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支配人(3/3)

2014.10.27.Mon.
<前話はこちら>

 休憩室にいると戻って来た三井さんの嫌味を聞かされることになる。いまの僕はそれを聞き流せる状態ではないので支配人室で待たせてもらった。
 戻って来た諸井さんは僕を見るなり「顔色が悪い」と苦笑いで言った。

「お二人は帰られましたか」
「ええ。ケーキも召し上がって帰られました」
「途中で抜けてしまい、申し訳ありませんでした」
「最後に彼が小泉さんに会いたいとおっしゃっていましたが、体調が優れないので帰したと言っておきました。良かったですか?」
「はい。すみません」
「それと彼に、あなたがそうなんですか、と尋ねられました。意味はわかりませんでしたが、そうです、と答えておきました。それも、良かったですか?」

 僕にもその意味はわからない。わからないが、もうどうだっていい。

「それで構いません」

 と頷いておいた。

「今日こそ送らせて下さい。そんな状態の君を帰すわけにはいきませんから」

 と僕の背中に手を当てる。じんわりと体温が伝わってくる。火傷するのではと思うほど熱く感じた基樹くんの熱が塗り替えられていく。
 深く追求せずに優しく接してくれる諸井さんに感謝しながら、「お願いします」と目を見つめ返した。

 諸井さんの着替えを待って一緒に店を出た。他のスタッフはもう帰っている。駐車場にとめてある諸井さんの車に乗り込む。

「少し飲みますか」

 諸井さんの言葉に「はい」と返事をした。
 車が夜の街を走る。窓の外を見ながら、今頃基樹くんは、と考えている。

 ゲイだと言ったくせに。僕を好きだといったくせに。僕さえいれば他に何もいらないと言ったくせに。必ず幸せにすると言ったくせに。
 次はその言葉を僕以外の別の誰かに言うのか。あのお嬢さんに言っているのか。いま、まさに。肌を合わせながら。愛し合いながら。愛を。囁いているのか。
 また目が熱くなってきたので瞬きで散らした。

 車はマンションの地下駐車場に入って行った。諸井さんのマンションだろうか。店で飲むのかと思っていた。確かに車に乗っていたら諸井さんは飲めない。
 エレベーターに乗り込んだ。

「目が赤いですよ」

 蛍光灯の下で顔を覗きこまれた。

「明かりが眩しくて」
「嘘が下手だ」

 見抜かれている。僕が口にしたこと以上のことを、きっと諸井さんは見抜いている。でも何も言わないでいてくれる。

 諸井さんの部屋は黒を基調とした、落ち着いた大人の雰囲気だった。間接照明をうまく取り入れて穏やかな気持ちにさせてくれる。
 皮張りのソファの艶を見て、しっかり手入れされているのがわかる。マメにクリームを塗っている姿を想像して、諸井さんらしいと思った。
 ピッと音がして、カーテンが自動で開いた。近づくと眼下に夜景が広がった。

「いい眺めですね」
「もう飽きましたがね」

 キッチンで酒の用意をしながら諸井さんが言う。僕も手伝いに入った。食べるものをと言われ、簡単なつまみを作った。僕の腕前を見て諸井さんが感心してくれる。
 何かをしていると気が紛れる。誰かと話をしているとその間は基樹くんのことを考えずに済む。

 僕は無駄に饒舌になった。弱いくせに早いピッチで酒を空けた。心配した諸井さんがグラスを取り上げた。
 僕が手を伸ばすとグラスは更に遠のいた。

「もうやめたほうがいい」
「まだ飲めます」
「明日の仕事に差し支えますよ」
「仕事は辞めます」
「辞める?」

 諸井さんは眉を寄せた。

「勝手を言ってすみません。でももう続けられません」
「彼のせいですか」

 返事が出来ずに黙り込む。諸井さんはため息をついて、テーブルの端にグラスを置いた。

「あなたに興味があると言ったのを覚えていますか」

 頷いた。

「彼と何があったのかとても気になっているんですよ。仕事中、ずっと考えてしまうくらい。だいたいの察しはついていますが、すべてを聞き出したいと言う欲求を押さえ込むのに苦労しています。あなたのその取り乱しようが、私の心まで乱しているんですよ」

 諸井さんが僕の肩を掴んでゆっくり押し倒した。諸井さんの腕に手を添えた。抗うつもりはなかった。最初から、こうなることがわかっていて車に乗った。酒がそのきっかけに過ぎないことも承知で飲んだ。
 酔っていなければ。羞恥と自己嫌悪で我に返る余裕もないくらいに酔わなければ、僕は基樹くんをあやふやに出来ない。理性をなくして彼を責めることでしか、いまは自分を保てない。この行為を一時的でいいから正当化しなければ踏ん切りがつかない。

「弱みにつけ込む男だと思われたくないんですが」

 諸井さんが笑う。

「だけど、こんな状態でないと、私のところへ来てはくれなかったでしょうね」
「諸井さん…」

 手を背中にまわした。シャツ越しに感じる体温に泣きそうになった。基樹くんじゃないのに、僕はこの温もりを恋しがっている。一晩むちゃくちゃにしてもらいたいと思っている。
 あんなに後悔したのに、僕はまた同じ過ちを犯そうとしている。

 唇がおりてきた。僕の口を塞ぐ。自ら口を開いて中に招き入れた。触れ合うと同時に膝を開いて諸井さんの体を受け入れた。

「はぁ…あ…ん…ン…」

 舌を絡ませながら諸井さんの手が僕の服を脱がしていく。慣れた手つき。いったい何人が僕のように彼の手によって落とされてきたのだろう。救われてきたのだろう。

「泣かないで」

 目尻から流れる涙を舐め取られた。僕は諸井さんの首に腕をまわした。

「私のものに、おなりなさい」
「……はい」

 後孔に指が入れられた。久しぶりの異物感にぎゅっと目を瞑る。僕の腕の中から諸井さんが抜けていき、下半身に顔を埋めた。
 熱い口腔内におさめられる。粘膜を使って全体で扱かれた。

「あっ…はぁっ、あっ、ああっ…ん…」

 中の指からも快感がもたらされるようになってきた。敏感な場所を擦られると条件反射のように基樹くんを思い出した。たまに泣くまで僕を苛めていた場所だ。

「あっ、あっ…やぁ…だめ…そこは、いや…あぁ…んっ」
「そんな声と顔で嫌だと言われてやめる男はいませんよ」

 激しく指が律動する。

「ふっ…んっ、アッ、アアァッ…だめっ、やめて…あっ、諸井さんっ! やっ、ん…!」

 感じすぎてガクガク体が震えだす。諸井さんは手を休めない。

「いっ、やぁっ…、だめっ、諸井さん、もう…止めて、下さ…んっ、んあっ、いや…あ、あぁ…っ!」

 頭の中でフラッシュを焚かれたように真っ白になった。それと同時に僕は射精していた。
 強烈な絶頂にぐったりしていると、諸井さんに膝を持ち上げられ、中心に熱い塊を押し付けられた。

「きてください」

 自分から誘った。捨て鉢な気持ちで足を開いた。諸井さんが腰を進めて来る。

「うう…ん……あぁ……っ」
「感じますか。私のすべてが入りましたよ」
「あ…ん、はい…わかり…ます…あ、まだ、動かないで…!」

 諸井さんはゆっくりと腰を引き、また戻すという動作を何度も繰り返した。立派に反り返ったものが僕の奥を擦り上げていく。
 数か月前まで男との恋愛事を考えたこともなかった僕が、この短期間ですでに三人の男を受け入れたことになる。
 妻には不能のように扱われた。だけど基樹くんは僕を「男に抱かれて感じる体」なのだと言っていた。実際その通りだと思う。

 僕は基樹くんだけでなく、桜庭さんに無理矢理抱かれたときも感じて乱れた姿を晒した。そして今も、好きでもない諸井さんとのセックスにはしたい声を上げている。それだけじゃない、同じアパートの高校生相手のときも、僕は最後まで抵抗できなかった。
 本当の僕はただの色情狂なのかもしれない。いっそそうだと割り切ったほうが、楽になるかもしれない。

「もう、大丈夫ですから…動いて下さい」
「私は時間をかけたいのですがね」

 腰を抱えなおして諸井さんは腰つきを早くした。

「はぁっ! んっ! あっ、あぁっ!」

 諸井さんの手が僕の胸を撫でさする。脇腹を薄く触られるとくすぐったさと気持ちよさでぞくぞくと腰が震えた。

「いっ…やぁ…あ、んっ…!」
「仕事をしているときの君とは別人のようだ」

 コリコリと乳首を転がされた。基樹くんによってそんなところでも感じるようになってしまった。

「仕事中ずっと、君の制服を脱がせたいと思っていたんですよ。その白い体中に、私のものだという印をつけてやりたいと」

 膝を立てた諸井さんは前傾になると激しく僕を突き上げた。体重を乗せて奥深くまで叩きこまれる。最奥が男らしい力強さでこじ開けられる。

「はぁんっ、あっ! あぁっ…そんな…に、されたら……!」
「またイキそうですか?」
「あっ、はいっ…あっ、あぁっ、諸井さんっ」
「どうぞ、気をやって下さい」
「あっ、あんっ、アァッ、だめっ…あっ、また…あ、く…っ!」

 諸井さんの腕を掴みながら僕はまた精を放っていた。それと同時に口走りそうになる名前を噛み殺した。
 違う男に抱かれているのに、視界いっぱい、その男しかいないのに、僕の頭のなかには基樹くんが居ついて離れなかった。
 諸井さんに見下ろされながら、僕は基樹くんの眼差しを思い出していた。
 諸井さんの声を聞くたび、四六時中僕に愛を囁いた基樹くんの声を思い出していた。
 彼を忘れるなんて出来るわけがない。初めから無理な話だったのだ。

「…ハァ…は…ん…今度は、後ろから、してください…」
「積極的ですね」

 僕の意図をわかっているのかいないのか、諸井さんは微笑むと僕を裏返し、望み通り背後から犯してくれた。
 ソファの肘かけに掴まった。腕の間に顔を埋め、僕は泣き顔を隠した。


無慈悲なオトコ

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支配人(2/3)

2014.10.26.Sun.
<前話はこちら>

 翌日、支配人室へ行って新しい制服を受け取った。ワイシャツにベスト、クロスタイが今日から僕の新しい制服だ。
 更衣室で着替えていると「ホールでミスしても、もう厨房には入れてやらないからな」と三井さんに言われた。彼なりの餞別なのだと思って頭を下げておいた。
 休憩室でホールの子たちが固まって話をしていた。その中に木原さんもいた。まだ二十代後半の年下の彼女が頼もしく思える。

「よろしくお願いします」

 ホールの子たちに頭をさげると、みんな遠慮がちな笑顔で「よろしくお願いします」と挨拶を返してくれた。
 諸井さんから、仕事は木原さんに教えてもらうように、と言われていたので、今日は一日木原さんにつきっきりでホールの仕事を教わった。
 覚えることがたくさんある。気を付けねばならないこともたくさんある。一つに夢中にならず、常に店全体を把握しておく必要がある。
 盗み聞きはしない、しかし客の声に耳を傾けておかなければならない。走ってはいけない、しかし客を待たせてもいけない。

 木原さんは慣れたもので、そのすべてを同時に、ほぼ完ぺきにこなしていた。
 皿をさげに行ったと思ったら、その途中でお客さんの呟いた声を拾って、炭酸水を持って行ったり、新しいナプキンと交換したりしていた。
 僕に仕事を教えながらそれをやるのだからすごいと素直に感心する。
 ここまでになるにはいったいどれほどの時間と経験が必要なのだろう。

 ホールは厨房とはまた違った忙しさだった。こちらのほうが神経を使うが、時間の速さは倍だった。あっという間に休憩時間になり、あっという間に閉店時間になっていた。
 このあとカラオケに行くという木原さんたちのタフさに舌を巻きながら、一緒にどうですかとの誘いは断って帰宅した。
 お風呂は明日にして、初日はすぐに眠った。

 二日目からも同じように慌ただしい一日だった。少しずつ仕事を覚えていく。失敗しそうになると木原さんと諸井さんがフォローしてくれた。少しずつ慣れていく。任される仕事が増えて来る。木原さんと諸井さんが僕から離れていく。不安になるが、一人で出来ると自信がついて、それが余裕に繋がり、店全体に目を向けられるようになった。

「だから言ったんですよ。小泉さんは絶対ホール向きだって。もうベテランみたですよ」

 休憩時間が一緒になった時、木原さんが言ってくれた。

「僕なんてまだまだ」
「そんなことないですよ。小泉さんは支配人と違うダンディさがありますから。支配人はちょっと謎な感じで、小泉さんは人を安心させる優しさが溢れてますよ」
「私は優しくないって言うんですか」

 いきなり第三者の声が会話に入ってきた。

「支配人! 盗み聞きしないで下さいよ」
「木原さんの声が大きいんです。小泉さん、すみませんが、私の部屋に来てくれませんか」

 木原さんに目で断りを入れ支配人室へ向かった。
 諸井さんは今日も机に腰掛けた。

「だいぶ慣れたようですね」
「まだ、全然です」
「期待以上でしたよ。自信を持って下さい」
「ありがとうございます」
「実は明日、オーナーのお嬢さんが来店されるんです」
「聞いています」

 明日は定休日だ。しかしオーナーの一人娘がこの店を貸し切って食事をしに来るらしい。なんでも恋人を連れて。将来の夫ではないかともっぱらの噂だ。

「申し訳ないのですが、明日、用事がなければ出勤して頂けませんか」
「僕は構いませんが」
「私はお嬢さんを、小泉さんはお連れ様の給仕をお願いします」
「わかりました」
「ではよろしく頼みます」

 一礼して支配人室を出た。

※※※

 いつもより小規模な開店準備が終わり、僕たちはオーナーのお嬢さんが来るのを待っていた。

「今日も自転車ですか」

 今日はクロークがいないので僕と諸井さんが受付に立った。仕込みの終わった三井さんは厨房にいる。

「はい。健康にもいいですよ」
「そうですか。今日のお礼に送らせて頂こうと思っていたんですが。あ、きちんと休日手当込みでお給料は出ますので」
「諸井さんはご結婚はされてるんですか?」
「私に興味を持ってくれたんですか?」
「木原さんたちが支配人の私生活は謎すぎるって話してましたよ」
「小泉さんだって謎が多いでしょう」
「僕に謎なんてないですよ」
「そうですか。私はあなたのことにとても興味があります」

 じっと目を見つめられた。纏わりつくような視線で少し息苦しさを感じる。目を逸らせない不思議な力があった。

「お見えになられたようです」

 諸井さんの目が店の出入り口へ向けられほっとする。ガラスの嵌った木製の扉に、白い服が近づいてくるのが見えた。
 諸井さんが扉を開けながら「お待ちしておりました」と頭を下げる。僕も少し離れた場所からお辞儀をした。

「今日は私のためにすみません」

 若い女性の声。下げた視線の先に白いハイヒールが見える。

「オーナーから伺っております」

 諸井さんの声を聞いて頭をあげた。二十代前半の若く綺麗な女性だった。その後ろで店の内装を見ている連れを見て声をあげそうになった。
 ハッとした表情を怪訝に思われたのだろう。お嬢さんが僕に視線を移し、小さく首を傾げた。
 僕は二人から隠れるように諸井さんの影に入り込み、顔を伏せた。

「こちらは立橋基樹さんです。今日はよろしくお願いします」

 お嬢さんが後ろにいる基樹くんを紹介する。僕は深く頭を下げて顔を隠した。

「よろしくお願いします」

 久しぶりに聞く基樹くんの声に、体が震えた。

※※※

 基樹くんはまだ僕には気付いていないようだった。今日は店の照明を絞っているし、まさか自分の椅子をひいたウエイターが僕だとも思わないから振り返りもしないで、目の前のお嬢さんだけを見ている。
 前日に聞いた話ではお嬢さんは恋人を連れて来るということだった。では基樹くんがその恋人ということになる。

 基樹くんの恋人。西浦くんからの伝言で結婚すると聞いた。この女性と結婚するということだろうか。ほかに誰がいる。心のどこかで嘘だと思っていた。何かの間違いだと。基樹くんは結婚なんかしないと。
 まだ自分のことを好きでいてくれるんじゃないかと、そんな身勝手な可能性に縋り付いていた自分が滑稽だった。

 僕がいなくなったあと、基樹くんは見合いをして、結婚まで話が進んでいるじゃないか。あんなに僕を情熱的に口説いてきたくせに、いなくなったらなったでずいぶんあっさりしたものだ。
 僕に責める資格などないとわかっていても、仲睦まじい二人を見せつけられて平静でいられるほど僕はまだ基樹くんを吹っ切れていない。

 お嬢さんは恋人の誕生日を祝いたいからとケーキもご所望されていた。だが基樹くんの誕生日は今日じゃない。来週だ。恋人なのに、そんなことも知らないのかと張り合う気持ちが芽生える。

 前菜を運んだとき、二人の会話が聞こえた。

「次はちゃんと誕生日にお祝いさせて下さいね。今年はお仕事だから仕方ないけど」
「すみません」
「パパが男は女より仕事だって。もうそういう時代じゃないと思うんだけど」

 お嬢さんは唇を尖らせた。それを見て基樹くんがクスリと笑う。
 僕以外の誰かに笑い掛けないで。
 急にわけのわからない震えが走ってお皿を取り落した。ほんの2、3㎝ほどの高さではあったが、耳障りな音を立ててしまった。

「失礼しました」

 慌てて詫びた。

「いえ」

 穏やかに笑いながら基樹くんが僕をみあげる。ウエイターが誰かわかり、ハッと息を飲んだと思ったら、基樹くんは僕の腕を掴んだ。

「悠さん……!」

 懐かしい呼ばれ方に胸が痛いほど締め付けられた。体から力が抜けてその場にへたり込んでしまいそうだ。

「お知り合い?」

 お嬢さんに声をかけられて基樹くんの力が緩んだ。その隙に腕を振り払い、二人に頭を下げてテーブルを離れた。
 基樹くんの熱のこもった視線に串刺しにされる。胸が痛い。掴まれた腕が痛い。悠さんと呼ばれただけで腰が痺れて膝が震える。
 僕は厨房に逃げ込んだ。そのあとを諸井さんが追いかけてきた。

「大丈夫ですか」
「すみません…僕にはもう無理です」
「あのお客様とお知り合いですか」
「はい、いえ、あの…」
「無理には聞きません。私一人で大丈夫ですから、あなたはもう休んでいなさい。勝手に帰らないで。私の部屋で待っているように」
「はい。すみません…」

 休憩室に移動してベンチに座り込んだ。口を押えた。でないと何か叫んでしまいそうで。
 無意識に僕は基樹くんに掴まれた腕を握りしめていた。基樹くんの手に自分の手を重ねるように。その熱を取り戻すように。
 もう僕のものではないのに。

「うっ…」

 堪えきれずに嗚咽が漏れる。勝手に溢れて来る涙が僕の手を濡らした。



支配人(1/3)

2014.10.25.Sat.
※NTR耐性のない方にはお勧めできない内容です。

<第一話(旦那さん)はこちら>
<第二話(元旦那さん)はこちら>
<第三話(元上司)はこちら>
<第四話(隣人)はこちら>


 色んなものがオートメーション化している時代、レストランの皿洗いもそうだと思っていたがこの店は違った。
 飲食業界で働くのはこれが初めてだった。元の業種に復帰したくて、またその経験と知識が自分の強みだと思って仕事を探してきたが、年齢の問題で面接さえしてもらえず、料理は得意と言っていいだろうと飲食業界へかえてみた結果、意外にすんなり面接に通ったかと思ったら、最初の仕事は皿洗いだった。
 もちろんいきなり包丁を握らせてもらえるとは思っていなかったが、昼過ぎに来てから閉店までずっと皿を洗い続ける日がもう一ヶ月近く続いている。

 手がガサガサに荒れてところどころ切れていた。
 休憩時間に奥の控室でハンドクリームを塗っていると、ホール係りの木原さんに「ゴム手袋して洗えばいいじゃないですか」と言われた。

「素手じゃないと微妙な汚れがわからないからって」
「三井さんでしょ。あの人、新人いびり大好きな人ですから。いつも偉そうで嫌いなんですよね、私」

 としかめっ面を作る。
 三井さんはこのレストランのシェフだ。二十代の頃に海外で修業をし、日本に戻って有名ホテルで働いていたところをオーナーにスカウトされたらしい。
 自信にあふれた立ち居振る舞いは、確かにときに傲慢に見える。

「小泉さんの手って綺麗ですよね」
「こんなに荒れているのに?」

 苦笑いで返すと、

「今まで重労働とは無関係だったって感じの手。物腰も柔らかで厨房よりホールのほうが向いてますよ。女の子みんな私と同じ意見で、ずっと支配人にも言ってるんですけどね」

 それは知らなかった。四十過ぎのおじさんが皿洗いでこき使われている姿が惨めで同情してくれているのだろう。
 ありがとう、と礼を言って、まかないのパスタに手をつける。

 雑誌やテレビで紹介されるだけあってとても美味しい。ぜひ作り方を覚えて基樹くんにも食べさせてあげたい…と考えている自分に気付いて苦笑した。いつまでも未練たらしいことこの上ない。
 基樹くんは結婚するのだし、もう彼のことは忘れよう。それに僕には彼を想う資格もないじゃないか。あんなに酷い裏切り行為をしておいて。
 カチャリ、とフォークを下ろした。労働のあとでお腹もすいていたのに食欲が失せていた。

 基樹くんは結婚する。
 相手は誰だろう。
 お母さんから見合いを勧められていた。その相手だろうか。僕がいなくなったあとに見合いをして、相手の女性を気に入ったのだろうか。
 確か基樹くんはゲイだと言っていなかっただろうか。ゲイは女性を好きにならないんじゃなかったか。それほど見合い相手は魅力的だったということだろうか。
 悶々と考え込んでいることに気付いて軽く頭を振った。もう考えるな。思い出すな。考えたって仕方ないんだから。

 桜庭さんとホテルで別れてすぐ、携帯電話の電源を切った。その日はカプセルホテルに泊まり、翌日には今のアパートの賃貸契約書にサインをして、その足で携帯ショップへ行って新しい携帯電話の契約をした。古い携帯の電源を入れたことはない。充電もしていないからバッテリーも切れているだろう。

 きっと基樹くんからたくさん電話がかかっていたに違いない。メールも相当数きていたはずだ。
 その一つでも見てしまうと心が揺れる。だから電源は切ったまま、アパートの流しの下に隠した。思い出さないために。未練を断ち切るために。
 しかしふとすると基樹くんのことを考えてしまっている。もうすぐ基樹くんの誕生日だった。初めて一緒に迎えるはずだった誕生日。何を作ろう、なにをプレゼントしようとあれほど考えていたのに。

 また彼のことで頭がいっぱいになっている。自己嫌悪に顔をしかめながら、急いでパスタを胃に収めた。
 厨房に戻って自分が使った食器を洗う。僕の次に新人の男の子とかわって、今日も閉店時間までずっと食器を洗っていた。
 最後の客が帰り、閉店後の掃除が終わるともう日付がかわっている。ずっと立ちっぱなしでいることには慣れてきたが、足がむくんでだるいのは最初の頃とかわらない。
 休憩用のベンチに腰掛けハンドクリームを塗る。

「小泉さんはまだいますか?」

 休憩室に支配人の諸井さんが顔を出した。

「ここにいます」

 ハンドクリームを置いてベンチから立ち上がった。

「あぁ、良かった。お話があります」

 こういう前置きをされるとどきっとしてしまう。まさかクビにされるのだろうか。

「少しお時間、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「ではこちらへ」

 諸井さんのあとをついて支配人室に移動した。机と棚に囲まれた手狭な部屋だが、個人にあてがわれているのは諸井さんだけだ。
 入ってすぐのソファに座るよう勧められ、腰を下ろした。
 諸井さんはまだ仕事用の黒いスーツのままだった。年齢は僕より少し上くらい。髪をぴたりと後ろへ撫でつけて隙がない。

「仕事が終わってお疲れのところ申し訳ない」
「いえ。そんな」
「今日も自転車で来たんですか?」
「はい、二十分ほどで着くので」
「明日の出勤が電車でもよければ今日は私の車で送らせてもらいますよ」
「自転車で帰りますから」
「体力仕事でお疲れでしょう」

 諸井さんは僕のほうを見ながら奥の机に腰かけた。
 ホールの状況を誰より把握して的確な指示をするいつも冷静な諸井さんは、接客態度も丁寧でこれぞプロというのを地でいく人だ。そんな人が机に座るのを見るのと、仕事と私生活は別だと当たり前のことに気付かされる。

「そうですね、まだ不慣れなことが多くて…みなさんの足を引っ張ってしまっています」
「一ヶ月のあいだ、小泉さんの働きぶりを見させてもらいました」

 と少し間を取る。僕は緊張しながら次の言葉を待った。

「ホールの女の子たちがみんな口を揃えて言うんですよ。小泉さんは絶対厨房よりホール向きだって」

 そういえば今日、木原さんに言われたっけ。

「面接のときは厨房希望でしたが、どうでしょう、ホールでやってみませんか?」
「僕がですか? いや…接客の経験がないので…いまよりご迷惑をかけてしまうと思うのですが…」
「私もあなたはホールに向いていると思いますよ。いまうちは副支配人がいないのですが、いずれあなたには副支配人になって私の手助けをして頂きたいと思っています」
「僕が…?! 無理です、それは…向いていません」
「まぁまぁ。いきなりなれというわけじゃありません。しばらくホールで慣れてもらってから、改めて審査させてもらいます。ホールの仕事は嫌ですか?」

 と僕に向かって微笑む。この決して本心を見せない笑顔は、二十人以上いるスタッフをうまくまとめているだけあって、さすがだなと思う。

「嫌というわけでは…ただ、不慣れなものがいると皆さんの足をひっぱってご迷惑になると思って」
「みんな初めはそうですよ。厨房を取り仕切っている三井くんだって、最初のころに大きな発注ミスをして店を開けられなかったことがあるんですから」
「そんなことが?」
「ええ。他店に頭をさげてまわって、なんとか開店できました。今じゃ、そんなこと忘れたような顔をしていますがね」

 歯を見せずに口角を持ち上げるだけの薄い笑みだが、悪戯っぽい目で人に親近感を抱かせる。接客業で身についたものか、生まれもったものか。
 この諸井さんの目や態度のせいだろう。僕はまったく自信がないのに「やってみます」と頷いてしまった。

「では明日から。制服は支給しますので、明日の朝、ここに取りに来てください。」

 諸井さんが机から腰をあげたので僕もソファから立ち上がった。

「失礼」

 と諸井さんは僕の腰を両端から掴んだ。

「えっ、あの」

 今度は腕を掴んで広げるように左右に持ち上げる。胸と背中を挟むように手をあて、首回りに指を這わせた。

「あの…」
「サイズはМで大丈夫そうですね」
「今のでわかったんですか?」
「見ればわかることですよ」
「えっ…」

 くすっと諸井さんが笑った。からかわれたのだと気付いて、顔が熱くなった。

「あなたは少し真面目すぎるようですね」
「かもしれません」
「顔が赤い」

 諸井さんの手が僕の頬を包み込む。僕と違って荒れていない、しなかやな手だ。

「やっぱり今日はお宅まで送りますよ」
「いえ、すぐそこですので。諸井さんもお疲れですし」
「真面目で、その上頑固だ」

 ふいに既視感が僕を襲った。落ち着かない気分になり、諸井さんから目を逸らした。

「では今日はこれで。明日からよろしくお願いしますよ」
「はい、失礼します」

 支配人室を出た。鞄を取りに休憩室に戻ると、木原さんが「支配人はなんて?」と詰め寄って来た。

「明日からホールだって」
「やったぁ! 明日からよろしくお願いしますね」
「こちらこそ」

 皿洗いをしていたこの一ヶ月、厨房のスタッフが僕に声をかけてくれたのは仕事の指示をするときだけ。それも罵声や嫌味混じりで、とても親睦を深める雰囲気じゃなかった。
 ホールの子たちは若い子が多いせいか、仕事が終わっても和気藹々としていた。本当は少し羨ましかった。
 初めての接客で不安でたまらないが、悪いことばかりじゃないはずだ。
 木原さんの笑顔を見ていたら、少しだけ気持ちが楽になった。


完璧な恋人