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ありがとう(2/2)

2020.10.25.Sun.
<前話>

 いつの間にか僕は中/学生になっていた。前と違う制服に身を包み、前と違う学校へ通う。担任の先生が僕に何かと話しかけてくる。バスケ部の顧問で、僕を部に誘ってくる。とりあえず見に来てくれと放課後、体育館へ連れて行かれた。興味を持てなくて僕は体育館の床ばかり見ていた。

 強制的にバスケ部に入れられた。まずは基礎からとドリブルの練習をひたすらさせられる。体育館を何周も走らされた。体力のない僕はみんなについていくことが出来なかった。他の一年生は上級生たちから怒鳴られたりしごかれたりしていたが、僕にはそれが一切なかった。落ち零れなのに、と不思議に思いながら、体を動かす気持ち良さを味わい、僕は一人、満たされていた。

 バスケ部の練習があった日の夜は気絶するように眠った。部屋の隅を見る暇もなかった。思い出しもしなかった。その頃から虫たちの音が小さくなっていた。

 朝、早くに目が覚めると僕はベッドを飛び起きた。じっとしていられなくて、制服に着替えると学校に行った。早く来すぎて門は閉まっていた。それをよじ登り、中に入って体育館へ向かった。体育館も当然閉まっていた。早く練習がしたかった。

 その日の放課後、僕はスポーツ用品店でバスケットボールを買った。これで毎日練習出来る。家のガレージでドリブルの練習をしていたら、ある日学校から帰ってくるとガレージの奥にバスケットゴールが設置されてあった。僕はシュートの練習を始めた。

 なかなかうまく入らない。ボールが充分に入るリングの大きさなのに、どうしてリングに弾き返されてしまうのか。本屋に行き「バスケットボール入門」というDVD付きの本を買った。何度もそれを読み、何度もDVDを見た。

 体を動かすのは僕には未知の感動があった。新しい方程式を覚え、今まで解けなかった問題を解いた時のような、一瞬味わえる、疲弊を伴う感動ではなく、僕自身の体を使ってヘトヘトになるまで粗野に動き回る、純粋な運動に対する感動だった。僕はそれに夢中になった。虫の声を聞くことも、思い出すことも少なくなっていた。

 家の近くに、バスケットゴールを一対設置した公園を見つけた。僕はそこで練習を始めた。何度練習しても失敗する。一度間違った問題は二度と間違えたりしなかったのに、バスケットだけは思い通りにいかない。それがまた、僕を喜ばせた。

 学校の授業になると、僕の耳はまた虫たちによって塞がれた。声が聞こえなくても黒板の文字を見ればだいたい何をしているのかわかる。ノートに書き止めていると文字が動き出した。虫の仕業だ。文字はニョロニョロ体をくねらせながらノートの上を移動し、机から飛び降り、ぞろぞろ教室から出て行く。文字の大行進を見ていたら可笑しくて笑えてきた。隣の席の奴はそんな僕を見て顔を強張らせていた。こいつにはこれが見えないんだろうか。こんなに楽しいパレードなのに。

 ~ ~ ~

 今日は朝から雨だった。大粒の雨が大量に空から降り注ぐ。雨音と虫のざわつく音は少し似ている。最近、すっかりおとなしくなった虫たちは、その力が弱まっているようだった。そろそろ寿命なのだろうか。僕は虫たちを心配した。

 集中豪雨を降らせた雨雲が風に押し流され、四時間目が始まる前に雨はあがった。雲の切れ間から太陽の光が差し込む。今日、バスケ部の練習が休みだったことを思い出し、僕はボールを持って学校を出た。

 いつもの公園で練習をしていると男が三人、やってきた。

「中坊が学校サボッて何してるんだ」

 と一人が言う。

「俺たちにボール貸せよ」

 別の一人が言った。首を左右に振るとまた違う一人が僕の手からボールを取り上げた。途端、僕の頭の中で虫たちが一斉に騒ぎ出した。あまりのうるささに顔を顰めた。

「返せ……あいつらがうるさい……」
「なん…って…………に……って……が………言って……!」

 虫の鳴き声と、僕の頭をひっかきまわす音で、男が何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。

「うるさいから静かにしてくれ……」

 虫に向かって言った言葉に男たちは形相をかえた。僕の胸倉を掴み何か怒鳴っている。虫たちがギャアギャア騒ぐので、何を言っているのかさっぱりわからない。

「ボールを返せ。お前たちのせいで頭が割れるように痛むんだ」

 目の前の男が残忍に笑った。次の瞬間、僕はその男に殴られていた。その衝撃で地面に倒れこむ。腹に男の靴の先がめり込んだ。胃がせりあがり、ゲェッと音を立てて中身を吐き出した。その中に虫たちが混じっていた。ビクビクと悶え、やがて動きが弱まり、虫は息耐えた。それを見て僕は正気でいられなくなった。男たちに掴みかかり、生まれて初めて人を殴った。その後、三人から気を失うまで殴られ、蹴られた。

 痛みで目を覚ました。男たちはいなくなっていた。体を起こすとあちこちが痛んだ。座りこんでぼうっとしていたら、目に何か液体が流れ込んできた。手で拭うと赤い血だった。こんなに鮮やかな赤を見たのは久し振りのような気がする。黒い血じゃなくて良かったと安心しつつ、ガクガク震える膝に手をついて立ち上がった。鞄とボールを拾いあげ、今日は帰ろうと出口へ向かった。たいした高さのない階段で尻餅をついた。ボールが転がって離れていく。

「大丈夫か」

 低く擦れた声に顔をあげる。また別の男が立っていた。制服から高校生だとわかった。今まで聞いた事のない声で虫たちが騒ぎ出す。不安がっているようだ。こいつから離れよう。立ちあがろうとしたが、手にも足にも力が入らない。

「来い、すぐそこだから手当てしてやる」

 男は僕の腕を掴んで引き上げた。首を横に振って断ったが、男はそれを無視して、強い力で僕の腕を引いて歩いて行く。しばらく行った先の店のシャッターをあけて中に入った。二階に連れ込まれ、傷の手当を受けた。

「終わりだ」

 男が言う。人から親切にされたことに僕は敗北感のようなショックを感じた。こんな風に他人と関わるのはとても久し振りで戸惑う。親切を受けたら礼を言う、と小さい頃教わったことを思い出し、遠慮がちに頭をさげた。

「お前、何年だ」

 男は煙草を咥えて火をつけた。煙草は二十歳にならなきゃ吸っちゃいけないはずだ。日本の法律を思い出しながら、僕は人差し指を立てた。

「一年か?」

 無言で頷いた。

「いじめられてんのか?」

 首を横に振った。

「口ん中、怪我したか?」

 違う。首を振る。

「名前は?」

 僕の頭の中で虫たちが悲鳴のような鳴き声をあげる。黙れ。頭の中で命令すると、虫たちの声は小さくなった。ポケットから生徒手帳を取り出し、男に見せた。

「木村……論?」

 頷く。

「ロンか、なぜしゃべらないんだ」

 虫たちがしゃべらせてくれないんだ。この人にはそれを知られたくなかった。だから黙って目を伏せた。「まぁ、いいけどな」と男は床に寝転がる。目線が僕から逸れた。僕は座っていたベッドからおりて男の横に腰をおろした。煙草を吸う口元をじっと見ていたら「吸いたいか?」と聞いてくる。いらない、と断りかけ、思いなおして頷いた。

 男が吸っていた煙草を受け取り、恐る恐るそれを口に運ぶ。男の唾液で少し湿っていたが不快ではなかった。深く吸い込むと、僕の中の虫たちが煙にあぶられ弱々しいうめき声を発した。

「うまくないだろ」

 男の言葉に僕は頷いた。うまくはない。むしろマズイ。だけどなぜか、いやに特別なものに見えてくる。煙草の先のオレンジの焔。こんな色は初めて見た。

 男の名前は瀬川鉄雄といった。口の中で何度もその名前を繰り返し言ってみた。それに抵抗するように虫たちが僕の中で騒ぐ。弱々しい声はすぐ封じ込めることが出来た。

 力関係は僕の方が上になっていた。鉄雄さんのそばにいると虫たちの力は弱まるようだった。まわりの音を掻き消そうと虫たちが足掻くが、鉄雄さんの声だけはクリアに聞き取る事が出来た。鉄雄さんの声を聞き逃したくないと集中すると、虫の発するノイズが消えるのだ。逆に、このまま消してしまっていいのだろうかと不安になる。

 虫の音が消えるということは、これまで聞かなくて済んできた音も全部聞かなくてはいけなくなるということだ。僕を押しつぶそうとする母さんの声。僕を拒絶する父さんの声。僕を傷つけようとする家庭教師の声。僕を否定するクラスメイトの声。その全部に、僕はこれから先、正気を保って耐えていけるだろうか。

 その日の夜、僕は不安で寝付けなかった。引っかいた傷がいつまでもジクジク痛むように、鉄雄さんの声が僕の耳から離れないのだ。

 あの人は僕を傷つけるようなことを言わない。僕を追い詰めることも言わない。何かをしろとも言わない。擦れ気味の声で呼ばれる自分の名前が、こんなに心地よく聞こえたことは生まれて初めてだ。

 頭の隅で虫たちが怯えたようにカサカサ物音を立てていた。僕の心臓は、今まで感じた事のない高鳴りに震えていた。

 朝日が昇るのと同時に家を抜け出し公園に向かった。バスケの練習に集中する。余計なことを考えず、虫の鳴き声も聞かず、ボールの跳ねる音だけを聞いて体を動かしていた。何時間そうしていたのか。

「ロン」

 不意に、僕の鼓膜を揺らす声。いつの間にか鉄雄さんがコートに立っていた。

「こんな朝早くから練習か」

 クリアに聞こえる鉄雄さんの声に恐怖すら覚えながら黙って頷く。

「ボール貸してみ」

 鉄雄さんが手を出してくる。ボールを投げて渡した。鉄雄さんはリングに向かってシュートした。ボードにも届かず地面に落ちる。鉄雄さんは意地になって何度もシュートを打つ。ようやくゴールを決め、得意げな顔で僕を見る。僕もつられて笑っていた。

 こんなふうに人に笑いかけるのなんていつぶりだろう。やっぱり違う。鉄雄さんは他の誰とも違う。不思議だ。昨日知り合ったばかりの人に、こんなに惹きつけられる理由がわからない。わからないから不安になる。その不安を取り除きたくて、原因をつきとめようとすればするほど、この人に惹きつけられる。僕はこの人を手に入れたい。虫を失っても、煩雑な物音を全部聞くことになっても、僕はこの人の声をひとつも聞き逃したくない。

「じゃ、俺帰るわ」

 鉄雄さんがコートを出て行こうとする。僕はその背中に呼びかけた。

「鉄雄」

 僕の体が軽くなっていく。虫が消滅していくのを感じる。それでも構わない。

 足を止め、鉄雄さんが振り返った。僕はもう一度名前を呼んだ。

「鉄雄」
「お前、今俺を呼んだか?」

 頷く。

「さんを付けろよ、中坊が」

 鉄雄さんが苦笑する。

 僕を支配し、時に僕を助け、時に僕を苦しめてきた虫たちは、部屋の隅にある暗闇の世界へ戻って行った。この時以降、虫たちの音を聞くことも、姿を見ることもなくなった。

 ~ ~ ~

 午前五時過ぎ、鉄雄さんの店の二階で、俺は酒瓶を片手に床に寝転がっていた。明日、学校は休み。酒でも飲むか、と鉄雄さんに誘われ、それが嬉しくて加減なく飲んでしまった。この店のバイトは今年の頭から始めた。俺がバイトを探していると言うと、ここでやればいい、と言ってくれたのだ。

「ロン、寝るならベッドで寝ろ」

 俺の手から酒瓶を取りあげ鉄雄さんが言う。ヘラヘラ笑う俺を見て溜息をついた。

「風邪ひくぞ、お前は、まったく」

 俺の腕を引っ張り、肩に担いで立ち上がる。感じる鉄雄さんの体温。甘えたい気持ちがわいて、わざともたれかかった。

「重いな……、無駄にでかくなりやがって」
「今は俺のほうが鉄雄さんよりでかいもんね」
「外に放り出すぞ」

 そう言いながら、鉄雄さんは俺をベッドにおろした。その腕を掴んで抱き寄せる。

「おい、ロン」
「一緒に寝ようよ」
「こんな狭いベッドじゃムリだ」
「平気だって、昔はよく一緒に寝たよね」

 鉄雄さんは無言だった。もしかして俺を警戒してるのかな。

「鉄雄さん、俺ね、いま、好きな奴がいんの。同じ学校の奴でね、寝ても覚めてもそいつのことばっかり考えてんの」
「あーそう、わかったからはなせって」
「俺がまともに人を好きになれたのは鉄雄さんのおかげだよ。鉄雄さんに会わなかったら、きっと俺、ずっと一人きりのままだった」
「なに馬鹿なこと言ってんだ」

 鉄雄さんが俺を睨み付ける。どうして鉄雄さんは怒っているんだろうか。

「ごめん」

 嫌われたくなくて謝った。

「なに謝ってんだよ」
「鉄雄さんが怒ってるみたいだったから」
「怒ってねえよ」
「じゃあ一緒に寝て。いいでしょ。昔みたいにさ、久し振りに一緒に寝ようよ」
「ったくもう」

 昔から鉄雄さんは優しい。溜息をつきながら俺の横に寝転がる。背中を向ける鉄雄さんに背後から抱きつく。

「懐かしいね」
「まあな」
「ありがとう、鉄雄さん」
「ん」

 人を好きになる感情を教えてくれて、本当に、ありがとう。


(初出2008年)

内容がめちゃ暗いので、もうまとめて一度に全2話公開いたしました!
明日ももしかすると二話ずつ公開するかもしれません!
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コメント
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お返事
はるりん様

わわわ、嬉しいことをおっしゃってくださってありがとうございます!
もう救いようないくらい暗い話だなーって心配でした。しかもBLじゃないし。
口きけない期間があったってさらっと本編で書いただけで、いつかその時のことを書きたいってその思いだけで仕上げた話でした。
内容は暗いですが、木村は自分のことを可哀そうだと思ったことがないタフな男です。ただひたすら自分の心に正直。
書いている当時はそんなに思い入れはなかったんですが、時を経ていま読んでみるとわりと好きなキャラだなって思いました。
読む人を選ぶ内容だったと思うんですが、読んでくださって、しかも感想を教えてくださって本当にありがとうございます!!^^

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