大人のスーツ(11/12)
2020.10.07.Wed.
<1→2→3→4→5→6→7→8→9→10>
「今日はずっとニヤついてたな」
ここは鉄雄さんの店。閉店作業をする俺に「気持ち悪い奴だな」と鉄雄さんが怪訝な顔で言う。今はなにを言われても気にならない位、俺は浮かれていた。
「今日、一ノ瀬が帰ってきたんだ」
返事をする顔がニヤけてしまうのは仕方がない。
「あぁ、留学してたんだっけな。そうか、今日帰ってきたのか。だったら店は休んで良かったのに」
「ありがと、鉄雄さん。でも今日はあいつ、家族と一緒に過ごすからいいんだ」
「そうか。それもそうだな。また今度連れて来いよ」
そう言う鉄雄さんに頷いた。
家族か。あいつには入院中の爺さんと兄貴が二人いる。一ノ瀬は俺の母さんに丁寧に接して気に入られているが、俺は一ノ瀬の家族には一度も会った事がない。挨拶くらいしておいたほうがいいだろうか。サンジャイの『兄貴には気をつけろ』という言葉が頭をよぎる。いや、しかし一度くらいは……。
「今度は何を難しい顔してるんだ」
煙草の煙を吐き出しながら鉄雄さんが笑う。無意識に険しい顔つきになっていたようだ。
「人を好きになるって色々難しいんだ」
「何を知ったふうなことを」
笑いながら鉄雄さんが煙草を指で弾いてきた。危ないって、火、ついてるって。それを拾い上げて灰皿でもみ消す。
「じゃ、俺は先に帰るよ、あとは任せた」
右手をあげて鉄雄さんが店から出て行った。最近、店のスペアキーを渡された。開店準備と閉店後の戸締りは俺に任せられている。
テーブルを全部拭き終わり、椅子をあげ、箒で床を掃いた。思い出してポケットから携帯電話を取り出す。着信なし。落胆の溜息が出た。もう夜の二時半。一ノ瀬も寝ているだろう。結局あれから一度も連絡がなかった。まさか俺のこと忘れてるんじゃないよな。悪い方向へ考えそうになる思考を慌てて止める。
洗剤と水を混ぜたバケツにモップをつけ、それで床を磨く。
一ノ瀬が帰国した嬉しさ半分、連絡のない不安と寂しさが半分。その割合が崩れそうになり、急いで掃除を済ませた。
携帯がメールを受信した。同じセミナーの奴からで、麻雀のメンバーを探してる、という内容だった。こんな時間から誰が行くか。返信もせず無視をした。
二階にあがって服を着替える。今度は着信。またセミナーの奴からだと高をくくって電話に出た。
『遅くなってすまない、兄さんたちがなかなかはなしてくれなくて』
「一ノ瀬?」
声を聞いた瞬間、仕事後のダルさも、さっきまでの不安も吹き飛んだ。
『ごめん、寝てたか?』
「いや、今、店が終わったとこ」
『あぁ、バイトだったのか。お疲れ様』
「電話くれてありがと、忘れられたんだと思ってた」
『忘れないよ。おまえが待ってると言ったんだから、忘れるわけない』
嬉しいことを言ってくれる。
『今はまだ店にいるのか?』
「うん、着替えたところ」
『もし……、もし、面倒じゃなかったら、今から会えないか?』
と遠慮がちに聞いてくる。面倒なわけがない。
「今からそっちに迎えに行くから!」
ジャケットをひっつかんで店を飛び出した。急いで戸締りし、家まで走る。荒い呼吸で勝手口から中に入り、セキュリティを解除した。ガレージのシャッターを開け車に乗り込む。逸る気持ちでアクセルを踏み込んだ。
二十分後、一ノ瀬はいつもの公園のまえに立っていた。急いで助手席のドアを開ける。
「早く乗って、寒いでしょ」
乗りこんできた一ノ瀬はシートに膝をついて立ち、俺の首に抱き付いてきた。
「一ノ瀬?」
「早く会いたくて、明日まで待てなかった」
と抱きついたまま言う。嬉しくて顔が綻ぶ。俺も一ノ瀬を抱きしめた。一ノ瀬も俺と同じ気持ちでいてくれた。それが何より俺を喜ばせる。
「顔見せて」
言うと一ノ瀬は座席に腰をおろした。しばらく見つめ合う。半年という長いブランク。一ノ瀬との接し方を忘れてしまったような気がして、なんだか照れくさい。
「明日、朝から大学行くの?」
「そのつもりだ」
「だったら、それまでに帰って来ればいいよね」
え、と一ノ瀬が聞き返してくる。それを無視して車を出した。
「どこに行くんだ?」
「二人きりになれるとこ」
黙った一ノ瀬の手を握った。それを口元に持ってきてキスする。
「木村」
「もう我慢出来ない。空港の駐車場の続きしよ?」
俺の横顔を見つめていた一ノ瀬が小さく頷いた。
スポンサーサイト
「今日はずっとニヤついてたな」
ここは鉄雄さんの店。閉店作業をする俺に「気持ち悪い奴だな」と鉄雄さんが怪訝な顔で言う。今はなにを言われても気にならない位、俺は浮かれていた。
「今日、一ノ瀬が帰ってきたんだ」
返事をする顔がニヤけてしまうのは仕方がない。
「あぁ、留学してたんだっけな。そうか、今日帰ってきたのか。だったら店は休んで良かったのに」
「ありがと、鉄雄さん。でも今日はあいつ、家族と一緒に過ごすからいいんだ」
「そうか。それもそうだな。また今度連れて来いよ」
そう言う鉄雄さんに頷いた。
家族か。あいつには入院中の爺さんと兄貴が二人いる。一ノ瀬は俺の母さんに丁寧に接して気に入られているが、俺は一ノ瀬の家族には一度も会った事がない。挨拶くらいしておいたほうがいいだろうか。サンジャイの『兄貴には気をつけろ』という言葉が頭をよぎる。いや、しかし一度くらいは……。
「今度は何を難しい顔してるんだ」
煙草の煙を吐き出しながら鉄雄さんが笑う。無意識に険しい顔つきになっていたようだ。
「人を好きになるって色々難しいんだ」
「何を知ったふうなことを」
笑いながら鉄雄さんが煙草を指で弾いてきた。危ないって、火、ついてるって。それを拾い上げて灰皿でもみ消す。
「じゃ、俺は先に帰るよ、あとは任せた」
右手をあげて鉄雄さんが店から出て行った。最近、店のスペアキーを渡された。開店準備と閉店後の戸締りは俺に任せられている。
テーブルを全部拭き終わり、椅子をあげ、箒で床を掃いた。思い出してポケットから携帯電話を取り出す。着信なし。落胆の溜息が出た。もう夜の二時半。一ノ瀬も寝ているだろう。結局あれから一度も連絡がなかった。まさか俺のこと忘れてるんじゃないよな。悪い方向へ考えそうになる思考を慌てて止める。
洗剤と水を混ぜたバケツにモップをつけ、それで床を磨く。
一ノ瀬が帰国した嬉しさ半分、連絡のない不安と寂しさが半分。その割合が崩れそうになり、急いで掃除を済ませた。
携帯がメールを受信した。同じセミナーの奴からで、麻雀のメンバーを探してる、という内容だった。こんな時間から誰が行くか。返信もせず無視をした。
二階にあがって服を着替える。今度は着信。またセミナーの奴からだと高をくくって電話に出た。
『遅くなってすまない、兄さんたちがなかなかはなしてくれなくて』
「一ノ瀬?」
声を聞いた瞬間、仕事後のダルさも、さっきまでの不安も吹き飛んだ。
『ごめん、寝てたか?』
「いや、今、店が終わったとこ」
『あぁ、バイトだったのか。お疲れ様』
「電話くれてありがと、忘れられたんだと思ってた」
『忘れないよ。おまえが待ってると言ったんだから、忘れるわけない』
嬉しいことを言ってくれる。
『今はまだ店にいるのか?』
「うん、着替えたところ」
『もし……、もし、面倒じゃなかったら、今から会えないか?』
と遠慮がちに聞いてくる。面倒なわけがない。
「今からそっちに迎えに行くから!」
ジャケットをひっつかんで店を飛び出した。急いで戸締りし、家まで走る。荒い呼吸で勝手口から中に入り、セキュリティを解除した。ガレージのシャッターを開け車に乗り込む。逸る気持ちでアクセルを踏み込んだ。
二十分後、一ノ瀬はいつもの公園のまえに立っていた。急いで助手席のドアを開ける。
「早く乗って、寒いでしょ」
乗りこんできた一ノ瀬はシートに膝をついて立ち、俺の首に抱き付いてきた。
「一ノ瀬?」
「早く会いたくて、明日まで待てなかった」
と抱きついたまま言う。嬉しくて顔が綻ぶ。俺も一ノ瀬を抱きしめた。一ノ瀬も俺と同じ気持ちでいてくれた。それが何より俺を喜ばせる。
「顔見せて」
言うと一ノ瀬は座席に腰をおろした。しばらく見つめ合う。半年という長いブランク。一ノ瀬との接し方を忘れてしまったような気がして、なんだか照れくさい。
「明日、朝から大学行くの?」
「そのつもりだ」
「だったら、それまでに帰って来ればいいよね」
え、と一ノ瀬が聞き返してくる。それを無視して車を出した。
「どこに行くんだ?」
「二人きりになれるとこ」
黙った一ノ瀬の手を握った。それを口元に持ってきてキスする。
「木村」
「もう我慢出来ない。空港の駐車場の続きしよ?」
俺の横顔を見つめていた一ノ瀬が小さく頷いた。
- 関連記事
-
- 大人のスーツ(12/12)
- 大人のスーツ(11/12)
- 大人のスーツ(10/12)
- 大人のスーツ(9/12)
- 大人のスーツ(8/12)

[PR]

