はじまる(7/8)
2019.07.25.Thu.
<1→2→3→4→5→6>
晴れてムカイさんと恋人になれた。というわけで以下の話は蛇足になる。
あの夜連絡先を交換したあと僕とムカイさんは別れた。帰りのタクシーのなかでムカイさんから「おやすみ。気を付けて帰れよ」とメールがきた。まだ実感のなかった恋人気分がじわじわ込み上げてきて、タクシーのなかで僕はにやけるのを止められなかった。
その後何度かメールのやりとりをした数日後、僕はまたムカイさんと会った。
待ち合わせた場所はケンちゃんの店とは違う、別の店。ここもムカイさんの行きつけの店のひとつらしい。ケンちゃんの店より照明が絞られていて、間接照明の明かりが年季の入った木製カウンターを照らして温かい雰囲気を醸し出す。テーブルの数も多いが、ほとんど客で埋まっていた。かと言って騒がしくもなく、静かすぎることもなく。適当な雑音が、初めて来た僕を落ち着かせた。
あれ以来、ケンちゃんの店には行っていない。待ち合わせに僕が知らない店を指定してきたムカイさんも顔を合わせずらいんだろう。
クドウさんの言っていたことが全部正しいとは限らない。でも、間違っているとも言えない。ムカイさんとふたりでいるところをケンちゃんにはまだ見られたくなかった。
ムカイさんを前に緊張した僕はさぞかし醜態をさらすんだろうと思っていたけど、あとから店に来た僕を見つけてムカイさんが煙草をはさんだ右手をあげたとき、五年前のゲイバーデビューの日を思い出して、不思議と緊張が和らいだ。5年の間に僕も成長した。あの夜をやりなおせる幸運を大事にしたい。
「迷わず来れたか?」
ムカイさんの声も優しい。店の雰囲気と、僕たちのくすぐったい関係はしっくり合った。会話は途切れることがなかった。共通の話題はたくさんあった。でも意図的にケンちゃんの話題は避けていた。
長い時間をかけて一杯飲むと、ムカイさんに「行くか」と促されて店を出た。腹は減ってるか? ラーメンでも食べるか? 店を一歩出たムカイさんは未知のムカイさんだった。いつもこうして待ち合わせの店を出たあと食事に行っていたのだろうか。
ラーメンを食べ終わるともういい時間だった。ムカイさんは腕時計を見ながら「俺んち来るか?」と僕を誘った。いとも自然に。当たり前のように。心の準備がまだできていない。
「えっと」
本当は行きたいくせに即答するのが恥ずかしいだとか、ムカイさんに迷惑じゃないだろうかとか、僕の悪い癖が出て言い淀んだ。ムカイさんは僕の肘を掴んで「来いよ」と言う。強引さはなくて、むしろお願いするような言い方だった。だから僕は頷いた。
電車で移動し、N駅で下りた。
「僕の家、H駅なんですよ。N駅寄りなんで、ここからすごく近い」
この偶然を単純に喜んでムカイさんに報告した。ムカイさんも「ほんとか」とびっくりした様子だ。
「あ、ムカイさんの家を調べて近くに来たとかじゃないですからね! ほんとにたまたまですから」
「わかってるよ。言っとくけど、俺も違うからな。」
「こんなに近かったのに、今まで一度もすれ違ったりしませんでしたね」
「まあな。平日は仕事だし、夜は家か、どっか出かけてるかだからな。じゃあ、次から渋樹んちに迎えに行けばいいな」
「えっ、いいですよ、僕が行きます!」
ムカイさんに来させるのは悪い。しばらく歩いてからはたと気付いた。
「あ、ムカイさんに家を教えるのが嫌とかじゃないですよ」
「わかってるよ」
苦笑するようにムカイさんが笑う。黒い服を着たムカイさんは夜の住宅街に溶け込んでいた。ムカイさんが住む街。きっと何往復もしただろう道のり。自分が隣を歩く不思議。また顔がニヤけ始める。
オートロックを解除して自動ドアを抜けたムカイさんは、「こっち」と通路を曲がって一階一番奥の部屋を開けた。1LDK。開けっ放しの寝室にベッドが見えた。紺色のベッドカバーが少し意外に思った。
リビングのソファを勧められて腰をおろしたが、ずっと私生活が謎だったムカイさんの自宅に招かれて、好奇心を抑えるのは大変だった。失礼にならないよう気をつけながら、やっぱり部屋をいろいろ観察してしまう。
必要最低限の家具と物しかない部屋だった。ソファにテーブル、楕円形の絨毯、テレビ、窓の脇に大きめの棚があって、雑誌漫画小説、いろいろ並んでいるがまだ隙間がある。
美容学校時代の友達の部屋はもっとごちゃごちゃしている。僕の部屋も物が多い。だからこざっぱりしたムカイさんの部屋は新鮮で、大人っぽく見えた。僕も帰ったら不用品を処分しよう。
「ほら」
キッチンにいたムカイさんがビールを持って戻ってきた。
「さきに風呂入る?」
きっとムカイさんは冗談のつもりで言ったに違いなかった。なのにガチガチに緊張した僕は真に受けて、しかも食い気味に「はい!」と元気いっぱい返事をして笑われた。
「落ち着けって。やる気なのは嬉しいけどさ」
恥ずかしくてビールを煽る。
「飲み過ぎるなよ、また前みたいになるぞ。今日は泊まっていけるんだろ?」
「えっ、いいの?」
ケンちゃんの噂のせいで、事が済んだらすぐ帰れと言われると思いこんでいた。
「なんのために今日誘ったと思ってるんだ。月曜は休みなんだろ?」
「そうです、月曜は定休日で……、よく知ってますね」
「ケン坊たちと話してるの、聞き耳立ててきいてたからな。明日、有給取ったんだぞ」
「もしかして僕のこと大好きですか?」
「そうだよ、悪いか」
あっさり肯定されて次の言葉が出てこない。間抜けに笑う。また緊張が戻ってきて鼓動が早くなる。
ゲイの世界に入って初めて好きになった人がムカイさんだ。それ以前も好きになった男はいたけど、本気にならないよう自制してたし、可能性がないと諦めていた。
ケンちゃんの店に初めて行った夜、もう自分を抑えなくていい状況でムカイさんに一目惚れした。当たり前だが誰でもよかったわけじゃない。雷に打たれたというより、一目で心を盗まれた。いや僕が捧げた。
静かに一人でお酒を飲む姿が気になって、ケンちゃんとの会話で見せた笑顔の落差に心臓が高鳴った。あの時と同じ高鳴りでいま胸が苦しい。
そっとムカイさんの胸に手をあててみた。
「どうした?」
「僕はさっきからすごくドキドキしてるけど、ムカイさんはどうなのかと思って」
「俺だってびびってるよ。初めて会った日からずっと気になってた渋樹と付き合えることになったんだ。間違えたり失敗したくないって思ってる。おまえを家に呼んで正解だったのかわからないし、このまま押し倒して嫌われないか不安でしょうがねえよ」
「嫌うわけないじゃないですか」
ムカイさんにキスした。軽く押し返しながらムカイさんが応えてくれる。もうそれだけで頭が蕩ける。肩を掴まれ、後ろへ押し倒された。キスをしながら僕たちは全身を相手に押しつけあった。
ムカイさんの服を脱がした。期待と高揚をじっくり味わいながら、ムカイさんの上半身を見つめた。刺された傷なんかない、きれいな体だった。
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晴れてムカイさんと恋人になれた。というわけで以下の話は蛇足になる。
あの夜連絡先を交換したあと僕とムカイさんは別れた。帰りのタクシーのなかでムカイさんから「おやすみ。気を付けて帰れよ」とメールがきた。まだ実感のなかった恋人気分がじわじわ込み上げてきて、タクシーのなかで僕はにやけるのを止められなかった。
その後何度かメールのやりとりをした数日後、僕はまたムカイさんと会った。
待ち合わせた場所はケンちゃんの店とは違う、別の店。ここもムカイさんの行きつけの店のひとつらしい。ケンちゃんの店より照明が絞られていて、間接照明の明かりが年季の入った木製カウンターを照らして温かい雰囲気を醸し出す。テーブルの数も多いが、ほとんど客で埋まっていた。かと言って騒がしくもなく、静かすぎることもなく。適当な雑音が、初めて来た僕を落ち着かせた。
あれ以来、ケンちゃんの店には行っていない。待ち合わせに僕が知らない店を指定してきたムカイさんも顔を合わせずらいんだろう。
クドウさんの言っていたことが全部正しいとは限らない。でも、間違っているとも言えない。ムカイさんとふたりでいるところをケンちゃんにはまだ見られたくなかった。
ムカイさんを前に緊張した僕はさぞかし醜態をさらすんだろうと思っていたけど、あとから店に来た僕を見つけてムカイさんが煙草をはさんだ右手をあげたとき、五年前のゲイバーデビューの日を思い出して、不思議と緊張が和らいだ。5年の間に僕も成長した。あの夜をやりなおせる幸運を大事にしたい。
「迷わず来れたか?」
ムカイさんの声も優しい。店の雰囲気と、僕たちのくすぐったい関係はしっくり合った。会話は途切れることがなかった。共通の話題はたくさんあった。でも意図的にケンちゃんの話題は避けていた。
長い時間をかけて一杯飲むと、ムカイさんに「行くか」と促されて店を出た。腹は減ってるか? ラーメンでも食べるか? 店を一歩出たムカイさんは未知のムカイさんだった。いつもこうして待ち合わせの店を出たあと食事に行っていたのだろうか。
ラーメンを食べ終わるともういい時間だった。ムカイさんは腕時計を見ながら「俺んち来るか?」と僕を誘った。いとも自然に。当たり前のように。心の準備がまだできていない。
「えっと」
本当は行きたいくせに即答するのが恥ずかしいだとか、ムカイさんに迷惑じゃないだろうかとか、僕の悪い癖が出て言い淀んだ。ムカイさんは僕の肘を掴んで「来いよ」と言う。強引さはなくて、むしろお願いするような言い方だった。だから僕は頷いた。
電車で移動し、N駅で下りた。
「僕の家、H駅なんですよ。N駅寄りなんで、ここからすごく近い」
この偶然を単純に喜んでムカイさんに報告した。ムカイさんも「ほんとか」とびっくりした様子だ。
「あ、ムカイさんの家を調べて近くに来たとかじゃないですからね! ほんとにたまたまですから」
「わかってるよ。言っとくけど、俺も違うからな。」
「こんなに近かったのに、今まで一度もすれ違ったりしませんでしたね」
「まあな。平日は仕事だし、夜は家か、どっか出かけてるかだからな。じゃあ、次から渋樹んちに迎えに行けばいいな」
「えっ、いいですよ、僕が行きます!」
ムカイさんに来させるのは悪い。しばらく歩いてからはたと気付いた。
「あ、ムカイさんに家を教えるのが嫌とかじゃないですよ」
「わかってるよ」
苦笑するようにムカイさんが笑う。黒い服を着たムカイさんは夜の住宅街に溶け込んでいた。ムカイさんが住む街。きっと何往復もしただろう道のり。自分が隣を歩く不思議。また顔がニヤけ始める。
オートロックを解除して自動ドアを抜けたムカイさんは、「こっち」と通路を曲がって一階一番奥の部屋を開けた。1LDK。開けっ放しの寝室にベッドが見えた。紺色のベッドカバーが少し意外に思った。
リビングのソファを勧められて腰をおろしたが、ずっと私生活が謎だったムカイさんの自宅に招かれて、好奇心を抑えるのは大変だった。失礼にならないよう気をつけながら、やっぱり部屋をいろいろ観察してしまう。
必要最低限の家具と物しかない部屋だった。ソファにテーブル、楕円形の絨毯、テレビ、窓の脇に大きめの棚があって、雑誌漫画小説、いろいろ並んでいるがまだ隙間がある。
美容学校時代の友達の部屋はもっとごちゃごちゃしている。僕の部屋も物が多い。だからこざっぱりしたムカイさんの部屋は新鮮で、大人っぽく見えた。僕も帰ったら不用品を処分しよう。
「ほら」
キッチンにいたムカイさんがビールを持って戻ってきた。
「さきに風呂入る?」
きっとムカイさんは冗談のつもりで言ったに違いなかった。なのにガチガチに緊張した僕は真に受けて、しかも食い気味に「はい!」と元気いっぱい返事をして笑われた。
「落ち着けって。やる気なのは嬉しいけどさ」
恥ずかしくてビールを煽る。
「飲み過ぎるなよ、また前みたいになるぞ。今日は泊まっていけるんだろ?」
「えっ、いいの?」
ケンちゃんの噂のせいで、事が済んだらすぐ帰れと言われると思いこんでいた。
「なんのために今日誘ったと思ってるんだ。月曜は休みなんだろ?」
「そうです、月曜は定休日で……、よく知ってますね」
「ケン坊たちと話してるの、聞き耳立ててきいてたからな。明日、有給取ったんだぞ」
「もしかして僕のこと大好きですか?」
「そうだよ、悪いか」
あっさり肯定されて次の言葉が出てこない。間抜けに笑う。また緊張が戻ってきて鼓動が早くなる。
ゲイの世界に入って初めて好きになった人がムカイさんだ。それ以前も好きになった男はいたけど、本気にならないよう自制してたし、可能性がないと諦めていた。
ケンちゃんの店に初めて行った夜、もう自分を抑えなくていい状況でムカイさんに一目惚れした。当たり前だが誰でもよかったわけじゃない。雷に打たれたというより、一目で心を盗まれた。いや僕が捧げた。
静かに一人でお酒を飲む姿が気になって、ケンちゃんとの会話で見せた笑顔の落差に心臓が高鳴った。あの時と同じ高鳴りでいま胸が苦しい。
そっとムカイさんの胸に手をあててみた。
「どうした?」
「僕はさっきからすごくドキドキしてるけど、ムカイさんはどうなのかと思って」
「俺だってびびってるよ。初めて会った日からずっと気になってた渋樹と付き合えることになったんだ。間違えたり失敗したくないって思ってる。おまえを家に呼んで正解だったのかわからないし、このまま押し倒して嫌われないか不安でしょうがねえよ」
「嫌うわけないじゃないですか」
ムカイさんにキスした。軽く押し返しながらムカイさんが応えてくれる。もうそれだけで頭が蕩ける。肩を掴まれ、後ろへ押し倒された。キスをしながら僕たちは全身を相手に押しつけあった。
ムカイさんの服を脱がした。期待と高揚をじっくり味わいながら、ムカイさんの上半身を見つめた。刺された傷なんかない、きれいな体だった。

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