うすらひ(15/18)
2019.11.02.Sat.
<1→2→3→4→5→6→7→8→9→10→11→12→13→14>
3月中旬になって、それまで頑なに離婚を拒否していた美緒が急に離婚を受け入れた。昇進と部署変更を打診されたのがきっかけで、新しい環境でイチから始めるなら、そのタイミングで苗字を旧姓に戻すのが合理的だと、冷静に思ったのだそうだ。
短い期間だが財産分与やら慰謝料やら、こまごまとした取り決めや処理はまだ残っているが、話が進展したことに、正直ほっとした。
美緒は一旦実家へ戻り、今度は職場の近くで新しく部屋を借りるそうだ。
「あっという間だったね、結婚生活」
2人で過ごした最後の日に美緒が言った。
「いまはまだ洋ちゃんの幸せを願ってあげられないけど、不幸になって欲しいとも思ってないから。洋ちゃんのこと許したわけじゃないし、離婚するのもほんとはまだ納得できてない。好きな人ができたなんて、そんな理由到底受け入れられない。でも離婚してあげる。これは私のためだから。洋ちゃんのせいで時間無駄にしたくないから、だから離婚してあげる」
泣くのを堪える美緒を見ているのは辛かった。何度も謝って頭を下げた。当たり前の話だが、慰謝料は相場より多く出すつもりだ。
美緒がいなくなって1人きりの生活が始まった。家具家電は全部売るか処分することで話はまとまっている。休みの日に業者がやってきて、二束三文で家具を引きあげて行った。がらんと広くなった2LDK。1人では持てあましてしまう。新居探しが急務だった。
職場に近い場所は通勤が楽で魅力的だが、近すぎるのもどうかと思う。部屋を探しているとどうしても周防を思い出した。あまり近すぎると、ストーカーだと思われかねない。だから場所選びは慎重になった。
そうこうしているうちに4月になり、うちの部署にも新たに3人の新入社員がやってきた。
その中に見覚えのある顔があった。去年、俺のところへOB訪問でやってきた大学の後輩だ。久し振りに気持ちが明るくなった出来事だった。
そいつは初対面のときから裏表のない本音トークをする奴で、それが不快じゃなく逆に好感を持てた。調子のいい性格で話が弾み、気付くと別れ際に連絡先を交換していたほど人の懐に潜り込むのがうまい。
挨拶を終えた新入社員たちは古田さんから自分たちのデスクを教えてもらったり、会社内での決まり事、暗黙の了解のルールなど、細かい説明を受けながら点々と移動し、最終的に事務手続きのためフロアを出て行った。
不安と緊張の顔ぶれを見ていたら、周防たちがやってきた1年前のことを思い出した。周防の第一印象は背が高くておとなしそうな奴、だった。その後、教育担当の顔合わせで改めて挨拶したときは、真面目で冗談も通じなさそうだ、と少し面倒に思った。
真面目でおとなしいのは印象通りだったが、体育会系だけあって挨拶はきちんとできるし、言うことは素直に聞く、わからないことは質問できる、そしていつ誰に対しても礼儀正しかった。挨拶さえまともに出来ない奴が入ってくる昨今において、周防のような奴は貴重だった。
基本は無口だったが慣れてくると冗談に笑うし、周防から軽口を言ってくることもあった。不器用ではあるが、優しくて、誠実な人間だということはすぐにわかった。俺を慕ってくれるのも、頼られるのも嬉しかった。
いつからか、周防の俺を見る目が変化した。胸のうちに何かを秘めた、ひたむきな視線。
嫌だとか、困ったとか、負の感情は一切湧かなかった。おそらく俺はバイセクシャルというやつなんだろう。だから公祐のときも、なんの抵抗も感じなかった。
周防と付き合っていた間のことが、遠い昔の出来事に思える。いまは仕事でしか接点がない。同じチームだから会話もするし、たまに世間話だってする。俺たちの間にはまだわだかまりや緊張感が残っているが、もうほとんど、ただの同僚としての関係が成立していた。
仕事がなければ、会話がなくても差支えがない。お互いの人生からいつ消えても支障がない。
そんな日が、いつか来るのだろう。もしかすると周防の中ではもうそうなっているのかもしれない。そしていつか、時間の流れのなかで新しい出会いに夢中になり、俺のことを思い出すことさえなくなるのだろう。
それを想像すると虚脱感に見舞われた。澱に足を取られ、暗い場所で身動きできない自分がいる。俺はいつになったら前に進めるのだろうか。
※ ※ ※
4月下旬に開催された歓迎会はあいにくの雨だった。参加者たちが傘をさして雨のなかをぞろぞろ移動する姿はなんだか滑稽に思える。
幸村先生から急な呼び出しをくらった村野は欠席で、話し相手のいない俺は1人で歩いていた。
前には周防と南が並んで歩いている。周防たちは今年の幹事だ。打ち合わせやらなにやら、くっついて話をすることもあるだろう。
仕事の一環だとわかっていても2人の親密な姿は見たくない。だから下を向いて歩いた。
靴がくたびれていた。新しい靴が欲しい。スーツも春夏用のものを新調したい。いやその前に新居探しだ。生活に必要な最低限の家具家電を揃えたら初期費用で数十万が消える。
そんなことを考えながら歩いていたら「久松さん!」と大きな声で名前を呼ばれ顔をあげた。
「どうしたんですか、そんな暗い顔して」
入ってまだ1ヶ月も経っていないのに親しげに若宮が言う。こいつはOB訪問のときもそうだったが、入社後ほかの社員に対してもまったく臆した様子もなくパーソナルスペースにどんどん踏みこんでいった。
ツッコミやすく、弄りやすい性格で、他の新入社員2人より職場に馴染むのも早かった。
「うわ、うるさい奴がきた」
こんなことを言っても「酷いじゃないですか。俺の声、そんなにうるさいですか」と冗談と受け流しつつ、ちゃんと改めるべきポイントがあれば反省と改善の態度を見せる。1年目の新人にしてはコミュ力が飛びぬけていた。
「OB訪問のあと連絡がないから、てっきりうちの会社は駄目だったんだと思ってたよ」
OB訪問直後は何度か連絡を取りあっていた。ESのアドバイスだってしたこともある。なのに秋頃からぱったり連絡が途絶え、悪い結果だったんだと思っていた。
「ほんとすいません。久松さんにはめっちゃお世話になったのに。卒論が大変だったんですよ。教授が『おまえならもっといいものができる!』とか熱入っちゃって、何回もやり直しくらったんでめちゃくちゃ苦労しました」
困った笑顔で頭を掻く。教授にそう言われるということは、よほど可能性のある卒論だったか、お気に入りの学生だったかだ。おそらく後者だろうな、と思った。
「採用通知もらった時に、真っ先に久松さんに連絡しようと思ってたんですよ。ほんとに。でも忙しすぎてタイミング逃しちゃって。今更感あるし、どうせならドッキリで驚かせようと思って。希望通り久松さんと同じ部署に配属されてラッキーでした」
どこまで嘘でどこまでが本当のことなのか。調子のいい奴だが憎めない。
「うちの部署希望してたの?」
「はい! だって久松さんと一緒に働きたかったですもん。久松さんって仕事ができるカッコいい男って感じで、俺OB訪問のあとからずっと憧れてたんですよ」
「若宮は口がうまいな」
「伊吹って呼んでください。俺、ほんとに思ってることしか言いませんよ」
あっけらかんと言い放つ。若さか、恐れを知らない傲慢さか。どちらにせよ、若宮の力強い明るさは今の俺には救いだった。少しは気が紛れる。
「俺、ちゃんと一発芸考えてきたんですよ」
「うちの部署はそういうの必要ないよ」
「え、まじすか。せっかく練習もしてきたのに」
「やりたきゃやればいいよ。他の2人の負担にならないように、若宮は一番最後に挨拶した方がいいと思うけど」
「トリを飾る男っすね」
馬鹿らしくて思わず笑う。若宮は嬉しそうに目じりを下げた。
周防たちの進行で始まった歓迎会で、若宮が披露した一発芸はテレビでよく見る芸人のモノマネだった。練習したというだけあってなかなかのクオリティで鉄板ネタが大いにウケた。
フットワークの軽い若宮は一処にじっとせず、あちこちお酌をしてまわった。序列をちゃんと弁えているあたり、ただ底抜けに明るいだけじゃないようだ。しかも自分一人だけが注目を浴びればいいというタイプでもないらしく、事あるごとに他の新入社員も会話に入れる気遣いもできた。
ある意味、今年の歓迎会は若宮の独壇場と言えた。これで仕事もできるとなったら、期待どころではない大型ルーキーの誕生だ。
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3月中旬になって、それまで頑なに離婚を拒否していた美緒が急に離婚を受け入れた。昇進と部署変更を打診されたのがきっかけで、新しい環境でイチから始めるなら、そのタイミングで苗字を旧姓に戻すのが合理的だと、冷静に思ったのだそうだ。
短い期間だが財産分与やら慰謝料やら、こまごまとした取り決めや処理はまだ残っているが、話が進展したことに、正直ほっとした。
美緒は一旦実家へ戻り、今度は職場の近くで新しく部屋を借りるそうだ。
「あっという間だったね、結婚生活」
2人で過ごした最後の日に美緒が言った。
「いまはまだ洋ちゃんの幸せを願ってあげられないけど、不幸になって欲しいとも思ってないから。洋ちゃんのこと許したわけじゃないし、離婚するのもほんとはまだ納得できてない。好きな人ができたなんて、そんな理由到底受け入れられない。でも離婚してあげる。これは私のためだから。洋ちゃんのせいで時間無駄にしたくないから、だから離婚してあげる」
泣くのを堪える美緒を見ているのは辛かった。何度も謝って頭を下げた。当たり前の話だが、慰謝料は相場より多く出すつもりだ。
美緒がいなくなって1人きりの生活が始まった。家具家電は全部売るか処分することで話はまとまっている。休みの日に業者がやってきて、二束三文で家具を引きあげて行った。がらんと広くなった2LDK。1人では持てあましてしまう。新居探しが急務だった。
職場に近い場所は通勤が楽で魅力的だが、近すぎるのもどうかと思う。部屋を探しているとどうしても周防を思い出した。あまり近すぎると、ストーカーだと思われかねない。だから場所選びは慎重になった。
そうこうしているうちに4月になり、うちの部署にも新たに3人の新入社員がやってきた。
その中に見覚えのある顔があった。去年、俺のところへOB訪問でやってきた大学の後輩だ。久し振りに気持ちが明るくなった出来事だった。
そいつは初対面のときから裏表のない本音トークをする奴で、それが不快じゃなく逆に好感を持てた。調子のいい性格で話が弾み、気付くと別れ際に連絡先を交換していたほど人の懐に潜り込むのがうまい。
挨拶を終えた新入社員たちは古田さんから自分たちのデスクを教えてもらったり、会社内での決まり事、暗黙の了解のルールなど、細かい説明を受けながら点々と移動し、最終的に事務手続きのためフロアを出て行った。
不安と緊張の顔ぶれを見ていたら、周防たちがやってきた1年前のことを思い出した。周防の第一印象は背が高くておとなしそうな奴、だった。その後、教育担当の顔合わせで改めて挨拶したときは、真面目で冗談も通じなさそうだ、と少し面倒に思った。
真面目でおとなしいのは印象通りだったが、体育会系だけあって挨拶はきちんとできるし、言うことは素直に聞く、わからないことは質問できる、そしていつ誰に対しても礼儀正しかった。挨拶さえまともに出来ない奴が入ってくる昨今において、周防のような奴は貴重だった。
基本は無口だったが慣れてくると冗談に笑うし、周防から軽口を言ってくることもあった。不器用ではあるが、優しくて、誠実な人間だということはすぐにわかった。俺を慕ってくれるのも、頼られるのも嬉しかった。
いつからか、周防の俺を見る目が変化した。胸のうちに何かを秘めた、ひたむきな視線。
嫌だとか、困ったとか、負の感情は一切湧かなかった。おそらく俺はバイセクシャルというやつなんだろう。だから公祐のときも、なんの抵抗も感じなかった。
周防と付き合っていた間のことが、遠い昔の出来事に思える。いまは仕事でしか接点がない。同じチームだから会話もするし、たまに世間話だってする。俺たちの間にはまだわだかまりや緊張感が残っているが、もうほとんど、ただの同僚としての関係が成立していた。
仕事がなければ、会話がなくても差支えがない。お互いの人生からいつ消えても支障がない。
そんな日が、いつか来るのだろう。もしかすると周防の中ではもうそうなっているのかもしれない。そしていつか、時間の流れのなかで新しい出会いに夢中になり、俺のことを思い出すことさえなくなるのだろう。
それを想像すると虚脱感に見舞われた。澱に足を取られ、暗い場所で身動きできない自分がいる。俺はいつになったら前に進めるのだろうか。
※ ※ ※
4月下旬に開催された歓迎会はあいにくの雨だった。参加者たちが傘をさして雨のなかをぞろぞろ移動する姿はなんだか滑稽に思える。
幸村先生から急な呼び出しをくらった村野は欠席で、話し相手のいない俺は1人で歩いていた。
前には周防と南が並んで歩いている。周防たちは今年の幹事だ。打ち合わせやらなにやら、くっついて話をすることもあるだろう。
仕事の一環だとわかっていても2人の親密な姿は見たくない。だから下を向いて歩いた。
靴がくたびれていた。新しい靴が欲しい。スーツも春夏用のものを新調したい。いやその前に新居探しだ。生活に必要な最低限の家具家電を揃えたら初期費用で数十万が消える。
そんなことを考えながら歩いていたら「久松さん!」と大きな声で名前を呼ばれ顔をあげた。
「どうしたんですか、そんな暗い顔して」
入ってまだ1ヶ月も経っていないのに親しげに若宮が言う。こいつはOB訪問のときもそうだったが、入社後ほかの社員に対してもまったく臆した様子もなくパーソナルスペースにどんどん踏みこんでいった。
ツッコミやすく、弄りやすい性格で、他の新入社員2人より職場に馴染むのも早かった。
「うわ、うるさい奴がきた」
こんなことを言っても「酷いじゃないですか。俺の声、そんなにうるさいですか」と冗談と受け流しつつ、ちゃんと改めるべきポイントがあれば反省と改善の態度を見せる。1年目の新人にしてはコミュ力が飛びぬけていた。
「OB訪問のあと連絡がないから、てっきりうちの会社は駄目だったんだと思ってたよ」
OB訪問直後は何度か連絡を取りあっていた。ESのアドバイスだってしたこともある。なのに秋頃からぱったり連絡が途絶え、悪い結果だったんだと思っていた。
「ほんとすいません。久松さんにはめっちゃお世話になったのに。卒論が大変だったんですよ。教授が『おまえならもっといいものができる!』とか熱入っちゃって、何回もやり直しくらったんでめちゃくちゃ苦労しました」
困った笑顔で頭を掻く。教授にそう言われるということは、よほど可能性のある卒論だったか、お気に入りの学生だったかだ。おそらく後者だろうな、と思った。
「採用通知もらった時に、真っ先に久松さんに連絡しようと思ってたんですよ。ほんとに。でも忙しすぎてタイミング逃しちゃって。今更感あるし、どうせならドッキリで驚かせようと思って。希望通り久松さんと同じ部署に配属されてラッキーでした」
どこまで嘘でどこまでが本当のことなのか。調子のいい奴だが憎めない。
「うちの部署希望してたの?」
「はい! だって久松さんと一緒に働きたかったですもん。久松さんって仕事ができるカッコいい男って感じで、俺OB訪問のあとからずっと憧れてたんですよ」
「若宮は口がうまいな」
「伊吹って呼んでください。俺、ほんとに思ってることしか言いませんよ」
あっけらかんと言い放つ。若さか、恐れを知らない傲慢さか。どちらにせよ、若宮の力強い明るさは今の俺には救いだった。少しは気が紛れる。
「俺、ちゃんと一発芸考えてきたんですよ」
「うちの部署はそういうの必要ないよ」
「え、まじすか。せっかく練習もしてきたのに」
「やりたきゃやればいいよ。他の2人の負担にならないように、若宮は一番最後に挨拶した方がいいと思うけど」
「トリを飾る男っすね」
馬鹿らしくて思わず笑う。若宮は嬉しそうに目じりを下げた。
周防たちの進行で始まった歓迎会で、若宮が披露した一発芸はテレビでよく見る芸人のモノマネだった。練習したというだけあってなかなかのクオリティで鉄板ネタが大いにウケた。
フットワークの軽い若宮は一処にじっとせず、あちこちお酌をしてまわった。序列をちゃんと弁えているあたり、ただ底抜けに明るいだけじゃないようだ。しかも自分一人だけが注目を浴びればいいというタイプでもないらしく、事あるごとに他の新入社員も会話に入れる気遣いもできた。
ある意味、今年の歓迎会は若宮の独壇場と言えた。これで仕事もできるとなったら、期待どころではない大型ルーキーの誕生だ。
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