Phantom (8/15)
2016.09.04.Sun.
<1話、2話、3話、4話、5話、6話、7話>
法務局で用事を済ませたあと、スーパーで買い物をしてから樫木の家へ向かった。今日は樫木がパスタを振る舞ってくれるらしい。
待っている間、先にあけたワインを飲みながら、窓から外の景色を眺めていた。外の世界はせわしないが、ここの空間は時間の流れがゆっくりだ。その落差に、早く仕事を見つけなければという焦燥が募る。
樫木に呼ばれてテーブルについた。きのことベーコンのパスタが目の前に置かれる。アボカドのサラダとガーリックトーストもある。
食べようとしたら、スーパーの肉屋で買っていたローストビーフも追加された。
「豪華」
「今日は久世がいるから。いつもはもっと適当だよ」
「女だったら確実に落ちてるな」
「女じゃなくて残念」
「えっ」
「食べよう。お腹すいた」
いただきます、と手を合わせた樫木に習い、芳明も手を合わせてから箸をつけた。味付けも申し分なくて、全部食べきれるか心配だった量をぺろりと平らげた。
後片付けは一緒にした。芳明が鍋を洗い、樫木は軽く汚れを取ってから食器やグラスを食洗器にセットした。
片づけのあとはソファに移動して、発泡酒を飲みながらテレビでスポーツ観戦した。
途中で何か思い出したように樫木が立ちあがり、何かを持って戻って来た。
「警察の人に渡してくれ」
「なにこれ」
受け取った小さな容器。芳明は名前を知らないが、アトマイザーと呼ばれるものだ。
「なかに例の香水が入ってる。同じじゃなくても似てるなら、捜査に役立たないかと思って」
ざわっと胸が騒ぐ感覚がした。
「……ありがとう。今度会った時に渡しとく」
透明な液体を見つめながら芳明は返事をした。これがあの男と同じ匂いの香水。あの男の匂い。それが今、自分の手のなかにある。
無意識に深い呼吸をしていた。体があの匂いを欲している。求めている。助かるためとは言え、浅ましい痴態を演じた醜い自分を思い出す匂いなのに、時間が経てば経つほどに、あの時間は現実味のない淫靡なものになる。
アトマイザーをテーブルに置いて、また酒とスポーツ観戦に戻った。
意識の半分はあの香水に引きよせられる。目の前に甘いお菓子を置かれた子供みたいに、ちらちら物欲しそうに見てしまう。
それを誤魔化すように発泡酒を空けた。一時間もすれば酔いがまわって、顔が火照った。酒もすべて飲みほし、手持無沙汰で落ち着かない。自分の髪に手を入れボサボサに搔き乱した。これではただのジャンキーだ。
目が香水に吸い寄せられる。酒なんかではなく、あの匂いを嗅ぎたい。一発で泥酔してエクスタシーを感じられるのに────。
「大丈夫か、久世」
目の前で大きな手が振られた。アトマイザーを睨むように見ていた芳明は我に返って樫木を見た。
「ああ……、大丈夫」
「かなり飲んだな」
「……飲み過ぎた……。今日、泊まっていいか?」
「もちろん。またソファで寝かせるわけにはいかないから、客用の布団を買っておいたんだ。さっそく役に立つ」
満足そうな顔で樫木は立ちあがるとリビングルームを出て行った。廊下の途中にあった部屋の一つを開けて、何やらゴソゴソしている。芳明はアトマイザーを手に握ってそちらへ向かった。
玄関から見て一番手前の部屋に樫木はいた。6帖より少し広い部屋の中央に布団を敷いている。
「今日はここで寝るといい。一応マットレスも用意したけど、もし体が痛かったら俺のベッドと代わるから言ってくれ」
戸口にもたれて立っている芳明を振り返って樫木は言った。
「樫木の部屋、見てもいい?」
「いいよ」
芳明の横をすり抜けて樫木が先に廊下を進む。リビングに近い戸を開けて、部屋の明かりをつけた。主寝室らしく広い部屋だった。
正面には目を引くクイーンサイズのベッドがあり、左には大きな棚と、パソコンが2台並んでなお余裕のある机。棚の裏側にもまだ空間があり、そこはウォークインクローゼットだと樫木が教えてくれた。
「寝室兼、作業部屋。一日のほとんどはここにいる」
ふぅん、と生返事を返しながら芳明は深く息を吸いこんでいた。かすかにあの匂いがする。芳明は手の中の香水を握り締めた。
「この大きさなら男二人で寝ても大丈夫じゃないか?」
「ここに……二人で?」
樫木は戸惑った表情を浮かべた。
「ベッドに慣れてるから、布団じゃ眠れないかも」
「だったら俺が布団で寝るよ」
「そんなの悪いから、一緒でいいじゃん。俺と……一緒じゃ嫌か?」
卑怯だとわかりつつ、芳明は自虐的に笑いながら樫木を見上げた。予想通り、樫木はすぐさま首を振って「嫌じゃない」と言ってくれた。
「俺は構わないんだ。ただ、久世が……、久世のほうこそ、平気なのか?」
心配顔の樫木が言いたいことはわかる。三ヶ月間、見知らぬ男にレ/イプされ続けて来たのに、男と同じ布団で落ち着いて眠れるのかと言いたいのだ。
「お前となら平気」
と冗談めかして笑ってみせる。樫木は口元を引き締め、怒りとも悲しみともとれる目で芳明をじっと見つめたあと、小さく息を吐いて「わかった」と頷いた。
スポンサーサイト
法務局で用事を済ませたあと、スーパーで買い物をしてから樫木の家へ向かった。今日は樫木がパスタを振る舞ってくれるらしい。
待っている間、先にあけたワインを飲みながら、窓から外の景色を眺めていた。外の世界はせわしないが、ここの空間は時間の流れがゆっくりだ。その落差に、早く仕事を見つけなければという焦燥が募る。
樫木に呼ばれてテーブルについた。きのことベーコンのパスタが目の前に置かれる。アボカドのサラダとガーリックトーストもある。
食べようとしたら、スーパーの肉屋で買っていたローストビーフも追加された。
「豪華」
「今日は久世がいるから。いつもはもっと適当だよ」
「女だったら確実に落ちてるな」
「女じゃなくて残念」
「えっ」
「食べよう。お腹すいた」
いただきます、と手を合わせた樫木に習い、芳明も手を合わせてから箸をつけた。味付けも申し分なくて、全部食べきれるか心配だった量をぺろりと平らげた。
後片付けは一緒にした。芳明が鍋を洗い、樫木は軽く汚れを取ってから食器やグラスを食洗器にセットした。
片づけのあとはソファに移動して、発泡酒を飲みながらテレビでスポーツ観戦した。
途中で何か思い出したように樫木が立ちあがり、何かを持って戻って来た。
「警察の人に渡してくれ」
「なにこれ」
受け取った小さな容器。芳明は名前を知らないが、アトマイザーと呼ばれるものだ。
「なかに例の香水が入ってる。同じじゃなくても似てるなら、捜査に役立たないかと思って」
ざわっと胸が騒ぐ感覚がした。
「……ありがとう。今度会った時に渡しとく」
透明な液体を見つめながら芳明は返事をした。これがあの男と同じ匂いの香水。あの男の匂い。それが今、自分の手のなかにある。
無意識に深い呼吸をしていた。体があの匂いを欲している。求めている。助かるためとは言え、浅ましい痴態を演じた醜い自分を思い出す匂いなのに、時間が経てば経つほどに、あの時間は現実味のない淫靡なものになる。
アトマイザーをテーブルに置いて、また酒とスポーツ観戦に戻った。
意識の半分はあの香水に引きよせられる。目の前に甘いお菓子を置かれた子供みたいに、ちらちら物欲しそうに見てしまう。
それを誤魔化すように発泡酒を空けた。一時間もすれば酔いがまわって、顔が火照った。酒もすべて飲みほし、手持無沙汰で落ち着かない。自分の髪に手を入れボサボサに搔き乱した。これではただのジャンキーだ。
目が香水に吸い寄せられる。酒なんかではなく、あの匂いを嗅ぎたい。一発で泥酔してエクスタシーを感じられるのに────。
「大丈夫か、久世」
目の前で大きな手が振られた。アトマイザーを睨むように見ていた芳明は我に返って樫木を見た。
「ああ……、大丈夫」
「かなり飲んだな」
「……飲み過ぎた……。今日、泊まっていいか?」
「もちろん。またソファで寝かせるわけにはいかないから、客用の布団を買っておいたんだ。さっそく役に立つ」
満足そうな顔で樫木は立ちあがるとリビングルームを出て行った。廊下の途中にあった部屋の一つを開けて、何やらゴソゴソしている。芳明はアトマイザーを手に握ってそちらへ向かった。
玄関から見て一番手前の部屋に樫木はいた。6帖より少し広い部屋の中央に布団を敷いている。
「今日はここで寝るといい。一応マットレスも用意したけど、もし体が痛かったら俺のベッドと代わるから言ってくれ」
戸口にもたれて立っている芳明を振り返って樫木は言った。
「樫木の部屋、見てもいい?」
「いいよ」
芳明の横をすり抜けて樫木が先に廊下を進む。リビングに近い戸を開けて、部屋の明かりをつけた。主寝室らしく広い部屋だった。
正面には目を引くクイーンサイズのベッドがあり、左には大きな棚と、パソコンが2台並んでなお余裕のある机。棚の裏側にもまだ空間があり、そこはウォークインクローゼットだと樫木が教えてくれた。
「寝室兼、作業部屋。一日のほとんどはここにいる」
ふぅん、と生返事を返しながら芳明は深く息を吸いこんでいた。かすかにあの匂いがする。芳明は手の中の香水を握り締めた。
「この大きさなら男二人で寝ても大丈夫じゃないか?」
「ここに……二人で?」
樫木は戸惑った表情を浮かべた。
「ベッドに慣れてるから、布団じゃ眠れないかも」
「だったら俺が布団で寝るよ」
「そんなの悪いから、一緒でいいじゃん。俺と……一緒じゃ嫌か?」
卑怯だとわかりつつ、芳明は自虐的に笑いながら樫木を見上げた。予想通り、樫木はすぐさま首を振って「嫌じゃない」と言ってくれた。
「俺は構わないんだ。ただ、久世が……、久世のほうこそ、平気なのか?」
心配顔の樫木が言いたいことはわかる。三ヶ月間、見知らぬ男にレ/イプされ続けて来たのに、男と同じ布団で落ち着いて眠れるのかと言いたいのだ。
「お前となら平気」
と冗談めかして笑ってみせる。樫木は口元を引き締め、怒りとも悲しみともとれる目で芳明をじっと見つめたあと、小さく息を吐いて「わかった」と頷いた。
- 関連記事
-
- Phantom (10/15)
- Phantom (9/15)
- Phantom (8/15)
- Phantom (7/15)
- Phantom (6/15)

[PR]

