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すばらしい日々(3/3)

2014.09.05.Fri.
<前話はこちら>

 3年2ヶ月の単身赴任がやっと終わった。上司の計らいで予定より二日早く帰れることになった。荷物は手配済みの引っ越し業者に任せることにして、鍵を管理人に返した俺は鞄一つで新幹線に乗り込んだ。
 あと数時間で我が家に帰れる。
 携帯を取り出し、生まれてきた子供の顔を眺めた。

 予定日には休暇を取って嫁のもとへかけつけた。休みの間なかなか生まれて来る気配がなく、結局俺が赴任先に戻ってから生まれた。
 元気な女の子だった。雅美と名付けた。考えたのは嫁だ。連休に帰省し、初めて我が子を腕に抱いた。小さく軽く脆くて壊してしまいそうだった。怖くてすぐ嫁に返したら、「お風呂はあなたの役目なんだから早く慣れてくれなきゃ駄目よ」と叱られた。
 今まで送られてくる写真でしか見たことがなかった。だから実際触れて抱きあげると、言いようのない気持ちが湧き上がって来た。父親になる幸福を噛みしめ、嫁に感謝した。
 一生懸命働いた。寂しくても酒はたしなむ程度に我慢した。英一のアドレスは消去した。たまに挫けそうになると子供の写真を見て踏ん張った。
 これからはずっと一緒にいられる。そばで成長を見ていられる。

 電車を乗り継いで家の最寄り駅までたどり着いた。驚かせるつもりで嫁に連絡はしていなかった。駅前のケーキ屋でケーキを買って家に向かった。
 駐車場に見知らぬ車が停まっていた。お義母さんの車かもしれない。久しぶりに親子水入らずで過ごしたかったが仕方がない。こういう場合も想定してケーキも多めに買ってある。
 インターフォンを鳴らそうか迷ってやめた。驚く嫁を想像しながら鍵を差し込みそっと回す。玄関に見慣れぬ男ものの靴があった。お義父さんの靴だろうか。
 その横に靴を脱いで中にあがる。リビングには誰もいなかった。子の姿もない。
 あの車と靴は誰のものだろう。

 ソファに鞄を、テーブルにケーキの箱を置いて、俺は二階へ向かった。吹き抜けの明るい階段をのぼりきると、かすかに声が聞こえてきた。

「あの人が帰ってきたら、もうこんな風に会えなくなるね」
「明美が仕事に復帰したらまた職場で毎日会えるようになるだろ」

 若くてはりのある男の声。お義父さんの声じゃないのは明らか。

「でも家に帰ったら好きでもない男と夫婦のふりしなきゃいけないのよ。あの人の異動が決まったって聞いたときはほんと嬉しかったもん」
「仕方ないよ。俺たちは出会うのが遅かったんだ。もっと早く出会えていたら結婚できたのに」
「まあ君の奥さんに嫉妬しちゃう」
「俺だって明美の旦那にいつも嫉妬してる」
「あの人ね、自分の子供じゃないのに、だんだん俺に似てきたんじゃないかって言うのよ。おかしくて笑っちゃった」

 と嫁は本当に笑った。

「俺と明美の子なのにね。二人で育てられなくてごめんな」
「ううん、いいの。まあ君の子供を産めただけで幸せ」
「でもほんとに俺の子だろうね?旦那のとこに行ったとき、怪しまれないようにいっぱいセックスしてたんだろ?」
「あの時はちゃんとピル飲んでたから。そのあとにエッチしたのはまあ君だけ。だから100パーまあ君の子だよ。その証拠に、あの人がいるときにお腹から出てこなかったでしょ。まあ君がこっそりお見舞いに来てくれた日に生まれたんだから、やっぱり血の繋がりがわかるのよ」
「雅美に会いたくなってきたな」
「お母さんが夕方に連れて戻ってくるから、それまで待ってる?」
「鉢合わせたらさすがにマズイでしょ」
「あーん、まあ君とずっと一緒にいたいよぉ」
「今日はいっぱい可愛がってやるから」

 布ずれの音。嫁の嬌声。男の言葉攻め。肌のぶつかり合う音。ベッドの軋み。
 嘔気がこみあげてきて、俺は急いで階段をおりた。洗面所で吐いた。涙と鼻水が垂れた。もう一度吐いたものを排水溝に流し、タオルで顔を拭った。
 リビングに戻って荷物とケーキの箱を持つと家を出た。鍵をかけ、駅へ引き返した。


 ビジネスホテルに部屋を取った。弁護士の知り合いがいるという友人へ電話した。留守電に繋がり、連絡が欲しいと伝言を残した。
 ベッドに腰掛けながら、二人の言葉を反芻していた。嫁は浮気していた。それも俺の異動の前から。そして子供は俺の子じゃなかった。雅美は「まあ君」と呼ばれていた男の子供だった。
 背筋がぞくりとした。もしかして。「雅美」という名前はまあ君と明美から一文字ずつ取った名前なのでは…。

 また胃が痙攣して、トイレに駆け込んだ。腹の中のものを全て吐き出す。胃液に胃が焼けつく。滲む涙を袖で拭った。
 誰のために今まで頑張ってきたのだろう。嫁のため子供のために寂しいのを我慢して耐えてきたのに。
 伴侶を裏切っていた俺が嫁を責める立場にないのは重々承知だが、浮気相手の子を育てるのだけは真っ平御免だ。代償があまりに大きすぎる。自分の子だと思うからこそ、育児書を読んだり、子持ちの同僚に話を聞いたりしてきたのに。
 嫁が俺に会いに来たのは計画的に妊娠するためだった。それは俺との子が欲しかったからじゃない。俺の浮気に勘付いて繋ぎとめるためでもない。ただ浮気相手の子を堂々と妊娠したいがために、好きでもない俺のところへ抱かれにやって来たのだ。

 水道で口をゆすいでいたら携帯が鳴った。さっき電話した友人からだ。
 挨拶もそこそこに、弁護士を紹介して欲しいと頼んだ。


 すべての片がつくまでに半年近くかかってしまったが、なんとか嫁とは離婚し、子供の籍を抜いてもらうことが出来た。
 嫁からは人でなしと罵られた。浮気相手からは家庭を壊されたから慰謝料を請求すると言われた。こんな馬鹿に嫁を寝取られ、気付かなかった自分が情けなかった。

 嫁の両親が喚くので、双方の弁護士立ち合いのもと、2度目のDNA鑑定を行った。その結果、嫁と雅美の親子関係は証明されたものの、俺とは赤の他人であるとの結果が出た。真実を突き付けられたのはこれで二度目。心に大きな穴が開く
 嫁は何かの間違いだと泣き叫んで話にならず、両親は顔を真っ青にして呆然自失だった。
 慰謝料の請求はしないかわりに、家は嫁が買い取ること、子供の籍を抜くことを条件に出した。
 あとのことはこちらと話し合ってくれ、と浮気相手の情報をまとめた書類を嫁の弁護士に渡した。
 浮気相手の家族と嫁家族とが大揉めし、なかなか進展しなかったが、やっと俺と嫁の婚姻は解消され、雅美は籍を抜けた。

 幼い子のことを思うと胸が痛んだ。子供に罪はないと自分が極悪人に思えてしかたなかった。嫁を責める資格が俺にはない。だから慰謝料の請求はしなかった。
 人でなし!私と雅美を飢え死にさせるつもりなの!
 目を吊り上げて俺を詰る明美の顔が忘れられない。夢に出て来る。赤ん坊の泣き声が聞こえる。また眠れなくなった。


 俺が嫁と離婚したとき、折しも世間は俺と同じ境遇のタレントのニュースでもちきりだった。父性関係ゼロ。事情を察した同僚たちの視線が痛かった。
 またどこかへ異動させてくれないだろうか。海外支社でもいい。むしろ言葉がわからないほうが助かる。
 スーパーで食材を買わずに酒ばかりを買って帰宅する。学生時代に戻ったかのようなワンルームのマンション。家財も何もかも家に置いてきた。必要最低限の家具を買いそろえると貯金は底をついた。

 つまみも食べずに酒を飲んでいたらメールの受信音。明美からのメール。画像が添付されている。見なくてもわかる。雅美の写真だ。こんなに大きくなったのよとメールに書いてある。親子3人でやり直したいと。
 親子はお前たちだけじゃないか。
 新しい缶を開けた。


 最近、何か食べると吐くようになってしまった。物忘れが酷くなり、注意力が散漫になり、運動をしていないのに動悸が激しくなるときがあった。
 明らかに酒の飲み過ぎだった。しかし飲むのを止められない。仕事をしている最中に酒が恋しくて飲みたくなる。
 スーパーに行くと大量の酒を買い込んだ。半額で買った惣菜の味がしない。わからない。酒で流し込む。
 携帯電話は鞄に仕舞ったまま、出すこともしなくなった。電話をかけてくる相手は決まっている。心配する俺の親か、復縁を迫る元嫁、たまにある無言電話はおそらく嫁の浮気相手だろう。
 どれも俺を憂鬱にさせる。だから鞄から出さない。
 どうせ英一からはかかってこない。

 今更俺が英一を恋しがるのは筋違いだし、調子が良過ぎる。英一にはもう新しい男がいる。独身で優しい男が。
 アドレスを消しておいてよかった。もし残していたら俺はまた英一を頼ってしまう。もう英一に甘えちゃいけない。あいつの幸せを邪魔しちゃいけない。

 夜は眠れないから酔っぱらうために飲む。酔えずに追加で何本も空ける。浅い眠りを繰り返し、赤ん坊の声で目を覚ます。暗い部屋の中に一人。涙が零れる。嗚咽を漏らしながら布団にくるまり朝を渇望する。


 仕事に行くと俺の顔を見た上司は渋面になって「そんな状態で仕事が出来るか。今日は休んで病院に行け」と俺を追い返した。
 言われた通り会社を出た。病院には行きたくない。その必要を感じない。自宅に帰る気にもならない。でもどこにも行くところがない。
 赤信号で立ち止まる。目の前を車が通り過ぎる。飛び込んだら楽になれるだろうか。車にぶつかる瞬間を想像する。骨が砕かれる音を想像する。
 信号がかわっても俺はそこに立ち尽くしたままぼうっと往来を見ていた。

「大丈夫ですか?」

 通行人が心配して不審がって声をかけてくる。

「はい、大丈夫です」

 返事をしたのにそいつは眉を顰めて行ってしまった。信号が点滅する。横断歩道を渡った。
 近くのコンビニに入って缶ビールを買った。少し歩いた先の公園のベンチで朝っぱらから酒を飲む。

 ポケットで携帯電話が鳴った。見ると登録されていない番号だった。また嫁の浮気相手か。こいつのせいで俺の人生めちゃくちゃだ。
 文句の一つでも言ってやろうと通話ボタンを押した。

「お前も暇だな。既婚者と浮気してた自分は棚あげか?人の家庭ぶっ壊しといて俺を恨むなんて筋違いなんだよ。今からでも慰謝料請求してやってもいいんだぞ」

 電話の向こうで浮気相手がハッと息を飲む音が聞こえた。慰謝料請求という言葉にびびったのか。その現金さにカッと頭に血が上った。

「おい、なんとか言えよ。今日もだんまりかよこの野郎。人の嫁孕ませた上に知らん顔して俺に育てさせようなんて頭どうかしてんじゃないか?子供が可哀そうだとは思わなかったのか?人でなしはお前らのほうじゃないか。どういう神経してたらそんなことできんだよ。子供をなんだと思ってるんだよ。お前が責任もって子供と明美の面倒を見ろ。俺にはもう関係ない。二人とも赤の他人になったんだ。だからもう電話してくるな。これ以上俺を苦しめるな」

 捲し立てる間に感情が昂ぶって俺の目からは勝手に涙が溢れてきた。憎い浮気相手に泣いていると知られるのが癪で、言うだけ言うと通話を切った。手で顔を覆ってしゃくりあげる。

「英一」

 嗚咽の合間に名前が口をついて出た。忘れるようにしていた名前。思い出さないようにしていた存在。足元がガラガラ崩れ落ちる。俺はもうだめだ。

「寂しいよ…英一、会いたい、お前に会いたい…」

 ポロポロと涙が零れ落ちた。

 ふわりと背中に温もりが降りてきた。

「こんなに飲んじゃ駄目じゃないですか」

 聞き覚えのある声に呼吸が止まる。

「こんなになっても僕に電話してこないなんて」
「……っ」
「ほんとに意地っ張りな人ですね、田中さんて」

 顔をあげると俺の横に英一が座っていた。

「ど…う、して」
「配属先がこっちだったんです。たまたま交差点で田中さんを見つけて、様子がおかしかったんであとをつけてきました」

 悪戯っぽく笑ったあと、英一は優しく目を細めて俺の手を握った。

「会うつもりはなかったんですけど、見てられなくて電話しました。さっきの電話、俺だったんですよ。おかげでだいたいの事情はわかりました。大変でしたね」

 労わる声にまた涙が出てきた。優しい手が俺の背中を撫でさする。張りつめていた心の糸が切れた。子供のように泣きじゃくった。

「いま、だけでいいからっ…今だけ、俺のそばにいてくれ」
「ずっといますよ」

 と俺の涙を英一が食む。
 英一の手を強く握り返しながら俺は何度も頷いた。


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コメント
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takechunさん
こちらこそリクエストと感想とありがとうございますi-189
浮気してるのにすんなりハッピーエンドじゃいかんよな、
と思ってあんな感じになりました。
最近托卵が話題なので嫁との離婚理由は考えやすかったんですが、
最後のネタばらしが怒涛すぎたなと反省ですi-229
「三年後の二人がどうなっているのか」というリクエストのおかげで
できた今回のお話でした。ありがとうございます!

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