アイヲシル(11/14)
2020.10.19.Mon.
<1→2→3→4→5→6→7→8→9→10>
正月に一度実家に戻り兄二人に挨拶をした。木村は結局家には戻らなかった。昔から、あまり家族や家に愛着を持っていないようだった。醒めている、というか何も期待していないような冷淡さで両親のことを語る。
勉強漬けにされ、言葉を失うまで追い詰めた両親を恨んでいるのだろうか。今になっても踏み込めない木村の心の闇だった。
休みも終わり、仕事が始まった。今度は新年会だと木村の帰りはまた遅くなった。それが一段落付くと、次は名古屋へ出張。帰って来ても、仕事部屋にこもって書類と向き合い、最近まともに会話していない。
一緒に暮らしているのに、なんだか木村の存在が遠く感じる。それがとても寂しいが、構って欲しいなんて我侭は言えないから我慢する。
学校の授業終わり、部活動の指導についていたら阿賀見に掴まり、映画館で鉢合わせたときの話題になった。
「二人の内、一人に決められたようだな」
俺がそう言うと、
「あぁ、あれ、結局どっちとも付き合わなかったんだ。こないだの子は別の子」
とあっけらかんと答えた。言葉もなかった。
「先生と一緒にいた木村さんって言ったっけ? なんかすげぇ大人って感じの人だね」
「そうだな」
「俺も大人になったらあんなふうになると思う?」
「さぁ、どうだろう」
「あの人、モテるでしょ? 先生、自分に彼女がいないからって、あの人付き合わせてたんだろ」
いつものからかう口調だったが、俺はその言葉に深く傷つけられた。
「そうかもしれないな」
自虐的な気分で肯定する。
昔からチラチラ見え隠れしていた思い。俺と木村では釣り合わないのではないか。木村が中学時代に付き合いのあったバスケ部主将に言われた「おまえにはもったいなさすぎる」という言葉。女子生徒の木村を慕う声。まったく面白みもなく、魅力もない自分と、学校の人気者だった木村。卑屈になるなというほうが難しい。
自分は自分だと言い聞かせ、その考えに間違いはないと信じてきたが、やはり傍目に見ると俺たちは不釣合いな組み合わせなのだろう。
「冗談じゃん! そんな顔しないでよ」
俺が暗い顔をしていたからか慌てたように阿賀見が言う。
「君の言う通りだと思って」
「なわけないよ、ごめんってば。冗談だったのに間に受けないでよ。そんなさ、寂しそうな顔されたらどうしていいかわかんないよ」
一瞬、目の前の景色が霞んで見えた。この既視感。高校生の頃、考え事をしていたり、ぼんやりしていたりすると、木村によく「なに寂しい顔してんの」と心配された。まったく心当たりのないことで俺はそう言われるたび返答に困った。
そんな事を知らない阿賀見がどうして木村と同じことを口にするのか。
いや、俺がむりやり結び付けているのかもしれない。高校生の頃の、無邪気に俺を好きだと言って体に触れてきた木村を懐かしむあまり、阿賀見を当時の木村のように見立てたいだけなのかもしれない。
そうだとしたら俺は本当に最低な教師だ。そして最低な恋人だ。
~ ~ ~
あっという間に二月になった。今日は珍しく木村が俺より先に帰って来ていた。エプロンをつけ、キッチンに立って料理をしている。驚く俺に、
「たまにはこんな日もいいだろ」
とワイングラスを寄越し、そこへワインを注いでくる。揺れる赤い液体を見ていたら、
「今抱えてる一番でかい仕事がやっと片付きそうなんだ。これでやっとしばらくは日本でゆっくりできそう」
と木村は上機嫌に言った。そんな木村を見ていると俺まで嬉しくなってくる。
「手伝うよ」
腕まくりをして木村の隣に並ぶ。肩を持ってキスされた。酒の味。年末年始に胃が荒れるほど飲んだのにまだ飽きないのか。
「有は何もしなくていいよ。ソファに座ってて。今日は俺が全部するから。たまには家族サービスしないとね。夜もたっぷりサービスさせて頂きます」
恭しく頭をさげる。ノリは親父臭いが本当に機嫌がいい。
「今までほったらかしでごめんね。これがうまくいけば俺の評価がぐっとあがる仕事だったんだ。だから気が抜けなくて有のこともちゃんと構えなかった」
木村に出世欲があるとは少し驚きだ。そんなものには興味がないと思っていたが俺の思い違いだったようだ。木村も一人の男として身を立てたい思いがあるのだと知る。
「仕事なんだから仕方ないだろう」
「まぁそうなんだけどさ。寂しい思いさせてんじゃないかなぁって心配だったからさ」
鍋の乗ったコンロに火をつける。タオルで手を拭いて、木村は俺の前に立った。優しい目で俺を見る。
「寂しかった?」
「仕事なんだ、仕方ない」
「正直な気持ちを教えてよ」
「寂しかったに決まってる」
「ごめんね」
ぎゅっと抱きしめられた。深い口付けを受けながら、服を脱がされて行く。
「何を」
「フルコースの前菜」
「馬鹿、鍋」
木村は舌打ちし、手を伸ばしてコンロの火を止めた。俺の体をシンクに押し付け、またキスをしてくる。手が服の中に入って来た。
「あっ」
もっとも敏感な一部を触られ、声が出た。木村の荒い息遣いを聞きながら扱かれ、気持ちがどんどん高まっていく。
「たまにはこういう場所でするのもいいな」
なんて楽しげに言いながら手を動かす。本気でここで?
「あっ、やめ、あっ、あ」
「今日は解禁。腰が抜けるまでやる」
しゃがんだ木村にズボンを脱がされた。俺の腰を抱えて口を寄せる。熱い口腔内に含まれ、漏れる吐息を手で塞いだ。舌と唇から与えられる刺激に咽喉からは引きつった喘ぎ声。
「挿れていい?」
上目遣いに見てくる。
「早く……」
木村が立ちあがり、余裕のない顔で俺の片膝を抱え上げた。
「おまえの顔、エロ過ぎ」
とキスする。
「めちゃくちゃ興奮する」
とまたキスする。
「久し振りだから俺、早いかも」
とはにかむ木村に俺からキスした。木村が俺の体の中に入ってくる。下から貫かれる痛みに眉を寄せる。耳元で木村が深く息を吐いた。
「ほんとにあっという間にイッちゃうかもしんない」
言いながら腰を打ちつけてくる。後ろ手にシンクを掴む俺の足が床から離れ、木村の動きに合わせて跳ねるように動いた。
キッチンという場所。不安定な結合。頭が真っ白になっていく。
「はっ、あぁ、あ」
「大丈夫? つらくない?」
「ん、だいじょ……ぶ、あ、あぁっ」
木村に前を弄られて果てた。その直後、俺の中に木村の熱い奔流。息を整えながら木村が前髪をかきあげる。男らしい顔つきを見ていたら切なくなってくる。
「シャワー浴びて、ごはんにして、その後またやろう」
予定を確認するような口調で言い、木村は俺を抱えて浴室へ移動した。そこでも離れるのが惜しいと言わんばかりに抱き合ったまま体を洗い合った。合間合間に何度もキスをする。
「ここでもう一回する?」
「ベ、ベッドで」
「OK」
バスローブを羽織り、木村に手を引かれ寝室へ。ベッドに倒れこむ。
「食後のデザートだったのに、順番めちゃくちゃになったね」
裸の胸にキスされた。シャワーで火照った体は敏感に反応した。木村は俺の体のあちこちにキスする。
遠くから、小さく携帯の着信音が聞こえた気がした。
「静かに」
木村の口を手で押さえて耳を澄ます。リビングの方で携帯が鳴っている。あの着信音は木村の携帯電話だ。
「いいよ、ほっとけ。あとで留守電聞くから」
と俺の手をはがす。呼び出し音が止まった。その直後にまた着信。
「何か大事な用なんじゃないのか」
「……くそう、どこのどいつだ」
悪態をつきながらベッドから起き上がり木村はリビングへ行った。かすかに聞こえてくる話し声をベッドの上で聞く。
「僕じゃありませんよ、黒坂さんに渡しましたから……そんなことないと思います、確かに覚えてますから。はい……そうです……それですね……いや、ほんとに俺は黒坂さんに渡しましたよ……わかりました、今から行きます」
寝室に戻ってきた木村はとても不機嫌な顔をしていた。会話を聞いていなくても問題が起こったのだとわかる顔つき。
「ごめん、今らかちょっと行って来る。あのくそ上司、俺からメモリを受け取ってないなんて言いやがんだよ。確かに俺はあの人の目を見て渡してんのに。あぁ、もう! あのクソ上司使えねえ!」
苛々とクローゼットから服を取り出し、身につける。
「車で送るよ。俺は飲んでないし。すぐに済む用事なら外で待ってる」
「でも……、いいの?」
「俺は構わないよ」
返事を聞く前に俺も立ち上がり服を着た。
二人で車に乗り込んで木村の会社へ。
「遅くなるようなら連絡してくれ。また迎えに来る」
「すぐ戻るよ」
そう言い残し、木村は走ってビルの中に消えて行った。木村の働く会社。車の窓から見上げる。木村はこのビルのどこで働いているのだろう。俺の知らない木村がこの中にいる。俺の知らない人達に囲まれ、俺の知らない顔で、俺の知らない仕事をしている。
またおかしな事を考え出しそうだ。とりあえず車を出し、近くのパーキンクで木村を待った。
三十分後、木村が戻って来た。険しい顔つきで車に乗り込み、「引き出しに入ってたってさ。会議は明日だってのに、今頃なにやってんだか、あの人は」と吐き捨てる。
「おまえは帰って大丈夫なのか?」
「あぁ、会議に出るのは俺の仕事じゃない。ドイツ語が苦手だっていうから、俺が翻訳してやってただけだし。それなのに大事な資料をなくしておいて俺のせいにしやがって」
俺を見て、あ、という顔をした。
「ごめん、一ノ瀬に愚痴っても仕方ないのに。俺もこんなこと言いたくないのに。ごめん。帰ろう。帰って飯食って、さっきの続きしよう」
体を伸ばして俺にキスをする。誰かに見られたらどうするんだ。体を押し返すと、木村は「ごめん」と笑い、前に向き直った。
マンションに戻って間もなく、また木村の携帯が鳴った。ディスプレイに表示された文字を見て木村が顔を顰める。さっきのクソ上司からのようだ。
「はい」
顔は面倒臭そうに、それでも声色だけは普段通りで電話に出る。さすがビジネスマンだと感心しつつ俺はそれを眺めた。
「いえ、もういいですよ、見つかったんだし。明日の会議、よろしくお願いします……それはもういいですから。はい、じゃ、お疲れ様です、失礼します」
後半は強引気味に電話を切っていた。
「給料に見合う仕事をしろ!」
と携帯電話をソファに投げつける。
「さ、飯作るか」
気持ちを切り替えた木村はキッチンに立ち、さっきの鍋に火をつけた。しばらくして部屋に漂ういい匂い。とたんに空腹を感じた。

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正月に一度実家に戻り兄二人に挨拶をした。木村は結局家には戻らなかった。昔から、あまり家族や家に愛着を持っていないようだった。醒めている、というか何も期待していないような冷淡さで両親のことを語る。
勉強漬けにされ、言葉を失うまで追い詰めた両親を恨んでいるのだろうか。今になっても踏み込めない木村の心の闇だった。
休みも終わり、仕事が始まった。今度は新年会だと木村の帰りはまた遅くなった。それが一段落付くと、次は名古屋へ出張。帰って来ても、仕事部屋にこもって書類と向き合い、最近まともに会話していない。
一緒に暮らしているのに、なんだか木村の存在が遠く感じる。それがとても寂しいが、構って欲しいなんて我侭は言えないから我慢する。
学校の授業終わり、部活動の指導についていたら阿賀見に掴まり、映画館で鉢合わせたときの話題になった。
「二人の内、一人に決められたようだな」
俺がそう言うと、
「あぁ、あれ、結局どっちとも付き合わなかったんだ。こないだの子は別の子」
とあっけらかんと答えた。言葉もなかった。
「先生と一緒にいた木村さんって言ったっけ? なんかすげぇ大人って感じの人だね」
「そうだな」
「俺も大人になったらあんなふうになると思う?」
「さぁ、どうだろう」
「あの人、モテるでしょ? 先生、自分に彼女がいないからって、あの人付き合わせてたんだろ」
いつものからかう口調だったが、俺はその言葉に深く傷つけられた。
「そうかもしれないな」
自虐的な気分で肯定する。
昔からチラチラ見え隠れしていた思い。俺と木村では釣り合わないのではないか。木村が中学時代に付き合いのあったバスケ部主将に言われた「おまえにはもったいなさすぎる」という言葉。女子生徒の木村を慕う声。まったく面白みもなく、魅力もない自分と、学校の人気者だった木村。卑屈になるなというほうが難しい。
自分は自分だと言い聞かせ、その考えに間違いはないと信じてきたが、やはり傍目に見ると俺たちは不釣合いな組み合わせなのだろう。
「冗談じゃん! そんな顔しないでよ」
俺が暗い顔をしていたからか慌てたように阿賀見が言う。
「君の言う通りだと思って」
「なわけないよ、ごめんってば。冗談だったのに間に受けないでよ。そんなさ、寂しそうな顔されたらどうしていいかわかんないよ」
一瞬、目の前の景色が霞んで見えた。この既視感。高校生の頃、考え事をしていたり、ぼんやりしていたりすると、木村によく「なに寂しい顔してんの」と心配された。まったく心当たりのないことで俺はそう言われるたび返答に困った。
そんな事を知らない阿賀見がどうして木村と同じことを口にするのか。
いや、俺がむりやり結び付けているのかもしれない。高校生の頃の、無邪気に俺を好きだと言って体に触れてきた木村を懐かしむあまり、阿賀見を当時の木村のように見立てたいだけなのかもしれない。
そうだとしたら俺は本当に最低な教師だ。そして最低な恋人だ。
~ ~ ~
あっという間に二月になった。今日は珍しく木村が俺より先に帰って来ていた。エプロンをつけ、キッチンに立って料理をしている。驚く俺に、
「たまにはこんな日もいいだろ」
とワイングラスを寄越し、そこへワインを注いでくる。揺れる赤い液体を見ていたら、
「今抱えてる一番でかい仕事がやっと片付きそうなんだ。これでやっとしばらくは日本でゆっくりできそう」
と木村は上機嫌に言った。そんな木村を見ていると俺まで嬉しくなってくる。
「手伝うよ」
腕まくりをして木村の隣に並ぶ。肩を持ってキスされた。酒の味。年末年始に胃が荒れるほど飲んだのにまだ飽きないのか。
「有は何もしなくていいよ。ソファに座ってて。今日は俺が全部するから。たまには家族サービスしないとね。夜もたっぷりサービスさせて頂きます」
恭しく頭をさげる。ノリは親父臭いが本当に機嫌がいい。
「今までほったらかしでごめんね。これがうまくいけば俺の評価がぐっとあがる仕事だったんだ。だから気が抜けなくて有のこともちゃんと構えなかった」
木村に出世欲があるとは少し驚きだ。そんなものには興味がないと思っていたが俺の思い違いだったようだ。木村も一人の男として身を立てたい思いがあるのだと知る。
「仕事なんだから仕方ないだろう」
「まぁそうなんだけどさ。寂しい思いさせてんじゃないかなぁって心配だったからさ」
鍋の乗ったコンロに火をつける。タオルで手を拭いて、木村は俺の前に立った。優しい目で俺を見る。
「寂しかった?」
「仕事なんだ、仕方ない」
「正直な気持ちを教えてよ」
「寂しかったに決まってる」
「ごめんね」
ぎゅっと抱きしめられた。深い口付けを受けながら、服を脱がされて行く。
「何を」
「フルコースの前菜」
「馬鹿、鍋」
木村は舌打ちし、手を伸ばしてコンロの火を止めた。俺の体をシンクに押し付け、またキスをしてくる。手が服の中に入って来た。
「あっ」
もっとも敏感な一部を触られ、声が出た。木村の荒い息遣いを聞きながら扱かれ、気持ちがどんどん高まっていく。
「たまにはこういう場所でするのもいいな」
なんて楽しげに言いながら手を動かす。本気でここで?
「あっ、やめ、あっ、あ」
「今日は解禁。腰が抜けるまでやる」
しゃがんだ木村にズボンを脱がされた。俺の腰を抱えて口を寄せる。熱い口腔内に含まれ、漏れる吐息を手で塞いだ。舌と唇から与えられる刺激に咽喉からは引きつった喘ぎ声。
「挿れていい?」
上目遣いに見てくる。
「早く……」
木村が立ちあがり、余裕のない顔で俺の片膝を抱え上げた。
「おまえの顔、エロ過ぎ」
とキスする。
「めちゃくちゃ興奮する」
とまたキスする。
「久し振りだから俺、早いかも」
とはにかむ木村に俺からキスした。木村が俺の体の中に入ってくる。下から貫かれる痛みに眉を寄せる。耳元で木村が深く息を吐いた。
「ほんとにあっという間にイッちゃうかもしんない」
言いながら腰を打ちつけてくる。後ろ手にシンクを掴む俺の足が床から離れ、木村の動きに合わせて跳ねるように動いた。
キッチンという場所。不安定な結合。頭が真っ白になっていく。
「はっ、あぁ、あ」
「大丈夫? つらくない?」
「ん、だいじょ……ぶ、あ、あぁっ」
木村に前を弄られて果てた。その直後、俺の中に木村の熱い奔流。息を整えながら木村が前髪をかきあげる。男らしい顔つきを見ていたら切なくなってくる。
「シャワー浴びて、ごはんにして、その後またやろう」
予定を確認するような口調で言い、木村は俺を抱えて浴室へ移動した。そこでも離れるのが惜しいと言わんばかりに抱き合ったまま体を洗い合った。合間合間に何度もキスをする。
「ここでもう一回する?」
「ベ、ベッドで」
「OK」
バスローブを羽織り、木村に手を引かれ寝室へ。ベッドに倒れこむ。
「食後のデザートだったのに、順番めちゃくちゃになったね」
裸の胸にキスされた。シャワーで火照った体は敏感に反応した。木村は俺の体のあちこちにキスする。
遠くから、小さく携帯の着信音が聞こえた気がした。
「静かに」
木村の口を手で押さえて耳を澄ます。リビングの方で携帯が鳴っている。あの着信音は木村の携帯電話だ。
「いいよ、ほっとけ。あとで留守電聞くから」
と俺の手をはがす。呼び出し音が止まった。その直後にまた着信。
「何か大事な用なんじゃないのか」
「……くそう、どこのどいつだ」
悪態をつきながらベッドから起き上がり木村はリビングへ行った。かすかに聞こえてくる話し声をベッドの上で聞く。
「僕じゃありませんよ、黒坂さんに渡しましたから……そんなことないと思います、確かに覚えてますから。はい……そうです……それですね……いや、ほんとに俺は黒坂さんに渡しましたよ……わかりました、今から行きます」
寝室に戻ってきた木村はとても不機嫌な顔をしていた。会話を聞いていなくても問題が起こったのだとわかる顔つき。
「ごめん、今らかちょっと行って来る。あのくそ上司、俺からメモリを受け取ってないなんて言いやがんだよ。確かに俺はあの人の目を見て渡してんのに。あぁ、もう! あのクソ上司使えねえ!」
苛々とクローゼットから服を取り出し、身につける。
「車で送るよ。俺は飲んでないし。すぐに済む用事なら外で待ってる」
「でも……、いいの?」
「俺は構わないよ」
返事を聞く前に俺も立ち上がり服を着た。
二人で車に乗り込んで木村の会社へ。
「遅くなるようなら連絡してくれ。また迎えに来る」
「すぐ戻るよ」
そう言い残し、木村は走ってビルの中に消えて行った。木村の働く会社。車の窓から見上げる。木村はこのビルのどこで働いているのだろう。俺の知らない木村がこの中にいる。俺の知らない人達に囲まれ、俺の知らない顔で、俺の知らない仕事をしている。
またおかしな事を考え出しそうだ。とりあえず車を出し、近くのパーキンクで木村を待った。
三十分後、木村が戻って来た。険しい顔つきで車に乗り込み、「引き出しに入ってたってさ。会議は明日だってのに、今頃なにやってんだか、あの人は」と吐き捨てる。
「おまえは帰って大丈夫なのか?」
「あぁ、会議に出るのは俺の仕事じゃない。ドイツ語が苦手だっていうから、俺が翻訳してやってただけだし。それなのに大事な資料をなくしておいて俺のせいにしやがって」
俺を見て、あ、という顔をした。
「ごめん、一ノ瀬に愚痴っても仕方ないのに。俺もこんなこと言いたくないのに。ごめん。帰ろう。帰って飯食って、さっきの続きしよう」
体を伸ばして俺にキスをする。誰かに見られたらどうするんだ。体を押し返すと、木村は「ごめん」と笑い、前に向き直った。
マンションに戻って間もなく、また木村の携帯が鳴った。ディスプレイに表示された文字を見て木村が顔を顰める。さっきのクソ上司からのようだ。
「はい」
顔は面倒臭そうに、それでも声色だけは普段通りで電話に出る。さすがビジネスマンだと感心しつつ俺はそれを眺めた。
「いえ、もういいですよ、見つかったんだし。明日の会議、よろしくお願いします……それはもういいですから。はい、じゃ、お疲れ様です、失礼します」
後半は強引気味に電話を切っていた。
「給料に見合う仕事をしろ!」
と携帯電話をソファに投げつける。
「さ、飯作るか」
気持ちを切り替えた木村はキッチンに立ち、さっきの鍋に火をつけた。しばらくして部屋に漂ういい匂い。とたんに空腹を感じた。

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コメントありがとうございます!
この2人がなかなかエチしなかったのでくっついたあとはちゃんとやらせてあげよう!みたいな親心?木村よく我慢したなって本当に思いますね…。一ノ瀬もすっかり慣れちゃって…(*ノωノ)
当て馬というほどでもない木村上司ですが、今回もちゃんと邪魔します!
あと二話になりました。ぜひ最後までお付き合いくださいませ~^^