往時渺茫としてすべて夢に似たり(7/15)
2018.06.13.Wed.
<1→2→3→4→5→6>
シフトの相談のために休憩室に顔を出した。今週からホールスタッフの制服ではなく、スーツに身を包んだ木原さんが、テレビを見ながらみんなと談笑中だった。
彼女なら支配人になった時も、こうしてみんなとの和を大事にしてうまくやれるだろう。
「あっ、支配人、どうしたんですか」
私に気付いて木原さんが立ちあがる。
「時田さんからさっき電話があって、ご家族が事故に遭ってしばらく休みたいそうなんです」
「事故?! 大丈夫なんですか?」
「足を骨折する重傷みたいです。入院が必要なので、実家に戻って看病したいとのことで」
「それじゃ仕方ないですね。そっかー……、明日からのシフトを調整する必要がありますね」
「任せてもいいですか?」
「はい、かしこまりました」
私からシフト表を受け取ってまたイスに座る。テーブルにシフト表を置くと、他のスタッフが周りから首を伸ばし「この日、僕かわりますよ」「私、ここ入ります」と次々穴埋めをかって出た。これも彼女の人望のおかげだ。
安心してその場を離れたようとした時、テレビから聞こえた音声に足を止めた。
ワイドショーの芸能ニュース。したり顔の芸能記者が国見さんのことを話していた。
「あくまで噂なんですが、某有名レストランで、とっても仲のいいお医者さんのお友達と国見さんが喧嘩したらしいんですよ。それもなかなかの喧嘩だったらしくて、国見さんがその場にいたお客さん全員にお菓子のお土産を奢ったらしいんですね」
休憩室の誰かが「これうちのことじゃん」と呟いた。全員がテレビ画面に注目した。
「で、そんなことがあったからなんでしょうかね。どうも最近、その彼とはうまくいってないみたいなんですよ。前は最低でも週一でお互いのマンションを行き来してたのに、最近はまったく会ってないみたいなんです」
わずかな情報と推察だけでさも見てきたかのようにテレビで喋られる。国見さんは慣れっこだと言っていたが、こんなことに慣れていいはずがない。有名税としても高すぎる。
見るに耐えず、休憩室を出た。支配人室のドアノブを掴んだ時、ポケットのスマホが鳴った。
噂をすればなんとやら。国見さんからだ。
「はい、諸井です」
『いまって休憩だよね。ちょっとだけ外に出られる?』
「外?」
『店の外。裏口で待ってる』
「えっ」
慌てる耳に通話の切れた音が聞こえた。裏口で待ってるだって?
誰にも見られていないことを確認しながら裏口を開けた。いつもの植木の陰から国見さんが姿を見せる。
「どうしたんです、急に」
「ちょっと空き時間ができたから。誕生日プレゼント」
とラッピングされた箱をくれた。
「これのために、わざわざ来てくれたんですか?」
「早く渡したくて」
「開けても?」
うんうん、と彼が頷く。そんな無邪気な顔は反則だ。
包みを破り箱をあける。ストライプ柄で深みのある綺麗な濃紺のネクタイだ。手触りもとてもいい。質がいい証拠だ。
「すごく気に入りました。ありがとうございます」
「付けてみて。似合うと思うから」
いま付けているネクタイを外し、もらったばかりのネクタイを締める。
「どうです?」
彼の手が伸びてきた。ノットの位置やディンプル調整をする。最後にシャツの皺を伸ばすように手で撫でると「うん」と満足そうに頷いた。
「やっぱり諸井さんに似合ってる」
私のことを思いながらネクタイを選んでくれたのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「ありがとうございます。宝物にしますよ」
「俺の誕生日は11月25日だから」
「もちろん。お祝いさせてもらいます」
喜んでもらえるプレゼントを渡したい。彼のためならどんな高価なものでも買ってあげたくなるが、欲しいものは大抵自分で買える人へのプレゼントは難しそうだ。
気付くと国見さんの顔から笑みが消えていた。緊張した面持ちで目を伏せる。
「どうしました?」
「ひとつ、質問っていうか……お願いがあるんだけど」
「なんです?」
よっぽど言いにくいことなのか、国見さんは私のスーツの下襟をそっと引っ張った。言うのを迷う目が不安気に揺れている。そんな仕草を間近で見たらなんだって叶えてあげたい。
「言ってください」
国見さんはゆっくり顔をあげた。震えを見せた唇が開いて息を吸いこむ。
「あの──、俺のこと……どう思う? 恋愛対象として見れる? 一度考えてみてほしいんだ。無理ならそれで構わないから。返事はすぐじゃなくていいよ。また今度、会った時にでも」
早口に言うと国見さんは足を一歩引いた。初めて会った日、待ってると言った時間より先に帰ろうとした時みたいに、結果を知る前に逃げようとしている。
襟から離れた手を咄嗟につかんだ。怯えたような目が私を見る。
「いま返事をさせてください」
「なんで……? 今じゃなくていいって言ってるのに」
「国見さんのことをどう思っているか? とてもかわいい人だと思っています。恋愛対象としてずっと見ていました。今度は私からひとつお願いがあるんですが、私と付き合ってくれませんか。私の恋人になってください」
国見さんの目が大きく見開かれる。
「ほんとに? 本気で言ってる?」
「本気です。付き合ってくれますか?」
私の顔をじっと見たあと「付き合う!」と抱きついてきた国見さんにキスされた。彼の体を引きよせながらそれに応えた。
温かく柔らかな感触を堪能する。離れたそばからもう恋しくなった。赤くなった彼の唇が艶めかしい。ここが屋外でなければどうなっていたか。
「もう仕事に行かないと」
「そうですね」
「離れたくない」
「私もです」
お互いの気持ちを慰め合うように軽いキスを何度もした。
「また電話する」
「待ってます。お仕事、頑張って」
「諸井さんからも電話して」
「必ずします」
何度も振り返る彼が車に乗って見えなくなるまで見送った。1人になってから自分の口に手を当てた。彼の唇に何度も触れた。舌も味わった。細身だがしっかり筋肉のついた体も抱きしめた。
夢みたいだ。絶対手に入らないと思っていた。あんなに素敵な人、言い寄ってくる男も多いだろう。その中から選り取りみどりなのに、まさか私を選ぶなんて嘘みたいだ。
そうだ。嘘かもしれない。夢かもしれない。小泉さんの時もそうだった。腕の中に入ってきてくれたと思った途端、昔の男に取られてしまったじゃないか。
国見さんも医者と別れたばかり。傷心のタイミングに、そばにいた私がたまたま選ばれただけかもしれない。自分のことはある程度客観視できるつもりだ。たまには平凡な一般人を相手にしようと気まぐれが働いただけかもしれない。
あまり浮かれるのは止そう。
気持ちを引き締めて店のなかに戻った。
しばらくして木原さんが支配人室にやってきた。
「シフト、なんとかなりそうです」
と訂正の入ったシフト表を渡してきた。それをチェックする。アドレナリンのせいでなかなか集中できない。
「あれ? 支配人、ネクタイ替えました?」
「ええ。ちょっと気分転換を」
指摘されることは想定していたのに実際言われると動揺して顔が熱くなる。
「綺麗な色ですね。素敵です」
「ありがとうございます」
「誰かからのプレゼントですか?」
「そうです。誕生日の」
「恋人ですか?」
恋人、と言っていいのだろうか。国見さんは付き合うと言ってくれた。自分からキスもしてくれた。いまの私たちの関係は恋人同士だ。でもまた振られるのではと一抹の不安は消えない。
「そうなればいいと思う相手からです」
「どうりで。支配人、さっきからずっとニヤけっぱなしですよ」
「えっ、そうですか」
思わず自分の顔を撫でる。
「ご馳走さまでした」
からかうように言うと木原さんは部屋を出て行った。必死にかけ続けたブレーキはとっくに壊れていたらしい。
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シフトの相談のために休憩室に顔を出した。今週からホールスタッフの制服ではなく、スーツに身を包んだ木原さんが、テレビを見ながらみんなと談笑中だった。
彼女なら支配人になった時も、こうしてみんなとの和を大事にしてうまくやれるだろう。
「あっ、支配人、どうしたんですか」
私に気付いて木原さんが立ちあがる。
「時田さんからさっき電話があって、ご家族が事故に遭ってしばらく休みたいそうなんです」
「事故?! 大丈夫なんですか?」
「足を骨折する重傷みたいです。入院が必要なので、実家に戻って看病したいとのことで」
「それじゃ仕方ないですね。そっかー……、明日からのシフトを調整する必要がありますね」
「任せてもいいですか?」
「はい、かしこまりました」
私からシフト表を受け取ってまたイスに座る。テーブルにシフト表を置くと、他のスタッフが周りから首を伸ばし「この日、僕かわりますよ」「私、ここ入ります」と次々穴埋めをかって出た。これも彼女の人望のおかげだ。
安心してその場を離れたようとした時、テレビから聞こえた音声に足を止めた。
ワイドショーの芸能ニュース。したり顔の芸能記者が国見さんのことを話していた。
「あくまで噂なんですが、某有名レストランで、とっても仲のいいお医者さんのお友達と国見さんが喧嘩したらしいんですよ。それもなかなかの喧嘩だったらしくて、国見さんがその場にいたお客さん全員にお菓子のお土産を奢ったらしいんですね」
休憩室の誰かが「これうちのことじゃん」と呟いた。全員がテレビ画面に注目した。
「で、そんなことがあったからなんでしょうかね。どうも最近、その彼とはうまくいってないみたいなんですよ。前は最低でも週一でお互いのマンションを行き来してたのに、最近はまったく会ってないみたいなんです」
わずかな情報と推察だけでさも見てきたかのようにテレビで喋られる。国見さんは慣れっこだと言っていたが、こんなことに慣れていいはずがない。有名税としても高すぎる。
見るに耐えず、休憩室を出た。支配人室のドアノブを掴んだ時、ポケットのスマホが鳴った。
噂をすればなんとやら。国見さんからだ。
「はい、諸井です」
『いまって休憩だよね。ちょっとだけ外に出られる?』
「外?」
『店の外。裏口で待ってる』
「えっ」
慌てる耳に通話の切れた音が聞こえた。裏口で待ってるだって?
誰にも見られていないことを確認しながら裏口を開けた。いつもの植木の陰から国見さんが姿を見せる。
「どうしたんです、急に」
「ちょっと空き時間ができたから。誕生日プレゼント」
とラッピングされた箱をくれた。
「これのために、わざわざ来てくれたんですか?」
「早く渡したくて」
「開けても?」
うんうん、と彼が頷く。そんな無邪気な顔は反則だ。
包みを破り箱をあける。ストライプ柄で深みのある綺麗な濃紺のネクタイだ。手触りもとてもいい。質がいい証拠だ。
「すごく気に入りました。ありがとうございます」
「付けてみて。似合うと思うから」
いま付けているネクタイを外し、もらったばかりのネクタイを締める。
「どうです?」
彼の手が伸びてきた。ノットの位置やディンプル調整をする。最後にシャツの皺を伸ばすように手で撫でると「うん」と満足そうに頷いた。
「やっぱり諸井さんに似合ってる」
私のことを思いながらネクタイを選んでくれたのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「ありがとうございます。宝物にしますよ」
「俺の誕生日は11月25日だから」
「もちろん。お祝いさせてもらいます」
喜んでもらえるプレゼントを渡したい。彼のためならどんな高価なものでも買ってあげたくなるが、欲しいものは大抵自分で買える人へのプレゼントは難しそうだ。
気付くと国見さんの顔から笑みが消えていた。緊張した面持ちで目を伏せる。
「どうしました?」
「ひとつ、質問っていうか……お願いがあるんだけど」
「なんです?」
よっぽど言いにくいことなのか、国見さんは私のスーツの下襟をそっと引っ張った。言うのを迷う目が不安気に揺れている。そんな仕草を間近で見たらなんだって叶えてあげたい。
「言ってください」
国見さんはゆっくり顔をあげた。震えを見せた唇が開いて息を吸いこむ。
「あの──、俺のこと……どう思う? 恋愛対象として見れる? 一度考えてみてほしいんだ。無理ならそれで構わないから。返事はすぐじゃなくていいよ。また今度、会った時にでも」
早口に言うと国見さんは足を一歩引いた。初めて会った日、待ってると言った時間より先に帰ろうとした時みたいに、結果を知る前に逃げようとしている。
襟から離れた手を咄嗟につかんだ。怯えたような目が私を見る。
「いま返事をさせてください」
「なんで……? 今じゃなくていいって言ってるのに」
「国見さんのことをどう思っているか? とてもかわいい人だと思っています。恋愛対象としてずっと見ていました。今度は私からひとつお願いがあるんですが、私と付き合ってくれませんか。私の恋人になってください」
国見さんの目が大きく見開かれる。
「ほんとに? 本気で言ってる?」
「本気です。付き合ってくれますか?」
私の顔をじっと見たあと「付き合う!」と抱きついてきた国見さんにキスされた。彼の体を引きよせながらそれに応えた。
温かく柔らかな感触を堪能する。離れたそばからもう恋しくなった。赤くなった彼の唇が艶めかしい。ここが屋外でなければどうなっていたか。
「もう仕事に行かないと」
「そうですね」
「離れたくない」
「私もです」
お互いの気持ちを慰め合うように軽いキスを何度もした。
「また電話する」
「待ってます。お仕事、頑張って」
「諸井さんからも電話して」
「必ずします」
何度も振り返る彼が車に乗って見えなくなるまで見送った。1人になってから自分の口に手を当てた。彼の唇に何度も触れた。舌も味わった。細身だがしっかり筋肉のついた体も抱きしめた。
夢みたいだ。絶対手に入らないと思っていた。あんなに素敵な人、言い寄ってくる男も多いだろう。その中から選り取りみどりなのに、まさか私を選ぶなんて嘘みたいだ。
そうだ。嘘かもしれない。夢かもしれない。小泉さんの時もそうだった。腕の中に入ってきてくれたと思った途端、昔の男に取られてしまったじゃないか。
国見さんも医者と別れたばかり。傷心のタイミングに、そばにいた私がたまたま選ばれただけかもしれない。自分のことはある程度客観視できるつもりだ。たまには平凡な一般人を相手にしようと気まぐれが働いただけかもしれない。
あまり浮かれるのは止そう。
気持ちを引き締めて店のなかに戻った。
しばらくして木原さんが支配人室にやってきた。
「シフト、なんとかなりそうです」
と訂正の入ったシフト表を渡してきた。それをチェックする。アドレナリンのせいでなかなか集中できない。
「あれ? 支配人、ネクタイ替えました?」
「ええ。ちょっと気分転換を」
指摘されることは想定していたのに実際言われると動揺して顔が熱くなる。
「綺麗な色ですね。素敵です」
「ありがとうございます」
「誰かからのプレゼントですか?」
「そうです。誕生日の」
「恋人ですか?」
恋人、と言っていいのだろうか。国見さんは付き合うと言ってくれた。自分からキスもしてくれた。いまの私たちの関係は恋人同士だ。でもまた振られるのではと一抹の不安は消えない。
「そうなればいいと思う相手からです」
「どうりで。支配人、さっきからずっとニヤけっぱなしですよ」
「えっ、そうですか」
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