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Phantom (5/15)

2016.09.01.Thu.
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『出かける用事があるから、ついでに会えないか』

 二月に入って樫木から電話があった。職探しも消極的になって家にこもってばかりだった。それを親が気に病んでいると知っていたから会うことにした。

 家まで車で迎えに行くというのを断り、前と同じコンビニで待ち合わせをした。待っている間にコンビニで飲み物を二本と、レジ前にあったガムを一つ買った。

 店を出てすぐ、樫木のシルバーの車が駐車場に入って来た。ちょうどいいタイミングだと思いつつ、助手席のドアを開けた。

 芳明は思わず手で口元を覆い、息を止めた。その直前に、無意識に強く吸いこんでしまった。

 ドアを開けた瞬間、鼻腔に流れ込んできた匂い。求めるように肺一杯に取り込んだ匂い。

 懐かしい、白い微粒子のような粉っぽさと、冷たさと、甘さのある、あの男の匂いだ。

 手で塞いだのに、頭が匂いを反芻している。脳の皺ひとつずつでそれを吟味している。甘く痛い痺れが全身に広がっていく。

 芳明はその場にしゃがみこんだ。体から力が抜ける。

「久世? どうした?」

 腰を抜かした芳明を心配して、樫木はサイドブレーキをかけた。車から出ようとするので、それを手で制した。

「大丈夫……っ……だから……」
「大丈夫じゃないだろ」
「なんでもないっ……、ほんとに、平気だから」

 這うように助手席に乗り込んだ。樫木は芳明のほうをチラチラと見ながら、駐車スペースに車を入れた。

「具合が悪いなら無理するな」
「具合なんて悪くない」

 そろそろと手をおろし、少しずつ空気を取り込む。間違いなくあの男と同じ匂いだ。

 ドアを開けた瞬間ほどの動揺はないが、全身絡めとられるような息苦しさを感じる。

 細く短く息を吸おうとしているのに、限界まで吸いこんでしまう。

 金子の匂いとはやはり違う。別物だった。

「辛そうだ」

 心配そうに樫木が顔を覗きこんでくる。

「その……、匂い」
「匂い……? ああ、香水? きついか?」
「いや、そうじゃなくて……」
「この前プレゼントでもらったやつなんだ。そんなにつけたつもりはないんだが……。本当に大丈夫か? 顔が赤い。熱でもあるのか?」
「やめっ……!」

 額に手を当てられ、思わずそれを振り払った。驚いた樫木は手をひっこめ「悪い」と謝った。

「今日はやめておこう。無理することはない」
「…ッ…ほんっ……とに、大丈夫だから……!」

 声の震えを止めたくて握った手を口に押し当てた。抑えようとしても動悸が激しくなる。心臓が痛い。

 車内という狭い空間に、あの男の匂いが充満している。樫木が言うとおり、量はそれほどではないだろう。きついと感じるほどでもない。

 だがこの香りに全身包まれていると、あの男と一緒にいるような錯覚を起こしてしまう。

 匂いによって呼び覚まされる様々な記憶。男の匂い、手触り、肌触り、体温、肌を這う舌の感触、欲望を穿ちこむ行為の激しさ、女のように喘ぐ自分の声、精を放つ瞬間の恍惚感、後始末をする男の手の優しさ、丁寧さ。

 醜い自己嫌悪と、言いようのない懐かしさがこみあげて来て、涙腺が緩みかけた。

 異常な場所から日常の場所へ帰ってきたのに、居心地の悪さがずっとあった。日常に嵌れない歪な自分の存在を自覚すると、監禁されていた部屋を恋しく思うときさえあった。

 そのたび、間違った感情だと否定し続けて来たが、三ヶ月という期間は芳明の心を蝕むには充分な期間だった。

 ずっと目隠しをしていたのもその擦り込みを強固なものにする作用があった。視覚を奪われた芳明の中で、男が美化されるのは無理のない話だ。

 芳明は深呼吸を繰り返した。少し匂いに慣れ始めた。密度濃く感じていたが、本当は深く吸いこまないと感じないほどの、かすかな匂いだった。

 体の緊張を解いた。ぎこちなく節々が震えた。

「ごめん、もう平気だから」

 口元を押さえていた手をおろした。神妙な面持ちで見守っていた樫木も、静かに息を吐いた。

「家まで送る」
「大丈夫。ちょっと……、フラッシュバックしただけ」
「……俺のせいか? この匂いのせい?」

 芳明は首を左右に振った。

「車出して」
「でも」
「どこか……落ち着ける場所に行きたい。家は親が心配する」
「……わかった」

 樫木はコンビニの駐車場から車を出した。行き先を決めあぐねて、口の中で独り言を呟きながらとにかく車を走らせる。

「俺の家でいいか?」
「誰もいない?」
「いない」
「じゃあそこで」

 芳明はシートに深く身を沈めた。うつろに窓の外を見ながら、嗅覚だけに全神経を使う。

 追えば追うほど、あの匂いは逃げるように遠のいて行く。車の匂いに混じって消えてしまいそうだ。出来ることなら、樫木の体に鼻先を突っ込んで匂いを嗅ぎたい。

 そんな想像をしたら、急に樫木の体温が近くに感じられた。ただの友達だった樫木が、違う何かに姿を変える。

 ステアリングを握る手の甲に見える血管や、太もも周りや、凛々しい顎のラインに目を奪われる。舐めるように見ている自分に気付き、芳明は視線を前に戻し、居住まいを正した。

 足を組んで治まるのを待つ。胸を上下させて静かに息を吐いた。熱が籠っているのがわかる。

 解放されてから、自慰らしいものをしたことはなかった。朝立ちという生理現象はあったが、それ以外では勃起もない。そういう気分にならなかったからだ。

 監禁されている間毎日レイ/プされていた。一回で2度3度射精したこともあった。三ヶ月の間で、嫌というほど精液を出した。その反動と、男との行為を思い出す怖さもあった。罪悪感もあった。まだ出したりないのかと、恥じる思いもあった。

 忌み避けていたのに、匂いに触れただけで体は反応した。あの頃を忘れていなかった。カウンセリングに通っても無駄だった。

 自分はまだ『完治』していないのだと、芳明は絶望した。





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