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大人のスーツ(10/12)

2020.10.06.Tue.


 三月。

 いよいよ一ノ瀬が帰ってくる日がやってきた。俺は飛行機の到着時刻の二時間前に空港について一ノ瀬を待っていた。

 朝から心臓がどきどき鳴りっぱなしだった。顔が熱を持って熱いし、妙に心が浮ついてつまらないポカを連発しているし、なにをしても何を見ても現実味がない。これを一言で「アガッてる」と言うのだろう。

 こんな感覚は初めてだ。さっきからじっとり手の平に汗が滲んでいるし、生唾を何度も飲み込んでいる。みっともない、こんな姿を一ノ瀬に見せなければいけないのか。

 一ノ瀬を乗せた飛行機がやっと到着した。椅子に座っていられなくなり、国際線の到着口の前で行ったり来たりを繰り返す。

 数人の乗客が出てきた。一ノ瀬の顔を捜す。いた! 俯いて歩いているが、出口の近くで顔をあげ、俺を見つけた途端、その顔に笑みが広がった。

「いっ、いちのせっ」

 自分の声が他人のもののように聞こえた。相当緊張している。一ノ瀬が前を歩く人の間を縫って足早にやってきた。目の前で立ち止まった一ノ瀬を前に何も言う言葉が見つからない。無言でしばらく見つめあう。久し振りに近くで一ノ瀬の顔を見た。

「ただいま」

 一ノ瀬が笑顔で言う。半年振りに生の声を聞いて鳥肌が立った。抱き付きたいのを必死に我慢して、「おかえり」と声を絞り出すのが精一杯。とにかく一ノ瀬に触れたくて、右手を差し出していた。それに気付いて一ノ瀬が俺の手を握り返してくる。暖かい手。一ノ瀬の手だ。思い出してやっと、一ノ瀬が帰ってきたのだと実感できた。

「震えてる」

 一ノ瀬が俺の手を見て言った。

「か、感極まって?」
「泣くなよ?」

 と悪戯っぽく笑う。馬鹿、そんな事言われると余計泣けてくるもんなんだ。

 一ノ瀬と駐車場に向かい、車に乗り込むまでうまくしゃべれなかった。エンジンをかけようとして鍵を探した。あれ、さっきドアを開けたのに、とポケットを探していたら「もう鍵穴にささってる」と一ノ瀬に指摘された。

「違う、携帯、探してて」

 ごまかそうとしたが、一ノ瀬は向こうをむき、肩を震わせ笑い出した。

「何笑ってんだよ」
「だって、可笑しくて」

 肩を掴んでこちらに向かせた。手で口を押さえてまだ笑っている。首に腕をまわして引き寄せると、一ノ瀬は抵抗しないで俺の胸にもたれかかってきた。笑ったまま、俺の膝に手をついて顔を寄せてくる。引きこまれるように俺も顔を寄せ、唇を合わせた。誰かに見られたって構わない。思いっきり濃厚なキスをした。間近に一ノ瀬の目を覗きこむ。

「やばい、勃った」
「えっ」

 驚いて離れていく一ノ瀬の首を引き寄せ、その肩口に顔を埋め、

「俺が運転してる間、触ってくれる?」

 と言ってみる。

「な、馬鹿、何言ってるんだ、運転に集中しろ」

 顔を赤くして怒ったように言う。以前とかわらないやり取りが嬉しくなる。

「一日中、ずっと一緒にいるっていう約束覚えてる?」
「もちろん覚えてる。でも今日は無理だ」
「明日は」
「明日は大学に行って教授に挨拶をしないと」
「だったらいつ」
「焦るな、俺はもうどこにも行かないんだから」
「無理だよ、半年も我慢したんだから。足腰立たなくなるまではなさないからね」

 絶句した一ノ瀬に笑いかけ、俺はキーをまわし、エンジンをかけた。やっと気持ちが落ち着いてきた。

 車を出してしばらくした頃、

「できるだけ早く時間を作るから」

 と一ノ瀬が真顔で言った。俺の脅しが効いたらしい。

 帰る道中、一ノ瀬からオレゴンでの留学生活の話を聞いた。とても良い経験になったと語る。そして「いつか一緒に行こう」とも言ってくれた。もちろんそのつもりだ。

 俺の話も聞かれた。話すようなことはなにもない。思い出して、サンジャイと一緒に酒を飲んだことを話した。意外な組み合わせに驚いていたが嬉しそうだった。写真の個展を見に行ったことも話した。

「おまえにそんな高尚な趣味があったのか」

 と俺をからかう。サンジャイの知り合いに誘われたのだと言うと「どうりで」と納得した顔をした。そういうムカツクとこも変わらない。

 一時間後、一ノ瀬の家に近い公園前で車を止めた。一ノ瀬の家の前は道が細く、車が一台ギリギリ通れる幅しかないからだ。だからいつも公園前まで。

 車の中で一ノ瀬の手を握った。

「落ち着いたら電話して。待ってるから」
「わかった」

 と一瞬の間。無言で見つめあう。離れたくない。手に力がこもる。キスしたいけど、ここは公園の前。子供の遊ぶ声が聞こえてくる。車の外を自転車が通り過ぎた。

 キスしたくても我慢出来るのは、俺も少しは大人になったということなんだろうか。大人というのはとても窮屈なスーツを着ているんだな。

「じゃあ、またあとで」

 一ノ瀬はそう言って車から降りた。一ノ瀬に見送られながら車を発進させた。



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