おかえり(6/6)
2020.02.19.Wed.
<1→2→3→4→5>
水垢がついて四隅は錆びついた鏡で見る自分の顔は腫れ上がって別人のようだった。可笑しくて笑おうとしたが口の中もズタズタに切れていて溜息しか出なかった。
水で手を濡らし恐る恐る血を洗い落とす。
ここは山本の部屋。木造アパートの一階。少年院を出た山本は実家には戻らず一人暮らしをはじめたらしい。就職が決まった工場からは少し遠いが、俺がバイトしているパチンコ店からは自転車で通える距離。それを白状したとき、山本は少し後ろめたそうだった。
「これ、冷やしとけよ」
洗面所に顔を出した山本が氷を包んだタオルを差し出す。それを顔に当てた。冷たさより痛みしか感じない。
「俺、ひでえ顔してんな」
「あいつのほうがもっとひどい顔してるぜ」
あいつ。丹野。二人で部屋を飛び出すときも動かなかった。
「殺した?」
「殺し損ねた。おまえが止めるから」
「よくあのタイミングで来たよな。最近、来なかったくせに」
「ほとんど毎日部屋のそばまで行ってた」
俺が驚くと山本は気まずそうに頭を掻いた。
「だからあいつが部屋に入るところも見てた。気にするなって思っても気になって仕方なくてさ。嫉妬してまたなにするかわかんねえのに俺、コソコソ窓の下まで行って聞き耳立ててさ。そしたらおまえが……もう……、あいつぶっ殺してやるって、それしか頭になくて、後先考えずに飛び込んでた」
「俺がやったことにするから」
山本は優しい声で「ばか」と笑った。
「俺が勝手にしたことだ。それに逃げるとき人に見られてる」
騒ぎを聞きつけた社員が一人、様子を見にきていた。部屋を出るときばっちり目も合った。この顔じゃ咄嗟に俺だとわからなかったかもしれないが、度々来ていた山本のことはすぐわかったはずだ。逃げ出した部屋に血まみれの丹野が死んだように転がっているのも見つかっているだろう。今頃警察が来て騒ぎになっているかもしれない。
「丹野が俺にしてたこと、警察に言えばいい。俺も証言する。殴られて犯されてたところを助けてもらったって。そうすれば情状酌量も」
「その必要はねえよ。俺はただ気にくわねえおっさんを痛めつけただけだ」
「俺は女じゃない。あいつに犯されたってほかの奴に知られてもいい」
「俺はおまえを守りたいんだ。誰からも、なにからも」
「山本」
「しっ」
表で足音が聞こえた。木製の扉を誰かがノックする。
「山本さん、開けてください、中にいますよね」
口調は丁寧だが有無を言わせぬ押しの強さがあった。警察が来たと悟った山本は俺の肩をぎゅっと掴んだ。
「最後まで守れなくてごめんな。いつも迷惑ばっかかけてごめんな。怖がらせてごめんな。ほんとは俺のこと、怖かっただろ」
「怖がってなんかない」
すまなさそうに山本が笑う。ほんとだって。むきになって言い募ろうとする俺の唇に、山本は素早く触れるだけのキスをして離れた。
「ごめん、最後だから」
「山本」
「ちょっとだけ、血の味がした」
泣き笑いの顔で言うと、山本は警官が待ち受ける外の世界へと出て行った。
――血の味って、なんか興奮するよな。
高校生の山本が蘇る。俺の目から涙が溢れた。
~ ~ ~
買い物は休憩時間に済ませておいた。ホームセンターのバイトを終えた俺は、買い物袋を手に待ち合わせ場所へと急いでいた。
ここのバイトは半年前からだ。重労働で体力を使うが時給はパチンコ店より少ない。それでもいまの仕事は気にいっている。大音量で耳がいかれることもないし、煙草の煙に巻かれることもないし、チンピラにからまれることもない。
がんばり次第では社員登用の道もあるらしいが、いまはまだ仕事を教えてもらう段階の俺には縁遠い話だ。
時間に少し余裕があったので実家に寄ってみた。母さんはスーパーで仕事中。いまだに店長と不倫は続いているらしい。お泊まり用の替えのスーツが吊るしてあった。
『また今度時間があるときに顔見せにくるよ』
メモを残して家を出た。こうしてたまに母さんの様子を見られるよう近場で部屋を探した。母さんはまたいっしょに暮らそうと粘ったけれど俺が断り続けた。丹野のことに気づかなかった母さんを責めているのかと泣かれたが、いっしょに住みたい人がいるからとなんとか納得してもらった。
家の近くの公園には時間ちょうどに到着した。しかし人の姿はなし。不安が胸をかすめる。一度くらいすっぽかされたって諦めないぞと気持ちを奮い立たせてベンチに腰をおろした。
高校生の夜、木崎に偶然出会った公園。そのまま木崎の家に泊めてもらった夜の公園。
先日顔を合わせたとき、木崎は俺の目を一度もまともに見てくれなかった。まだ俺を許していない。保護観察中の再犯。今度は山本を刑務所に入れてしまった俺を許していない。それで構わない。みんなが俺を許してしまったら俺はどこにも居場所がなくなってしまう。
まだ六時前だというのに日が落ちるとあたりはすっかり暗くなった。肌寒くて背中を丸めた。
「河端」
声のしたほうを振り返る。公園の入り口、階段のうえに木崎が立っていた。
「遅くなって悪かったな」
ぶっきらぼうに言うと自分の背後に目をやる。木崎の後ろから、少し髪の伸びた坊主頭が俯いたままやってきた。見覚えのある黒い服。返り血はクリーニングされてなくなっていたが、事件当日山本が着ていたものだ。
「山本」
俺の呼びかけに山本は顔をあげた。困っているような怒っているような複雑な表情をしている。
「……余計なことしやがって」
唇をとがらせてぼそりと呟く。
「真実を言っただけだろ。警察に協力するのは市民の義務なんだぞ」
「俺はそんなことしてほしくなかった」
「俺だっておまえを守りたかったんだよ」
山本の唇が硬く結ばれる。その肩を木崎がトンと叩いた。
「じゃな」
と来た道を引き返していく。
階段の上と下で俺たちは睨むように見つめあった。
「あいつはどうなった?」
「丹野? 一応身内だし、刑務所入れるとあとあとめんどそうだから被害届けは出さなかった。接近禁止命令? とか出て、俺にはもう近付けないことにはなったけど」
「大丈夫なのか?」
「いまんとこは。心配?」
「当たり前だろ。俺があんなにぼこぼこにしたんだから、逆恨みしてるかもしれねえだろ」
「だったらまた俺を守れよ」
「えっ」
「ずっと俺のそばにいて、俺のこと守ってくれよ」
離れていても山本の戸惑いが伝わってくる。俺を守るためならなんでもする山本がこんなことに動揺するなんておかしなことだ。
「おまえの歯ブラシ、今日買ってきたから。俺は水色。おまえは黒な。間違えんなよ」
「河端……、おまえ、いいのか、ほんとに」
「いいに決まってんだろ」
階段を一段一段のぼる。どんどん山本が近くなる。
「なんのためにクソ男に殴られて犯されましたって警察で証言したと思ってんだよ。なんのために貯金はたいて部屋借りて待ってたと思ってんだよ。なんのために木崎に頼みこんでおまえの出所日聞き出してここに連れてきてもらったと思ってんだよ」
木崎にはすべてを話した。山本が倉岡を殺そうとした本当の動機。山本が丹野を叩きのめした事件の真相。そしていまの俺の気持ち。だから木崎は山本を俺のところへ連れてきてくれた。
「帰ろう、俺たちの家に。狭いワンルームだけどさ」
「だ、だけど」
面倒臭くなって山本の唇を塞いだ。驚く無防備な口に舌を差し入れる。奥で硬直している舌を絡めとって思い切り濃厚なキスをしてやった。
「もう俺のこと嫌いになった?」
「そっ、そんなわけ」
慌てる山本が愛おしい。正常な感情と正常な反応。それを与えてくれた山本の首にしがみついて耳元で言った。
「おかえり」
水垢がついて四隅は錆びついた鏡で見る自分の顔は腫れ上がって別人のようだった。可笑しくて笑おうとしたが口の中もズタズタに切れていて溜息しか出なかった。
水で手を濡らし恐る恐る血を洗い落とす。
ここは山本の部屋。木造アパートの一階。少年院を出た山本は実家には戻らず一人暮らしをはじめたらしい。就職が決まった工場からは少し遠いが、俺がバイトしているパチンコ店からは自転車で通える距離。それを白状したとき、山本は少し後ろめたそうだった。
「これ、冷やしとけよ」
洗面所に顔を出した山本が氷を包んだタオルを差し出す。それを顔に当てた。冷たさより痛みしか感じない。
「俺、ひでえ顔してんな」
「あいつのほうがもっとひどい顔してるぜ」
あいつ。丹野。二人で部屋を飛び出すときも動かなかった。
「殺した?」
「殺し損ねた。おまえが止めるから」
「よくあのタイミングで来たよな。最近、来なかったくせに」
「ほとんど毎日部屋のそばまで行ってた」
俺が驚くと山本は気まずそうに頭を掻いた。
「だからあいつが部屋に入るところも見てた。気にするなって思っても気になって仕方なくてさ。嫉妬してまたなにするかわかんねえのに俺、コソコソ窓の下まで行って聞き耳立ててさ。そしたらおまえが……もう……、あいつぶっ殺してやるって、それしか頭になくて、後先考えずに飛び込んでた」
「俺がやったことにするから」
山本は優しい声で「ばか」と笑った。
「俺が勝手にしたことだ。それに逃げるとき人に見られてる」
騒ぎを聞きつけた社員が一人、様子を見にきていた。部屋を出るときばっちり目も合った。この顔じゃ咄嗟に俺だとわからなかったかもしれないが、度々来ていた山本のことはすぐわかったはずだ。逃げ出した部屋に血まみれの丹野が死んだように転がっているのも見つかっているだろう。今頃警察が来て騒ぎになっているかもしれない。
「丹野が俺にしてたこと、警察に言えばいい。俺も証言する。殴られて犯されてたところを助けてもらったって。そうすれば情状酌量も」
「その必要はねえよ。俺はただ気にくわねえおっさんを痛めつけただけだ」
「俺は女じゃない。あいつに犯されたってほかの奴に知られてもいい」
「俺はおまえを守りたいんだ。誰からも、なにからも」
「山本」
「しっ」
表で足音が聞こえた。木製の扉を誰かがノックする。
「山本さん、開けてください、中にいますよね」
口調は丁寧だが有無を言わせぬ押しの強さがあった。警察が来たと悟った山本は俺の肩をぎゅっと掴んだ。
「最後まで守れなくてごめんな。いつも迷惑ばっかかけてごめんな。怖がらせてごめんな。ほんとは俺のこと、怖かっただろ」
「怖がってなんかない」
すまなさそうに山本が笑う。ほんとだって。むきになって言い募ろうとする俺の唇に、山本は素早く触れるだけのキスをして離れた。
「ごめん、最後だから」
「山本」
「ちょっとだけ、血の味がした」
泣き笑いの顔で言うと、山本は警官が待ち受ける外の世界へと出て行った。
――血の味って、なんか興奮するよな。
高校生の山本が蘇る。俺の目から涙が溢れた。
~ ~ ~
買い物は休憩時間に済ませておいた。ホームセンターのバイトを終えた俺は、買い物袋を手に待ち合わせ場所へと急いでいた。
ここのバイトは半年前からだ。重労働で体力を使うが時給はパチンコ店より少ない。それでもいまの仕事は気にいっている。大音量で耳がいかれることもないし、煙草の煙に巻かれることもないし、チンピラにからまれることもない。
がんばり次第では社員登用の道もあるらしいが、いまはまだ仕事を教えてもらう段階の俺には縁遠い話だ。
時間に少し余裕があったので実家に寄ってみた。母さんはスーパーで仕事中。いまだに店長と不倫は続いているらしい。お泊まり用の替えのスーツが吊るしてあった。
『また今度時間があるときに顔見せにくるよ』
メモを残して家を出た。こうしてたまに母さんの様子を見られるよう近場で部屋を探した。母さんはまたいっしょに暮らそうと粘ったけれど俺が断り続けた。丹野のことに気づかなかった母さんを責めているのかと泣かれたが、いっしょに住みたい人がいるからとなんとか納得してもらった。
家の近くの公園には時間ちょうどに到着した。しかし人の姿はなし。不安が胸をかすめる。一度くらいすっぽかされたって諦めないぞと気持ちを奮い立たせてベンチに腰をおろした。
高校生の夜、木崎に偶然出会った公園。そのまま木崎の家に泊めてもらった夜の公園。
先日顔を合わせたとき、木崎は俺の目を一度もまともに見てくれなかった。まだ俺を許していない。保護観察中の再犯。今度は山本を刑務所に入れてしまった俺を許していない。それで構わない。みんなが俺を許してしまったら俺はどこにも居場所がなくなってしまう。
まだ六時前だというのに日が落ちるとあたりはすっかり暗くなった。肌寒くて背中を丸めた。
「河端」
声のしたほうを振り返る。公園の入り口、階段のうえに木崎が立っていた。
「遅くなって悪かったな」
ぶっきらぼうに言うと自分の背後に目をやる。木崎の後ろから、少し髪の伸びた坊主頭が俯いたままやってきた。見覚えのある黒い服。返り血はクリーニングされてなくなっていたが、事件当日山本が着ていたものだ。
「山本」
俺の呼びかけに山本は顔をあげた。困っているような怒っているような複雑な表情をしている。
「……余計なことしやがって」
唇をとがらせてぼそりと呟く。
「真実を言っただけだろ。警察に協力するのは市民の義務なんだぞ」
「俺はそんなことしてほしくなかった」
「俺だっておまえを守りたかったんだよ」
山本の唇が硬く結ばれる。その肩を木崎がトンと叩いた。
「じゃな」
と来た道を引き返していく。
階段の上と下で俺たちは睨むように見つめあった。
「あいつはどうなった?」
「丹野? 一応身内だし、刑務所入れるとあとあとめんどそうだから被害届けは出さなかった。接近禁止命令? とか出て、俺にはもう近付けないことにはなったけど」
「大丈夫なのか?」
「いまんとこは。心配?」
「当たり前だろ。俺があんなにぼこぼこにしたんだから、逆恨みしてるかもしれねえだろ」
「だったらまた俺を守れよ」
「えっ」
「ずっと俺のそばにいて、俺のこと守ってくれよ」
離れていても山本の戸惑いが伝わってくる。俺を守るためならなんでもする山本がこんなことに動揺するなんておかしなことだ。
「おまえの歯ブラシ、今日買ってきたから。俺は水色。おまえは黒な。間違えんなよ」
「河端……、おまえ、いいのか、ほんとに」
「いいに決まってんだろ」
階段を一段一段のぼる。どんどん山本が近くなる。
「なんのためにクソ男に殴られて犯されましたって警察で証言したと思ってんだよ。なんのために貯金はたいて部屋借りて待ってたと思ってんだよ。なんのために木崎に頼みこんでおまえの出所日聞き出してここに連れてきてもらったと思ってんだよ」
木崎にはすべてを話した。山本が倉岡を殺そうとした本当の動機。山本が丹野を叩きのめした事件の真相。そしていまの俺の気持ち。だから木崎は山本を俺のところへ連れてきてくれた。
「帰ろう、俺たちの家に。狭いワンルームだけどさ」
「だ、だけど」
面倒臭くなって山本の唇を塞いだ。驚く無防備な口に舌を差し入れる。奥で硬直している舌を絡めとって思い切り濃厚なキスをしてやった。
「もう俺のこと嫌いになった?」
「そっ、そんなわけ」
慌てる山本が愛おしい。正常な感情と正常な反応。それを与えてくれた山本の首にしがみついて耳元で言った。
「おかえり」
(初出2012年)
