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夏の夜の夢(1/2)

2020.07.06.Mon.
 僕の下宿先に、原村という男がいる。ひょろっと細長い体に、瓜実顔がのっかっていて、薄い唇にはいつも物静かな微笑が浮かんでいる。後ろへなでつけた髪が額に落ちると、長く細い指でかきあげる。その時だけ、彼の微笑は消えた。

 大学生の僕に敬語を使うが、おそらく僕より五つほど年上なのではないだろうか。大学の授業を終わらせ下宿に戻ってきても机に向かって小説を書いてばかりいる世事に疎い僕に、あれやこれやと外から仕入れてきた土産話を聞かせてくれる。遊びの話、女の話、食い物の話、そこの角で見た喧嘩の話、政治の話、彼は話題を選ばない。

 僕も筆を置き、彼の話を楽しく聞く。話をしながら彼は僕の様子をちゃんと観察していて、僕がもっと詳しく聞きたそうにしていると、その話をうまく広げてくれるし、締め切りが近く時間に余裕のないときなどは、さっさと話を切り上げて部屋から出ていく。そんな気遣いが出来る男なのだ。

 普段、なにをしているのか下宿の誰も知らない。働いているのか、学生なのか、それすら彼はうかがわせない。謎の人物として下宿では一目置かれる存在だった。

 その彼から好かれているらしいのは、小説を書くしか能のない僕には誇らしいことだった。まず最初に彼が僕の部屋にやって来たのだって、僕が小説を書いていると知ったからだ。

「森口君、作家先生なんですって?」

 朝、共同の水道で顔を洗っていると彼がいつの間にか僕の隣に立っていた。僕は「そんな大層なものじゃありませんが、数ヶ月に一度、雑誌に載せてもらっています」と返した。

「こう見えて僕も昔、小説家を目指したことがありましてねえ。今度お部屋に行って、原稿を見せてもらってもいいですか?」
「もちろん」

 それ以降、彼は僕の部屋を訪ねてやってくるようになった。

 最初の頃は部屋に来るのは一ヶ月に2、3度程度だったのが、半年経った今では一週間に1、2度の割合に増えていた。同じ下宿先に住まう人間同士の繋がりというよりは、新しく出来た友人のような感覚だった。

 花火大会の今日、「僕の部屋の窓から花火が見えるから来ませんか」と誘われ、僕は酒を持ってお邪魔した。隣の部屋も友人を連れこんだらしく、騒がしい声が漏れ聞こえてくる。彼は口元に笑みを浮かべ、小さく肩をすくめた。

 窓の縁に向き合って腰掛け、酒をチビチビやりながら打ちあがる花火を見ていた。彼も、うちわを扇ぎながら、首を傾げるように空を見上げている。白い咽喉が、白い蛍光灯によく映える。

「学校はどうですか」

 空を見たまま彼が言った。一瞬遅れて返事をした。

「こことあまりかわりませんね。授業中も小説を書いていることが多いので」
「お仕事との両立は大変ですか」
「そういうわけでは。単に、書くのがどうしようもなく好きなだけなんです。僕に紙とペンを与えると、どこでも同じ結果です」
「そうでなくてはお仕事に出来ませんよ」

 彼の視線が移動し、僕の顔で止まった。優しげな笑い顔で僕をじっと見つめてくる。その目を見つめ返すことが出来たのは短い間だけだった。急に気恥ずかしくなり、外に視線を逃がした。

「僕は昔から空想癖があるんです。それを文章にしていたらいつの間にか小説家として書かせてもらえるようになっていただけなんです」

 言い訳するように口走っていた。なにをこんなに焦る気持ちになるのか自分でもよくわからない。ふわりと風が来た。彼がうちわで僕を扇いでいた。

「何かを空想して、それに集中している時の森口君を僕は何度か見かけたことがありますよ」
「恥ずかしいな。だらしのない顔をしていたんじゃありませんか」
「とんでもない。思いつめたような表情で、じっと一点を睨んでいる君は素敵でしたよ」

 また彼の視線が僕に纏わりついてきた。絡め取られるような危うさを感じて、咳払いして酒を飲んだ。酔いがまわってきたようだ。顔がひどく熱い。

 隣の窓から大きな歓声があがった。二人揃って窓の外を見た。花火大会も終わり近く、最後の見せ場として大小色とりどりの花火が連続して打ち上がる。少しずれてやってくる音が鼓膜に心地よい。

「夏も終わっちまいますねぇ」

 俯いて彼が言った声が、急に老けて聞こえて驚いた。壁に背を預け、柵に乗せた腕をだらんと垂らし、下に落とさないか見てるこちらが不安になるような力のない持ち方でコップを持つ。体中の力を抜いてしまったように弛緩している。俯く彼の頭髪が、一筋、前にはらりと落ちた。ちょっとの間のあと、彼の長い指がそれをすくいあげた。それと同時に顔をあげた彼に笑みはない。恐ろしいほどの無表情で髪を撫で付けた。僕の視線に気付いてやっとチラリと笑った。

「単位を落とさないように気を付けないといけませんよ」

 そう言って腰をあげ、部屋の小卓の前に座りこむ。彼のいなくなった窓辺は急に魅力を失った。夜空には火花の大輪が咲いているが、僕も窓を離れ、畳の上に座った。

「秋になる前に、この下宿を離れることになったんですよ」

 唐突に彼が切り出した。僕は驚いて声をあげた。

「いったいどうして」
「家業を継ぐ時がいよいよきましてねぇ。学生の時は嫌だとさんざんゴネてみましたが、頭では逃げられないとわかっちゃいたんですよ。それで荒れた時期もありました。だからしばらく僕一人で好き勝手にやらせてもらってたんですが、それも年貢の納め時がきたようで。親父ももう年だからなぁ」
「お父さんはおいくつで」
「もうすぐ八十です」

 いったいいくつの時の子供なのか。驚きと疑問が顔に出てしまった。彼は僕の表情を読んで照れたように笑った。

「母親は五十三です。いわゆる後妻というやつで」

 彼は普段冗談を言うときのような顔で言った。僕は曖昧に笑い返した。

「これから色々大変なんですがね、最後の夏に、森口君とこうして過ごせてよかった。君と話をするのはとても楽しかったから」
「それは僕の台詞です」
「そう言ってもらえると嬉しいな。来週荷物をまとめて出ていく予定です。良かったら今夜はここに泊まっていきませんか」
「是非」

 笑みを濃くし、目だけで頷いて、彼は窓へ顔を向けた。一際大きな花火が上がって、その火花がバラバラと音を立てて落ちていく。彼は首筋を掻いて一言「飲みすぎたかもしれないな」失敗したような口調で呟いた。

 花火大会も終わった。つまみを食べながら酒を飲んで腹を満たし、少し休憩と言って敷いた布団に寝そべったらそのまま寝てしまった。

 夜半をとうに過ぎた頃、人の気配で目が覚めた。薄暗い部屋に中にぼんやりと浮かび上がる黒い人影が僕の隣で微動だにしない。驚いて一気に目が覚めた。

「原村さん?」

 声をかけたらピクと動いた。振り返る動作で、彼が僕に背を向けていたと知った。

「起こしましたか」
「どうしたんです」
「いやなに、寝苦しくて眠れなかったんですよ」
「今夜は風がありませんね」

 半身を持ち上げ窓を仰ぎ見た。濃い群青空に星がいくつか光って見える。今夜は月夜らしい。

「森口君」

 間近に声を聞いてギョッとした。いつの間にか息のかかるほど近くに彼がやって来ていた。窓から入るわずかな光りで彼の表情がかろうじて読み取れる。苦しいような切ないような、そんな彼の顔は初めて見る。

「どうしました、気分でも?」
「こんな僕を許してください」

 言うなり彼が僕に抱きついてきた。その勢いで布団の上に押し付けられた。

「原村さん、どうしたんですか」
「僕は来週にはいなくなる人間です。今日のことは夢だと思ってあすの朝にはすっかり忘れてしまえばいい。だから今夜は、僕の言う通りに……、君は何もしなくていい、何も考えずに、そのまま寝ていてください」

 意味がわからない。問い返そうと開いた口が、彼の口で塞がれた。一瞬、思考能力を奪われたが、すぐ正気に戻り、顔をずらして逃れた。彼を突きはなさなかったのは、遊び慣れしていると思っていた彼の口付けがたどたどしいものだったからだ。それは同時に、酒に酔ったせいだという可能性を否定するものでもあったが、僕はなぜかそのことに妙な感動を覚えた。



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