはわかる。

 木原さんの泣き声を聞きながら、国見さんはどんな風に泣くのだろうか、とぼんやり考えた。



 誕生日プレゼントの箱を片手に店の戸締りをした。駐車場へ向かい、車のそばで佇む人影に気付いて足が止まった。かわりに、こちらに気付いた人影が近づいてきた。一カ月ぶりに見る国見栄一だ。最近はパソコンで動画を見ることもしなかった。

「お疲れさま。それなに?」

 国見さんは私が抱える大きな箱を指で突いた。

「スタッフの子たちがくれたんです。私の誕生日プレゼントに」
「誕生日だったの?」

 箱から私に視線を移す。

「君はいつも、暗がりで私を待ち伏せしますね」
「夜しか時間ないからね。飲みに行く? 誕生日だったんなら奢るよ」
「もう来ないと思ってました」
「迷惑だった?」

 彼の顔が曇る。慌てて「違います」と否定した。

「彼と仲直りしたら、私に会ってる時間なんてなくなるだろうと」
「仲直りなんかしないよ。そう言ったと思うけど。去年くらいからなんとなくもう駄目かなって空気が流れてたんだ。別れる切っ掛けがなかっただけ。あいつが研修医にフラフラしたのも仕方ないんだ。お互い仕事が忙しくてなかなか会えないし、会えても人の目を気にしてコソコソ隠れなきゃいけないし、バレたら週刊誌に追いかけられるし。普通の人は嫌だよね、芸能人と付き合うなんて。毎日会える研修医と深夜まで恋のカンファレンスしてるほうがあいつも楽しいと思うよ」

 冗談に笑ってしまった。彼も声を立てて笑う。

「へえ、誕生日かあ。こんな大きなプレゼントもらうなんて、ずいぶん慕われてるね。何歳になったの?」
「47歳です」

 あなたと13歳差になりました。

「若く見えるね」
「初めて言われました。最近は年相応ですが、前は老けて見られてましたから」
「原因はその喋り方だよ。結局俺に対してもずっとそのまんまだし」
「身についた癖はなかなか抜けないみたいです」

 素を出して嫌われるのが怖いというのもある。だって彼がとても愛しい。失ったと思ったものがまた近くに戻ってきてくれた。胸がときめいた。心臓に足が生えてスキップを踏んでいる。

 もうごまかすことはできない。国見さんが好きだ。例え同じ気持ちを返してもらえなくてもいい。もう臆することはやめた。

「明日、お仕事は?」
「九時までに出れば大丈夫、かな」
「お腹すいてますか? 食事のできる店がいいかな」
「俺いいところ知ってる。ナビするから車出して」

 私が運転席に、彼が助手席に乗り込む。彼の指示通り進んで到着したのは、私のマンションだった。




良い!グロ注。