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Phantom (6/15)

2016.09.02.Fri.
1話2話3話4話5話

 樫木は都内のタワーマンションの駐車場に車を入れた。高層階まで一気にエレベーターで昇り、ホテルのような通路を歩いて、重厚な造りのドアの前に立つと鍵を使ってなかに入った。

 広く高級感のある玄関でスリッパに履き替え、滑りそうなくらい磨かれた廊下を歩いた先のリビングに通された。黒と白で統一されたモダンなモデルルームのようだった。

 気密性が高いのか部屋の気温は低くなく、コートを脱いでも平気だった。

 大人が10人は座れそうなL字に配置されたソファに腰をおろした。座り心地や手触りで安物でないとわかる。

「すごい家」

 芳明が言うと、冷たいお茶をグラスに注いでいた樫木が顔をあげた。

「意外に高く会社が売れたから、一括で買ったんだ」

 と照れ臭そうに笑う。

「維持できてんのがすごいな」
「東京タワーの見えるタワマンって、いかにもって感じだろ」

 グラスをテーブルに置いて、樫木もソファに座った。その動作で生じるかすかな風に乗って、あの匂いが芳明の鼻に届いた。

 せっかく治まっていたものがまた呼び起こされそうになる。芳明は気を紛らわせるためにお茶に口をつけた。

「そういえばプレゼントって彼女? 男同士で香水のプレゼントなんかしないよな」
「そんなところだ。誕生日にもらった」
「誕生日っていつ?」
「五日前」
「ごめん、何も用意してない」
「気にするな。俺だって久世に何か贈ったことなんかない」

 それもそうだ、と納得した。

「言いたくなければいいんだが、捜査は進んでるのか? 犯人の目星とか」

 膝の上で組んだ手を見ながら、樫木が言いにくそうに切りだす。

「さあ。関係者だからって詳しく教えてくれるわけじゃないんだ。目星がついてるなんて話はいまのところ聞いてない」
「早く捕まえてくれないと、久世も安心して暮らせないだろ」
「どうかな。口封じに来るとは思えないんだよな。顔も見てないし、声も聞いたことないから」
「また攫いに来る可能性だって」
「それはないと思う。最初から期間限定だって言われてたし」
「喋ったのか?」
「違う違う。紙に書いてただけ」
「そうか。どこまでも用心深い奴だな」
「ネット見た? 俺とそいつ、ホモカップルだって言われてるんだぜ。俺は捨てられて騒いでるだけの、女々しいホモなんだって」
「言わせておけ」

 樫木は気分を害したように顔を顰めたあと、呷るようにお茶を飲んだ。上下する咽喉仏に、気付くと目が釘付けになっていた。視線を引き剥がし、唾を飲みこんだ。男の精を飲んだ時のことが思い出された。

 温くて、生臭くて、咽喉に絡まる、あの不快な感じを。

 それを流し込むように、芳明はまたお茶を飲んだ。

 その様子を樫木がじっと見ていた。

「なんだよ」

 口を尖らせると、樫木は目を伏せた。

「さっきの話だけど……、俺がいまつけてる香水は犯人と同じものなのか?」
「いや、違うよ。似てる気がして、ちょっと驚いただけ」

 彼女から贈られたプレゼントにケチをつけるような真似をしたくなかったのと、本当のことを言えば樫木は2度とそれを使わないだろうと思って、芳明は嘘をついた。

 真偽を確かめるようとする慎重な目がしばらく芳明を見ていたが、やがて逸らされた。

「久世と会う時はつけないようにする」
「そんな必要ないって。外歩いてたら今の似てるなって思うことは何度もあるし。人の記憶ってそんなもんなんだよ。覚えているようで、ちゃんとは覚えてないんだ。匂いとか、そういう曖昧なものは、特にさ」
「それでも控えるよ。もらいものだから捨てることはできないけど」
「ほんと、気にするなって」

 樫木が使わなくなったらこの匂いを嗅げなくなる。そう思ってしまう自分がいる。忌まわしい記憶が付きまとう匂いなのに、完全に拒絶できない。

「東京タワー見えるんだっけ」

 芳明はソファから立って窓に近づいた。レースのカーテンを引くと、都内の景色が眼下に広がっていた。その合間に赤と白の電波塔がそびえ立っている。女を口説くには最高のロケーションだ。

「もうすぐライトアップされる」

 樫木がすぐ隣に並んだ。さっきよりもはっきり匂いが届く距離。芳明の心臓が早くなる。

「不便もあるけど、夜景は自慢できる。見て行くだろ」
「なに。俺のこと口説こうとしてんの?」

 冗談で言ったつもりが、樫木は笑わず驚いたように目を見開いた。自分にはまだこの手の軽口は早すぎたようだ。

「ごめん、冗談だから聞き流して」
「わかってるよ」

 そう言いながら樫木の目がぎこちなく逸らされる。頬から耳のあたりが赤くなっていた。それを見たら、心臓の底がトンと持ちあがった。

 衝動的に樫木の肩に頭を乗せていた。

「久世……?!」

 慌てる樫木の声を上の空で聞きながら、満足するまで匂いを肺に貯めた。

「……飯はどうする?」
「えっ? ……ああ、食べに行ってもいいし、人のいるところが嫌なら、出前でも頼むか?」
「そっちがいい。東京タワーをつまみに、酒も飲みたい」
「用意するよ」

 ポンポン、と樫木は撫でるように優しく芳明の頭に手を置いた。声だけで、樫木が微笑んでいるのがわかる。突如甘えて来た友人に戸惑いながらも、最終的には甘えさせてやろうと受け入れたようだ。

「なんでそんなに優しくしてくれんの?」
「友達なら普通だろ」
「俺が事件の被害者だから?」
「……そういうわけじゃないけど、違うとも言いきれないな。久し振りに久世に電話したのも、知り合いからあの事件の被害者が久世らしいと噂を聞いて心配になったからだし。久世は怒るだろうけど」
「怒らないよ。嬉しい」
「それなら良かった。力になれることがあったら遠慮なくなんでも言って欲しい」
「うん。その時は遠慮なく言うよ」

 芳明は目を閉じて、深く息を吸いこんだ。



 樫木といると学生時代を思い出すのか無性にそばが食べたくなる。出前はそばにして二人で食べた。そのあと、酒をちびちびと飲みながら、昔話に花を咲かせた。

 久し振りのアルコールだからか、酔いが早い気がした。口をつける前にグラスを傾けて胸元にこぼしてしまった。濡れた胸元をぼんやり見ながらヘラヘラと笑っていたら、樫木がタオルで拭いてくれた。

 酔っていても、樫木から漂ってくるこの匂いを嗅ぐと、一瞬酔いが醒めた。夢のように遠くなっていた記憶を昨日のことのように思い出す一瞬だ。

 痛みに快感が伴うように、芳明はその匂いを求めることを止められなかった。気付くと樫木の腕を掴んで引きよせていた。自分からも近づいて、樫木の首筋に顔を埋めた。

 毛細血管の隅々にまで行き渡らせるように深呼吸をする。深く味わおうと目を閉じた。

 視界がなくなると、ここはもう、監禁されていた部屋とかわりがなかった。手から伝わる体温は、男の体温と同じだった。

 芳明は樫木の首に、熱い息を吹きかけた。

「……どうして急に…………僕を、捨てたの…………?」
「っ!!」

 耳元でハッと息を飲む音を聞いた直後、肩を掴まれ、体を揺さぶられた。芳明はゆっくりと目を開け、自分を引き剥がした樫木を見た。樫木は険しい顔つきをしていた。芳明は夢見心地でそれを眺めた。

 何が現実かわからないまま、芳明は重くなった瞼を下ろした。



 寝返りを打った時、肌に当たる布の感触が実家の布団と違うことに気付いて芳明は目を覚ました。

 体を起こしてあたりを見渡す。暗い室内。広々とした空間。ここは樫木の部屋のソファの上だった。飲んでいる途中で寝てしまったようだ。この毛布をかけてくれたのは樫木だろう。テーブルの上も綺麗に片付けられていた。

 ソファから立ちあがり、ペタペタと部屋の中を歩いた。カーテンが開けっ放しの窓から夜景が見える。ライトアップの終わった東京タワーが静かに佇んでいた。

 口の中が気持ち悪かったので玄関近くにパウダールームを見つけてうがいをした。適当に引きだしを開けたら歯ブラシの予備を見つけ、それで歯を磨いた。勝手に使ったことは明日の朝、謝ればいい。

 口をゆすいでタオルで手を拭いた。そのタオルを開けっ放しの洗濯機に放り込む。その中に、今日樫木が着ていたシャツがあった。頭では駄目だとわかりつつも、手が伸びてそれを取りあげた。

 躊躇も一瞬、芳明はそのシャツに鼻を近づけた。目を閉じて、胸を苦しくさせるあの匂いを肺へと送り込む。理性が薄れて、常識も法律も存在しなかったあの部屋に気持ちが引き戻される。

 覚えているのは男の匂いと、たまに聞こえる掠れた息遣いだけだ。それを思い出しながら、芳明は自分の股間へ手を伸ばした。

 前を広げ、硬くなったペニスを取り出して扱いた。

「……ぁ……ハァ……っ……はあっ……あっ……」

 荒くなった息遣いは樫木のシャツに吸収される。鼻からも口からも匂いを吸いこみながら、芳明は射精するまで手を動かし続けた。

 射精後は素早く汚れた手を洗い、シャツを洗濯機に戻した。リビングのソファに戻り、久し振りの倦怠感に溜息をついた。

 自己嫌悪よりも、堕ちるところまで堕ちた自分が悲しいだけだった。




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