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右手左手(4/4)

2020.10.27.Tue.


 大学への進学か就職か、進路を決める時に「教師になりたい」と有から最初に打ち明けられたのは俺だった。俺はもちろん賛成した。次に打ち明けられた兄貴も賛成だった。爺さんは、教師という職業を聖職だと考えていたので大賛成だった。しかも、爺さんの影響で英語教師になりたいのだと知ると、そのあとの浮かれようは見ていて恥ずかしいほどだった。最近寝込むことが多かった爺さんだったが、それからしばらくは元気に動き回り、散歩にも出かけ、会う人に自慢してまわった。

 大学に入ってすぐ、留学の相談を一番に持ちかけられたのもやはり俺だった。俺から兄貴に話してみる、と有に言った。俺から話を聞くと兄貴は黙りこんだ。

「お金ならあるだろ、行かせてやろうよ」
「だがな……、アメリカだぞ、遠すぎる。何かあったらどうするんだ」
「そんなこと心配してたら、有はどこにも行けないよ」

 兄貴は自分の目の届くところに有がいないと心配でたまらないのだ。

「何ヶ月だ?」
「半年」
「半年……」

 とまた考え込んだ。その日、兄貴は首を縦に振らなかった。俺から話を聞いていると知っている有は、話しかけられることを拒絶している兄貴の雰囲気に何も言えず、黙って結果を待っていた。その顔は不安そうだった。

 兄貴はなかなか答えを出さなかった。悩んでいるのか、もとより出す気がないのか。焦れた俺が兄貴をせっついた。

「お前は平気なのか? 心配じゃないのか?」

 まるで俺が薄情だと言わんばかりの顔をする。さすがにムッとなって言い返した。

「過保護が有のためになるとは思えないよ。有だってもう子供じゃないんだ。自分で考えて留学したいと言い出したんだから行かせてやるのも親心だと思うけど」
「あいつはまだ子供だ」

 兄貴は俺から、現実から目を逸らした。

「有が俺たちに隠し事してるの、気付いてる?」

 びっくりした顔で兄貴が俺を見た。

「俺は有から何も聞いてないよ。これは俺の勘なんだけど、有、付き合ってる子がいるんじゃないかな」

 帰りはいつも門限ギリギリだし、休みもよく出かけている。勉強していてもたまに考え事をして手が止まっていることがある。その時有は、何かに想いを馳せる遠い目をしていた。あれはきっと恋をしているのだ。

「有が……? 何も聞いてないのか?」
「だから聞いてないって。有ももう大学生なんだ、いちいち俺たちに言ってくる年じゃなくなったんだよ。これからどんどんあいつは自分で決めて自分で行動するようになる。隠し事だって増えてくるさ」

 兄貴はショックを受けたのか、しばらく呆然としていた。そろそろ兄貴には弟離れしてもらわなくては困る。

「留学、行かせてやろうよ。せっかくやりたいことがあるんだからさ。応援してやろうよ、兄貴」

 兄貴は難しい顔で長い間考えていたが、ようやく決心したのか、諦めたのか、「そうだな、行かせてやろう」と溜息と共にに吐き出した。

 爺さんには兄貴が話をした。外国贔屓の爺さんが反対するはずはなかった。

「お前から有に伝えてやってくれ」

 爺さんと話をつけた兄貴が俺に言った。俺はそれを断った。

「有も兄貴から返事を聞きたいんじゃないかな」

 兄貴は珍しく頼りない顔をした。

 その夜、寝る前に、留学に行けることを兄貴が有に話した。有の顔がパッと明るくなった。

「ありがとうございます」

 と礼を言う。兄貴は照れくさいのか、ことさら顔を険しくして「遊びに行くんじゃないんだからな」と言っていた。それを見ていた俺は、吹き出すのを我慢するのに骨を折った。

※ ※ ※

 有がいない留学期間中、家の中はまた一層静まり返った。この頃爺さんは入退院を繰り返し、家で過ごすより病院で過ごすことのほうが多くなっていた。みるみるやつれて行き、声に覇気もない。目に見えて弱っていた。

 爺さんは入院中で、俺と兄貴、二人きりの夕食の時に爺さんの体調のことを話し合った。医者の話ではこれから調子を持ち直すことはないだろうということだった。

「ああいう人は案外長生きするもんだ」

 兄貴は皮肉って笑った。

「そうだね。もう少しこっちにいてもらわないと、あっちでばあちゃんがまた苦労させられるからね」

 俺も笑って言った。

 がしかし、爺さんは有が留学から戻った半年後にあっけなく死んだ。

 身内だけでひっそり葬儀を行った。静かに泣く有を慰めながら俺も一緒に涙を流した。兄貴は最初から最後まで泣かなかった。

 納骨も終わり、一息ついた夜、仏壇の前で兄貴が座っているのを見つけた。

「ばあちゃんに、引き止められなくてごめんって謝ってんの?」

 俺が部屋に入って声をかけても、兄貴は仏壇のほうに顔を向けたまま。

「礼、俺、ぜんぜん悲しくないんだ」

 静かに話す兄貴の背中に目をやった。兄貴は依然として前を向いたままだ。

「お前たちに手をあげる爺さんを殺したいほど憎んでた。それは隠しもしない。でも、あんな爺さんでも、俺たちを引きとって養ってくれた身内なんだ。それなのにぜんぜん悲しくないんだ。涙一つ出て来ない。俺を薄情だと思うか?」

 兄貴が振り返った。自虐に口元が歪んでいる。俺は首を横に振った。

「俺だって兄貴と似たようなもんだよ」
「お前は泣いてたじゃないか」
「あれは有が泣くからもらい泣きしたんだ。あそこで兄貴が笑い出してたら、俺も笑ってた」

 それは事実だった。俺も悲しみはなかった。肉親を見送るのは三度目だからだろうか、と心が空白なわけを考えてみたが、そうじゃないと本当はわかっていた。

「兄貴が薄情なら、俺だって薄情だよ」

 兄貴が苦しそうに目を伏せた。

「お前にも辛い思いをさせてきたな。頼りない兄貴で、ごめんな……」

 最後の声は震えていた。手で目元を押さえ、嗚咽を漏らす兄貴のそばに屈みこみ、背中をさすった。

「俺こそ、損な役を兄貴にばかりさせてごめん。いつまでも甘えてばかりでごめん。本当に兄貴には感謝してるよ」

 俺まで涙が溢れてきた。二人で一緒に泣いた。なぜこんなに泣けてくるのかわからなかった。

 しばらくして泣きやむと、兄貴は照れ隠しで俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。俺もやり返した。顔を見合わせ、吹き出した。憑き物が落ちたような兄貴の顔だった。

※ ※ ※

 有の就職が決まった。不況の中、私立高校の専任教員に採用されたのは幸運だった。俺たち二人から就職祝いに腕時計をプレゼントした。

 これで有も一人前だ。俺たちが満足していたある日、話があるから次の日曜は家にいて欲しい、と有が兄貴に言っているのを聞いた。俺は何も聞いていない。有が俺より先に兄貴に話をするなんて珍しいことだ。その日曜、俺は家をあけることにした。

 日曜日の朝、兄貴と有を残し、近くのホームセンターに出かけた。ばあちゃんが亡くなってから、ほったらかしだった庭の雑草をそろそろどうにかしなければならない。スコップと除草剤を買い、本屋に寄ってから帰宅した。玄関に見慣れない靴があった。有の友達だろうか。静かに中に入った。

 挨拶をしたほうがいいだろうか。考えながら台所へまわった。襖一枚隔てた隣の居間から話し声が聞こえて来る。

「僕は真剣です。遊びや気の迷いではありません。僕には一ノ瀬しか考えられないんです。申し訳ありません」

 若い男の声が聞こえてきた。あの靴の持ち主だろうが、いったい、何の話をしているんだ。有しか考えられないとはどういう意味だ。

「すみません、俺も真剣です」

 いぶかしむ俺の耳に有の声が続いた。雰囲気で二人が頭をさげているのがわかった。重苦しい空気がここまで伝わってくる。俺の頭に一つの仮説が浮かぶ。しかし、まさか、とそれを打ち消す。二人とも、男同士だ。

「二人とも顔をあげなさい」

 兄貴の静かな声が聞こえた。

「すべてわかった上なんだろう? わかった上で、それでも一緒に暮らすと言っているんだろう? だったら俺が許すも許さないもない。俺に謝る必要もない。二人の好きにするといい」

 一緒に暮らす? どういうことだ? 内容にも驚いたが、ものわかりのいい兄貴にはもっと驚いた。外泊するだけでも難色を示すのに、有が家を出ることをすんなり許すなんて今までじゃ考えられないことだ。

「よく打ち明けてくれたな。勇気がいっただろう」

 怒るどころか、声に優しさが滲んでいた。

「兄さんには、言わなきゃいけない気がしたんです」

 ほっとしたような有の声。

「そうか……。礼にはもう言ったのか?」

 隣の部屋で俺は一人、首を振った。

「いいえ、まだ。帰ってきたら話します」
「まだか……、そうか」

 そう呟く兄貴の声が嬉しそうだった。今までずっと有の相談は俺が先に聞いてきた。土壇場の大事な場面では、俺じゃなく兄貴が優先されたということか。あとまわしにされたことに寂しさはなかった。逆に嬉しく思った。

「一ノ瀬は僕が守ります。安心して下さい」

 男が言った。すかさず、

「これを誰かに守られるような男に育てた覚えはない」

 兄貴が反論した。男は慌てて「すみません」と謝罪した。そうだとも、本当は甘やかしたいのに、兄貴は心を鬼にして、有に厳しくしてきたんだ。誰かに守られるようには育てていない。

「いや、しかし、いざというときには力になってやってくれ」

 最後に甘いのは兄貴の愛嬌だ。俺は静かに苦笑した。

「有の料理には期待しないほうがいい。こいつは料理が下手で食材を無駄にするから」
「開兄ちゃんっ」

 有の慌てたような声。兄貴が声をあげて笑った。俺は驚いて息を飲んだ。兄貴の楽しげな笑い声なんていったい何年ぶりに聞いただろう。有が兄貴を「開兄ちゃん」と呼ぶのも、いったいいつぶりか。兄貴の心情を思うと、感動すら覚えた。

 三人が雑談を始めたので俺は庭に移った。今日買った除草剤を水で薄め、それを庭の雑草に撒いた。部屋に戻るとき、廊下で兄貴と鉢合わせた。

「帰ってたのか」
「うん」
「さっき有たちが出て行ったところだ。呼び戻すか?」
「いいよ。だいたい話はわかったし。相手、どんな男?」

 兄貴の顔が少し赤くなった。ゴホンと咳き込み眉間に皺を作った。

「相手は木村君だ。はじめて会ったが、まぁ、悪い奴じゃなさそうだ」
「木村君だったんだ、あれ」

 とすると、二人の付き合いは高校からということになるのか。その頃、有に彼女が出来たと思っていたが、相手は木村君だったのかもしれない。いったいいつ、深い仲になったのか。あの有が、あの声の男に……。

 無意識に顔が険しくなり、兄貴と同じように眉を寄せていた。

「まぁ、有が選んだ奴なら、仕方がないね」

 そう自分に言い聞かせる。

「この家、出て行くんだって? いいの?」

 兄貴の顔を窺った。兄貴はゆっくり頷いた。

「あいつももう大人なんだから、いつ出て行こうと自由だ。お前も彼女くらいいるだろう、結婚でも同棲でも、好きにしろよ」

 別人かと思う聞きわけの良さを見せて笑う。呆気に取られたがすぐ我に返った。

「なに言ってるんだよ。俺より先に兄貴が結婚してくれないと、俺も安心出来ないよ」

 兄貴が結婚するまで、心配でこの家を出て行けるわけがない。自覚はなかったが、俺も相当ブラコンだった。


(初出2009年)

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右手左手(3/4)

2020.10.27.Tue.


 ばあちゃんが亡くなったのはその翌年だった。夕食のあと急に倒れ、病院に運ばれたが一時間後に死亡した。心筋梗塞だった。俺も兄貴も泣いた。両親の時と違って死を理解できるようになった有は、ばあちゃんの遺体に泣き縋った。それを押し止めるのは大変だった。有はおばあちゃん子だった。

 爺さんは気丈に振舞おうとしていた。医者や看護師に礼を言ってまわり、家に戻ると早々に葬儀屋の手配をした。そんな爺さんを俺も兄貴も冷酷非情だと思っていたが、火葬が終わった時、爺さんがばあちゃんの小さい骨をすばやく手の中に隠し、それを誰にも見られないようにこっそり財布の中に入れたのを見た時は、その認識を少し改めた。

 ばあちゃんが早くに死んだのは間違いなく爺さんが無茶を押し付けてきたせいだ。我侭で頑固で偏屈な爺さんの伴侶として長年神経をすり減らしてきたからばあちゃんは死んだ。その考えにかわりはないが、爺さんは爺さんなりにばあちゃんを愛していたのだと、それだけは認めた。愛していたならもっと大事に出来なかったのか、そんなことを思っても、いまさら遅い。

 ばあちゃんがいなくなってから、家は前よりさらに静かに、陰気になった。有はしばらく泣いて過ごした。そんな有を見て爺さんは怒り狂った。兄貴は仕方なく有をぶって黙らせた。有はますます兄貴から距離を取るようになった。態度もよそよそしくなり、口調も他人行儀になった。そう兄貴が躾けた。この頃から兄貴は笑わなくなっていた。

※ ※ ※

 ばあちゃんが他界して三年が経った。ボーイスカウトは有が中/学生にあがるときに辞めた。部活動をさせるために爺さんが辞めさせたのだ。最近の爺さんはすっかり弱っていた。ばあちゃんに先立たれ、生きる気力を失ってしまったのかもしれない。体も痩せ細り、毎日していた散歩を休みがちになった。冬には体調を崩し一時入院した。俺と兄貴が交代で病院に通った。

 兄貴は就職し社会人、俺は大学生だった。俺も働くと言ったが兄貴が頑として許してくれなかった。

「俺が働けば二人の給料で有も養っていける。この家を出よう」
「出て行きたいなら一人で行け。俺は有とここに残る」

 兄貴はにべもなくそう言った。兄貴の決意はかわらない。俺は諦めて進学した。俺のためを思ってのことだとわかっていても、俺はその時、悔しくてたまらなかった。両親を失ったあの日から兄貴は俺たちの父親だった。そして俺はいつまでたっても弟であり息子だった。少しは一人前と認めて頼って欲しい。いつまでも子供じゃない。初めて兄貴に反感を抱いた。

 有は陸上部に入った。部活動のため、門限は20時に延ばされた。部活が終わると有はまっすぐ家に帰ってきた。靴をそろえて家にあがり、居間の爺さんに「ただいま戻りました」と報告し、子供部屋にやってくる。制服を着替えると、夕食の手伝いをし、夕食のあとは勉強をした。昔の子供の無邪気さはもうなかった。

 優秀な成績で中学を卒業し、大学付属の高校に有は進学した。爺さんはたいへん満足していた。部活には入らなかったが有は生徒会の役員になった。爺さんは、ボーイスカウトで協調性と自立心を育てた成果だと自分の判断が正しかったと悦に入っていた。

 しかし有には高校生らしさが少し欠けていた。携帯電話を欲しいと自分から言わなかった。俺が最初に兄貴に進言し、兄貴が有に欲しいか確認を取った。有は必要ないと断った。年頃の男の子が携帯を持っていないのは問題じゃないかと俺と兄貴で話し合い、結局持たせることにした。有は渡された携帯電話を見て「ありがとう」と遠慮がちに笑った。

 有はあまり友達と遊ばなかった。高校生の男子が今時門限20時なのだから、遅くまで遊べずに付き合いが悪くなるというのならわかるが、それとは関係なく、友達自体あまりいないようだった。

 たまに学校の話を聞くが、出てくる名前はいつも限られている。中でもよく出てくるのが、同じ生徒会のサンジャイ君だ。学年は一つ上だが、サンジャイ君は有と同じボーイスカウトの隊にいた子で、有を心配するあまり、弟のことをよろしく頼むと兄貴が頭をさげた相手だ。

 小さい頃から付き合いがあり、有のこともよくわかっているサンジャイ君がそばにいてくれるのは、俺たち兄弟としても心強かった。だが同じ年の子たちとももっと積極的に交流を持って欲しいという心配もあった。

 だから、有が二年生になった春、学校が休みの土曜日に、友達とバスケの練習試合を見に行くと言われた時は嬉しかったものだ。その時もサンジャイ君絡みだったが、一緒に見に行く相手が同じ二年生だったのだ。

 有を送り出したあと兄貴が話しかけてきた。

「有はバスケ部に入ったのか?」
「違うよ、サンジャイ君の練習試合を見に行くんだってさ」
「一緒に行くのは誰なんだ?」
「最近知り合った木村君っていう子。どんな子なのか聞いたら、よくわからないって難しい顔してたよ」
「そうか」

 と兄貴は小さく頷いた。

 有は何かあると真っ先に俺に言ってくる。相談事も俺にしてくる。兄貴はそのあとか、何も話されないかだ。その時は俺から報告しておいた。父親役を自任しているから納得済みかもしれないが、本当はそれをとても寂しく思っているはずだ。小さかった有が大きくなっても、兄貴のブラコンはなおっていない。

 有に友達が出来たと喜んだのも束の間、夏休みに入ったというのに有は遊びに出かけなかった。木村君と仲良くしているのか聞いてみると「もう関係ないんだ」と暗い顔で答えた。

「喧嘩したのか?」
「喧嘩……にもならなかった。俺の勘違いだったみたいなんだ」

 と寂しそうに笑う。

「お互いなにか誤解があるんだよ。仲直りしたい気持ちがあればまた元に戻るよ」
「そうかな」
「そうさ」

 頭をくしゃくしゃと撫でたら、有ははにかんで目を伏せた。

 有の様子がおかしい、と兄貴が俺に言ってきたのは、その一ヵ月後だった。夏休みが終わった頃から、有は目に見えて元気がなかった。それは俺も気になっていた。

「なにがあったか聞いてないのか?」

 直接本人に聞かず、俺に聞いてくる。

「前に友達と喧嘩したみたいだけど……、それが原因かな」
「喧嘩であんなに落ち込むか? 好きな子に振られたとかじゃないか?」
「好きな子が出来たとは聞いてないよ」

 高校生がわざわざ兄弟に好きな子がいると報告するわけがないのに、この頃の俺たちはそれがあると信じて疑わなかった。俺たちの中では、有はまだ子供だったのだ。

「本当に喧嘩しただけか? いじめられてるんじゃないだろうな?」
「わかった、有と話してみるよ」

 心配顔で兄貴は頷いた。

 その夜、勉強机に向かう有に声をかけた。

「その後、木村君とはどうなんだ?」

 有は「木村」という名前を聞いた一瞬、傷ついたような顔をした。

「まだ仲直りできてないのか……」

 有は黙って頷いた。暗い表情だった。

「開兄ちゃんが心配してたぞ」
「兄さんが?」

 伏せていた目をあげた。最近、有は兄貴のことを「開兄ちゃん」と呼ばず、「兄さん」と呼ぶ。兄貴は何も言わないが、前みたいに呼ばれたいと思っているはずだった。現に、有からはじめて「兄さん」と呼ばれたとき、わざわざ俺に言ってきたくらいだ。俺が今まで通り「礼兄ちゃん」と呼ばれていると知ると、静かに落ち込んでいた。

「有が女の子に振られたんじゃないかって言ってたよ」
「そんなんじゃないよ」

 否定する有の顔が少し赤くなった。

「好きな子とかいるの」
「い、いないよ、そんなの」

 ますます赤くなる。有は俺たちに嘘をつかない。その大前提があるので俺は有の言葉を信じた。

「仲直りしたいなら勇気も必要だよ」

 しばらく考えてから有はコクンと頷いた。

 有の表情が明るくなったのは、それからすぐ、文化祭が終わった直後からだった。どうやら仲直りできたらしい。俺と兄貴はほっと胸をなでおろした。

 二学期の終わりの生徒会選挙で、有はまた、副会長になった。

「生徒会長になった木村に指名されたから、仕方なく」

 有はなぜか赤い顔で言った。とにかく木村君とは仲良くやっているようで安心した。

「どうして二年連続副会長なんだ。どうして会長に立候補しないんだ。情けない奴め」

 爺さんは気に食わないようでしばらく有を責め続けた。有は「すみません」と項垂れた。物心つく前から爺さんのそばにいたからか、有は爺さんへの反抗心は一切持っていなかった。何を言われても「すみません」「わかりました」「ありがとうございます」だった。品行方正な有は、この頃にはもう、爺さんから怒鳴られ、折檻されることもなくなっていた。それは兄二人をとても安堵させた。

 冬休みに、有は木村君の家に泊まりに出かけた。有の外泊は初めてのことだ。俺は喜んでいたが、兄貴があまり快く思っていないのは険しい顔つきでわかった。

「いいことじゃないか。有は真面目すぎる。たまには夜遊びだってさせてやるべきだよ」
「そんなことはわかってる。粗相をしないか心配なだけだ」

 と、ぶすっと答える。

「大丈夫、有はどこに出しても恥ずかしくない子だよ。兄貴の教育の賜物だね」

 褒めたつもりが、兄貴の目元に暗い影が落ちる。

「それは厳しくしてきた俺を責めてるのか」

 弱った声で兄貴が言う。慌てて否定した。

「そんなことない。兄貴が有に厳しくしたのは爺さんから守るためだ。それは俺が一番よくわかってる。嫌味に聞こえたなら謝るよ、ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。兄貴には感謝してるんだよ」
「あいつはどうだろうな」

 ポツリと呟いた。有はどう思っているのか。

「有だってちゃんとわかってるよ。なぁ、兄貴、もういいんじゃないか?」
「何がだ」
「もう有につらくしなくてもいいんじゃないか? 最近爺さんが有を殴ることはないし、また前みたいに優しくしてやってもいいんじゃない? 有もそれを望んでると思うよ」

 兄貴は俯いて考え込んだが、しばらくして顔をあげ、フッと自嘲するように笑った。

「今更戻れない。有とどう接していたか、それも忘れてしまったんだ。俺にはもう出来ない」

 無意識に、兄貴の額の傷を見ていた。有のかわりに爺さんのステッキで殴られた傷。あの時から、兄貴は弟を守るため憎まれ役になり、有に厳しくしてきた。言いたくないことを言い、したくない体罰も与えてきた。あの時つけた仮面が、今では兄貴の本当の顔になってしまっていた。演じ続けるのが長すぎたんだ。

「ほんとに、兄貴は損な性格してるね」
「損をしていると思ったことはない」

 俺を安心させるためか兄貴は微笑んだ。兄貴の笑い声をもう長く聞いていない。


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右手左手(2/4)

2020.10.26.Mon.
<1>

 有が小学四年生になると同時に、爺さんが有をボーイスカウトに入隊させた。

「こいつは根性がない。いつも上の兄共を頼って甘えているせいだ。一人で生きて行く強さも知恵もない。ボーイスカウトに入れて自立心を養わせる」

 という理由らしい。爺さんの言うことにも一理ある。確かに俺たちは何かと有を構いすぎるところがある。両親の記憶をほとんど持たない弟が不憫に思えるせいだろう。ボーイスカウトに入り、新しい世界、新しい人間関係を築くのは有にとってはいいことだ。俺はそう思っていたが兄貴はそうじゃないようだった。

「爺さんは何を考えているんだ。あいつは人見知りがひどいんだ。新しい環境に入れられたら楽しむ前にストレスでやられちまう。あの西洋かぶれは、イギリスでボーイスカウトに親切にされたことが忘れられないだけだろ。自分の理想を孫に押し付けるな」

 腹立たしそうに声を荒げ、爺さんがいる居間のほうを睨み付けた。

 爺さんは若い頃、しょっちゅう外国へ行っていたそうで、その話を俺たちは何度も聞かされた。イギリスに行った時、大きな鞄を持ってキョロキョロしていたら男の子が近づいて来て「どうしたんですか?」と声をかけてきたそうだ。宿泊するホテルの場所を探していると言うと、少年がそこまで案内してくれた。どうしてこんな親切をしてくれるのかと聞くと、人の役に立つことをしなさいとボーイスカウトで教えられたからだと少年は言った。爺さんはいたく感動し、年を取った今でもそれを忘れられないでいる。爺さんが有をボーイスカウトに入れると言い出したのは、この出会いがあるからに他ならない。

「でも新しい友達が出来るのは有にとってもいいことだよ」

 俺が言うと兄貴に睨まれた。

「爺さんの味方をするのか」
「そうじゃないよ、兄貴、有は確かに俺たちに甘えすぎるところがある。甘やかす俺たちが一番いけないんだろうけど、自分の世界を広げるのは有にとっていい事だよ」

 おまえたちも外国へ行って視野を広げろ、日本という狭い島国だけで人生を終わらせるな、それが爺さんの口癖だ。有にとってボーイスカウトは視野を広げ、自立心を育てるいい機会だ。

 兄貴は不服らしく険しい顔をしていたがそれ以上なにも言わなかった。動機はどうあれ、今回ばかりは爺さんのやることに反対する理由がないと悟ったのだろう。過保護を自覚している兄貴には苦渋の決断だったろう。

 ボーイスカウトのことを有に伝えると、意外にケロリとした顔で「わかった」と言った。それでも心配だったので、初日は俺と兄貴の二人で有を集合場所まで送った。

 心配性の兄貴は、有が入った隊の一人をつかまえ、弟のことをくれぐれも頼む、目を離さずに見てやってくれ、と頼み込んでいた。小/学生に頭をさげる兄貴を見ているのは少し恥ずかしかった。戻ってきた兄貴にそれを言ったら「あいつがいじめられでもしたらいけないだろ」真面目な顔で反論された。

 帰りも一緒に迎えに行った。俺たちを見つけた有が駆け寄ってきた。

「どうだった?」

 俺の腰にしがみつく有に声をかける。有は少し疲れた顔をしていたが、笑って「楽しかった」と答えた。俺たちの心配は杞憂だったようだ。

 有の送り迎えは俺と兄貴、交代でやった。そのために兄貴はできるだけ日曜のバイトを休むようにした。そのくせ有にはきつく当たる。爺さんが見ていない間くらい素直に優しくしてやればいいのにそれをしない。徹底した頑固さで有に厳しくし、そのあと自己嫌悪して落ち込んでいた。

 有はボーイスカウトの活動を楽しんでいるようだった。家にいても、気難しく、折檻を与えてくる爺さんに怯えて過ごさなければいけないから、外で同じ年齢の子たちと駆け回っているほうが楽しいのだろう。内気だった有がだんだん活発になっていくのは兄として嬉しい光景だった。はじめは反対していた兄貴も今では入れてよかったと言うようになった。

 一年が経ったある日曜日、その日はバイトが休みで兄貴も家にいた。部屋で俺は読書、兄貴は勉強をしているときだった。家の電話が鳴った。ばあちゃんが出て、血相変えて部屋にやってきた。

「有が怪我したって! 迎えに来て欲しいんだって!」

 最後まで聞かずに兄貴が家を飛び出した。俺はばあちゃんと家で待った。二時間以上経ってから兄貴が電話をしてきた。

『礼、悪いけど、有の保険証とお金、俺の着替えを持って病院まで来てくれ』
「病院って……、有、大丈夫なの?」
『足を数針縫ったくらいでたいした事はない。有も今は落ち着いてるから安心しろ』

 その言葉にひとまずホッとした。言われた物を持って急いで病院に向かう。待合室で二人を見つけた。有は椅子に座り、兄貴は腕を組んでそばの柱にもたれて立っていた。

「これ」

 と着替えを渡す。受け取る兄貴のシャツは血で赤く染まっていた。驚く俺に兄貴は苦笑いを浮かべた

「有を抱えて病院に行ったんだ。その時に血がついた」
「そんなに血が出たの?」
「木の枝で足を切ったらしい。出血は多いが、それほど深い傷じゃない」

 有に視線を移した。神妙な顔で俺たちを見ている。たいへんな騒ぎに罪悪感を感じているのかもしれない。

「しばらく外で遊べないな。兄ちゃんが遊んでやるからな」

 俺が笑うと、有も頷きながらニコッと笑った。

「痕は残るの?」
「縫ったところは残るだろうな」

 白い包帯が痛々しい。有を見る兄貴の顔が辛そうだった。

 病院から帰ると、爺さんが俺たちを居間へ呼びつけた。爺さんは有を心配するどころか逆に叱りつけた。

「どうせお前がぼんやりしていたせいだろう。まわりの人に迷惑をかけるなんてとんでもないことだ」

 包帯を巻いた足で有に正座をさせ、説教が始まった。兄貴が間に割って入った。

「邪魔だ、どけ!」

 爺さんが怒鳴る。

「僕がこいつに言って聞かせます」

 爺さんの剣幕にひるむことなく兄貴が冷静に言う。俺は有の横に座ったまま、兄貴の背中を見つめた。

「お前では駄目だ。お前らはすぐこいつを甘やかす。そんなことだからこいつはいつまで立っても半人前なんだ」
「僕が責任を持って一人前にします。来い、有」

 振り返った兄貴は有の腕を掴んで引っ張り立たせた。まごつく有の体を抱え、爺さんの制止を無視して居間を出て行く。俺も慌ててあとを追った。

 子供部屋に入ると、兄貴は有の体をそっとおろした。有が不安な顔で兄貴を見上げる。

「傷は痛むか」

 低い声で兄貴が問う。有は怯えたように小さく首を振った。兄貴は俺に向きなおると舌打ちし、顔を歪めた。

「これ以上なにを望むんだ、あの爺さんは」

 そう吐き捨てる兄貴の目は真っ赤だった。俺は兄貴が泣くのではないかと思った。兄貴は奥歯を噛みしめながら、深く呼吸し自分を落ち着かせようとしていた。

「傷が開いてないか見てやってくれ」

 俺は無言で頷いた。振り返った兄貴は、いつにも増して厳しい顔つきで有を見下ろした。

「傷が治るまでおとなしくしていろ。早く傷を治すんだ。わかったな」

 有は「うん」と小さな声で頷いた。

「うんじゃない、はいと返事しろと何度言ったらわかるんだ!」

 兄貴の怒鳴り声に有は体を震わせた。泣くのを必死に堪えながら「はい」と返事をする。俺はいたたまれない気持ちで二人を見守った。

「ボーイスカウトの委員の人たちに電話してくる。あとは任せた」

 自分の心も傷つけながら、兄貴は最後の一睨みを有に残し、部屋を出て行った。有の目には涙が溜まっていた。

「開兄ちゃんも怒りたくて怒ってるんじゃないんだよ。それだけはわかってあげような」

 肩を抱くと有が抱きついてきた。胸に顔を埋めてしゃくりあげる。その背中を手で撫でさすりながら、早く大人になりたいと強く思った。大人になって早くこの家を出て行きたい。俺より兄貴のほうがその思いは強いだろう。兄貴は大学には行かず、就職するつもりだった。爺さんもばあちゃんも進学を望んでいた。幸い、爺さんは人の金に手をつけない潔癖さを持っていたので、両親の生命保険はほとんど手付かずで残っている。進学する金はあった。それでも兄貴は就職を選んだ。もちろん早くこの家を出るためだ。

「俺も開兄ちゃんも、三人で仲良く暮らせるように頑張るからさ、有も頑張ろうな」

 泣きじゃくる有が俺の顔を見つめてくる。

「開兄ちゃん、俺の事嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「どうしてあんなに怒るの」
「有が大事だから怒るんだよ。開兄ちゃんだって本当は優しくしたいんだ」
「優しくない。前の開兄ちゃんがいい」

 また声をあげて泣き出した。首にしがみついてくる有を抱きしめ、落ち着くまで背中を撫でてやった。無力な俺には、そんなことしかしてやれない。



秘め婿(1)

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右手左手(1/4)

2020.10.26.Mon.
※一ノ瀬兄弟の次男目線、子供への折檻、暴力描写あり、エロなし、BLでもない

 両親が交通事故で亡くなった時、兄の開は一度も俺たちの前で涙を流さなかった。まだ9歳だったのに、これから下の弟二人を自分が守っていかなくてはならないと、そういう使命感を自覚していたのだろうと思う。

 二つ下の俺は、まだ二歳にならない弟の有の子守をしながら、奥の座敷で声を殺して泣いた。

 俺たち三人兄弟は祖父母の家に引き取られた。世界にたった三人きりの家族。俺たちは運命共同体だった。

※ ※ ※

「有は?」

 高校から帰ってきた兄貴の開が、制服をハンガーにかけながら俺に訊いてきた。俺は見ていた雑誌から顔をあげ「寝てる」と答えた。

「学校から帰ってきて靴の脱ぎ方が少し雑だったからって爺さんに叩かれた。今はばあちゃんとこで泣き疲れて眠ったよ」
「そうか」

 暗い顔で兄貴が頷く。爺さんの暴力のような体罰は日常茶飯事だ。俺も兄貴も手加減なく何度も殴られ蹴られてきた。まだ小/学生の有にも容赦がない。俺たちは爺さんが嫌いだった。

「礼、迎えに行って来いよ」

 服を着替えて兄貴が言う。

「まだいいんじゃない、寝てるんだし」
「いつまでもばあちゃんとこに寝かせておくわけにはいかないだろ。ばあちゃんも家の仕事があるんだし」
「だったら兄貴が行って来いよ」
「俺が行くより、お前が行ったほうが有は喜ぶからな」

 と寂しそうに笑う。本当は七歳離れた弟が可愛くて可愛くて仕方ないのだ。自分で迎えに行きたいのに行けない。兄貴は損な性格をしている。

「もう少ししたら迎えに行くよ」
「頼む」

 兄貴が前髪をかきあげた。左の眉の上に傷跡が見えた。去年の秋に出来た傷。

 ※ ※ ※

 爺さんの体罰は近所でも有名だった。近所の人から俺たちは、両親を亡くし、暴力的な祖父に引き取られた可哀相な子供たちと認識されていた。

 ある日、有が17時の門限を破って帰ってきたことがあった。爺さんは近所中に聞こえる大声で有を怒鳴りつけ、足蹴にして表に追い出した。家の前の小さい川に突き落とし、そこで反省していろと言う。

 寒い秋の夕暮れ。有は体を震わせ、泣きじゃくった。

 騒ぎを聞きつけた近所の人たちが、心配そうに有と爺さんを見る。

 ばあちゃんがオロオロして、爺さんを止めようと声をかけるが、爺さんは人の言葉に耳を貸すような人じゃない。

 爺さんの暴力が怖くて、中学一年だった俺は黙って見ていることしかできなかった。その時、兄貴が学校から帰ってきた。

 川にずぶ濡れの有が震えて立っているのを見て、血相かえて俺にわけを聞いてきた。俺から事情を聞いた兄貴は歯軋りして爺さんを睨み付けた。俺はこの時はっきり、兄貴の全身から殺意が沸き立つのを感じた。

 いつまでも泣きやまない有に腹を立てた爺さんが、西洋かぶれで持っているステッキを振り上げた。殴られる。見ていた皆がはっと息を飲んた。

 が、振り下ろされたステッキは有ではなく、兄貴の額に打ちつけられた。兄貴が咄嗟に前に飛び出して有を庇ったのだ。額が切れて血が流れ落ちる。兄貴は流れる血に左目を瞑りながら爺さんを見据え、

「あとは、長男の僕が有を躾けます」

 と低い静かな声で言った。

 兄貴の迫力に爺さんが一瞬たじろいたが、何か口汚く喚きたてながら家の中に戻った。

「開兄ちゃん……」

 自分を助けてくれた兄貴の腰に有が抱きついた。兄貴はその腕を払い、振り向きざまに有の頬を打った。近所の人も俺も、兄貴のしたことに驚いた。

 兄貴は他の誰が見てもわかるほど末っ子の有を甘やかし可愛がっていた。爺さんの体罰という名の暴力から守るために、身代わりになって殴られたことは一度や二度じゃない。泣きじゃくる弟を優しく抱きしめ「恐くない、もう大丈夫だ」と慰める、それが兄貴だった。兄貴が有に手をあげるところなんて一度も見たことがない。

「これからは俺が爺さんのかわりにお前をぶってやる。ぶたれたくなかったら、ちゃんと時間通り帰って来い、わかったな!」

 爺さんに負けない剣幕で有を怒鳴った。こんな兄貴を見るのは初めてだった。

 有は寒さで白くなった顔を更に白くして、今朝までは優しかった兄貴の突然の豹変振りに言葉をなくしていた。無理もない、俺だって兄貴の頭がおかしくなったと思ったくらいだ。

「開兄ちゃん……」

 震える手を兄貴に向かって伸ばす。兄貴はその手首を掴んで乱暴に川からひっぱりあげ、ずぶ濡れの有を俺に向かって突き飛ばしてきた。

「風呂に入れてやれ」

 大きな苦痛を我慢しているような顔で言う。

「どうしたんだよ、兄貴」
「いいから早く入れてやれ!」

 怒鳴って俺たちから背を向けた。集まってきた近所の人たちに向きなおり、頭をさげる。

「お騒がせして済みません」
「開君、血が……」
「平気です、本当にすみませんでした」

 深く頭をさげる兄貴を横目に、俺は有を連れて家に入った。兄貴の言う通り有の体は冷え切っていて、このまま外にいたら風邪をひかせてしまう。今は早く風呂に入れてやる方がいい。

 風呂場で服を脱ぎながら、有が涙をこぼした。

「開兄ちゃん、俺のせいで怪我した」
「有のせいじゃないよ」
「開兄ちゃん、怒ってた」
「あれは有に怒ったんじゃないよ」
「本当に?」
「うん、でもこれからはちゃんと門限を守って帰ってくるんだよ」
「わかった」

 一緒に風呂場に入り、有の体を洗ってやった。

 今更ながら、兄貴の考えていることがわかってきた。

 爺さんのかわりに有を叱ることで、有を爺さんから守るつもりなんだ。爺さんの体罰は小/学生の有にはきつすぎる。だから長男の自分が有を躾けると憎まれ役をかって出たんだ。弟想いの優しい兄貴には辛い役割だ。

 風呂から出ると、ばあちゃんが兄貴の傷の手当を終えたところだった。

「傷、どうなの」
「病院行ったほうがいいって言ったんだけど……」

 と兄貴を見上げる。兄貴は強張った表情で「大袈裟にしないで」と言った。

「開兄ちゃん、ごめんね」

 俺の腰に抱きついた有が背後から言う。

「同じことをしたらまたぶつからな」

 冷たく言い放ち、兄貴は部屋に戻って行った。傷ついた顔をした有を俺とばあちゃんとで慰めた。

 この日から兄貴は有に冷たくなった。最初は兄貴の豹変振りに戸惑いつつも以前のように話しかけていた有だったが、そのたび冷淡にあしらわれ、時に叱られたりしたので、兄貴が怖くなったのかあまりはなしかけなくなった。兄貴と二人きりでいると、俺かばあちゃんを探して部屋を出るようにさえなった。

「あそこまで厳しくすることないんじゃない」

 いつか兄貴に言った。

「なんのことだ」
「爺さんから守るために有にきつくしてるんだろ。あいつ、最近爺さんと同じくらい兄貴に怯えてるよ」
「それでいい。そうじゃないと爺さんがまた有を殴るからな。小学二年の有をステッキで殴ろうとした奴だぞ、これぐらいやらないと納得しないさ」

 自虐的に笑った兄貴から、また殺気が立ち昇るのを感じた。兄貴は俺が思う以上に色んなことを感じ、我慢してきたのだと気付く。

 俺だって爺さんは憎い。でも兄貴のそれは俺以上だ。それだけ、弟二人が痛めつけられるのを見てきた傷が深いということだろう。

「傷、残っちゃったね」

 額の傷跡を指差して言った。兄貴は隠すように手で押さえた。

「有には何も言うなよ」
「何って何を」
「何もかもだ。俺が憎まれ役になるから、お前はあいつをフォローしてやってくれ」
「兄貴はそれでいいの」
「これがお前たちを守る一番いい方法なんだ」

 兄貴は伸ばした前髪で、傷と本心を隠した。



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ありがとう(2/2)

2020.10.25.Sun.
<前話>

 いつの間にか僕は中/学生になっていた。前と違う制服に身を包み、前と違う学校へ通う。担任の先生が僕に何かと話しかけてくる。バスケ部の顧問で、僕を部に誘ってくる。とりあえず見に来てくれと放課後、体育館へ連れて行かれた。興味を持てなくて僕は体育館の床ばかり見ていた。

 強制的にバスケ部に入れられた。まずは基礎からとドリブルの練習をひたすらさせられる。体育館を何周も走らされた。体力のない僕はみんなについていくことが出来なかった。他の一年生は上級生たちから怒鳴られたりしごかれたりしていたが、僕にはそれが一切なかった。落ち零れなのに、と不思議に思いながら、体を動かす気持ち良さを味わい、僕は一人、満たされていた。

 バスケ部の練習があった日の夜は気絶するように眠った。部屋の隅を見る暇もなかった。思い出しもしなかった。その頃から虫たちの音が小さくなっていた。

 朝、早くに目が覚めると僕はベッドを飛び起きた。じっとしていられなくて、制服に着替えると学校に行った。早く来すぎて門は閉まっていた。それをよじ登り、中に入って体育館へ向かった。体育館も当然閉まっていた。早く練習がしたかった。

 その日の放課後、僕はスポーツ用品店でバスケットボールを買った。これで毎日練習出来る。家のガレージでドリブルの練習をしていたら、ある日学校から帰ってくるとガレージの奥にバスケットゴールが設置されてあった。僕はシュートの練習を始めた。

 なかなかうまく入らない。ボールが充分に入るリングの大きさなのに、どうしてリングに弾き返されてしまうのか。本屋に行き「バスケットボール入門」というDVD付きの本を買った。何度もそれを読み、何度もDVDを見た。

 体を動かすのは僕には未知の感動があった。新しい方程式を覚え、今まで解けなかった問題を解いた時のような、一瞬味わえる、疲弊を伴う感動ではなく、僕自身の体を使ってヘトヘトになるまで粗野に動き回る、純粋な運動に対する感動だった。僕はそれに夢中になった。虫の声を聞くことも、思い出すことも少なくなっていた。

 家の近くに、バスケットゴールを一対設置した公園を見つけた。僕はそこで練習を始めた。何度練習しても失敗する。一度間違った問題は二度と間違えたりしなかったのに、バスケットだけは思い通りにいかない。それがまた、僕を喜ばせた。

 学校の授業になると、僕の耳はまた虫たちによって塞がれた。声が聞こえなくても黒板の文字を見ればだいたい何をしているのかわかる。ノートに書き止めていると文字が動き出した。虫の仕業だ。文字はニョロニョロ体をくねらせながらノートの上を移動し、机から飛び降り、ぞろぞろ教室から出て行く。文字の大行進を見ていたら可笑しくて笑えてきた。隣の席の奴はそんな僕を見て顔を強張らせていた。こいつにはこれが見えないんだろうか。こんなに楽しいパレードなのに。

 ~ ~ ~

 今日は朝から雨だった。大粒の雨が大量に空から降り注ぐ。雨音と虫のざわつく音は少し似ている。最近、すっかりおとなしくなった虫たちは、その力が弱まっているようだった。そろそろ寿命なのだろうか。僕は虫たちを心配した。

 集中豪雨を降らせた雨雲が風に押し流され、四時間目が始まる前に雨はあがった。雲の切れ間から太陽の光が差し込む。今日、バスケ部の練習が休みだったことを思い出し、僕はボールを持って学校を出た。

 いつもの公園で練習をしていると男が三人、やってきた。

「中坊が学校サボッて何してるんだ」

 と一人が言う。

「俺たちにボール貸せよ」

 別の一人が言った。首を左右に振るとまた違う一人が僕の手からボールを取り上げた。途端、僕の頭の中で虫たちが一斉に騒ぎ出した。あまりのうるささに顔を顰めた。

「返せ……あいつらがうるさい……」
「なん…って…………に……って……が………言って……!」

 虫の鳴き声と、僕の頭をひっかきまわす音で、男が何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。

「うるさいから静かにしてくれ……」

 虫に向かって言った言葉に男たちは形相をかえた。僕の胸倉を掴み何か怒鳴っている。虫たちがギャアギャア騒ぐので、何を言っているのかさっぱりわからない。

「ボールを返せ。お前たちのせいで頭が割れるように痛むんだ」

 目の前の男が残忍に笑った。次の瞬間、僕はその男に殴られていた。その衝撃で地面に倒れこむ。腹に男の靴の先がめり込んだ。胃がせりあがり、ゲェッと音を立てて中身を吐き出した。その中に虫たちが混じっていた。ビクビクと悶え、やがて動きが弱まり、虫は息耐えた。それを見て僕は正気でいられなくなった。男たちに掴みかかり、生まれて初めて人を殴った。その後、三人から気を失うまで殴られ、蹴られた。

 痛みで目を覚ました。男たちはいなくなっていた。体を起こすとあちこちが痛んだ。座りこんでぼうっとしていたら、目に何か液体が流れ込んできた。手で拭うと赤い血だった。こんなに鮮やかな赤を見たのは久し振りのような気がする。黒い血じゃなくて良かったと安心しつつ、ガクガク震える膝に手をついて立ち上がった。鞄とボールを拾いあげ、今日は帰ろうと出口へ向かった。たいした高さのない階段で尻餅をついた。ボールが転がって離れていく。

「大丈夫か」

 低く擦れた声に顔をあげる。また別の男が立っていた。制服から高校生だとわかった。今まで聞いた事のない声で虫たちが騒ぎ出す。不安がっているようだ。こいつから離れよう。立ちあがろうとしたが、手にも足にも力が入らない。

「来い、すぐそこだから手当てしてやる」

 男は僕の腕を掴んで引き上げた。首を横に振って断ったが、男はそれを無視して、強い力で僕の腕を引いて歩いて行く。しばらく行った先の店のシャッターをあけて中に入った。二階に連れ込まれ、傷の手当を受けた。

「終わりだ」

 男が言う。人から親切にされたことに僕は敗北感のようなショックを感じた。こんな風に他人と関わるのはとても久し振りで戸惑う。親切を受けたら礼を言う、と小さい頃教わったことを思い出し、遠慮がちに頭をさげた。

「お前、何年だ」

 男は煙草を咥えて火をつけた。煙草は二十歳にならなきゃ吸っちゃいけないはずだ。日本の法律を思い出しながら、僕は人差し指を立てた。

「一年か?」

 無言で頷いた。

「いじめられてんのか?」

 首を横に振った。

「口ん中、怪我したか?」

 違う。首を振る。

「名前は?」

 僕の頭の中で虫たちが悲鳴のような鳴き声をあげる。黙れ。頭の中で命令すると、虫たちの声は小さくなった。ポケットから生徒手帳を取り出し、男に見せた。

「木村……論?」

 頷く。

「ロンか、なぜしゃべらないんだ」

 虫たちがしゃべらせてくれないんだ。この人にはそれを知られたくなかった。だから黙って目を伏せた。「まぁ、いいけどな」と男は床に寝転がる。目線が僕から逸れた。僕は座っていたベッドからおりて男の横に腰をおろした。煙草を吸う口元をじっと見ていたら「吸いたいか?」と聞いてくる。いらない、と断りかけ、思いなおして頷いた。

 男が吸っていた煙草を受け取り、恐る恐るそれを口に運ぶ。男の唾液で少し湿っていたが不快ではなかった。深く吸い込むと、僕の中の虫たちが煙にあぶられ弱々しいうめき声を発した。

「うまくないだろ」

 男の言葉に僕は頷いた。うまくはない。むしろマズイ。だけどなぜか、いやに特別なものに見えてくる。煙草の先のオレンジの焔。こんな色は初めて見た。

 男の名前は瀬川鉄雄といった。口の中で何度もその名前を繰り返し言ってみた。それに抵抗するように虫たちが僕の中で騒ぐ。弱々しい声はすぐ封じ込めることが出来た。

 力関係は僕の方が上になっていた。鉄雄さんのそばにいると虫たちの力は弱まるようだった。まわりの音を掻き消そうと虫たちが足掻くが、鉄雄さんの声だけはクリアに聞き取る事が出来た。鉄雄さんの声を聞き逃したくないと集中すると、虫の発するノイズが消えるのだ。逆に、このまま消してしまっていいのだろうかと不安になる。

 虫の音が消えるということは、これまで聞かなくて済んできた音も全部聞かなくてはいけなくなるということだ。僕を押しつぶそうとする母さんの声。僕を拒絶する父さんの声。僕を傷つけようとする家庭教師の声。僕を否定するクラスメイトの声。その全部に、僕はこれから先、正気を保って耐えていけるだろうか。

 その日の夜、僕は不安で寝付けなかった。引っかいた傷がいつまでもジクジク痛むように、鉄雄さんの声が僕の耳から離れないのだ。

 あの人は僕を傷つけるようなことを言わない。僕を追い詰めることも言わない。何かをしろとも言わない。擦れ気味の声で呼ばれる自分の名前が、こんなに心地よく聞こえたことは生まれて初めてだ。

 頭の隅で虫たちが怯えたようにカサカサ物音を立てていた。僕の心臓は、今まで感じた事のない高鳴りに震えていた。

 朝日が昇るのと同時に家を抜け出し公園に向かった。バスケの練習に集中する。余計なことを考えず、虫の鳴き声も聞かず、ボールの跳ねる音だけを聞いて体を動かしていた。何時間そうしていたのか。

「ロン」

 不意に、僕の鼓膜を揺らす声。いつの間にか鉄雄さんがコートに立っていた。

「こんな朝早くから練習か」

 クリアに聞こえる鉄雄さんの声に恐怖すら覚えながら黙って頷く。

「ボール貸してみ」

 鉄雄さんが手を出してくる。ボールを投げて渡した。鉄雄さんはリングに向かってシュートした。ボードにも届かず地面に落ちる。鉄雄さんは意地になって何度もシュートを打つ。ようやくゴールを決め、得意げな顔で僕を見る。僕もつられて笑っていた。

 こんなふうに人に笑いかけるのなんていつぶりだろう。やっぱり違う。鉄雄さんは他の誰とも違う。不思議だ。昨日知り合ったばかりの人に、こんなに惹きつけられる理由がわからない。わからないから不安になる。その不安を取り除きたくて、原因をつきとめようとすればするほど、この人に惹きつけられる。僕はこの人を手に入れたい。虫を失っても、煩雑な物音を全部聞くことになっても、僕はこの人の声をひとつも聞き逃したくない。

「じゃ、俺帰るわ」

 鉄雄さんがコートを出て行こうとする。僕はその背中に呼びかけた。

「鉄雄」

 僕の体が軽くなっていく。虫が消滅していくのを感じる。それでも構わない。

 足を止め、鉄雄さんが振り返った。僕はもう一度名前を呼んだ。

「鉄雄」
「お前、今俺を呼んだか?」

 頷く。

「さんを付けろよ、中坊が」

 鉄雄さんが苦笑する。

 僕を支配し、時に僕を助け、時に僕を苦しめてきた虫たちは、部屋の隅にある暗闇の世界へ戻って行った。この時以降、虫たちの音を聞くことも、姿を見ることもなくなった。

 ~ ~ ~

 午前五時過ぎ、鉄雄さんの店の二階で、俺は酒瓶を片手に床に寝転がっていた。明日、学校は休み。酒でも飲むか、と鉄雄さんに誘われ、それが嬉しくて加減なく飲んでしまった。この店のバイトは今年の頭から始めた。俺がバイトを探していると言うと、ここでやればいい、と言ってくれたのだ。

「ロン、寝るならベッドで寝ろ」

 俺の手から酒瓶を取りあげ鉄雄さんが言う。ヘラヘラ笑う俺を見て溜息をついた。

「風邪ひくぞ、お前は、まったく」

 俺の腕を引っ張り、肩に担いで立ち上がる。感じる鉄雄さんの体温。甘えたい気持ちがわいて、わざともたれかかった。

「重いな……、無駄にでかくなりやがって」
「今は俺のほうが鉄雄さんよりでかいもんね」
「外に放り出すぞ」

 そう言いながら、鉄雄さんは俺をベッドにおろした。その腕を掴んで抱き寄せる。

「おい、ロン」
「一緒に寝ようよ」
「こんな狭いベッドじゃムリだ」
「平気だって、昔はよく一緒に寝たよね」

 鉄雄さんは無言だった。もしかして俺を警戒してるのかな。

「鉄雄さん、俺ね、いま、好きな奴がいんの。同じ学校の奴でね、寝ても覚めてもそいつのことばっかり考えてんの」
「あーそう、わかったからはなせって」
「俺がまともに人を好きになれたのは鉄雄さんのおかげだよ。鉄雄さんに会わなかったら、きっと俺、ずっと一人きりのままだった」
「なに馬鹿なこと言ってんだ」

 鉄雄さんが俺を睨み付ける。どうして鉄雄さんは怒っているんだろうか。

「ごめん」

 嫌われたくなくて謝った。

「なに謝ってんだよ」
「鉄雄さんが怒ってるみたいだったから」
「怒ってねえよ」
「じゃあ一緒に寝て。いいでしょ。昔みたいにさ、久し振りに一緒に寝ようよ」
「ったくもう」

 昔から鉄雄さんは優しい。溜息をつきながら俺の横に寝転がる。背中を向ける鉄雄さんに背後から抱きつく。

「懐かしいね」
「まあな」
「ありがとう、鉄雄さん」
「ん」

 人を好きになる感情を教えてくれて、本当に、ありがとう。


(初出2008年)

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ありがとう(1/2)

2020.10.25.Sun.
※虫・閲覧注意、エロなし、木村が病んでます

 眠れないんじゃない。眠らないんだ。僕は天井の四隅をじっと見つめる。真夜中。部屋は真っ暗。角の集まった部屋の隅に目を凝らす。そこだけは、どんなに目が慣れても、はっきり見る事が出来ない真の暗闇が凝縮されていた。だから僕はそこを見てやろうと、躍起になって見つめ続ける。いや、見たいんじゃない。目が離せないんだ。その真っ黒い部分から、目を逸らすことが出来ないんだ。

 その暗闇が、不意に形を変えた。黒く、小さい、無数の生き物が、ざわざわとそこから溢れてきた。目の錯覚だと思った。瞬きせずに見ていた僕の目が疲れて見せる幻覚だ。蟻よりも小さい黒い点は、天井、壁へと、どんどん侵食し広がっていく。何千、何万という膨大な数で、僕の部屋を黒く塗りつぶす。

 僕の耳には、そいつらのザワザワと耳障りな音しか聞こえなくなる。すぐ間近で「カサカサ」という音を聞いた。そいつらは、とうとう僕のベッドにまでやってきた。カサカサ、カサカサ、と音を立て、近寄ってくる。チカチカ、という鳴き声を聞いた。仲間同士で話し合っているみたいだ

 僕は身動きせず、その話し声に耳を澄ませた。こいつらは何を相談しているんだろう。僕という獲物を前に、どこからどう攻めてやろうかと、その作戦会議でもしているのだろうか。僕は無抵抗にお前たちのなすがままになってやるからさっさと来いよ。僕の中身を食いつぶして、空っぽにしてくれ。それは僕の願いでもあるんだから。

 チキチキ。虫共が甲高い鳴き声をあげ、一斉に僕に飛び掛かってきた。細く、尖った足で体のあちこちを引っかかれ、鋭い牙が僕の皮膚を噛み千切る。僕の耳、鼻、口、目、臍、尻、尿道、全ての穴から、虫共が入り込んでくる。僕は不思議と痛みも感じず、虫によって体が膨らんで行く感じに、乾いた感動を覚えた。そうだ、もっと入って来い。

 薄い皮膚の下で、無数の虫がうごめいている。それを見ようと手を目の前に持って来たが、眼球にも虫が張り付いていて見ることが出来なかった。それが少し、残念だった。僕は真っ黒な塊になった。

 ~ ~ ~

 朝起きると、僕の体は元に戻っていた。でも頭の中にはザワザワと虫が這い回る音と、キチキチという鳴き声がたくさん反響していた。虫たちはすっかり全部僕の中におさまったらしい。

 鏡の前に立ちもう一度確認したが見た目は前と何もかわっていなかった。

「おはよう、論」

 僕の内部の異変に気付かない母さんが朝の挨拶をしてくる。僕も「おはよう」と返した。

「今日は運動会だからあなたは行かなくていいのよ。今日はずっとおうちでお勉強していればいいから。先生が朝から来てくださるから朝ご飯を食べたらお部屋に戻って」
「はい」

 椅子を引いて座る。テーブルに並ぶ朝食。見ていたら吐き気がした。駄目だ、今吐いたら、僕の口から虫が出てきてしまう。あいつらは何が好物なんだろうか。何を食べたら喜んでくれるだろうか。昆虫のイメージに近いから僕は果物を選んで食べた。歯で噛み切った瞬間、果汁が口の中に広がった。気持ち悪くて吐き出してしまった。それを見て母さんが顔を歪める。

「どうしたの、お行儀が悪い」
「ごめんなさい、腐ってます、これ」
「そんなことないでしょ」

 母さんが同じものを食べる。

「ほら、やっぱり。おいしいわよ、甘くて」

 僕の中の虫たちが、頭の中を引っ掻き回した。

「アアアァァ──ッ!! 痛いっ! 痛い、やめてくれ!」

 激痛に頭を押さえてうずくまる。虫たちが怒っている。あんなものを食べた僕に怒っている。

「もう食べない、食べないから、アァァッ……痛い、怒らないでよ、もう、食べないってば!」
「論、どうしたの、どこが痛いの? 誰もあなたを怒ってないじゃない」

 母さんは知らない。僕の中に支配者がいることを。

 虫たちは僕がすっかり服従したのを確認してからおとなしくなった。痛みが引き、あいつらのキチキチと言うも鳴き声おさまった。ヨロリと立ち上がり、テーブルの上の料理をチラと見る。それだけですっぱいものがこみ上げてきた。

「ご馳走様でした、もういりません」

 吐き気を堪えて言う。

「そう、だったらお部屋に戻りなさい。もうすぐ先生がみえるわ」

 母さんは取り乱した僕に驚いた様子で、恐々、僕の背中を押した。

 僕は部屋に戻り、勉強机に座って先生を待った。しばらくして先生がやってきた。いつもの家庭教師。

「前回の続きから」

 冷たく言って問題集を僕の前に広げる。僕はノートに解答を書いていく。チッ、チッ、チッ、という先生の腕時計の秒針が、今日はやけに耳についた。集中しようと思っても集中出来ない。

「先生、その音がうるさいので、腕時計を外してくれませんか」

 堪え切れずに頼んだ。先生は眉をひそめ、

「わからない問題でもあるのか?」

 と言う。

「違います、その腕時計の音が耳障りなんです、集中出来ないんです」
「これは私がいつもつけている時計だが。君は今までそんなこと一度も言わなかったじゃないか」
「今日は特別耳にうるさいんです、外してください、あいつらが怒り出す前に」
「あいつら?」

 先生が片眉をあげた。この人に僕の中にいる虫のことを言っても理解できないだろう。話すだけ時間の無駄だ。

「とにかく外してください」

 先生は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「わからない問題があるなら素直にそう言いなさい。人に教えを請うのは恥ずかしいことではないよ」

 この人は何を勘違いしているんだろう。僕は呆れて溜息をついた。先生の頬がひきつった。

「君、自分が人より優秀だと自惚れているね。確かに君はそこらへんの子供より出来のいい頭を持っているが、君の知らないことは世の中にたくさんあるんだ。だから私が君の家庭教師について教えてやっているんだ。だから私に教えてくださいと頼みなさい。無駄に時間を稼いでも問題は永遠に解けないんだよ」

 僕は先生の言っていることがさっぱり理解出来なかった。この人は僕に何かを頼んで欲しいのだろうか。僕は首をかしげ、先生を見上げた。

「じゃあ先生、教えてください」
「うん、なんだ、言ってみなさい、どの問題がわからないんだ?」
「部屋の隅から出てきた虫たちは何が好物なんですか? 朝、果物を食べたら怒らせてしまったんです。頭の中で怒り狂って、僕を苦しめるんです」
「何を言っているんだ、君は」

 満足そうに笑っていた先生の顔が怪訝に歪んだ。

「虫を飼っているのか? そんなもの捨ててしまいなさい。なんの役にも立たない」
「飼ってるんじゃありません。共生しているんです。あいつらは今、ここにいます」

 僕は自分の頭を指差した。先生が驚いた様子で立ち上がり、青ざめた顔で僕を見下ろした。

「君、何を……、私をからかっているのか……」
「とんでもありません。やっぱり先生じゃわからないんですね」

 先生の顔が今度は赤くなった。

「わ、私を馬鹿にするのか。私は君の家庭教師なんだぞ。なんだ、その反抗的な態度は」
「反抗なんてしてません。ほら、先生には聞こえませんか、あいつらが動き出した音が」

 僕は耳に手をかざした。僕の耳からあいつらのカサカサと動き回る音が外に聞こえないかと思ったからだ。先生はそんな僕を見て顔を強張らせた。

「待っていなさい、お母さんと話をしてくる」

 先生は足早に部屋から出て行った。僕の中の虫たちがキチキチ鳴く。笑っているような鳴き声だった。

 ~ ~ ~

 先生が帰った午後、僕は母さんの運転で病院に連れて行かれた。

 診察室の、ゆったりとした椅子に寝そべるように座らされた。大きな机の向こうに座る先生は、顔に笑顔をはりつけて、「リラックスして」と言う。

「僕、帰って勉強しなきゃなんないんだ」
「いいんだよ。今日はもう勉強はいいんだ。なぜここに連れてこられたかわかるかい?」
「さぁ、家庭教師の先生を怒らせたからかな」
「うん、君の頭の中にいる、虫のことについて聞かせて欲しいんだ」
「先生、信じるの、それ」
「信じているよ」

 嘘だ。虫たちの鳴き声が僕の頭の中で不協和音を立てる。不快な音に僕は冷や汗を流した。

「虫はね、嘘を見抜くんだ。先生のことが嫌いだって言ってる」

 カサカサカサ。カリカリカリ。キチキチキチ。だんだん音が大きくなってくる。痛みを感じて頭を抱えた。

「それは虫が言っているのかな、君が言っているのかな」
「虫だよ。痛い。先生が嫌いだって。痛い。虫が言ってる……痛い、先生、痛い……、あいつらが怒ってる。僕の頭の中で暴れてる。アッ、イッ……ゥァアアアアアア──ッ!!!」

 頭に激痛が走り、僕は悶絶して、椅子から転げ落ちた。駆け寄ってきた先生が僕を抱き起こし、瞳孔を見る。慌てた様子で人を呼んだ。僕はあまりの痛みに気を失った。

 ~ ~ ~

 目が覚めた。見覚えのない天井。僕はすぐ、部屋の四隅を探した。見慣れた暗闇がそこにあった。視界の端で何かが動いた。母さんだった。僕が起きた気配に、母さんも目を覚ましたようだった。僕の顔を見て安心したように笑う。

「…………!…………?………」
「え? なんて言ったの?」

 母さんの声が聞こえなかった。僕の声も遠くに聞こえる。そうか、虫だ。あいつらが僕の耳を塞いでしまったんだ。

「………!……!…!」

 母さんが口を動かし、何かしゃべっている。だが僕の耳には何も聞こえない。母さんの声だけじゃない、他の物音も何一つ聞こえない。聞こえるのは、満足そうに笑う虫たちの鳴き声だけだ。僕もつられて笑った。母さんの顔がひきつる。

「………、…………?…………!」

 何も聞こえないっていうのは案外いいものだ。僕も何も答えなくていい。聞こえないんだから、答えようがない。

 僕は布団をひっぱりあげ、寝返りを打って母さんに背を向けた。母さんが僕の肩を持って激しく揺する。横目にみると、何かを必死に伝えようとしているのはわかったが、内容がわからないので無視して目を閉じた。

 何も聞こえない。満足した虫たちも静かにしている。静寂。天井の四隅で見つけた暗闇が僕の頭に浮かび上がる。僕はそこに目を凝らす。暗闇がどんどん広がり、僕をすっぽり飲み込んだ。

 ~ ~ ~

 数日経っても母さんの声は聞こえなかった。久し振りに家に戻ってきた父さんの声も聞こえない。僕は黙って母さんたちが醜く言い争うのを見ていた。

「お兄ちゃん、耳が聞こえないの?」

 妹の智美の声だけは聞こえた。僕は首を横に振った。

「聞こえるよね。私の声、聞こえてるもんね?」

 うん、と頷く。智美がにっこり笑う。僕も笑い返そうとしたら中の虫たちがキィキィ鳴き出した。僕が誰かと親しくするのを嫌うみたいだ。僕は部屋にこもった。

 朝になると学校に送り出された。一歩家の外に出ると僕の中の虫たちが喜んで騒ぎ出す。その音に混じってたくさんの音が僕の鼓膜を揺さぶってくる。世界はこんなに物音に溢れているのかと驚く。

 学校のクラスメイトは誰も僕に声をかけてこない。ヒソヒソと僕のことを話す声が聞きたくないのに聞こえてくる。

「耳が聞こえないらしいよ」
「でもあいつ、こっち見たぞ」
「聞こえないんじゃなくて、話せないんだろ」
「俺はしゃべれなくなったって聞いた」
「病気なの?」
「ココロのビョーキだよ」
「勉強のし過ぎでオカシクなったんだって」
「あ、まだこっち見てる」
「恐い、あっち行こう」

 僕は病気なんだろうか。確かに頭の中に虫がいるなんて正常じゃないな。こんなことを言うから僕は病院に連れて行かれたんだ。

 あれ以来、僕は誰にも虫の話をしていない。誰にも理解されないことだと諦めたからだ。話しかけられても聞こえない。自分から誰かに話しかけたいとも思わない。それに虫たちは僕に誰とも話をさせたくないようだった。

 体育の時間はいつも見学。怪我をしたらいけないし無駄に体力を消費しないためだと母さんに止められた。いつもは教室で自習するが、今日は先生から、みんなが動いているのを見ているといい、と外に引っ張り出された。母さんの意向でもあるらしい。

 卒業も間近で、体育の時間は遊びの時間になっていた。みんなが楽しそうにドッヂボールをするのを、僕は少し離れたところから見学していた。外野が取りそこねたボールが僕の前まで転がってくる。

「木村、それ、放って!」

 僕は聞こえないふりをした。虫たちの冷たい息使いを聞いた気がしたからだ。

「取ってくれてもいいだろ!」

 外野の奴が走ってやってきて文句を言う。ボールをひろいあげた時、そいつは僕の影を踏んだ。

「ギャアアアアァァァァァ──!!!!」

 頭の中でブチブチと虫が踏み潰された音が聞こえた。虫たちが悲鳴をあげる。僕も悲鳴をあげた。ひどい痛みにのた打ち回る。ボールを取りに来たそいつはその場に凍りつき、恐怖に顔を歪めて僕を見ていた。

「なにするんだ……僕の影を踏むなよ……、虫が痛がってるだろ……!」
「なに言ってんだ、お前……」

 虫たちが僕の耳を塞いだ。先生たちが僕のまわりに集まってくる。口々に何か言っているが、その喧騒は僕には聞こえない。抱えられるように保健室へ運ばれた。保健室で寝ていると母さんが迎えに来た。僕は車で家に帰った。母さんは泣いていた。どうして泣くのか、僕にはわからなかった。



ドS受けH性欲図鑑

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付かず離れず(2/2)

2020.10.24.Sat.
<前話>

 咽喉の渇きに目が覚めた。暗い部屋。あたりを見渡すと育夫は熟睡中だが一ノ瀬と木村の姿がなかった。育夫を起こさないようそっと部屋を出て、階段をおりる。

 下から話し声が聞こえてきた。

「顔赤いの、だいぶマシになってきたな」

 と木村の声。

「ちょっと飲みすぎた」

 と一ノ瀬。

「お前は酔うとエロくなるから俺以外の前で飲みすぎんなよ」
「なに馬鹿なことを」

 一ノ瀬の動揺したような声。俺は階段の途中で足を止めた。なんだか顔を出しにくい雰囲気。部屋に戻ろうと体重を移動させたらギシッと小さく階段が軋んだ。身動きできない。

 俺はその場にそっと腰をおろした。盗み聞きなんて悪趣味だが、俺には見せない一ノ瀬の新しい一面をもう少し知りたくなったのだ。

「だってお前さ、ちょっと飲んだだけで顔赤くなるし、気が緩んで無防備の無抵抗になるし」
「そんなことはない」
「ある」
「俺が気を許すのはお前にだけだ。酔っていてもそのくらいの判断は出来る」
「俺に許すのは気持ちだけ? 体は?」
「あっ、馬鹿、上で先輩たちが寝てるんだぞっ」

 一ノ瀬の慌てたような声。小さな物音。木村の奴、何しようとしてるんだ。

「酒飲んで熟睡してるから大丈夫だよ。ねぇ、しよ?」
「馬鹿! こんな時に出来るわけないだろ」
「じゃあさ、一ノ瀬から俺にキスしてよ」

 あいつ、一ノ瀬になんてことをさせるんだ! 膝の上に置いた手を握りしめた。

「ほら、早く」

 甘えたような声で木村が言う。椅子をひいた音のあと、しばらくして濡れた音が聞こえてきた。カッと顔が熱を持つ。一ノ瀬が木村にキスしてるのか? 嘘だろ! あいつが、自分から……!

 二人の荒い息遣いの合間に、布擦れの音。

「んっ、あ、木村、そんなとこ触るな……!」

 上ずった一ノ瀬の声。あの野郎、ドコ触ってんだよ!

 ドサッと重いものが倒れこむ音が聞こえた。

「上に人がいるんだと思うといつもより興奮しない?」

 楽しそうに木村が言う。上じゃなくてすぐそこに俺がいるぞ、おいコラ。

「き、木村……あ……やめ……う、んっ」

 これがあの一ノ瀬の声か? ちょっとトーンのあがった、擦れたアノ時の声。心臓がどくんと大きく高鳴った。初めて他の誰かがヤッてる生の声を聞いた。それもガキの頃からよく知っている真面目な堅物一ノ瀬の。

 しまった、もっと早くに顔を出すか上に戻っていれば良かった。こんな展開になるなんて思っていなかった。

 一ノ瀬の名誉のために俺は耳を塞いだ……のだが、耳の奥に一ノ瀬の声が残っていて、耳を塞ぐと余計にそれが反響して逆効果だった。で、結局手をはがしたのだが、

「はぁ……あっ……んっ……」

 更に刺激的な声を聞いてしまうハメになった。ヤバイ、まじで、ヤバイ。俺がここにいるとバレたらどうなるか……。背中をじっとり汗が流れる。

「あんま大きい声出すなよ、上に聞こえる」
「だったら、もう……はなしてくれ……」
「やだよ、最後までしたい」
「馬鹿……あっ……もう……」
「一ノ瀬、俺のも触って」

 余裕のない木村の声が聞こえた。カチャカチャとベルトを外す音、そのあと、木村の吐息。

「なぁ、一ノ瀬、俺が好き?」
「す、すき……」

 そんなやりとり、やめてくれ。俺はもうただただ恥ずかしくて、階段に座ったまま体を小さくしていた。

「サンジャイより?」
「どうしてそこで先輩の名前が……」
「だって、あいつとしゃべってんの見たらやっぱりムカつくもん。ほんとにあいつに何もされてない?」

 人がいないと思って勝手なこと言いやがって。あとから割り込んできたのは木村のくせに。

「何、言って……んっ……」
「ねぇ、サンジャイより俺が好き?」
「好きに、決まってる……じゃなきゃこんなこと……んっ……あっ、もう、駄目だ、木村……」

 一ノ瀬が切なく木村を呼んで限界を訴える。一ノ瀬の呼吸が早く短くなる。俺の呼吸も乱れる。心臓はドキドキ鳴っている。

「イッて……俺の手に出して」
「あぁ……嫌だ……あ、アァッ……!」

 くぐもったような声が聞こえた。一ノ瀬が木村の手でイカされた……。あの一ノ瀬が。 

「もー、なんて顔すんだよ、お前」
「え?」
「そんな顔、他の誰にも見せるなよ」
「どんな顔……アッ、どこ、触って……!」
「最後までやるって言ったでしょ」
「なっ、何を……本気か?」
「背中痛いよね、後ろ向きになって」

 後ろ向き……。生々しく体位を想像してしまいまたドッと汗が噴き出た。

「木村、冗談……、俺は嫌だ」
「ついこないだここでヤリまくったじゃんか」

 笑いを含んだ声で木村が言う。ヤリまくったとか言わないで欲しい。なまじよく知っている一ノ瀬のことだから余計にリアルだ。

「半年もお預けだったんだぜ、今はお前のそばにいるだけで勃っちゃうよ」
「ばっ、か……アァ……や……ぁ……ッ」
「今日めちゃくちゃ感度いいね。上に二人がいるから一ノ瀬も興奮してる?」
「ちが、う……」
「もう、入れていい?」

 囁くような木村の声。入れる? 入れるって……ええ?! マジか! あいつ! あの馬鹿!

 立ち上がろうと足に力を入れたとき、

「早く……っ」

 一ノ瀬の声が聞こえて固まった。全身から力が抜けていく。一ノ瀬があんなこと言うなんて……。

 あいつは猥談に興味がない。俺がたまに女の話をしてもいつも曖昧な返事ではぐらかしていたし、エロ話をした時は照れて顔を赤くしていたあのウブな一ノ瀬が自分からねだるなんて。信じられない変化に呆然となった。

 テーブルの軋む音。木村の感じ入った吐息、一ノ瀬の不規則な息遣い。

「……好きだよ、一ノ瀬」
「俺も、好きだ……論」

 俺は手で顔を覆い隠した。

「お前のこと好きでたまんない、頭おかしくなりそう」

 腰を打ちつけながら木村が言う。すぐそこから聞こえてくる二人の息や物音。おかしくなりそうなのはこっちのほうだ。

 俺は前かがみになった。ジーンズを押し上げる股間が痛い。最悪だ。二人がシテるとこを聞いて勃起させるなんて最悪だ!心臓はバクバク鳴っているし、顔は熱を出したみたいに熱いし、体中、じっとり汗をかいているし。

 音の間隔が狭まる。我慢しても漏れてくる一ノ瀬の嬌声がだんだん大きくなる。

「中に出していい?」
「いい、いいから……木村……はっ……あ」

 俺は動けないままその場でじっと、二人の秘め事が終わるのを静かに待った。木村の呻くような声。そのあと、はぁ、と溜息。せわしない物音がやっと止まった。

「ふ……いっぱい、出しちゃった」

 と、おどけた口調で言う木村に軽く殺意が沸く。俺は自分の股間を触りたいのを必死に我慢していた。二人をネタにするなんて死んでも嫌だ。

「トイレに行って来る……」

 足音が近づいてきた。やばい! 腰をあげかけた俺の目の前を一ノ瀬が素通りしトイレに入った。一瞬で俺の顔からは血の気が引いた。見つからなくて良かった! しかし一ノ瀬がトイレから出てきたら今度こそ見つかってしまう。その前にここから離れなくては。そうっと立ち上がろうとした時、ヒョイと木村が階段に顔を出した。

「やっぱあんたか」

 と小声で言い、片頬をあげた。俺は目を見開き、絶句した。

「俺とあいつがやってるとこ盗み聞きするなんて、あんた顔に似合わず悪趣味だなぁ」

 腕を組んでニヤニヤ笑う。俺は羞恥から全身が熱くなった。

「お、おま……、俺がいるの知ってて……?」
「階段降りてくる足音が聞こえたからな。あいつは気付いてないみたいだけど」

 と、トイレに視線を飛ばす。

「あいつに見つかる前に上に戻ったほうがいいんじゃねえの」

 余裕たっぷりにニヤーッと笑う木村から逃げるように俺は静かに急いで階段をあがった。部屋の戸を閉めたとき、

「何をブツブツ言ってるんだ」

 という一ノ瀬の声が聞こえてきた。間一髪、危なかった……。

 苦しいくらい心臓がドキドキする。胸を押さえ、深く息を吐き出す。明るくなってきた部屋の中、育夫は相変わらずスヤスヤ眠っていた。

 人がいるとわかっていながらあんなことをする木村にだんだん怒りが湧き上がってくる。なんて恥知らずで非常識な奴なんだ。あの男には何か重大な欠点があるとしか思えない。あの時の声を、わざと誰かに聞かせるなんて……。

 がしかし、それをずっと聞いていたのは俺だし、怒るに怒れない。

 俺がいるとわかっていてわざと一ノ瀬に俺とどっちが好きかなんて聞いたんだろう。決定的に一ノ瀬は自分のものだと俺に知らしめるために。あいつはそういう男だ。

「どっちが悪趣味なんだ」

 次、一ノ瀬とどんな顔して会えばいいんだ……。思わず頭を抱えた。

 それから二人は上には戻ってこなかった。俺はまた眠ろうと努めたが結局眠れないまま朝を向かえ、起きた育夫と共に下におりた。

「おはようございます」

 清々しく一ノ瀬が挨拶をしてくる。

「ん、あぁ、おはよう」

 まともに顔を見れず、目を逸らした先に、わけ知り顔でニタニタ笑う木村がいた。

「よく眠れたか? なぁ?」

 と俺の肩を叩いてくる。その手を振り払い、睨み付けた。

「一ノ瀬のあの声、最高にエロかっただろ」

 木村が顔を近づけ、俺の耳にこっそり囁いた。

「おっ、お前、何考えてるんだ」

 慌てふためく俺に、

「ズリネタに使うなよ。あいつは俺のものなんだから、ヘンな気おこすなよ」

 と言うと俺から離れて行った。口元は笑みを湛えていたが目は笑っていなかった。

 木村が作った朝食をご馳走になったあと、俺と育夫は二人より先に店を出た。一ノ瀬に申し訳なくて、顔を見たら想像してしまいそうで、長く一緒にいられなかったのだ。

「一ノ瀬が羨ましくなっちゃったなぁ。めちゃくちゃ愛されてるって感じ」

 駅に向かって歩きながら何も知らない育夫が隣で呑気に言う。

「相手が木村みたいな奴でもか?」
「木村ってけっこういい男だと思うけど」
「いや、やめとけ。あいつは性根が腐ってる。きっと苦労するぞ」
「ふふっ、まだ一ノ瀬の心配してるの? お似合いの二人じゃないか。勇樹の心配は二人には野暮ってもんだよ」

 俺は黙り込む。

「いい加減、一ノ瀬離れしたら?」

 呆れ顔で育夫が言う。一ノ瀬離れはまだ当分、出来そうにない。


(初出2008年)
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付かず離れず(1/2)

2020.10.23.Fri.
※サンジャイ視点

 一ノ瀬が留学を終え日本に帰ってきたので飲み会をすることになった。誘ってきたのは意外にも木村からだった。

 木村は一年下の後輩で、高校の時、何かと俺を目の敵にして突っかかってきた。小学校から付き合いのある俺を一ノ瀬が慕っているのが気に食わないようようだった。

 正直、俺も最初は木村が気に入らなかった。小/学生の時、ボーイスカウトに入隊した一ノ瀬を心配して、一ノ瀬の兄貴が、「弟のことをよろしく頼む」と俺に言ってきて以来、俺は何かと一ノ瀬を目にかけ、気遣ってきた。兄弟のいない俺にとって一ノ瀬は弟のようなもので、だから見た目のチャラついた木村が一ノ瀬に付きまとっていると知った時は、いつでも一ノ瀬を庇えるうよう臨戦体勢に入っていたのだ。

 だが、一ノ瀬と一緒に体育館に現れた木村に軽くボールを触らせたら少し見る目がかわった。木村はバスケがうまかった。真面目にコツコツ練習しなきゃ習得できないレベル、それ以上だった。練習試合に出させてみると予想を上回る活躍を見せ、二年の層が弱いバスケ部に欲しいと思うようになった。

 何度か勧誘のため木村と話をしたことがある。あいつは露骨に俺への嫌悪をあらわした。こちらが照れるほど一ノ瀬への愛情を隠さないし、呆れて笑えて来るほど俺への嫉妬を剥き出しにした。

 とりあえず一ノ瀬に対しては本気のようだし、無理強いをするようにも見えなかったから俺は臨戦体勢を解いた。

 それ以来、遠巻きに二人を見守ってきたが、どうやら二人がうまくいったらしいと気付くと少し寂しい気がしたものだ。一ノ瀬は堅く、真面目な性格をしていてそのせいで友達も少ない。人付き合いのうまくない一ノ瀬が、俺にだけ見せる親しみのこもった笑みを、これからはあいつにも見せるのだと思うと、今度は俺が少し木村に嫉妬した。

 一ノ瀬は兄弟揃ってブラコンだが、俺も人のことは言えないようだ。血のつながりがないぶん、俺の方が重症なのかもしれない。

 今回の飲み会には、育夫も一緒にということだったので、二人で木村のバイト先の店に向かった。

 店にはもう、木村と一ノ瀬が待っていて、先に一杯やっていた。一ノ瀬ももう、酒を飲む年なのか、と親戚のおじさんみたいなことを思う。

「白樫さん、どうも」

 椅子から立ち上がって一ノ瀬が言う。育夫も同じ小学校出身。二人は俺を介して、何度か顔を合わしたことがある程度。育夫も「久し振り。留学は楽しかった?」と挨拶をした。

 カウンターの向こうにいる木村が「二人は何飲む?」と聞いてきた。

 こいつが酒を作るらしい。木村の隣には少し年上の、物静かな雰囲気の男が立っていた。この人が木村が昔から世話になっている瀬川という人だろう。俺は瀬川に軽く頭をさげた。瀬川も会釈を返してきた。

 店の奥には短い金髪の男がいた。一重で残忍そうな細い目でこちらを見てニヤニヤと笑っている。今日は貸切だと聞いているから、こいつも二人の知り合いということか。あまり一ノ瀬と関わらせたくないタイプだ。

 俺たちの自己紹介のあと、瀬川と金髪も簡単に紹介された。ここの店長は瀬川、金髪は菱沼。二人とも、木村が中学の頃からの知り合いなのだそうだ。

「ま、困ったことがあったら俺に言えよ」

 菱沼が俺と育夫に名刺を渡してきた。名刺と言っても、ケイタイの番号とアドレスが書かれてあるだけ。職業不定の胡散臭い奴だった。一ノ瀬はこの男を苦手に思っているらしい。菱沼を見る顔つきが、ほんのわずかに緊張している。一ノ瀬は一ノ瀬なりに、自分の人付き合いの輪を広げようとしているのかもしれない。俺が心配するのは余計なお世話なのかもしれなかった。

 一ノ瀬帰国の乾杯をする。一ノ瀬は照れて恥じ入っていたが、その顔はとても明るく幸せそうだった。一ノ瀬にこんな顔をさせることが出来たのは俺じゃなく木村だったんだと思うと、やはり少し寂しく感じた。

「一ノ瀬の笑った顔って、あんまり見たことなかったな」

 隣の育夫が意外そうに呟いた。学校にいるとき一ノ瀬は気を抜いたりしないから、よほど親しくならないと笑顔を見せることはない。

「昔はよく笑ってたんだけどな」

 引っ込み思案でおとなしい子供ではあったが、小/学生の頃は子供らしく無邪気に笑っていた。それが減ってきたのは、厳しい祖父と、同じように一ノ瀬に辛く当たる一番上の兄貴の行き過ぎた躾のせいだ。それだけは一ノ瀬の兄貴に対し俺は今でも不満に思っている。

「木村に一ノ瀬を取られちゃったみたいな気がして、もしかして寂しいとか思ってる?」

 育夫が俺をからかう。黙る俺を見て「ほんとに?」と目を見開いた。

「妹を嫁に取られた兄貴ってこんな感じなのかな。なんか、複雑な気分」
「呆れた……昔からあの子を構いすぎたせいだよ。一ノ瀬離れの時期なんじゃない」

 俺の感傷を鼻で笑い飛ばすと育夫は離れて行った。一ノ瀬に話しかけ、笑い声をあげる。一ノ瀬のそばには木村が立っていた。一ノ瀬を見る木村の目はこの上なく優しい。あんな目で一ノ瀬を見ていたら、二人の事を知らない奴でもすぐその関係に気付くだろう。あの馬鹿は育夫の忠告をちゃんと聞いているのか。同性愛はまだ広く理解を得られていない。一ノ瀬が心無い奴らから迫害を受けるのは俺が我慢ならない。あとでちょっと木村に言っておくべきだろうか。

 一ノ瀬の空になったグラスを木村がとりあげカウンターに移動した。手際よくおかわりを作ると一ノ瀬の隣へ移動した。一ノ瀬の耳に口を寄せ何か囁く。一ノ瀬は頬を染めながら頷いた。

 俺の視線に気付いた木村がこちらにやってきた。

「何か言いたそうな顔してんな」
「さっき一ノ瀬に何を言ってたんだ?」
「あぁ、あいつ酒に弱いからあまり飲み過ぎるなって言ったんだよ」

 酔っ払った一ノ瀬なんて俺は見た事がない。俺の方が一ノ瀬との付き合いは長いが、こいつの方が密な時間を過ごしているのだと思い知る。

「あまり人前でイチャイチャするなよ」
「わかってるって。今ここには俺たちのこと知ってる人しかいねえもん」
「あの二人も知っているのか」

 カウンター越しに話しこんでいる瀬川と菱沼を見る。木村はあっさり頷いた。

「あんたたちからの忠告も忘れてないよ。俺も一ノ瀬のために色々我慢してんだから」
「あれで?」
「うるせえ」

 木村はまた一ノ瀬のもとへ戻って行った。一ノ瀬の肩を抱いて座席に誘導するとその隣に腰をおろす。育夫も向かいに座った。一人でいるのも飽きて、俺も育夫の隣に座った。

 一ノ瀬からオレゴンでの留学生活を聞きながら酒を飲んだ。たまにカウンター席の菱沼が話に割り込んできた。自分勝手に話をすると話の途中でまたカウンターに戻っていく。話し方も酒の飲み方も落ち着きがない自由人。瀬川も木村もなれているようで適当にあしらっている。

 三時間近く経った頃、店の扉が開き、客が二人入ってきた。

「陣内さん、お久し振りです」

 瀬川が客に会釈する。ガタイのいい男が手をあげ、「よ、鉄雄、ヒシ」と低い声で言った。その後ろから金髪で長身の男が入ってきた。そいつはこちらに顔を向け、

「やぁ、ロン、一ノ瀬」

 と朗らかに笑った。この2人とも面識があるようだ。

「てめえ、何しに来たんだよ」

 邪魔くさそうに言って木村が顔を顰める。俺に対する態度とは少し違って警戒心を抱いているような印象を受けた。その証拠に、金髪の男を見た瞬間、木村は一ノ瀬を隠すように体勢を変えた。

「北野さん、お久し振りです」

 一ノ瀬のほうはまるで警戒心ゼロの笑顔で挨拶をしている。北野と呼ばれた男はこちらにやってきて一ノ瀬の肩に腕をまわし、引き寄せた。

「久し振りだね。しばらく見ない間に大人っぽくなっちゃって」

 一ノ瀬の前髪をかきあげ、そのまま頬に手を添える。いやに親密な態度だ。こんなのを見てあの木村が黙っているわけがない。案の定、

「おい、一ノ瀬に触んなよ」

 低い声で言いながら北野の腕を掴んだ。北野がニッと笑う。木村の反応を楽しんでいるように見える。おそらく木村をわざと怒らせるために一ノ瀬に親しげにしたのだろう。木村が警戒するのも納得の、性格に難のあるタイプらしい。

「悪いけど、今日は相手してやる暇がないんだ。今から出かけるんでね」

 北野は一ノ瀬から離れてカウンターの3人に合流した。木村は鋭く北野を睨んだまま一ノ瀬の肩を抱きしめる。

「どうして北野さんにあんな態度を取るんだ」

 一ノ瀬が咎めるように言う。北野の行動の裏に気付いていない。

「あいつが嫌いだから。それにあいつがお前に触ったから。あいつがお前に馴れ馴れしくするから」
「そんな理由で馬鹿じゃないか」
「馬鹿じゃない、俺には正気失うくらい深刻な理由だよ。誰にもお前に触れさせたくない」

 木村はいたって真面目だった。一ノ瀬の顔がみるみる赤くなっていく。それを見ていた俺と育夫も恥ずかしくなり、視線をテーブルの上に落とした。

「ロン、俺たち出かけるから、あとのこと頼んだぞ」

 カウンターの瀬川が声をかけてきた。いつの間にか黒いジャケットを羽織っている。陣内と呼ばれた男が先に店から出て行き、そのあとを北野、菱沼と続く。

「鉄雄さん、どこ行くの」
「ちょっとヤボ用。今日は帰らないと思うから、戸締りよろしくな」

 瀬川の暗い目が一瞬剣呑な光を帯びた。どう見ても堅気でない奴らのヤボ用なんて、きっとヤバイことに決まってるんだ。木村の知り合いとは言え、一ノ瀬に害をなさないか、俺は心配せずにいられない。

 木村が瀬川を見送るために店の外へ出て行った。その後姿を見る一ノ瀬はなんだか寂しそうだ。

「あいつら、大丈夫なのか」
「大丈夫って……?」

 俺に視線を戻し、一ノ瀬が首を傾げる。

「お前、変なことに巻き込まれたりしてないだろうな」
「そんなことありませんよ」

 一ノ瀬が笑って否定する。

「陣内さんて人は今日初めて見た人なので知りませんけど、他の3人はいい人ですよ」

 その陣内って奴が一番ヤバそうな雰囲気だったんだけど。イマイチ不安は拭えない。

 木村が戻ってきて「酒、作るよ」とカウンターに立った。一ノ瀬が「手伝う」と木村の隣に並ぶ。

「あの二人って実はけっこうお似合いだよね」

 俺の横で育夫がぽつっと呟いた。

「かもな」

 二人を見たまま頷く。木村がカクテルピンに刺したオリーブを一ノ瀬の口元に持って行く。一ノ瀬が口を開けそれを齧る。木村が何か言い、一ノ瀬の唇を親指で撫でた。恥ずかしそうに一ノ瀬は自分の口を拭う。そのこめかみに木村は素早くキスをした。とんでもないものを見た。慌てて前に向き直った。

 隣で育夫がクスクス笑っている。

「お前も見た?」

 小声で確認すると育夫が頷く。

「あんなふうに隠さずやられるとあてられちゃうよね。でもちょっと羨ましかったりして」
「お前も人前であんなことしたいのか?」
「そりゃあしたくないわけじゃないよ。まぁ、相手がいたらの話だけど」

 木村と一ノ瀬がグラスを持って戻ってきた。それを飲みながら話をして時間が過ぎて行く。終電も見送った俺たちは、店の2階に泊めてもらうことにした。機嫌よく酔っ払った育夫を抱え、急勾配な階段をあがり、ベッドにおろす。毛布に包まって、みんなで雑魚寝した。



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アイヲシル(14/14)

2020.10.22.Thu.
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 今までで一番感じた夜かもしれない。木村に触れられる場所全て、敏感に反応してしまった。

「今日の有は激しいね」

 木村にからかわれても何も言い返せなかった。貫かれ、体をゆさぶられていると何度か意識を失いそうになった。絶頂の幸福感、その中で弾けてしまうならそれもいいかもしれない。そんなことを思って理性を手放した時、俺ははしたなく木村を求めていた。それに応えようとする木村の顔は切なくて、幸せなのに涙が出てきそうだった。

 木村に楔を打ち込まれても、何度口付けされても、どれだけ強く抱きしめられても、まだまだ全然足らなくて、気がついたら窓の外が明るくなっていた。

 もつれるように抱きしめ合ったままベッドに身を沈め、薄ぼんやりと明るい室内を眺める。

 俺と同様、熱い木村の体が心地よくて密着した。体が汗と体液でべたつくがまったく気にならない。いつか木村に言われた「エロい好きもん」になってしまったのかもしれない。

 俺がクスリと笑うと、木村が「どうした?」と不思議そうに聞いてきた。

「今日が休みで良かったなと思って」
「腰、大丈夫? けっこうガンガンやっちゃったけど」
「少しくらいつらいほうがいい」
「おまえってマゾだったのか?」
「馬鹿。そっちのほうが、おまえを受け止めたんだって実感できるから、なんだか嬉しいんだ」
「なんだそれ」

 と笑う。

「最近のおまえは聞きわけが良すぎて物足りなかったんだ。俺はもっと甘えて欲しかったのに、おまえは一人大人になって平気な顔をするから寂しくて仕方なかった」
「あははっ、俺って大人に見えた?」

 と、悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべる。

「サンジャイに言われて大人の振りしてただけだよ。俺があんまり素直に感情ぶつけてたら一ノ瀬に迷惑がかかるって、だから大人になれって言われてさ。おまえが留学してる間に俺も色々考えたわけさ。で、おまえから頼られるような大人になろうって思ったんだけど、やっぱそれ、難しいよ、俺には」

 今度は苦笑を浮かべた。

「前に映画館で会った、阿賀見って言ったっけ? 俺、あいつにめちゃくちゃ嫉妬したんだよね。あいつがやたらおまえに馴れ馴れしくて、挙句に好きだと抜かすからすげえ頭に来た。おまけにおまえはあいつを庇うし、俺に似てるだとかほざくし。なんかあるのかと疑っておまえに八つ当たりしてさ。やっぱ俺には大人の真似なんて出来ねえなぁと思ったね」
「大人になんてなるな」

 木村の胸に抱きつく。

「嫉妬してるのは自分だけだと思ってた。俺はもっとおまえにこだわって欲しい。大人の振りなんてして欲しくない」
「そんなこと言っていいの? 本音解禁したら俺、ほんとに前みたいにガキになるよ?」
「構わない、それでいい」
「まぁ、海外赴任が決まったらそうするつもりだったんだけどね」
「そういえば、どうして海外赴任なんか?」
「捉え方の違いでは日本のが住みやすいって意見もあるようだけど、俺には海外のが向いてるかなって気がして。おまえってさ、人の目を気にして、外でいちゃつくの嫌がるだろ。だから日本から引っ張り出して、もっと理解のある国に行きたかった。アメリカなんかは州によっては同性婚が認められてるだろ。ゲイタウンなんかがあるくらいだし。誰彼構わず一ノ瀬有は俺の恋人だって言いふらしてまわるつもりはないけど、俺はおまえを好きだってことを隠したくないし、嘘をつくのも嫌だ。だからあっちに行けたら俺は正直に俺らしく生きたい。それが大学三年からの俺の夢ってわけ」

 嬉しいやら、呆れるやら、感心するやら。そんなに前からそんなことを考えていたのか。

「ひとつ言っておきたんだけど、たとえアメリカに行ったとしても、俺は人前ではイチャついたりしないから」
「やだ、する。そりゃどこでだって全員の理解を得られるわけじゃない。アメリカはオープンで自由な国だなんておめでたいこと信じてるわけじゃない。でも日本よりゃマシだろ」

 と明るい顔で言った。その顔を見て、木村は仕事が楽しくて働いていただけではなかったと気付く。俺との未来を想像して、その実現のために毎日遅くまで働いていたのだ。

「海外駐在員の人事を握ってる人がいてね、それがこのまえ一緒にソープに行った人なんだけど、この人直々に今回のアメリカ出張の命令もらったから、たぶん、いけるとは思うんだけどね。決まったら絶対おまえと一緒に行く。嫌がっても連れて行く。そのために、おまえの兄貴に挨拶しに行ったんだから」

 あれも海外移住の布石だったと言うのか。用意周到というか、根回しがいいというか。やはり俺より一枚も二枚も上手だ。

 ベッドの上で肘をついて体を起こす。成長した木村のなかに、高校生の頃とかわらない表情を見つけて嬉しくなってキスした。俺の体に木村の腕が絡まり組み敷かれた。キスするだけでまた体が熱くなっていく。

「一生大事にするから、死ぬまで俺のそばにいてくれ」

 その言葉に嘘や偽りがないと信じられる。俺も応えたくて、今の気持ちを素直に伝えた。

「論、君を愛してる」


(初出2008年)
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アイヲシル(13/14)

2020.10.21.Wed.
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 あれから四日が経ったが、そのあいだ木村から連絡は一切なかった。怒っているのだから当然か。それとも俺に呆れて話もしたくないのか。もしくは女上司と過ごす時間が楽しくて俺のことは忘れているのか。こんな状況になっても、黒坂という上司のことを思うと胸が黒く焼け付いた。

 明日木村が帰ってくる。どんな顔でなにを話せばいいのかと不安になる。今回のことで俺に愛想を尽かしたかもしれない。やっぱり女がいいと再確認したかもしれない。

 帰って来た木村はどんな顔と態度で俺と接するのだろう。想像するのが少し怖い。

 最近食欲もなく睡眠も十分にとれていなかったせいで、職場の先生たちから顔色が悪いと心配された。風邪気味で、と誤魔化す。

 授業や部活で阿賀見を見ると、昔はもっと単純だったような気がする、と胸が痛くなった。学生の頃に戻りたいなんて馬鹿なことを願うほどにネガティブになっている。

 家に帰っても何もする気がせず、食欲もまったく感じないので、服を着替えて布団に入った。

 隣に木村はいない。また少し泣いた。

 不意に玄関から物音。

「有!」

 静かな部屋に大声が響く。木村の声。嘘だ。帰国は明日のはず。ベッドから身を起こし、物音が聞こえてくる扉を見つめた。足音が近づいて来て、勢いよく寝室の戸が開き、パッと部屋の明かりがついた。

「ゆ……! おまえ、泣いてんの?」

 俺の顔を見た途端、木村の険しい顔が戸惑ったものにかわった。大股でベッドに近づいて来て辛そうに目を細める。本物だ。本物の木村が目の前にいる。

「ごめん」

 ぎゅっと抱きしめられた。走ってきたのか木村の息は荒い。

「おまえを泣かせることはしないってサンジャイと約束したのに。ごめん」

 先輩といつそんな約束をしたのかと頭の隅で思いながら木村の背中に腕をまわした。止まっていた涙がまた溢れてくる。避けられなかっただけでこんなに嬉しくて安心してしまう。

「連絡しなくてごめん。俺の方が頭冷やさなくちゃいけなかったから」
「いい、そんなこと。どうして、今日……帰ってくるのは明日だって」
「あぁ、おまえが心配だったからむりやり早く繰り上げて帰って来た。ねぇ、女がどうのこうのって、おまえはなにをそんなに心配してたの」

 ベッドに腰掛けた木村に泣き顔を覗きこまれた。

 言うのを躊躇って何度か瞬きする。目蓋に押し出されて零れ落ちた涙を木村の指が拭った。自分があやされる子供になったような気分だ。

「一緒に……、出張に一緒に行った黒坂さんて上司、女なんだろ」
「うん、そうだけど。まさかそれで怒ってたの?」
「上司が女だなんて聞いてない。出張に二人で行くことも聞いてない」
「ちょっと待って、俺があの人と何かあると思ってる? それは100%ないね。絶対ない。まずあの人俺よりだいぶ年上だよ、確か49歳だったかな」

 そんなに年が離れていたのか。電話の声は若く聞こえたが。

「その年齢でも綺麗な人は綺麗だろ」
「あの人と一晩過ごせってのは俺にとっては罰ゲームだよ。見た目云々より、あの性格が無理。口を開けば人の悪口か噂話してんだよ。仕事もろくにしないでさ。飲みに行ってもそんな話ばっかだからみんなから敬遠されてるし、仕事もたいして出来るわけでもないし。俺が今までどれだけ迷惑被ってきたか。部長もそれをわかってるから俺を評価してくれてる。それがなかったら我慢出来ない。そんな人だよ、過ちなんて絶対犯さない、その気にもならない」

 木村は本当に嫌そうに顔を歪めた。クソ上司呼ばわりしていたわけが少しわかった。

「でも、あの人はおまえに好意を持ってるんじゃないのか」
「あの人、男なら誰でもいいって人だから。俺以外にも個人的に食事に誘われた男の社員はたくさんいるよ。みんな断ってるけど」

 だんだん黒坂という女性像が見えて来た。

「黒坂さんが女だってことを言わなかったのは謝る。今回の出張が黒坂さんと二人ってことも黙っててごめん。なんとなく言わなくてもいいかなって思ってた。隠すつもりじゃなかったけど……やっぱり有を心配させたくないって思ってたのかもしれない。それは謝る、ごめん」

 目元に優しくキスされた。

「嫉妬して不安になってあんなこと言ったんだ? 別れたいなんて本心じゃないよね」
「ん」

 頷いて木村に抱きついた。温かい頬、首筋。木村の匂い。また胸が苦しくなった。

「おまえが別れるなんて言い出したとき目の前が真っ暗になったよ。よりによってアメリカなんて離れた場所にいるときにさ。めちゃくちゃ頭にきたから、自分でも何言い出すかわかんなくて電話切ったけど……切ってから後悔した。仕事終わって帰って来た時におまえが家にいなかったらどうしようってすごく焦ったし不安だった。せっかく俺の夢が実現しそうって時だったのにさ」
「夢?」
「うん。俺ね、入社した時から海外赴任の希望出してんの」

 海外赴任。今までのように日本から通うのではなく、そこに住むということだ。

 こいつは自分の夢を叶えることに夢中で、俺のことは何も考えてない。一週間や二週間の出張とはわけが違う。何年と言う単位、離れ離れになるというのに、どうしてこいつはそんなに嬉しそうに語るんだ。カッとなって枕を木村に叩きつけた。

「馬鹿! さっさと行けよ! やっぱり俺と別れたかったんじゃないか!」
「待てって、話聞け」

 冷静に木村は俺から枕を取り上げた。

「まさか俺が一人で行くと思ってんの?」

 苦笑を浮かべて木村が言う。

「俺がおまえを残して一人で行くと本気で思ってんの? そんなことするわけないだろ。おまえが嫌だって言ってもむりやり連れて行くつもりだよ。このために大学生の時から頑張って来たんだから」
「俺も……?」

 一緒に連れて行くと言うのか。それを入社する前から考えていたのか。就職先を商社に決めた時からそれを夢にしていたと言うのか。

「そりゃさ、こっちの仕事を辞めさせることになるからそれは申し訳ないと思うけど、向こうでもどこでも教師の仕事はできるだろ。英語を活かして通訳とか翻訳の仕事もあるだろうし。そのための協力は全力でするつもりだよ」

 やっぱりこいつは俺のことなんて何も考えてない。俺の意思はそこにはない。俺が行かないと嫌がったらどするつもりなんだろう。

 そんなふうに考え行動するするのは、あんまり昔の木村らしくて、今度は別の涙が出た。木村を信じずに疑って暗く落ち込んでいた自分が恥ずかしくなる。俺は寂しさから過去のことばかり思い出していたが、木村は未来を見ていた。

「そんな大事なこと……どうしてもっと早くに言わないんだ」
「だってさ、これってプロポーズみたいなもんだろ、一人前になってから言いたかったんだよ」

 と、恥ずかしそうに頭を掻く。プロポーズという言葉に俺まで緊張した。

 木村が俺の手を握る。

「まだ決まったわけじゃないし、何年も先になるかもしれないけど、海外赴任が決まったら俺について来てくれる?」

 真摯な目が俺を見つめてくる。木村と離れ離れになるなんて考えられない。もしこの先、木村に捨てられる日がくるとしても、それまでは一緒にいたい。振られる前に別れてしまうだなんて、馬鹿な選択はもうしない。

 俺も目を見つめ返して頷いた。木村の顔に笑みが広がる。

「一生はなさないから」



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