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うすらひ(14/18)

2019.11.01.Fri.
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 今日何個目かわからないガムを口に入れた。強烈に広がるミントの味に少し気持ちが引き締まる。最近自分でも集中力が落ちている自覚がある。連日夜遅くまで美緒と話し合いで基本寝不足な上、俺は居間のソファで眠るから熟睡できたためしがない。美緒に離婚を切りだして二ヶ月、ずっとこんな調子だ。

 味のしなくなったガムを紙に包んで捨てた。またすぐ口寂しくなる。席を立ち、喫煙ルームへ向かった。先客の部長が俺を見て「珍しいな」と言う。

「ずっとやめてたんですけどね。最近また始めちゃって」
「俺はもう死ぬまでやめられんな」

 煙草の火を見つめて部長は苦笑した。

「家の中でも堂々と吸えないんだ。自分が必死になって建てたの家なのにだぞ。臭いだの壁が汚れるだのと、ベランダに追い出されちまうんだ、どう思う」
「それは辛いですね」
「まあな。孫の健康に悪いって言われたら、俺は何も言えねえけどな」

 部長は娘夫婦と同居していて、去年末は待望の初孫が生まれた。孫のことを話す口振りや顔つきを見ている限り、可愛くて可愛くて仕方がないようだ。家族の嫌煙ぶりを愚痴ってはいても、どことなく嬉しそうに見える。

 禁煙の流れであちこちから喫煙場所が消えていく。このオフィスビルも一時全館禁煙の話が持ちあがったらしいが各所からの猛反対にあって免れたと聞いた。

 正直俺はどっちだっていい。大学生の頃少し吸っていただけでやめようと思えばいつでもやめられる。今は生活が落ち着かないストレスで吸っているだけだ。

 いまは部長と2人きり。いいタイミングだと思い、煙草の火を消した。

「あの、部長」
「なんだ」
「非常に個人的な話なんですが、妻と離婚することになると思います」
「えっ、おまえまだ新婚だったろう」

 部長も煙草をもみ消した。

「そうですね、まだ一年です」
「なんで? 浮気されたか?」
「いえ、僕の不徳の致すところです」
「おまえが浮気か?」
「ああ、いえ、その」

 言葉を濁して頭を掻いた。相手は誰だと追及されかねない。

 美緒に離婚を切りだしたとき、当然美緒も俺の浮気を疑った。どこまで正直に話すべきか迷った。卑怯だが全部話す勇気はなかった。相手は誰だと騒がれたら困る。周防に迷惑はかけられない。

 だから好きな人ができたとだけ言った。相手は誰だときかれたが言わなかった。すでに告白して振られていると話したら、美緒は泣きながら「馬鹿じゃない」と言った。

 振られているならきっぱり諦めて夫婦でやり直せばいいでしょとも言われたが、それはできないと断った。俺の心がもう美緒にはない。こんな状態で夫婦としてやっていけない。時間が解決するものでもないから、早く決断するのが美緒のためにもなる、と。

 ずいぶん自分勝手で酷い話だ。我ながらクソ野郎だと思う。

 美緒は断固拒否した。休みを合わせ、お互いの両親を交えて話し合ったこともある。親父は俺を殴りおふくろは美緒と義両親に「うちのバカ息子が申し訳ない」と頭を下げた。

 共通の友人がかわるがわる家にやってきて離婚を思いとどまるよう説得してきた。俺の意思が変わらないことを知ると、数人は呆れ、数人は「こんな男とさっさと離婚しろ」と怒って帰り、数人は俺と縁を切った。

 そんなことがこの二ヶ月続いていた。自業自得とは言え疲労困憊でつい煙草に手が出た。

「僕は結婚しちゃいけない男だったんです」
「その結論を出すには一年じゃ早いだろ。誰にだって1回や2回の間違いはある。それにいちいちキレて離婚してたら、俺んとこはバツ何十かわからんぞ」

 にやりと笑いながら部長はまた煙草を咥え、火を付けた。

「僕が全部悪いんです。彼女には申し訳なくて。僕は……他の人を好きになってしまいました」

 部長は目を閉じ、煙を吐き出した。

「まあ、結局は当人同士の話だしな。外野の俺がとやかく言うことじゃねえや。他に目がいくのは男の、いや人間の性ってやつだ。理性だけでどうにかできるもんでもない。おまえが本気なら、一刻も早く別れてやるのが今の奥さんのためだな」
「はい」

 神妙に頷く。もっと厳しい言葉を覚悟していたのに、意外な優しさに感謝した。俺が悪いとは言え、この二ヶ月間はずっと責められ詰られることばかりで、精神的に参っていた。

「離婚は結婚の何倍もエネルギーがいるっていうからな。全部片が付いたら飯奢ってやる」

 俺の肩を叩くと部長は喫煙ルームから出て行った。1つ、肩の荷が下りた気がした。大きく息を吐いてから、俺も喫煙ルームを出た。

 ちょうど会議室の扉が開いて、周防と若い女の子が出てくるところに出くわした。

 見たことのない子だ。「今日はありがとうございました」とペコペコ頭を下げる初々しい言動から察するに、就活生によるOB訪問だろう。

「あ、あの、これよかったら皆さんで召し上がってください」

 女の子は茶色い紙袋を周防に手渡した。バレンタインデーがあったばかりだから中身はチョコレートかもしれない。

 女の子を送る周防と通路ですれ違った。なにか言いたげな視線を周防から感じたが、女の子へ会釈だけして気付かないふりをした。

 先日あったバレンタインデーで、南は周防に本命チョコを渡したらしい。立花と南の立ち話が偶然耳に入った。その夜は2人で食事の予定だとも聞いた。順調に距離が縮んでいるようだ。もう俺の入り込む隙はない。

 自分のデスクで仕事をしていたら、戻ってきた周防が俺の横に立った。机に手をつき、顔を近づけ小さく言った。

「さっきの子はOB訪問にきた学生ですから」

 呆気に取られて周防の顔を見つめた。

「わかってるよ。去年、俺のとこにも来たし」
「そうですか。一応、念のためにと思って」

 口をもごもごさせて口ごもる。また俺が嫉妬してるんじゃないかって? 余計なお世話だ。

「いいから早く仕事戻れ」
「はい。あ、さっきの子にお菓子をもらったんですけど」
「開けて給湯室に置いとけば誰か食べるだろ」
「はい、あの」
「まだ何かあるの」

 つい、きつい言い方になった。周防も少し怯んだ表情を見せた。

「いえ、なにもないです」

 ぺこりと頭をさげ、周防は自分のデスクへ戻って行った。その背中を見つめる。俺が望んだ通り、前のように接してくる。付き合っていたことも、別れたことも、なにもなかったみたいに。俺は周防の何気ない言葉や視線ひとつで心が乱されるのに、周防のほうはまるで無頓着だ。

 心がジクジクと痛んだ。いつまでこの痛みは続くのだろう。永遠に痛み続ける気がして、絶望的な気分になった。



兎の森 1


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