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Phantom (14/15)

2016.09.10.Sat.
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 自分にぴったりくっついて、久世が寝息を立てている。無邪気で美しい寝顔だ。知り合った学生の頃と比べて幼さは抜け切りすっかり大人の顔つきになっているが、何年経とうが彼の芯の強さと、人としての美しさは変わらない。

 その寝顔をしばらく眺めたあと、樫木はそっとベッドを抜け出した。物音を立てないように奥のウォークインクローゼットに行き、蓋つきの箱の底から香水の瓶を二本抜きとると寝室を出た。

 キッチンで袋とタオルを用意した。袋にタオルを入れ、そこにアトマイザーの中身を捨てた。嗅ぎ慣れた匂いが立ちこめる。換気扇を回した。朝には消えているといいが。

 次に、クローゼットから出した瓶も分解し、中身を袋のなかに捨てた。どんどんタオルに染み込まれて行く。新しいタオルを上にかぶせ、袋の口を縛った。さらに袋を二重にして同様に口を縛り、空になったアトマイザーと一緒にゴミ箱に捨てた。

 瓶二本は小さな袋に入れてベランダのゴミ箱に入れた。久世がベランダに出たとしても、ゴミ箱を開けて中身を検めることはしないだろう。

 真っ青な瓶と、透明な瓶。この二つを合わせたものが、アトマイザーの中身だ。もう必要はない。完全にとは言い難いが、ほとんど久世を手に入れたようなものだ。あとは失わないよう、他の誰かに奪われないように、注意を払いながら久世を大事に守っていけばいい。

『知りあってからずっと、俺は一度も久世を見失ったことはないよ』

 久世に言った言葉は本当だ。知り合った日から久世のことが好きだった。

 最初は友人の紹介だった。「どうも」とにこりともしない冷淡な会釈を寄越してきた久世の悪い第一印象は、講義のあと友人たちと一緒に食事に行った時に一変した。

 酒の席で久世はよく喋り、よく笑った。人見知りなのか、初対面の樫木には滅多に話しかけてこなかったが、それは初対面同士お互い様だった。

 悪のりした友人が樫木に強く酒を勧めてきた。まだ飲みなれていなかった樫木は、困りながらも、場の空気を悪くするのは気が引けて、グラスに手を伸ばそうとした。

 その時に「やめておけよ」と止めたのが久世だった。友人に「無理強いするな」と言い、樫木には「お前も嫌なら断れよ」と言った。この時、久世の強さと優しさに気付いて、恋に落ちた。

 同性を好きになったのは久世が初めてだった。これほど執着したのも久世が初めてだった。

 積極的に声をかけた。戸惑い気味だった久世も段々と慣れて、2人だけで行動することが増えた。誘うのは専ら樫木からだった。たまに久世から誘われると舞い上がった。

 この頃、以前から計画していた会社を友人と一緒に興した。携帯ゲームアプリの会社だ。経理や事務などの雑務をすべて引き受けたのは樫木で、プログラミングなどの専門的な部分は友人が担当した。

 どうせ無理だと周りのみんなが決めつける中、久世だけは「頑張れよ」と肩を叩いて励ましてくれた。嫌味でも揶揄でもなく、本心からの言葉だというのは目を見ればわかった。

 それまでの下準備が万全だったのもあり、結果は数か月で出た。アプリがヒットし、大学生が手に入れるには大きすぎる金額が懐に入って来た。途端に、手のひら返しが始まった。

 女にモテるようになった。知らない奴から声をかけられるようになった。中には絶対無理だと馬鹿にしていた連中もいた。

 そんな中、飲みに誘ってくれた久世だけは、「おめでとう。今日は俺のおごり」と成功を喜んでくれた。樫木の財布を当てにせずに、飲み代を払い、帰りのタクシー代は割り勘にして、と手を合わされた。

 久世が女だったら良かったのに、と何度も思った。ならばもっと単純だった。自分が女でもいい。久世は完全にヘテロだった。

 恋人になりたいなんて高望みはしなかった。そばにいられるならただの友人で良かった。

 久世が花村という女の子と付き合い出したと聞いた時は無理だった。認められるほど心は広くなかった。自分がこれほど嫉妬深いと知ったのもこの時だ。

 久世にも誰にも気づかれないよう、久世の彼女に近づいた。彼女は樫木のことを一財築いた学生だと知っていて、凄いね、としきりに褒めて来た。

 少し気のある素振りをした。彼女のために金を使った。簡単になびいてきた。久世とは知り合いだから……と曖昧な態度をみせれば、彼女はあっさり久世と別れた。久世との交際期間はわずか二週間。この程度の女だと思うと罪悪感はなかった。久世には似合わない。

 彼女と会うのを止めた。しばらく付き纏われたが、やがて諦めて消えた。

 卒業してから久世とはとんと会うことがなかった。何度か連絡してみたが、仕事が忙しいからと断られ続け、誘うことは諦めた。樫木も会社のほうがゴタついていた時期でもあった。

 共同経営者の友人が会社の金を使いこんでいることがわかったのだ。従業員を雇い、社長業のほとんどを樫木が引き受けていたのが裏目にでたようだ。

 仕事をしなくても金の入る環境にいた友人は堕落した。預金を使いきり、会社の金に手を出した。もちろんすぐバレた。

 従業員の手前、うやむやにするわけにもいかなくなり、刑事告訴することになった。酷い罵りを受けた。結局友人の親が金を工面して示談することになったが、樫木は数人の友人を失った。

 友達を刑事告訴するなんて酷いとかつての友人たちが抗議の電話をしてきたのである。事情を話しても、金は持ってるくせに薄情者だと罵られた。

 この一件で樫木はとても落ち込んだ。どうしても久世に会いたくなった。久世の会社、いまの住まい、交友関係、すべて調べ上げ、久世に彼女がいることを知った。相手は同じ会社の同期。

 やはり、祝う気持ちにはなれなかった。

 仕事で知り合った顔が広くて社交的な若いSEに合コンを頼んだ。久世の勤める会社の女子社員がいいと指定し、できれば同年代の女の子、そう注文すると、彼は注文通りの合コンをセッティングしてくれた。

 合コンの前に、ただの遊びだから、自分がどこの誰か明かさないで欲しいと頼んでおいた。合コンの席において、樫木は葛城という偽名を名乗り、広告代理店勤務と肩書を偽った。

 時間がかかるかもしれないと覚悟していたのに、意外にも1回目の合コンに久世の彼女がいた。人数合わせに呼ばれたのだというのは、乗り気じゃない態度ですぐにわかった。

 しかし彼氏がいるなんて興ざめなことは言わないで、最低限場の雰囲気に合わせていた。

 悪い子ではなさそうだった。だから余計、許せなかった。早ければ結婚を意識してもおかしくない年齢だ。男女というだけで垣根が低くなるなんて不公平だ。

 留美という女に近づいた。好青年を演じた。積極的になりすぎず、消極的にもなりすぎず。少し奥手なくらいのほうが女は安心する。真面目な男のふりをした。

 最初は警戒心剥きだしだった留美もやがて警戒を解き、緊張を解し、樫木の冗談に笑い声をあげ、酒を勧めれば素直に手をつけ、帰りはタクシーで家の前まで送らせた。

 その時に「実は私、彼氏がいるの」と打ち明けられた。

「君を奪うと言ったら?」
「そんなの、困る」
「こんな気持ちになったのは君が初めてなんだ」
「私だって……」
「こんなことを言うと嫌な奴だと思われるかもしれないが、みんな僕に色目を使うんだ。君だけはそんなことをしなかった。僕という人間の中身を見てくれた。だから、これで終わりなんて嫌なんだ。彼氏がいるなんて理由だけで僕を振らないで欲しい。出会った順番だけで決めてしまうのかい? 少しでも僕に可能性があるなら、電話してくれ」

 切なく訴えたあと、タクシーで去った。数日後に電話がかかってきた。彼と別れたと言う。落ち込む久世を思うと胸が痛んだ。

 久世と留美が本当に別れたのかを確かめてから携帯電話を解約した。そして嫌な思いの付き纏う会社を売り払った。

 それからもずっと久世の動向は定期的に探っていた。その頃、最上渓一の財布を拾った。現金の他にカード類も入っていて落とし主はさぞ困っているだろうと同情した。すぐに警察に届けるつもりだった。

 免許書を見ると齢が近かった。(顔写真の入っているものは駄目だ。住所は控えておくと役に立つかもしれない。)保険証も入っていた。(これは使える。)

 気が付くと保険証を自分のポケットに入れていた。免許書の写メを撮ったあと財布に戻し、念のため指紋を拭き取ってから公園のベンチの下に置いた。

 盗んだ保険証をどうするかなんて、この時はまだ何も考えていなかった。

 数ヶ月後、たまたま入った喫茶店で若い男女の会話が聞こえた。男のほうはやる気のない音大生で、彼女の部屋に入り浸っていることがわかった。ほとんど部屋に帰らず、家賃は何も知らない親が払い続けていることもわかった。

 新学期に必要な勉強道具を取りに行くという話になった。二人が店を出ると、樫木も店を出た。だんだん形になっていく恐ろしい計画を考えながら、2人のあとをつけ、男子学生のマンションを突き止めた。

 二人が荷物を取りに入った部屋は1階の端の部屋だ。運が味方しているとしか思えない。それを見届けてからマンションのまわりを歩いてみた。

 防犯カメラの位置、数。出入り口は1つ──学生の部屋の奥にも非常出入り口があった。まわりは民家に囲まれ、庭から伸びた木が道路に影を作っている。そっとドアノブを回すと鍵がかかっていた。

 紙袋を抱えた二人が出て来た。男子学生の腰で音を立てるチェーンに、財布と鍵が繋がっているのを見た。またあとをつけて、来た道を引き返した。

 2人は電車に乗った。間隔をとって二人を見張った。途中、高校生の集団が乗り込んできた。

 樫木は車内の人ごみのなかをそっと移動し、男子学生の背後についた。次の駅でまた高校生が乗り込んでくる。密着しても怪しまれない乗車率。

 樫木は釣り広告を見ながら、学生のチェーンに手を伸ばした。心臓がでたらめに鳴った。指が震えた。ぐ、ぱ、と何度か開いてから、チェーンから鍵の束を取った。

 そっと二人から離れ、次の駅で降りた。最寄りの鍵屋を調べ、鍵の複製を作った。すぐさっきの喫茶店に戻り、指紋を拭いてから外の植え込みに鍵の束を投げ込んだ。

 複製した鍵を使って男子学生の部屋に入ってみた。散らかって汚い部屋はカビと饐えた匂いに満ちていた。何カ月も帰っていないのは本当のようで、空気が澱んでいる。

 湿っている不快なベッドの上に寝転がった。朝までに男が帰ってくればそこで終わり。帰って来なければ実行しよう、そう決めて。

 男子学生は帰ってこなかった。




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Phantom (13/15)

2016.09.09.Fri.
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 今日は朝から雨だった。強い雨脚で窓を叩いている。空は黒い雲に一面覆われ、昼過ぎだというのに夕方のように薄暗い。

 芳明は窓に手を当て、気怠げに溜息をついた。

「退屈なら、今から映画でも観に行くか?」

 ソファで本を読んでいた樫木が声をかけてきた。

 昨日、警察署を出ると足が勝手に樫木の家に向かった。連絡なしにいきなりやってきた芳明を、樫木は快く招き入れ、夜は泊めてくれた。

 樫木に会うのは、仕事終わりに迎えに来てもらって、その夜セックスをしたあの日以来だ。忙しさと気恥ずかしさから後回しになっていた。

「いや。雨だし。どっか行く気分でもないし」

 窓から離れ、芳明はソファに寝転がった。樫木の膝の上に頭を乗せる。

「やらしいことしよう」
「昼間っから?」

 眉を持ち上げながら、樫木が苦笑いを浮かべる。

「今日は一日中、ベッドにいたい」

 樫木の首に腕をまわし、抱きついた。浮いた背中を樫木が支える。

「久世が望むなら、俺は叶えるだけだ」

 言うなり、樫木は膝の下に腕を差し込み、久世の体を抱きあげた。ふわっと宙に浮く感覚に驚いて樫木にしがみつく。そのまま寝室まで運ばれた。

 つい数時間前まで、二人とも全裸でベッドのなかにいた。汚れたシーツはすでに交換されている。でもまだ昨夜の淫靡な空気は残っていた。ゴミ箱に捨てられたティッシュからは、青臭い匂いもする。

 新しいシーツの上に芳明はおろされた。素早く服を脱ぐと、樫木をベッドに押し倒した。焦った仕草でベルトを外してズボンと下着を下ろす。樫木からはボディソープの匂いがした。昼前に起きた時、一緒にシャワーを浴びた。だから芳明からも同じボディソープの匂いがしているはずだ。

 清潔な匂いを漂わせるペニスに口を寄せてぺろりと舐めた。陰茎がむくりと反応を見せる。先を口に咥えた。吸ったり舐めたりしていると、樫木に頭を撫でられた。

「香水は使わなくていいのか?」

 どこまでも優しい声が訊ねる。

「もういらないって言っただろ」

 昨夜も樫木に同じことを訊かれて断った。

 前回ここを去る時、肌身離さず持ち歩いていたアトマイザーを、迷った末に置いてきた。もう必要がないと思ったからだ。昨日ここに来た理由も、香水ではなく、樫木に会いたいと思ったからだ。

 今までずっと現実味のない生活を送っていた。それがあの夜をきっかけに、地に足がついたような気がしていた。目に見えない膜が取り除かれたような、やっと夢から醒めたような、そんな気分だった。

 昨日の午後までは、あの香水の匂いを嗅げば、また夢見心地に戻れただろう。だがもうそんな効力はない。あの香水で酔えたのは、警察署の取調室で最上の姿を見るまでのことだ。

 今までずっと謎だった男の顔、姿を見た時、芳明の中の何かがすうっと醒めた。初めて聞いた男の声は不快だった。取り調べを受ける動揺した態度を見ていたら悪心がこみあげて来るほどの嫌悪を感じた。

 毅然とした態度でいてくれたなら、これほど幻滅はしなかったかもしれない。

 助かるために男の媚びた。自分を騙すために男を受け入れた。男の犯行の動機は自分への好意。ここまでするほど好かれているのだから、その想いに応えなければいけない。男を好きにならなければいけない。男の望む自分にならなければいけない。

 正常ではなかった。だから男に特別な感情を持っていた。恐ろしく、おぞましく、殺したいほど憎いはずの相手を、恋しく思ったりしていたのはそのせいだ。

 顔も形も知らなかった。だから余計に美化されていた。警察に捕まっても取り乱したりせずに、マジックミラーの向こうにいる自分に気が付いて、「やあ、久し振りだね」と微笑を浮かべながら手を振るくらいの離れ技をやってのけるのではないか、と。

 それほど芳明のなかで男は完璧な存在に形成されていた。あの部屋の中では芳明の命はもちろん、全権を男が握っていた。それが部屋を一歩出た途端、取調室で無様に狼狽していた。

 あんなただの中年男に好き勝手やられていたのかと、今では憎悪しか感じない。

 樫木に顎を持ち上げられて顔をあげた。

「こっちにおいで」

 と腕を引かれて樫木の腰の上に跨る。樫木の手が尻たぶを割って奥へ指を入れて来た。冷たい液体はローションだ。いつ用意した、と感心しながら、指の侵入に唇を噛む。

 樫木は右手で奥を解しながら、左手で芳明のペニスを扱いた。頬を上気させ、腰を前後に揺らし、甘い吐息を漏らす芳明の体にねっとりとした視線が絡みつく。目でも抱かれている、と芳明は思った。

 こんな目で見られていたなんて、今まで気が付かなかった。いつか樫木が言った通り、自分は他人に無頓着なのかもしれない。

 充分解されたあと、屹立する樫木のペニスの上にゆっくり腰を落としていった。太く硬いものが存在を誇示するように奥を広げる。音を立てて息を吐きながら、ゆっくり全部を自分のなかに収めた。

「俺に気を遣って無理してないか?」

 芳明の腰を支えながら樫木が下から訪ねる。

「無理してたら自分からここに来ないよ」
「俺に会いに来てくれたのか?」
「他にある?」
「会いに来てくれた理由を聞いてもいいか?」
「質問責めだな」

 芳明はふっと笑いを漏らした。

「樫木に会いたいと思ったから来た」

 匂いの呪縛からも、あの男の幻影からも、自分は完全に解放された。そう確信が持てる。だから会いにきた。

 助けを求めた時にそばにいてくれたのは樫木だ。溺れそうな時に手を差し伸べてくれたのも樫木だ。自分の感情は二の次で、無理難題を飲んでくれた。こんな自分を好きだと言ってくれた。

 その気持ちが嬉しかったし、応えたいと思った。ただの恩返しかもしれない。だが好きだという気持ちも確かに存在する。樫木のそばにいると安心するし、見られると性的な気分になるし、触れられると体に火がついて熱くなる。

 憎からず思っていなければこんな反応にはならないはずだ。その証拠に、他の男ではこうはならない。

 樫木とはこれから始まる。これも確信の一つだ。

「それは、望みがあると期待していいのか?」
「それ以外ある?」

 微笑みかけると、樫木は言葉を失ったように口を半開きにし、目を見開いた。芳明は笑みを濃くして樫木の上で腰を揺らした。ほら気持ちがいい。この充足感は本物だ。

 樫木に腰を掴まれた。下から突きあげられる。小刻みだった振動が大きく激しくなる。

 その動きに合わせて、立ちあがった芳明のペニスも揺れ、透明な液体が飛び散った。開いた口からは嬌声が止まらない。

「んふぅ……っ……うっ、あっ! あ! はあぁっ……あ、ああ……っ」
「絶景。すごくいい眺めだ」

 樫木がうっとりした目で呟く。

「……んっ……馬鹿……はぁっ……あ、あっ……あっ、や……触ったら……すぐ、出る、から……!」

 樫木にペニスをしごかれて、芳明は狼狽えた声を出した。泣きそうに歪めた顔で樫木の手に手を重ねる。

「そんな顔をされたらたまらないな」
「ひんっ、あ、やあっ……あっ、あ、ほんと、に……出るって……ばっ……まだ、やだ……」

 奥がぐちゃぐちゃに蕩けているのが自分でもわかった。ローションだけじゃなく、二人の体液で中は潤っている。樫木が動くたびに結合部が卑猥な音を立てた。芳明はそれが恥ずかしかった。

「イクところを見せて欲しい」

 尾てい骨に響く様な低い掠れ声でそんなことを頼まれた。芳明は樫木を見下ろした。またあの忠犬のような目をしている。胸を掻きむしりたくなるような目だ。こいつになら何を見られてもいい、なんでも見せてやろうと思えた。

 膝を立て、自分からも腰を振った。タイミングが合わなくてあやうく抜けそうになる。肌と肌がぶつかる音を立てながら何度も擦り合わせた。摩擦でさらに中が熱くなる。脳天にまで響く様な突きあげに声が止まらない。

「……っ……ぁあ……あっ、も、お……だめ、無理っ……ああ……イクっ……樫木ッ……ああ……樫木、俺……もぉ……イクッ……!」

 樫木に見守られる中、芳明は体を震わせて射精した。



 部屋はもう真っ暗になっていた。サイドボードのデジタル時計を見ると19時を過ぎていた。あれからずっと樫木と抱き合っていた。せっかく清潔なシーツに交換したのに、いまは精液と汗で湿り、所々びっしょりと濡れている。

 コンドームの存在を思い出したが、時すでに遅しだ。

「お腹すいてないか?」

 腕枕をしている樫木が顔を覗きこんで言った。確かに空腹だった。

「なにか食べるものある?」
「家にはないなあ。食べに行くか?」
「うーん、立ち食いそば」
「久世が食べたいならいいよ、行こう」

 苦笑するだけで樫木は躊躇わずいいよと言ってくれる。

「冗談だって」
「でも本当になにも食料がない」
「出前でいいんじゃない」
「そば?」
「うん」

 わかった、と体を起こした樫木は携帯電話で店に電話をし、そばを二人前頼んだ。その姿を見ながら芳明はうーんと伸びをした。枕の下に入れた手が何かに当たる。引っ張りだすと、香水の入ったアトマイザーだった。

 ずっと肌身離さず持ち歩いていたが、前回ここへ来た時に、もう必要ないと思ったから置いて帰った。いま改めて見ても、その中の液体に不可思議な魅力は感じないし、匂いを嗅ぎたいとも思わない。

 最上の顔を思い出して、芳明は鼻に皺を寄せた。

「これ、処分しといて」

 電話を終えて振り返った樫木に放って投げた。

「それはいいけど、捜査のヒントにならないかと思って渡したんだが」
「実は昨日、ここに来る前に警察署に行ってたんだ。容疑者の取り調べをするから、面通し頼まれて」
「えっ、捕まったのか? 良かったじゃないか!」

 驚いたあと、樫木はぱっと顔を明るくした。

「でもまだ逮捕じゃないんだ。証拠もないし、動機もわかってないし、なにより本人が否認してるからね」
「じゃあどうしてそいつが容疑者だと?」
「ひったくり事件の捜査をしてたら、俺を監禁してた時期に、監禁してた場所のあたりをそいつが深夜にうろついてる動画がたまたま見つかったんだ」
「凄いな。それは予想外だ。こんな偶然があるのか」

 驚きを通りこしたような顔で樫木は茫然と呟く。

「それで面通しに行ったんだけど、何もわからなかった。犯人のような気もするし、違うような気もする。目隠ししてたから、顔を見ても全然わかんなかった。その香水の匂いもしなかったし。刑事さんは、絶対証拠見つけて挙げるって息まいてたけど」
「これでもう安心して暮らせるじゃないか」
「だといいけどね」
「そうか、これはもう必要なくなったのか」

 樫木は手の中のアトマイザーに視線を落とした。

「じゃあこれは俺が処分しておくよ」

 大きな手が閉じて、アトマイザーは姿を消した。




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Phantom (12/15)

2016.09.08.Thu.
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 8月下旬になって、金子から連絡が入った。事件に進展があったという。容疑者の事情聴取をするから、警察署に来てほしい、ということだった。

 いきなりのことで芳明は戸惑った。もう犯人は捕まらないと諦めていた。犯人に繋がる証拠はゼロ、目撃者ゼロ、手がかりゼロという状況だったのに、なぜ急にこんな展開になったのかわからなかった。

 引っ越し先のマンションに一度挨拶に来て以来、小田崎と金子には会っていなかった。今後は遠慮して欲しいと芳明が来訪を断ったからだ。

 その間になにかしらの進展があったようだ。胸が騒いだ。落ち着かない気持ちで警察署に向かい、金子と小田崎から話を聞いた。

 同一犯と思われるひったくり事件が一年ほど前から起こっていた、と小田崎が切りだした。

 狙われるのは決まって女性。夜の暗い道を一人で歩いているところをフルフェイスのヘルメットを被った原付の犯人に背後から襲われていた。

 警察もパトロールを強化してはいたが、つい先日も同一犯らしき犯人に襲われた被害者が出た。

 女性はハンドバッグの紐を離さず、バイクに振り回されて電柱に頭をぶつけ、現在意識不明の重体。予断を許さない状態なのだそうだ。

 今までは打撲に擦り傷程度だったが、今回の重篤な被害を受け、警察は過去のひったくり被害も遡って捜査を開始。被害者の中に、逃げ去る原付の映像を撮影した女性がおり、その解析をしていたら、捜査員の一人が気付いたというのだ。

 その場所は、芳明が監禁されていたマンションの近く。日付はまさに、ちょうど一年前の監禁されていた頃。そして、遠ざかる原付とは反対に、近づいて来る男の姿が映っていた。その男こそ、容疑者として一時捜査対象になった人物。トランクルームの契約者だった、最上渓一だったのである。

 金子の言う通り、事件は思わぬ方向から進展を見せたというわけだ。

 最上の住まいと勤務先は映像の場所からは遠い。この日時になぜ、こんな場所をうろついていたのか、当然警察は疑いを持った。

 事件発覚当時も念入りな捜査はされた。事件発生以前に、最上が財布を落として警察に相談に行っていたことは確認済み。

 ──計画的な自作自演とも言える。

 仕事場と自宅の往復、たまに飲み会や友人と遊びに出かけていたという証言もほとんどが証明され、監禁部屋に通っている時間はないと判断された。
 
 ──常人の体力と思考なら。

 独身で一人暮らしの最上の夜中の行動は自由だ。自宅のマンションの防犯カメラの映像には、夜中に出入りするところは映されていないが、映らず行動することは不可能ではない。

 ──芳明の監禁場所の例もある。

 裏の取りきれないアリバイがあるところも警察の目を欺くためかもしれない。普通の人は24時間きっちりアリバイ証明などできるわけがない。逆に完璧なほうが怪しい。

 犯人は用意周到で、恐ろしいまでに理性的に犯行を完遂することのできる男だ。たまたま事件に利用されてしまった市民として、捜査線上にあがることも計算の上で自分の名義を使った可能性もある、と警察は考えているようだった。

 だとしたら大胆不敵、警察を舐めた男である。

 現在最上は取調室で事情聴取中だ。小田崎たちは芳明に面通しを頼んできた。

「でも俺、顔は見てないんですよ」
「視覚以外の五感は生きていた。見て何か思い出すものがあるかもしれない。雰囲気や仕草やなんかをね。些細なことが解決の糸口になる場合もある。ダメ元で一度、頼みますよ」

 小田崎の断り切れない気迫に押され、芳明は「わかりました」と頷いた。

 小さな部屋に通された。

「あれです。向こうからこちらは絶対に見えませんので、安心してよくご覧になってください」

 刑事ドラマでよく見るようなマジックミラー越しに、取り調べ室が見渡せた。咄嗟に目を逸らした。直視出来ず、床を見つめる。足が震えた。

 向かって右の、膝の上に手を置いて俯いている男が最上だと、小田崎が言った。芳明はゆっくり顔をあげた。

 中肉中背の、髪を7:3で分けた中年男が座っていた。顔は濃い目で、若干下膨れ気味。落ち着きなく体を揺すり、頻繁に顔や髪を触った。

「あれが……」

 芳明は思わず呟いた。

 あの男が、三ヶ月に渡って自分を監禁し、犯し続けた男なのか。あの手で体中を触り、あの舌で尻の穴を舐め、股間で隠れているもので奥をこじ開け貫いていたというのか。

 顔に熱があがるのを感じた。それとは逆に、胸のうちをすーっと冷たいものが下っていく感じもした。

「どうですか」

 小田崎が訊ねる。

「やっぱり……わからないです。背格好はあれくらいだったと思うんですが……」

 最上から目を離さずに答えた。動悸が激しくなっていくのを感じる。それに合わせるように呼吸も荒くなってきた。

「なぜこの日、自宅から遠いこんな場所を歩いていたのですか?」

 取調室の声が聞こえてきた。

「だから! 何度も言ったように、その日は会社の送別会があった日なんですってば! 酔っぱらって乗る電車を間違えてそんなところに行っちゃっただけです!」

 最上の声も聞こえた。野太い声だった。緊張と焦りからか、時折声を裏返させる。息遣いも聞こえる。記憶と照らし合わせてみる。似ている。似ていない。判断つかない。息遣いなんて、誰も似たようなものだ。

「大丈夫ですか」

 心配そうに金子が芳明の背中に手を当てた。

「はい、大丈夫です……。取り調べが終わったら、あの部屋に入ってみてもいいですか?」
「えっ、それはどうしてですか」

 小田崎が驚いたように言う。

「見ても声を聞いてもなにも思い出せないなら、あとは匂いしか僕にはわからないので」
「確かに。人には体臭がありますからな」

 取り調べが終わるまで別室で待った。金子がお茶を持ってきてくれた。向かいの椅子に座って、「必ず証拠をあげて逮捕しますから安心してください」と胸を叩く。

 弱々しく笑い返し、熱いお茶を啜った。

 30分ほどして小田崎が戻って来た。三人でさっきとは違う廊下から、誰もいなくなった取調室に入った。

 芳明は深呼吸した。最初に鼻に届いた匂いは煙草の匂いだった。あとは微かに整髪料の匂いと、ビニールのような匂い、饐えた匂いも少し混じっている。もっと深く息を吸うと、背後に立っている金子がつけている香水の匂いがした。

 つまり、男の香水の匂いはそこにはなかった。

 今日はたまたまつけていなかったのかもしれない。もしかすると、監禁部屋に来る時だけつけていたのかもしれない。自分の登場を知らせるために。自分の匂いとして覚えさせるために。それこそ、パブロフの犬のような効果を狙っていたのかもしれない。

 現に、解放されたあとも、その芳明はその匂いの呪縛に囚われていた。

「久世さん?」

 小田崎に名前を呼ばれて振り返った。

「すみません。やっぱり何もわかりませんでした」

 芳明は頭を下げた。





ジェラシー 第一回

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Phantom (11/15)

2016.09.07.Wed.
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「最近、ハローワークに行っているのか?」

 ある朝、父親が声をかけてきた。引っ越した先にあるハローワークに行ったことを母親から聞き知ったのだろう。

 まだ1回しか行っていないので返事に迷っていたら、「仕事を探しているのか?」と次の質問がきた。曖昧に頷くと、「そうか。無理するな」と言い残して、父は仕事へ出かけた。

 その数週間後、父の紹介で就職が決まった。

 特殊な建築材の製造販売をしている会社の社長室配属。つまり、秘書だ。最初にこの話を聞いた時は自分に務まるかと不安になった。だが以前勤めていた会社では社長付き秘書は男だったことを思い出し、面接を受けた。

 会議室で人事課の人間が面接をするのかと思っていたが、案内されたのは社長室だった。やたら血色の良い社長自ら、芳明の面接をした。

 簡単に秘書課の仕事を説明し、それが出来るか? と質問をされた。自信はないが、全力で頑張りますと答えた。その後2、3の質問をされて形だけの面接は終わった。

 尾関社長と芳明の父は昔なじみの知り合いなのだそうだ。面接の終盤は、ほとんど父との思い出話を聞くだけだった。

 事件のことは聞いているのか、失業期間については一切触れず、最近はセクハラについて厳しいだとか、コンプライアンスがどうたらという理由で男の君が入ってくれると昔気質の自分は助かる、ということを言われた。

 そして採用が決まり、勤めに出ることになった。秘書課には二人の女性社員が働いていたが、一人は寿退社し、その穴埋めで芳明が雇われた形だ。

 一緒に働くことになったのは江藤という女性で、芳明より年上の二十代後半。しばらくは江藤から仕事を教わることになる。不安はあったが気の良さそうな人で安心した。

 仕事を始めてみると、勝手がわからず戸惑うこともあったがやり甲斐もあった。社長について現場や得意先周りをしていると、いち社員として働いていた以前とは違う視点で物事を見ることが出来て勉強になった。

 毎朝早起きをして、決まった時間に家を出ると夜まで仕事をする。社会のサイクルに再び乗れた安堵感もあった。社会復帰したことで、親もひとまず安心したはずだ。

 カウンセリングにはもう通っていない。男と同じ匂いをみつけ、発情し、友人を誘ったなどとは、口が裂けても言えそうにない。それにある意味では『あの頃』に戻ったとも言えるのだから、行く意味がないような気もする。

 働き始めて一ヶ月が経った頃、樫木から電話があった。声を聞くのはあの日以来だ。忙しかったとみえる。

 新しい職場で仕事を覚えることに精一杯だったのもあるが、さすがに気が引けてこちらからは連絡できなかった。待つだけの日々は長く、やっぱり怖気づいたかと半ば諦めていたから、「明日、会えないか」と急な誘いでも嬉しかった。

 いつも通り迎えに行くと言う。芳明は働きだしたことを告白した。樫木は驚き、喜び、心配し、労い、励ましてくれた。仕事が終わる頃にメールしてくれと言われたので、翌日、その通りにしたら会社まで迎えに来てくれた。

 外で食事をしたあと樫木のマンションに向かった。その道中、訊ねてみた。

「道具は揃えてくれた?」

 意味を考える短い間のあと、樫木は「うん」と答えた。そのつもりで今日、誘ったということだ。

 マンションの部屋に入るなり、樫木に抱きしめられた。思いがけない積極さに驚きつつ、最初からそのつもりだった芳明も樫木の首に腕を回した。視線を合わせたのが合図だったように、キスをして、お互いの服に手をかけた。

「あ、待った、待って」

 会社を出る前に鞄からワイシャツの胸ポケットに移しておいたアトマイザーを取り出した。前回もらった香水だ。それを樫木に吹きかけた。

 樫木は小さく眉をひそめただけで、何も言わなかった。

 再び抱き合いキスをする。水音が混じった息遣いと、布ずれの音を立てながら、玄関から廊下へ移動する。樫木の寝室に着く頃にはほとんど半裸になっていた。ベッドに乗る動作のついでにズボンと下着を脱ぎ捨てる。

 芳明の上に樫木がのしかかる。欲情した樫木の表情にぞくりとした。

「一応確認するけど、やり方は知ってる?」
「もちろん知ってるさ」

 どこから出したのか、いつの間にか樫木の手にはローションのボトルが握られていた。

「男としたことあるんだ?」
「大人だから、それなりに経験はあるよ」

 男と寝たことがあるのか。なんとなく意外に思ったが、モテる要素を充分に備えた樫木なら、男女共に言い寄ってくる者は多そうだ。

 樫木がローションに濡れた手で後ろに触れて来た。すぐ奥の窄まりを探りあて、その周辺を指で撫でてローションを馴染ませた。充分濡らしてから指が入って来た。

 異物の侵入の瞬間はどうしても体が強張る。監禁されていた頃の記憶が呼び起こされる。

 男によって丹念に舐め解された。体中総毛立つほどの快感だった。ペニスが勃起し、涎を垂らした。芳明も涙を滲ませながら、もう我慢できないから入れて欲しいとねだった。刺し貫かれた時は被虐性の喜びが燃え上がった。

 わざと淫らな言葉を口にした。男に可愛がられている間は身の安全が保証される。という理由だけではなく、爪の先まで全部快楽に溺れてしまいたかったからだ。

 思考せず、男に与えられるものだけを糧とする。本能だけの生活は楽だった。今振り返ると恐ろしいまでに、甘美だった。

 指を出し入れしながら、樫木は芳明の胸を舐めた。舌の先で乳首を立たせて吸い上げる。喘ぐように芳明は息を乱れさせた。

「早く……もう、いいだろ……」
「あと少し」
「んっ……俺が……もういいって言ってんのに……」
「痛いのは嫌だろ」
「あっ、や、そこ……!」

 敏感な部分を指が擦りあげた。芳明の腰がビクンと跳ね上がる。そこを押すように何度も擦られた。

「あっあっ、やだっ……そんな……っ……したら……!」

 監禁されていたのは一年前だ。それ以降、排泄以外では使っても触ってもいなかった場所だ。なのにすぐ慣れた。思い出した。どれほど強烈で、中毒性があるかを。

「いやだ……ぁあっ……いやっ、あっ、あっ……抜いて! そんなの、じゃ……いやだ……っ」
「わかった、抜くよ。いま入れるから」

 あやすような口調で言い、樫木は指を抜いた。

「早く……!」

 芳明は涙目になって懇願した。樫木の目が何か探すように逸らされる。

「いらないっ! ゴムなんかいらない……! だから、早く……ッ」
「でも」

 驚きと戸惑いの眼差しが戻って来た。芳明は唇を噛みしめながらかぶりを振った。自分でもわけがからないほど混乱して、本当に泣いてしまいそうだ。

 そんな心情を察したのか、樫木は覚悟したような表情で小さく頷くと、切なく窄まるそこへ亀頭を押しあて、ゆっくりと埋めた。指と違う太さ、大きさ。

 芳明は顎をあげ、咽喉を晒した。

「あああっ……あっ……」
「大丈夫か?」
「はぁあ……はあっ、あぁ……もっ……奥、まで…ッ…きて……ッ」

 そこが大きくこじ開けられた。芳明の目尻から涙が一筋流れ落ちる。恐怖の下で征服された初期の記憶が蘇る。あの体験は恐怖だった。暴力だった。改めて思い知らされた。

「あ、はあ……あああ……嫌ッ、だ……! あ、やめ……許して……!!」

 いま味わう苦痛と過去の記憶が混濁する。芳明は嫌々と左右に首を振りながら樫木の胸を押し戻した。

「久世? どうしたんだ?」
「嫌だ! いやっ! あ、あっ……どうして…っ…僕が、こんな目に……! 僕がなにをしたの? 酷い……っ……酷いよ……!!」

 取り乱した芳明は樫木の胸に拳を叩きつけた。力強く何度も。

 樫木はそんな芳明を悲しい目で見守った。収まるのを待って、芳明を抱きしめた。しゃくりあげる芳明の額や頬にキスをする。

「ああ、酷い。酷いよな。久世は何も悪くない。久世に落ち度なんかない。責められるべきは犯人で久世じゃない。だから苦しまなくていい。自分を責めなくていい。他にどうしようもなかった。目をつけられた以上、逃げられなかった。何も知らない久世に防ぐ手段はなかった。生き残るために久世はよく頑張った。普通だったら耐えられない状況を三ヶ月も耐えた。それを後ろめたく思う必要はない。

 落ち着いた優しい声で樫木は喋り続けた。

「怖いなら怖いと言えばいい。泣きたいなら泣いていいんだ。俺がいる。俺が久世のそばにずっといるから。必要な時でも、そうでない時でも、いつでも俺を呼び出せ。すぐに駆けつける。久世が安心して眠れるまで、ずっとそばにいる」

 錯乱状態だった芳明も、樫木の体のぬくもりと優しい声にだんだん気を落ち着けていった。

 白い天井。視線を横にずらすと、自分を抱きしめ、頭を撫でる樫木がいる。目が見える。姿を見せなかったあの男じゃない。一言も声を聞かせなかった男じゃない。

 芳明は大きく息を吸いこんでから、深々と息を吐いた。

「…………樫木ってそんなふうに口説くんだ? ……熱烈で、意外」

 涙声で言うと、芳明はフフッと笑った。樫木も微笑んだ。

「こんなに必死になるのは久世だからだ」
「俺だって。こんなみっともないとこ見せたのは樫木だけだぜ」

 樫木の頬に手を添え、顎を持ち上げた。樫木が躊躇を見せる。

「ここまできて止めるつもりか?」
「今日はもうやめておいたほうが」
「さっき取り乱した俺が言っても説得力ないだろうけど、もう平気だ。お前が誰か混乱したりしない。今はもう、樫木しか見えてないから。それに」

 芳明は腰に力を入れて樫木を締め付けた。ニヤリと笑い、

「これ、このまんまじゃ可哀そうだろ」

 樫木の顔が赤くなる。小さいとは言い難い大きさだったのだ。

「無理に続きをしなくても俺は、」
「俺がしたいんだよ。言わせんなよ」

 樫木の言葉を遮って言い、腰に足を巻きつけた。ぐ、ぐ、と樫木を締め付ける。中で体積を増すのがわかった。樫木は自己嫌悪の表情だ。可愛いところもある。芳明はのどの奥でくっと笑った。

「嫌になったら我慢しないですぐ言ってくれ」
「わかったって」

 まだ気の進まない顔で樫木は体を起こした。様子を見ながらゆっくり腰を動かす。乾いてきたのか少し引きつる感じがする。樫木もそれを感じたようでローションを継ぎ足した。熱い結合部に冷たい液体が少し心地良い。それもすぐ、体温と摩擦で熱くなった。

 相変らず恥ずかしくなるくらい樫木はじっと見つめてくる。心配でたまらないといった目だ。優しくて誠実な目。忠犬みたいだ。

 その目に欲情した。胸の奥から熱い塊が噴き出るのを感じる。

「や……あっ、ああ……あっ、樫木っ……」
「どうした?」
「あっ……っ……俺、やばい、気持ち……いいっ……」
「……俺も」

 少し、樫木の動きが早まった。中を探るように角度をつけ、円を描いた。

「ああっ、あっ、ん! んんっ……それっ……そこ、気持ちいいっ……」
「ここか?」
「ああぁっ、そ、こっ……ッ……ん、あっ、かしわ……ぎ! や、ああっ」

 敏感な前立腺を中心的に責め立てられる。じんじんと腰が熱くなって、ペニスは痛いほど勃起した。樫木の一突きごとに、体中の神経がびりびりっと震える。

 頭がぼうっとして、意識が彼方へ消えて行きそうな気配がした。慌てて樫木の腕につかまり、顔を見た。見慣れた顔が別人のように見えた。これは誰だ。あの男か? 違う。樫木だ。大学からの知り合いで、こんな自分を好きだという、変わった奴だ。

「はぁ、んっ、あ……あっ、樫木の……熱い……おっきくて……っ……俺、どうか、なりそ……」
「嬉しいことを言ってくれるんだな」
「んっ! はあっ、あっ、もぅ……出る……」

 樫木の手が芳明のペニスを握り、射精を促すように動いた。体を痙攣させながら、芳明はあっけなく果てた。精液は芳明の咽喉元まで飛んだ。自分が吐きだしたもので汚れた胸を上下させながら呼吸を繰り返す。

 中で蠢く樫木を感じる。前立腺に当たると腰が跳ねる。射精直後で敏感過ぎる。苦痛に近い快楽で、芳明は顔を歪ませながら息を弾ませた。

「はっ、あっ、あっ、樫木も、イッ……っ……て……俺の中で……! あいつの記憶を……お前で塗り替えて欲しいっ」

 樫木は寂しげにも見える顔で微笑んだ。足掻く芳明が哀れでたまらなかったのかもしれない。

 腰を抱え直すと、樫木はピストンの速度を上げた。突かれる度に、芳明の頭のなかで白い閃光が走った。

「久世…………!」

 体の奥で熱いものが噴きあがるのを感じた。その瞬間、かすかに、あの香水の匂いがした。それはただの匂いで、二人の体臭と体液に簡単にかき消された。




土下座、して下さい。

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Phantom (10/15)

2016.09.06.Tue.
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 樫木は芳明の腰に跨るように膝で立ち、苛立った手つきで前髪を掻きあげた。肩で息をしながら、横を向いて呼吸を整えようとしている。

 怒っている様子の樫木からふと視線を移した先でそれを見つけた。少しの驚きと喜び。芳明はそれに手を伸ばした。もうすでに、硬く太い。

 手首を掴まれた。

「やめてくれ……!」

 低く押し殺した声が呻くように言う。

「俺に触られるのは嫌?」
「そうじゃない、ただ、こういう形では嫌だ」
「嫌なのになんでこんな事になってるの?」

 自由なほうの手で樫木の勃起したペニスを触った。ズボンの中でそれがむくりと動く。

「それはっ……! 男なら誰だって……こうなる、だろう! 好きな相手とこんな状況になったら……誰だって!」
「好きな、相手?」

 布越しに弄っていた指を止め、芳明は首を傾げた。樫木は掴んでいた芳明の腕を離した。両手で顔を覆い隠し、深い溜息をつく。

「そうだ。久世のことが、ずっと好きだった」
「俺を……ずっと……? いつから?」

 予想外の言葉に軽く目を見開いた。そんな素振りはまったくなかった。そもそも、恋愛感情を持つほどの間柄だったろうかと困惑する。

「学生の時からだ。こんなことにならなきゃ、言うつもりなんかなかった。言った今だって後悔してる」

 ずっと顔を隠したままなので泣いているのかと思った。芳明は体を起こし、樫木の腕に手をかけた。力を入れて、顔から引き離す。泣いてはいなかった。だが、それに等しい顔つきだった。

「なんで後悔してるなんて言うんだよ」
「状況に便乗して、久世の混乱を利用しているみたいで、こんなのは嫌だ。卑怯だ」
「卑怯なんかじゃない。利用すればいい。俺だって樫木を利用してるんだからおあいこだ」

 唇を噛みしめて樫木は首を左右に振った。真面目で頑固だ。潔癖なところが樫木のいいところだが、今はただじれったいだけだ。

「本音は昔の俺と違うから嫌なんじゃないの?」
「それは違う! 久世は何も変わってない!」

 予想通りの反応が返って来た。芳明は口の端に笑みを浮かべた。

「だったら、躊躇う理由はないだろ」

 樫木の首に手をかけ引きよせながら、自らも腰を浮かせて顔を近づけた。最後の抵抗のように弱々しい反発を見せたが、最終的に折れて芳明を抱きしめた。ベッドに戻る芳明を追って、樫木の体が降りて来る。

 抱き合いながら唇を合わせた。同時に舌も絡めあった。求めっあった者同士、貪るようなキスだった。

「……俺なんかのどこが好きなわけ?」

 まだ口が触れ合うほどの距離で樫木に訊ねてみた。

「裏表がなくて、前向きで、良くも悪くも他人に無関心で、そっけないくせに優しくて、責任転嫁をしない高潔さと、強い精神力と、たまに俺に甘えて来るところ」

 のどの奥でくっと芳明は笑った。

「なにそれ。俺じゃなくて別の誰かと間違えてない?」
「知りあってからずっと、俺は一度も久世を見失ったことはないよ」

 優しい口づけが落ちて来た。樫木の手が再び芳明の股間のものを握った。

「んっ」

 弾んだ声が漏れる。入れ替わりにあの匂いが入ってくる。思考を停止させる匂い。

「ん……ぁ……あっ……」

 のけぞった芳明の首元に樫木は舌を這わせた。跡が残るほど強く吸う。シャツをたくしあげ、露わになった胸を舐めた。立ちあがった乳首を口に含み、もどかしそうに甘噛みして舌で転がした。

「ふ……んっ……あっ、あっ! や……ぁあっ……」

 芳明は頭を振って悶えた。股間では音が立つほど激しい手つきで扱かれた。樫木を挟むように広げた足がガクガク震える。

「ま……はぁっ……まって、あっ……あああ……俺も、触らせて……!」

 背中の服を引っ張ると、樫木の顔が目の前に戻って来た。股間に手を伸ばし、樫木の勃起したものを握った。熱くて硬くて、先端からは先走りが滴り落ちている。

 野性的で男の本能が剥きだしだと思った。いつもきっちりしている樫木の隠された面を見た気分だ。

 扱き合いながらキスをした。敏感な部分を二か所も同時に擦り合わせている。気が昂る。昇りつめる感覚がする。腰が重たくなってきた。股間が切ない。

「……んっ……んん……ぁっ……で、る……!」

 樫木のシャツを引っ張って鼻に押し当てた。

「んっ、んっ、あ、あああ……出るっ……出っ……はあっ、あ……あっ!!」

 男の匂いに包まれるなか、体を突っ張らせながら芳明は達した。熱い塊が体の外へ飛び出していく。久し振りに味わう達成感に頭が真っ白になった。以前樫木のシャツでしたときとは全然違う。

 息を整えながら、芳明は止まっていた手を動かした。

「俺はいいよ」
「こんなにしておいて?」

 笑って言いながら先端を挟むように指を小刻みに動かす。クチュクチュと水音がする。それを亀頭に馴染ませ、全体を手で包みこんだ。優しく扱く。カサがぶわっと膨らんで開いた。

 芳明は唇を舐めた。

「……挿れる……?」

 誘うような声色になったのは無意識だった。樫木は首を振った。

「それは駄目だ」
「どうして」
「歯止めが効かなくなる。それに道具もない」
「道具って?」
「例えば……ローションとか、ゴムとか」

 全部いらないんだけど、と言いかけてやめた。頭に浮かんだのは、いつも男がしてくれていたこと。男は時間をかけて芳明の尻を舐めた。唾液と舌だけでそこを解していた。流石にそれを樫木にさせられない。

「じゃあ次。用意して、しようよ」

 樫木の頬に手を添えた。顔をずらした樫木が手の平に口づけする。

「久世は酔ってる。酒と、香水の匂いに。素面になってもそう思うなら、そうしよう」

 樫木らしい言葉だ。そして的を射ている。酒を飲んでいなければ、香水が手元になければ、樫木とこんなことはしていなかっただろう。発情して、自分に好意を寄せてくれている親切な友人を利用した。最低の人間だ。

「樫木が嫌じゃなかったら、俺はしたい」

 そしてとことんズルイ。

 樫木は答えなかった。芳明の肩口に顔を埋め、ほどなくして射精した。



 朝のリビングは白い光に溢れて輝いて見えた。周囲に建造物がないとこんなにも明るいのかと感心しながら、洗顔と歯磨きを済ませてリビングに戻った芳明はキッチンに立つ樫木の隣に並んだ。

 樫木はフライパンで卵とベーコンを焼いていた。食欲をそそる匂いがする。

 芳明はこっそりと樫木のことを観察した。昨夜、あんなことになったせいで、もう以前のようには見られない。友人ではなく、男として意識してしまう

「パンとご飯、どっちがいい?」

 ベーコンを裏返しながら、樫木がちらりと視線を寄越す。

「朝からそんなに食べないから、それだけでいい」

 芳明はフライパンを指さして答えた。わかった、と頷く樫木は、芳明がリビングに戻って時からずっと笑顔だ。

「俺が昨日のこと謝りださないように予防線張ってる?」
「えっ?」

 意表をつかれたように樫木は少し驚いて見せながら、少量のサラダが乗った皿にフライパンの中身を移し替えた。

「香水が似てるだけって嘘ついたこと。樫木の気持ちを聞いたのに利用したこと。あんなことに付き合わせたこと。俺が謝りださないように、わざと満足げな顔してんじゃないの?」

「そんな顔してたか?」

 フライパンをコンロに置いて、樫木は自分の顔を撫でた。持ちあがっていた頬を下げる。ふっと芳明は皮肉に笑った。

「謝んないぜ、俺は。昨日言った通り、樫木が嫌じゃなかったら、続きをしたいと思ってるから」
「俺も気持ちは変わらない。素面の久世がそう思うなら、俺はそこに付け入ることにしたから」

 そうきたか、と芳明は内心で苦笑した。開き直って攻めに転じたふりで、芳明の罪悪感を軽くしようとしてくれているのだろう。

 素早く樫木にキスした。離れる前に腰に腕を回され、引きよせられた。朝から予定していなかった濃厚なキスになった。まだ微かに香水の匂いがする。ふと、芳明は思い出した。

「そういえば、彼女いるんだっけ」

 香水は彼女からの誕生日プレゼントだと言っていたはずだ。

「今は……いない」

 樫木はバツの悪そうな顔をした。

「誕生日プレゼントをもらったって」
「あれは嘘なんだ。香水をくれたのは前の従業員の子なんだ」
「なんでそんな嘘を?」
「見栄、かな。それに、久世を好きだって気付かれたくなかったから、そういうことにしておいた」
「ふん、だからコンドームも常備してないんだ」
「今度買っておくよ」

 皿を両手に持つと、樫木は逃げるようにそれをテーブルへ運んだ。横を通りすぎる樫木の耳は赤くなっていた。芳明の頬は自然と緩んだ。




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Phantom (9/15)

2016.09.05.Mon.
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 順番でシャワーを浴び、寝支度を済ませた。芳明は先にベッドに入った。リビングの明かりを消した樫木もあとからやってきた。掛け布団をめくって、芳明の隣に身を滑り込ませる。

「明かりは全部消したほうがいいか?」

 照明を絞りながら樫木が声をかけてきた。

「真っ暗じゃないと眠れない」
「わかった」

 ピッと音がして、部屋は真っ暗になった。カーテンも閉めているから本当に視界ゼロの真っ暗闇だ。遠近の感覚さえ掴めず、目の前に天井が迫っているような感覚に陥る。

「おやすみ」

 隣の樫木が言う。芳明も「おやすみ」と返した。

 寝返りを打ち、枕の下に手をいれ、アトマイザーを取り出す。蓋を外し、噴射口に鼻を近づけた。真新しいあの匂いがする。新鮮すぎて、監禁されてすぐの、男の匂いを認識した頃を思い出した。

 あの頃は恐怖しかなかった。強/姦されるのはもちろん、触られることも嫌悪でしかなかった。屈辱と恐怖の中、ただ無事に帰れることだけを祈り続けていた。

 今もそのころの恐ろしさを思い出すことは出来る。一生忘れられない恐怖を植え付けた男なのに憎みきれない部分もある。正確には、その怒りや憎しみが持続しないと言ったほうが正しいかもしれない。

 一度も顔を見なかったせいもあるだろう。憎むべき姿形を知らないのだ。匂いと、皮膚による感触と、たまに聞く息遣いしか知らない。本当に存在していたのかさえ怪しくなる時がある。

 それに感覚が麻痺していたとは言え、最後の一ヶ月あまりは恋人同士のような蜜月を過ごした。男はいつも優しく、慈しみに溢れていた。自分が反抗しなければ乱暴されない確信もあった。

 素直でいれば男が喜んでいるのが伝わってきた。媚びれば確実に男は喜び興奮していた。それは身をもって証明されている。

 ただの欲望の捌け口として使われていただけかもしれない。だが、大事には扱われていた。セックスをすれば男より気をやる回数は多かった。前戯も、後始末も、雑にされたことは一度もない。

 だから尚更、本当は悪い奴ではないのではないか、なんて間違った擁護をしてしまう。自分がただ男の嬲り者にされたという現実を受け入れられたくない心理が働いているのかもしれない。大事にされていた、愛されていたということにして、暴力と変わらない凌辱に意味を持たせたい一心かもしれない。

 どうであれ、芳明は男を恐れつつも、飼いならされたあの頃に特別な郷愁を抱いてしまうのを止められなかった。

 持て余す感情の着地点を探るように、何度もアトマイザーから男の匂いを吸いこんだ。微量な匂いに鼻が慣れてしまった。このあたりで切りあげて眠ることに集中しなければ。

 アトマイザーを握り締め、枕の下に手を隠した。すぐ匂いが欲しくなる。もう我慢の限界がくる。

 目の前、手のなかに男の匂いがあるのに、寝るなんて無理な話だった。そろりと手が下半身へ伸びる。直接刺激はしない。ただ、上から触るだけ……

「眠れないのか?」

 突然の声にぎくりと心臓が震えあがった。芳明が何度もため息をついていたせいだろう。声の硬さから、樫木も寝ていなかったとわかる。

「飲み過ぎたせいかな、目が冴えちゃって」
「やっぱり俺は別の部屋で寝たほうが……」
「平気だって」

 身動きする気配に、芳明は振り返った。思いがけず至近距離に樫木の顔があった。息がかかるほどに近い。自分をじっと見つめる二つの目が、暗闇のなかぼんやりと見える。

「無理をするな。俺に嘘はつかなくていい」
「無理なんてしてない」

 胸の苦しさを感じながら芳明は喘ぐように言った。

 手の中に収まる容器を強く握りしめる。なぜこれを持ってベッドに入ってしまったのだろう。こんなものを枕元に置いて、寝る直前まで匂いをかいでいたら男の夢を見そうなものなのに。

 むしろ、夢を見たかったというのだろうか。

 それとも────。

 ああ、そうか。ここが着地点だったのか。

 何かに操られるように手が動き、樫木の胸元に香水を一吹きしていた。

「えっ、なに……これ、さっき渡した……?」

 いきなりの行動に驚いた樫木が布団をめくりあげ、体を起こした。自分の胸元に手をあて、困惑した眼差しを芳明に向ける。

「やっぱり……、この香水、犯人が身につけていたものと同じなのか……?」
「同じ、だと思う」

 確信していながら、最後の悪あがきで意味もなく言葉を濁した。

「それは俺が預かっておく」

 取りあげられる前に芳明は腕を反対側へ伸ばした。それを追いかけて樫木も腕を伸ばす。樫木の体が芳明の顔の前を覆う。ちょうど、香水を振りかけた胸元が目の前にくる。芳明は飢えたもののように、樫木の胸倉を掴んで引きよせると匂いを吸いこんだ。

「久世、やめろ!」

 肩を掴まれ、ベッドに押し戻された。強い力で引き剥がされてカッと頭に血が上る。

「……なんでもっ……してくれるんじゃなかったのか!」

 押さえつけられながら芳明は声を荒げた。

「力になれることがあったらなんでも言えって、そう言ったのはお前だろ!」
「この香水は……! 事件を思い出すだけじゃないか!」
「思い出したいんだよ俺は!」

 はっと樫木が息を飲んで絶句する。

「ネットでなんて書かれてるかお前も知ってるだろ?! その通りなんだよ! 毎日毎日! 寝て食ってる時間以外、俺はずっと犯されてたんだよ!」
「そんなこと言わなくていい!」
「ケツに突っ込まれて中出しされまくって! あいつのちんこしゃぶって! アンアン喘いでたんだよ俺は!!」
「もういい!」

 樫木にぎゅっと頭を抱きしめられた。

「わかったから、もう何も言うな」

 押し殺した樫木の声。乱れた息遣いが聞こえる。それを聞いていると、記憶が揺さぶられた。芳明は荒く息を吸った。鼻腔に男の匂いが充満する。さらに深く吸いこんだ。細胞の隅々へ行き渡る。

 樫木の背中に腕をまわし、目を閉じた。意識があの部屋へ飛んでいく。あの時間へ戻って行く。胸が締め付けられた。

「なんでも……してくれるって……」
「確かに言った。俺が悪かった。俺はなにをすればいい?」

 思考が渦巻いた。ひとつに絞るためにまた深呼吸する。

「このままでいい。このまま、いさせてほしい」
「わかった。少し体勢をかえてもいいか?」

 樫木は芳明の上から退くと、横に寝転がり、腕を広げた。その腕のなかに芳明は収まった。樫木にぴたりとくっついて、気の済むまで匂いを吸いこんだ。

 懐かしくて、白い微粒子のような粉っぽさがあって、冷たさと、甘さと、上品ささを感じさせるあの匂い。

 芳明は再び目を閉じた。すぐ、あの頃へ戻った。あの部屋の、男の腕の中へ。

 薄い生地越しに感じる肉体の厚みと体温。全身で感じたくて体に手足を巻きつけた。お互いを隔てる布が邪魔だと思った。

 甘えるように頬を擦りつけた。頭を撫でられた。いつもなら、もっと強い刺激をくれるのに。

「……っ! 久世……っ」

 逃げるように腰から下が離れていく。それを足を使って引きよせた。

「久世……、当たってる……っ」

 芳明の股間は熱く滾っていた。

「……はぁっ……っ……ぁっ……」

 それを樫木の太ももに押しつけるだけで気持ちいい。男の匂いを取り込んで、熱い息を吐きだす。

 切羽詰まった呼吸を繰り返した。

「ん……っ……は……はぁ……あ……っ……ど…ぉ……して……?」

 触ってこない。キスもない。動かない肉体がもどかしくて泣きたくなる。物足りない部分は自分で埋めるしかない。芳明は股間へ手を移した。

 樫木が身じろいだ。横向きになり、芳明の手の隙間から割り込んでそこを触って来た。待ち焦がれていた感触に、芳明は嘆息を漏らした。

 大きな手が股間を包みこむ。すでに引き返せない状態にまで育っている。さらに育てるように手が動いた。

「あっ、あっ」

 樫木に抱きついて声をあげた。咽喉から勝手に出て来る色のついた声だ。樫木も芳明の体に回した腕を引きよせ、しっかり抱きとめた。

「もっ……と……ちゃんと、触って……」

 一瞬動きを止めた手が、芳明のズボンと下着をずらした。直接握り、上下に擦る。すでに鈴口には水溜りが出来ており、指でそれを掬い取って潤いとした。

「これでいいか?」
「いい……気持ちいい……っ」

 布団の中からグチュグチュと音が聞こえ始めた。大量のカウパーが樫木の手を濡らし、滑りを良くした。竿は少し強めに、カリのあたりは柔らかく。強弱つけて扱かれると腰が蕩けて何も考えられなくなった。

「あっ、ああ……っ……す、ご……気持ち…ぃ……ん……はあんっ……!」

 芳明は無意識に腰を揺らしていた。胸に甘酸っぱいものが広がる。樫木の首にしがみついて耳に唇を掠め当てた。熱い息とともに嬌声をそこへ吹きこむ。

「久世…………ッ!!」

 いきなり体をベッドに押さえつけられた。同時に腕の中にあった体が離れていく。中断されて芳明は目を開けた。

「樫木……?」

 そこにいたのが誰であったか今思い出したような口調だった。目を閉じている間、芳明の頭にいたのはあの男だった。



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Phantom (8/15)

2016.09.04.Sun.
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 法務局で用事を済ませたあと、スーパーで買い物をしてから樫木の家へ向かった。今日は樫木がパスタを振る舞ってくれるらしい。

 待っている間、先にあけたワインを飲みながら、窓から外の景色を眺めていた。外の世界はせわしないが、ここの空間は時間の流れがゆっくりだ。その落差に、早く仕事を見つけなければという焦燥が募る。

 樫木に呼ばれてテーブルについた。きのことベーコンのパスタが目の前に置かれる。アボカドのサラダとガーリックトーストもある。

 食べようとしたら、スーパーの肉屋で買っていたローストビーフも追加された。

「豪華」
「今日は久世がいるから。いつもはもっと適当だよ」
「女だったら確実に落ちてるな」
「女じゃなくて残念」
「えっ」
「食べよう。お腹すいた」

 いただきます、と手を合わせた樫木に習い、芳明も手を合わせてから箸をつけた。味付けも申し分なくて、全部食べきれるか心配だった量をぺろりと平らげた。

 後片付けは一緒にした。芳明が鍋を洗い、樫木は軽く汚れを取ってから食器やグラスを食洗器にセットした。

 片づけのあとはソファに移動して、発泡酒を飲みながらテレビでスポーツ観戦した。

 途中で何か思い出したように樫木が立ちあがり、何かを持って戻って来た。

「警察の人に渡してくれ」
「なにこれ」

 受け取った小さな容器。芳明は名前を知らないが、アトマイザーと呼ばれるものだ。

「なかに例の香水が入ってる。同じじゃなくても似てるなら、捜査に役立たないかと思って」

 ざわっと胸が騒ぐ感覚がした。

「……ありがとう。今度会った時に渡しとく」

 透明な液体を見つめながら芳明は返事をした。これがあの男と同じ匂いの香水。あの男の匂い。それが今、自分の手のなかにある。

 無意識に深い呼吸をしていた。体があの匂いを欲している。求めている。助かるためとは言え、浅ましい痴態を演じた醜い自分を思い出す匂いなのに、時間が経てば経つほどに、あの時間は現実味のない淫靡なものになる。

 アトマイザーをテーブルに置いて、また酒とスポーツ観戦に戻った。

 意識の半分はあの香水に引きよせられる。目の前に甘いお菓子を置かれた子供みたいに、ちらちら物欲しそうに見てしまう。

 それを誤魔化すように発泡酒を空けた。一時間もすれば酔いがまわって、顔が火照った。酒もすべて飲みほし、手持無沙汰で落ち着かない。自分の髪に手を入れボサボサに搔き乱した。これではただのジャンキーだ。

 目が香水に吸い寄せられる。酒なんかではなく、あの匂いを嗅ぎたい。一発で泥酔してエクスタシーを感じられるのに────。

「大丈夫か、久世」

 目の前で大きな手が振られた。アトマイザーを睨むように見ていた芳明は我に返って樫木を見た。

「ああ……、大丈夫」
「かなり飲んだな」
「……飲み過ぎた……。今日、泊まっていいか?」
「もちろん。またソファで寝かせるわけにはいかないから、客用の布団を買っておいたんだ。さっそく役に立つ」

 満足そうな顔で樫木は立ちあがるとリビングルームを出て行った。廊下の途中にあった部屋の一つを開けて、何やらゴソゴソしている。芳明はアトマイザーを手に握ってそちらへ向かった。

 玄関から見て一番手前の部屋に樫木はいた。6帖より少し広い部屋の中央に布団を敷いている。

「今日はここで寝るといい。一応マットレスも用意したけど、もし体が痛かったら俺のベッドと代わるから言ってくれ」

 戸口にもたれて立っている芳明を振り返って樫木は言った。

「樫木の部屋、見てもいい?」
「いいよ」

 芳明の横をすり抜けて樫木が先に廊下を進む。リビングに近い戸を開けて、部屋の明かりをつけた。主寝室らしく広い部屋だった。

 正面には目を引くクイーンサイズのベッドがあり、右手はバルコニーになっていた。左には大きな棚と、パソコンが2台並んでなお余裕のある机。棚の裏側にもまだ空間があり、そこはウォークインクローゼットだと樫木が教えてくれた。

「寝室兼、作業部屋。一日のほとんどはここにいる」

 ふぅん、と生返事を返しながら芳明は深く息を吸いこんでいた。かすかにあの匂いがする。芳明は手の中の香水を握り締めた。

「この大きさなら男二人で寝ても大丈夫じゃないか?」
「ここに……二人で?」

 樫木は戸惑った表情を浮かべた。

「ベッドに慣れてるから、布団じゃ眠れないかも」
「だったら俺が布団で寝るよ」
「そんなの悪いから、一緒でいいじゃん。俺と……一緒じゃ嫌か?」

 卑怯だとわかりつつ、芳明は自虐的に笑いながら樫木を見上げた。予想通り、樫木はすぐさま首を振って「嫌じゃない」と言ってくれた。

「俺は構わないんだ。ただ、久世が……、久世のほうこそ、平気なのか?」

 心配顔の樫木が言いたいことはわかる。三ヶ月間、見知らぬ男にレ/イプされ続けて来たのに、男と同じ布団で落ち着いて眠れるのかと言いたいのだ。

「お前となら平気」

 と冗談めかして笑ってみせる。樫木は口元を引き締め、怒りとも悲しみともとれる目で芳明をじっと見つめたあと、小さく息を吐いて「わかった」と頷いた。




I HATE

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Phantom (7/15)

2016.09.03.Sat.
1話2話3話4話5話6話


 芳明の一家は春に引っ越しをした。引っ越し先は父親の勤め先の近くにある中古マンション。リノベーションされたとかで設備はよくなり内装は新築同然で綺麗だった。部屋は一階だから値段も安く抑えられた。

 歩いていける距離に、駅、スーパー、銀行、病院があって利便性は高く、将来的に手放すことになってもすぐ買い手が見つかりそうな物件だ。

 年を取ったら平屋かマンションに引っ越すつもりだったと親は言っていた。確かにそういう話を聞いた記憶がある。でもこんなに早い予定ではなかっただろう。

 通路側の6帖の部屋が芳明にあてがわれた。荷ほどきのついでに衣替えも済ませた。引っ越しの荷造りの際に、不要なものはあらかた処分した。小学校入学から使っていた勉強机がなくなった分、部屋は以前より広くなった。

 机や棚に入っていた小物や本は急いで使うものもないので、クローゼットの空スペースに段ボールのまま仕舞った。

 古くなったベッドも買い替えた。木製で頑丈なベッドだったから捨てる時に苦労したので、今度は捨てやすそうなパイプベッドにした。

 ある程度片付けると芳明は新しいベッドに寝転がった。ギシッという軋みにぎくりとした。あの部屋で使っていたベッドも、そういえばパイプベッドだった。

 脈が早くなるのを感じながら芳明は静かに呼吸を繰り返した。それはすぐに治まった。

 夕方近くに刑事二人が挨拶にやってきた。年の近いもの同士、小田崎はリビングで両親とお茶を飲み、金子は芳明の部屋を見に来た。

「前よりすっきりしましたね」

 部屋を見渡して金子は笑顔で言った。

「そうでしょ。ミニマリストになろうかな」
「あー、いま流行りの? 断捨離? だっけ?」
「そうかな? 身も心も軽くなりますよ。ヤなことも忘れられるかも」

 金子は笑顔を消して、神妙な面持ちになった。

「本当に、久世さんには申し訳ないです。引っ越しまですることになってしまって」
「もともと親は年取ったらマンションに住むつもりだったらしいですよ」
「なんとしても、犯人を見つけ出して法の裁きを受けさせてやりますから」
「もう無理でしょ。ぶっちゃけ」

 芳明は半笑いで肩をすくめた。金子は難しい顔で口を結んだ。

「手がかりゼロ、目撃者ゼロ、容疑者ゼロ、ホームレスのおじさんは何も覚えてないし、俺も何も見てないし、聞いてない。警察だって、諦めムードなんじゃないですか?」
「いや、自分はまだ諦めてなんかいません」
「捜査はとっくに打ち切られてるし、金子さんたちだっていまは別の事件の捜査してるでしょ」
「確かに中断している状態です。しかし決して諦めたわけではありません。新しい証拠や情報があればすぐにでも捜査を、」
「そんなの出る可能性は低いって金子さんだってわかってるでしょ」
「低いかもしれませんが、ゼロじゃないですよ。人間ですから、必ずボロを出すんです。思わぬ展開で逮捕に至った例はあります。例えば、別件で逮捕された犯人から事件に繋がる証言が出たりとか」
「あんまり期待はしてないからさ、金子さんも、もう俺に気を遣って会いに来てくれなくていいですよ。せっかく引っ越したのに、刑事が出入りしてるのを見られるのも、ね。悪いですけど」
「……いえ、仰る通りです。軽率でした」

 金子は折り目正しく、深々と頭を下げた。ちくっと胸が痛んだ。

 事件解決の進展が望めないのは事実だ。死人が出たわけでもない、世間も忘れ去った事件をいつまでも捜査し続けてくれるほど、警察は暇じゃない。

 だからこそ、気を遣わないで欲しかった。こちらはもう諦める心構えは出来ている。ならばもう事件とは関わらずに生きていきたい。両親と自分の生活を守りたい。もう好奇の目に晒されるのは嫌だ。

 沈黙を破るノックの音がした。

「金子、そろそろ失礼するぞ」

 外から小田崎の声がした。「はい」と返事をした金子が部屋を出る。親と一緒に二人を玄関まで見送った。

 金子は厳しい刑事の顔に戻っていた。もう打ち解けた様子はない。そんな金子を見ることは二度とないだろうという予感がした。

「小田崎さん、金子さん、今までありがとうございました」

 芳明は二人に頭を下げた。

※ ※ ※

 5月になってすぐ、樫木からドライブに行かないかと誘われて出かけることにした。迎えに来てくれるというので新しい住所を伝えた。樫木は引っ越したことを驚きつつ、以前より20分短縮される、と感想をそれだけに留めた。

 マンションの前に到着した樫木の車に乗り込む。

 構えていたのにあの男の匂いはしなかった。安心すると同時に落胆する部分もある。あの匂いに惹かれている。何も考えずに済んだあの部屋が恋しいだなんて、どうかしている。

 樫木は郊外のほうへ車を走らせた。

「どこに行くんだ?」
「ちょっと見てみたい物件があるんだ。そのあとご飯でも食べに行こう」
「樫木も引っ越すのか?」
「いや。今から見に行く物件の近くに複合商業施設が出来るらしいんだ。周りの環境を見てから買うかどうか決めようと思って」
「不動産投資ってやつ?」
「そういうやつ」
「住んでる世界が違うって感じ」
「同じだろ」

 と樫木は笑った。手首には高級腕時計。さらりと羽織っているジャケットも、どこぞの有名ブランドのものだろう。靴だって、いったいいくらするのやら。ニートの自分とは大違いだ。

 そう考える自分に嫌気がさして、芳明はサイドウィンドウに目をやった。

 いまは事件のあとだからと親が許してくれているが、2年、3年と経てばそうもいかなくなるだろう。いつまでも無職ではいられないという現実問題が眼前に突きつけられ、気が重くなった。

 パーキングに車を止めると樫木は外へ出た。スマホで地図を見ながら歩き始める。芳明も続いた。

 このあたりのメイン道路なのだろう。道幅は広く、両脇にはイチョウが植えられている。秋が深まれば黄色く色づいたイチョウ並木が見物だろう。石畳の歩道。若者向けの洒落た店と、昔からある味わい深い店が混在している。変化の途中にある街のようだ。

 駅から少し離れた場所で樫木は立ち止まった。

「もしかして、これ?」
「うん」

 マンションの一室か、中古の戸建てを買うものだと思っていた芳明はそれを見上げて驚いた。樫木が買おうとしているのは4階建てのビルだった。

「いくらすんの、これ」
「一億切ってる」
「いっ……あ、そう」
「どう思う?」
「どうって俺に聞かれても」
「少し行けば住宅街でマンションも多い。そのわりに医療機関や学習塾が少ないんだ。狙い目だと思わないか?」
「まぁ、いいんじゃない。俺にはよくわかんないけど」
「久世がそう言うなら決めようかな」
「俺のせいにするなよ」
「しないしない。最後の一押しをして欲しいだけだよ」

 笑って言って樫木はスマホをポケットに仕舞った。パーキングに向かって来た道を戻る。

「ついでに法務局に行ってもいいか? 所有者がころころ変わっていないか調べておきたい」
「あー、いわくつきの物件とか」
「うん。やっぱり人が一番怖いだろ」
「金持ってると、人のこと信用できなくなりそうだな」
「まぁ、色んな種類の人は見てきたよ。悪い奴ほど優しくて親切だ。その点、久世は信用できる」
「言うね」
「悪い意味じゃない。久世は裏表がなくて正直だろ。久世になら、例えば俺が入院したとき、家の鍵を渡して通帳の暗証番号を教えられる」
「無職の俺に? 持ち逃げするかもよ」
「しないよ、久世は」
「なんで俺、そんなに信用されてんの」
「久世だけだったんだ。俺がIT系の小さい会社を興すって話を聞いても馬鹿にせずに応援してくれたのは。それがうまくいって利益をあげるようになっても、態度をかえずに純粋な友達のままでいてくれた。そんな奴は久世だけだった」

 樫木が起業する話は友達伝手に聞いた。在学中に起業するのは珍しくはあったが、ない話でもない時代だった。同い年の、しかも知っている男が挑戦すると聞いて感心したし、応援したいと思った。

 だから講義室で見つけた時に、「頑張れよ」と声をかけた記憶はある。そしてそれが成功したと聞いた時もやったな、と嬉しい気持ちになった。確かに周りには、どう見てもやっかみとしか取れないような陰口を叩く奴もいた。

「あの頃は嫉妬するほど樫木のこと知らなかったし、そんなに親しくもしてなかっただろ」
「友達だと思ってたのは俺だけか?」
「どっちかっていうと、たまに飲みに行ったりご飯行ったりするクラスメート的な感覚だった」
「それ友達って言わないのか?」
「言うのかな」
「終電逃して俺の部屋に泊まったこともあっただろ。オールナイト上映してた映画を見に行ったこともある」

 言われて段々思い出した。いつもべったりつるんではいなかったが、たまに二人で遊ぶことになると閉店時間まで店で喋っていたり、次の日朝から講義があっても、どちらかの部屋に行って明け方までゲームをしたり飲んだりしていた。

 他の友達とは違う、密度の濃い時間の過ごし方だった。

「ごめん、友達だったわ」
「良かった。俺の一方通行じゃなくて」

 パーキングの料金を払って車に乗り込んだ。カーナビを操作する樫木を見ながら、自分がとてもリラックスしていることに今頃気が付いた。

 卒業してから一度も会わなかったのに、電話一本で会う気になった。事件直後で神経質になっている時期だったはずなのに、こいつなら大丈夫だという安心感もあった。

 学生の時は気付かなかったが、実は樫木とはかなり相性が良かったのかもしれない。きっと最初からあまりに自然に馴染んでしまったから、その自覚が遅れたのだ。

「俺も樫木のこと信用してるって言えるかも」
「さっきまで友達以下だったのに?」
「いや。うーん、そんなにベタベタした付き合いをしなくても、樫木なら何年経っても今と同じ付き合い方が出来そうって意味で。樫木とは反りが合うんだろうな。一緒にいてすごく気が楽だし、何時間いても苦じゃない」
「嬉しいな。俺も同じ気持ちだ」

 にこにこと樫木が笑う。それを見たら急に気恥ずかしくなった。

「男同士で褒め合って気持ち悪いな」
「そうか? 俺は久世の本心を聞けて良かった」
「言うんじゃなかった」

 芳明は唇を尖らせた。「もう遅い」と樫木は笑った。




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Phantom (6/15)

2016.09.02.Fri.
1話2話3話4話5話

 樫木は都内のタワーマンションの駐車場に車を入れた。高層階まで一気にエレベーターで昇り、ホテルのような通路を歩いて、重厚な造りのドアの前に立つと鍵を使ってなかに入った。

 広く高級感のある玄関でスリッパに履き替え、滑りそうなくらい磨かれた廊下を歩いた先のリビングに通された。黒と白で統一されたモダンなモデルルームのようだった。

 気密性が高いのか部屋の気温は低くなく、コートを脱いでも平気だった。

 大人が10人は座れそうなL字に配置されたソファに腰をおろした。座り心地や手触りで安物でないとわかる。

「すごい家」

 芳明が言うと、冷たいお茶をグラスに注いでいた樫木が顔をあげた。

「意外に高く会社が売れたから、一括で買ったんだ」

 と照れ臭そうに笑う。

「維持できてんのがすごいな」
「東京タワーの見えるタワマンって、いかにもって感じだろ」

 グラスをテーブルに置いて、樫木もソファに座った。その動作で生じるかすかな風に乗って、あの匂いが芳明の鼻に届いた。

 せっかく治まっていたものがまた呼び起こされそうになる。芳明は気を紛らわせるためにお茶に口をつけた。

「そういえばプレゼントって彼女? 男同士で香水のプレゼントなんかしないよな」
「そんなところだ。誕生日にもらった」
「誕生日っていつ?」
「五日前」
「ごめん、何も用意してない」
「気にするな。俺だって久世に何か贈ったことなんかない」

 それもそうだ、と納得した。

「言いたくなければいいんだが、捜査は進んでるのか? 犯人の目星とか」

 膝の上で組んだ手を見ながら、樫木が言いにくそうに切りだす。

「さあ。関係者だからって詳しく教えてくれるわけじゃないんだ。目星がついてるなんて話はいまのところ聞いてない」
「早く捕まえてくれないと、久世も安心して暮らせないだろ」
「どうかな。口封じに来るとは思えないんだよな。顔も見てないし、声も聞いたことないから」
「また攫いに来る可能性だって」
「それはないと思う。最初から期間限定だって言われてたし」
「喋ったのか?」
「違う違う。紙に書いてただけ」
「そうか。どこまでも用心深い奴だな」
「ネット見た? 俺とそいつ、ホモカップルだって言われてるんだぜ。俺は捨てられて騒いでるだけの、女々しいホモなんだって」
「言わせておけ」

 樫木は気分を害したように顔を顰めたあと、呷るようにお茶を飲んだ。上下する咽喉仏に、気付くと目が釘付けになっていた。視線を引き剥がし、唾を飲みこんだ。男の精を飲んだ時のことが思い出された。

 温くて、生臭くて、咽喉に絡まる、あの不快な感じを。

 それを流し込むように、芳明はまたお茶を飲んだ。

 その様子を樫木がじっと見ていた。

「なんだよ」

 口を尖らせると、樫木は目を伏せた。

「さっきの話だけど……、俺がいまつけてる香水は犯人と同じものなのか?」
「いや、違うよ。似てる気がして、ちょっと驚いただけ」

 彼女から贈られたプレゼントにケチをつけるような真似をしたくなかったのと、本当のことを言えば樫木は2度とそれを使わないだろうと思って、芳明は嘘をついた。

 真偽を確かめるようとする慎重な目がしばらく芳明を見ていたが、やがて逸らされた。

「久世と会う時はつけないようにする」
「そんな必要ないって。外歩いてたら今の似てるなって思うことは何度もあるし。人の記憶ってそんなもんなんだよ。覚えているようで、ちゃんとは覚えてないんだ。匂いとか、そういう曖昧なものは、特にさ」
「それでも控えるよ。もらいものだから捨てることはできないけど」
「ほんと、気にするなって」

 樫木が使わなくなったらこの匂いを嗅げなくなる。そう思ってしまう自分がいる。忌まわしい記憶が付きまとう匂いなのに、完全に拒絶できない。

「東京タワー見えるんだっけ」

 芳明はソファから立って窓に近づいた。レースのカーテンを引くと、都内の景色が眼下に広がっていた。その合間に赤と白の電波塔がそびえ立っている。女を口説くには最高のロケーションだ。

「もうすぐライトアップされる」

 樫木がすぐ隣に並んだ。さっきよりもはっきり匂いが届く距離。芳明の心臓が早くなる。

「不便もあるけど、夜景は自慢できる。見て行くだろ」
「なに。俺のこと口説こうとしてんの?」

 冗談で言ったつもりが、樫木は笑わず驚いたように目を見開いた。自分にはまだこの手の軽口は早すぎたようだ。

「ごめん、冗談だから聞き流して」
「わかってるよ」

 そう言いながら樫木の目がぎこちなく逸らされる。頬から耳のあたりが赤くなっていた。それを見たら、心臓の底がトンと持ちあがった。

 衝動的に樫木の肩に頭を乗せていた。

「久世……?!」

 慌てる樫木の声を上の空で聞きながら、満足するまで匂いを肺に貯めた。

「……飯はどうする?」
「えっ? ……ああ、食べに行ってもいいし、人のいるところが嫌なら、出前でも頼むか?」
「そっちがいい。東京タワーをつまみに、酒も飲みたい」
「用意するよ」

 ポンポン、と樫木は撫でるように優しく芳明の頭に手を置いた。声だけで、樫木が微笑んでいるのがわかる。突如甘えて来た友人に戸惑いながらも、最終的には甘えさせてやろうと受け入れたようだ。

「なんでそんなに優しくしてくれんの?」
「友達なら普通だろ」
「俺が事件の被害者だから?」
「……そういうわけじゃないけど、違うとも言いきれないな。久し振りに久世に電話したのも、知り合いからあの事件の被害者が久世らしいと噂を聞いて心配になったからだし。久世は怒るだろうけど」
「怒らないよ。嬉しい」
「それなら良かった。力になれることがあったら遠慮なくなんでも言って欲しい」
「うん。その時は遠慮なく言うよ」

 芳明は目を閉じて、深く息を吸いこんだ。



 樫木といると学生時代を思い出すのか無性にそばが食べたくなる。出前はそばにして二人で食べた。そのあと、酒をちびちびと飲みながら、昔話に花を咲かせた。

 久し振りのアルコールだからか、酔いが早い気がした。口をつける前にグラスを傾けて胸元にこぼしてしまった。濡れた胸元をぼんやり見ながらヘラヘラと笑っていたら、樫木がタオルで拭いてくれた。

 酔っていても、樫木から漂ってくるこの匂いを嗅ぐと、一瞬酔いが醒めた。夢のように遠くなっていた記憶を昨日のことのように思い出す一瞬だ。

 痛みに快感が伴うように、芳明はその匂いを求めることを止められなかった。気付くと樫木の腕を掴んで引きよせていた。自分からも近づいて、樫木の首筋に顔を埋めた。

 毛細血管の隅々にまで行き渡らせるように深呼吸をする。深く味わおうと目を閉じた。

 視界がなくなると、ここはもう、監禁されていた部屋とかわりがなかった。手から伝わる体温は、男の体温と同じだった。

 芳明は樫木の首に、熱い息を吹きかけた。

「……どうして急に…………僕を、捨てたの…………?」
「っ!!」

 耳元でハッと息を飲む音を聞いた直後、肩を掴まれ、体を揺さぶられた。芳明はゆっくりと目を開け、自分を引き剥がした樫木を見た。樫木は険しい顔つきをしていた。芳明は夢見心地でそれを眺めた。

 何が現実かわからないまま、芳明は重くなった瞼を下ろした。



 寝返りを打った時、肌に当たる布の感触が実家の布団と違うことに気付いて芳明は目を覚ました。

 体を起こしてあたりを見渡す。暗い室内。広々とした空間。ここは樫木の部屋のソファの上だった。飲んでいる途中で寝てしまったようだ。この毛布をかけてくれたのは樫木だろう。テーブルの上も綺麗に片付けられていた。

 ソファから立ちあがり、ペタペタと部屋の中を歩いた。カーテンが開けっ放しの窓から夜景が見える。ライトアップの終わった東京タワーが静かに佇んでいた。

 口の中が気持ち悪かったので玄関近くにパウダールームを見つけてうがいをした。適当に引きだしを開けたら歯ブラシの予備を見つけ、それで歯を磨いた。勝手に使ったことは明日の朝、謝ればいい。

 口をゆすいでタオルで手を拭いた。そのタオルを開けっ放しの洗濯機に放り込む。その中に、今日樫木が着ていたシャツがあった。頭では駄目だとわかりつつも、手が伸びてそれを取りあげた。

 躊躇も一瞬、芳明はそのシャツに鼻を近づけた。目を閉じて、胸を苦しくさせるあの匂いを肺へと送り込む。理性が薄れて、常識も法律も存在しなかったあの部屋に気持ちが引き戻される。

 覚えているのは男の匂いと、たまに聞こえる掠れた息遣いだけだ。それを思い出しながら、芳明は自分の股間へ手を伸ばした。

 前を広げ、硬くなったペニスを取り出して扱いた。

「……ぁ……ハァ……っ……はあっ……あっ……」

 荒くなった息遣いは樫木のシャツに吸収される。鼻からも口からも匂いを吸いこみながら、芳明は射精するまで手を動かし続けた。

 射精後は素早く汚れた手を洗い、シャツを洗濯機に戻した。リビングのソファに戻り、久し振りの倦怠感に溜息をついた。

 自己嫌悪よりも、堕ちるところまで堕ちた自分が悲しいだけだった。




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Phantom (5/15)

2016.09.01.Thu.
1話2話3話4話

『出かける用事があるから、ついでに会えないか』

 二月に入って樫木から電話があった。職探しも消極的になって家にこもってばかりだった。それを親が気に病んでいると知っていたから会うことにした。

 家まで車で迎えに行くというのを断り、前と同じコンビニで待ち合わせをした。待っている間にコンビニで飲み物を二本と、レジ前にあったガムを一つ買った。

 店を出てすぐ、樫木のシルバーの車が駐車場に入って来た。ちょうどいいタイミングだと思いつつ、助手席のドアを開けた。

 芳明は思わず手で口元を覆い、息を止めた。その直前に、無意識に強く吸いこんでしまった。

 ドアを開けた瞬間、鼻腔に流れ込んできた匂い。求めるように肺一杯に取り込んだ匂い。

 懐かしい、白い微粒子のような粉っぽさと、冷たさと、甘さのある、あの男の匂いだ。

 手で塞いだのに、頭が匂いを反芻している。脳の皺ひとつずつでそれを吟味している。甘く痛い痺れが全身に広がっていく。

 芳明はその場にしゃがみこんだ。体から力が抜ける。

「久世? どうした?」

 腰を抜かした芳明を心配して、樫木はサイドブレーキをかけた。車から出ようとするので、それを手で制した。

「大丈夫……っ……だから……」
「大丈夫じゃないだろ」
「なんでもないっ……、ほんとに、平気だから」

 這うように助手席に乗り込んだ。樫木は芳明のほうをチラチラと見ながら、駐車スペースに車を入れた。

「具合が悪いなら無理するな」
「具合なんて悪くない」

 そろそろと手をおろし、少しずつ空気を取り込む。間違いなくあの男と同じ匂いだ。

 ドアを開けた瞬間ほどの動揺はないが、全身絡めとられるような息苦しさを感じる。

 細く短く息を吸おうとしているのに、限界まで吸いこんでしまう。

 金子の匂いとはやはり違う。別物だった。

「辛そうだ」

 心配そうに樫木が顔を覗きこんでくる。

「その……、匂い」
「匂い……? ああ、香水? きついか?」
「いや、そうじゃなくて……」
「この前プレゼントでもらったやつなんだ。そんなにつけたつもりはないんだが……。本当に大丈夫か? 顔が赤い。熱でもあるのか?」
「やめっ……!」

 額に手を当てられ、思わずそれを振り払った。驚いた樫木は手をひっこめ「悪い」と謝った。

「今日はやめておこう。無理することはない」
「…ッ…ほんっ……とに、大丈夫だから……!」

 声の震えを止めたくて握った手を口に押し当てた。抑えようとしても動悸が激しくなる。心臓が痛い。

 車内という狭い空間に、あの男の匂いが充満している。樫木が言うとおり、量はそれほどではないだろう。きついと感じるほどでもない。

 だがこの香りに全身包まれていると、あの男と一緒にいるような錯覚を起こしてしまう。

 匂いによって呼び覚まされる様々な記憶。男の匂い、手触り、肌触り、体温、肌を這う舌の感触、欲望を穿ちこむ行為の激しさ、女のように喘ぐ自分の声、精を放つ瞬間の恍惚感、後始末をする男の手の優しさ、丁寧さ。

 醜い自己嫌悪と、言いようのない懐かしさがこみあげて来て、涙腺が緩みかけた。

 異常な場所から日常の場所へ帰ってきたのに、居心地の悪さがずっとあった。日常に嵌れない歪な自分の存在を自覚すると、監禁されていた部屋を恋しく思うときさえあった。

 そのたび、間違った感情だと否定し続けて来たが、三ヶ月という期間は芳明の心を蝕むには充分な期間だった。

 ずっと目隠しをしていたのもその擦り込みを強固なものにする作用があった。視覚を奪われた芳明の中で、男が美化されるのは無理のない話だ。

 芳明は深呼吸を繰り返した。少し匂いに慣れ始めた。密度濃く感じていたが、本当は深く吸いこまないと感じないほどの、かすかな匂いだった。

 体の緊張を解いた。ぎこちなく節々が震えた。

「ごめん、もう平気だから」

 口元を押さえていた手をおろした。神妙な面持ちで見守っていた樫木も、静かに息を吐いた。

「家まで送る」
「大丈夫。ちょっと……、フラッシュバックしただけ」
「……俺のせいか? この匂いのせい?」

 芳明は首を左右に振った。

「車出して」
「でも」
「どこか……落ち着ける場所に行きたい。家は親が心配する」
「……わかった」

 樫木はコンビニの駐車場から車を出した。行き先を決めあぐねて、口の中で独り言を呟きながらとにかく車を走らせる。

「俺の家でいいか?」
「誰もいない?」
「いない」
「じゃあそこで」

 芳明はシートに深く身を沈めた。うつろに窓の外を見ながら、嗅覚だけに全神経を使う。

 追えば追うほど、あの匂いは逃げるように遠のいて行く。車の匂いに混じって消えてしまいそうだ。出来ることなら、樫木の体に鼻先を突っ込んで匂いを嗅ぎたい。

 そんな想像をしたら、急に樫木の体温が近くに感じられた。ただの友達だった樫木が、違う何かに姿を変える。

 ステアリングを握る手の甲に見える血管や、太もも周りや、凛々しい顎のラインに目を奪われる。舐めるように見ている自分に気付き、芳明は視線を前に戻し、居住まいを正した。

 足を組んで治まるのを待つ。胸を上下させて静かに息を吐いた。熱が籠っているのがわかる。

 解放されてから、自慰らしいものをしたことはなかった。朝立ちという生理現象はあったが、それ以外では勃起もない。そういう気分にならなかったからだ。

 監禁されている間毎日レイ/プされていた。一回で2度3度射精したこともあった。三ヶ月の間で、嫌というほど精液を出した。その反動と、男との行為を思い出す怖さもあった。罪悪感もあった。まだ出したりないのかと、恥じる思いもあった。

 忌み避けていたのに、匂いに触れただけで体は反応した。あの頃を忘れていなかった。カウンセリングに通っても無駄だった。

 自分はまだ『完治』していないのだと、芳明は絶望した。





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