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すばらしい日々(3/3)

2014.09.05.Fri.
<前話はこちら>

 3年2ヶ月の単身赴任がやっと終わった。上司の計らいで予定より二日早く帰れることになった。荷物は手配済みの引っ越し業者に任せることにして、鍵を管理人に返した俺は鞄一つで新幹線に乗り込んだ。
 あと数時間で我が家に帰れる。
 携帯を取り出し、生まれてきた子供の顔を眺めた。

 予定日には休暇を取って嫁のもとへかけつけた。休みの間なかなか生まれて来る気配がなく、結局俺が赴任先に戻ってから生まれた。
 元気な女の子だった。雅美と名付けた。考えたのは嫁だ。連休に帰省し、初めて我が子を腕に抱いた。小さく軽く脆くて壊してしまいそうだった。怖くてすぐ嫁に返したら、「お風呂はあなたの役目なんだから早く慣れてくれなきゃ駄目よ」と叱られた。
 今まで送られてくる写真でしか見たことがなかった。だから実際触れて抱きあげると、言いようのない気持ちが湧き上がって来た。父親になる幸福を噛みしめ、嫁に感謝した。
 一生懸命働いた。寂しくても酒はたしなむ程度に我慢した。英一のアドレスは消去した。たまに挫けそうになると子供の写真を見て踏ん張った。
 これからはずっと一緒にいられる。そばで成長を見ていられる。

 電車を乗り継いで家の最寄り駅までたどり着いた。驚かせるつもりで嫁に連絡はしていなかった。駅前のケーキ屋でケーキを買って家に向かった。
 駐車場に見知らぬ車が停まっていた。お義母さんの車かもしれない。久しぶりに親子水入らずで過ごしたかったが仕方がない。こういう場合も想定してケーキも多めに買ってある。
 インターフォンを鳴らそうか迷ってやめた。驚く嫁を想像しながら鍵を差し込みそっと回す。玄関に見慣れぬ男ものの靴があった。お義父さんの靴だろうか。
 その横に靴を脱いで中にあがる。リビングには誰もいなかった。子の姿もない。
 あの車と靴は誰のものだろう。

 ソファに鞄を、テーブルにケーキの箱を置いて、俺は二階へ向かった。吹き抜けの明るい階段をのぼりきると、かすかに声が聞こえてきた。

「あの人が帰ってきたら、もうこんな風に会えなくなるね」
「明美が仕事に復帰したらまた職場で毎日会えるようになるだろ」

 若くてはりのある男の声。お義父さんの声じゃないのは明らか。

「でも家に帰ったら好きでもない男と夫婦のふりしなきゃいけないのよ。あの人の異動が決まったって聞いたときはほんと嬉しかったもん」
「仕方ないよ。俺たちは出会うのが遅かったんだ。もっと早く出会えていたら結婚できたのに」
「まあ君の奥さんに嫉妬しちゃう」
「俺だって明美の旦那にいつも嫉妬してる」
「あの人ね、自分の子供じゃないのに、だんだん俺に似てきたんじゃないかって言うのよ。おかしくて笑っちゃった」

 と嫁は本当に笑った。

「俺と明美の子なのにね。二人で育てられなくてごめんな」
「ううん、いいの。まあ君の子供を産めただけで幸せ」
「でもほんとに俺の子だろうね?旦那のとこに行ったとき、怪しまれないようにいっぱいセックスしてたんだろ?」
「あの時はちゃんとピル飲んでたから。そのあとにエッチしたのはまあ君だけ。だから100パーまあ君の子だよ。その証拠に、あの人がいるときにお腹から出てこなかったでしょ。まあ君がこっそりお見舞いに来てくれた日に生まれたんだから、やっぱり血の繋がりがわかるのよ」
「雅美に会いたくなってきたな」
「お母さんが夕方に連れて戻ってくるから、それまで待ってる?」
「鉢合わせたらさすがにマズイでしょ」
「あーん、まあ君とずっと一緒にいたいよぉ」
「今日はいっぱい可愛がってやるから」

 布ずれの音。嫁の嬌声。男の言葉攻め。肌のぶつかり合う音。ベッドの軋み。
 嘔気がこみあげてきて、俺は急いで階段をおりた。洗面所で吐いた。涙と鼻水が垂れた。もう一度吐いたものを排水溝に流し、タオルで顔を拭った。
 リビングに戻って荷物とケーキの箱を持つと家を出た。鍵をかけ、駅へ引き返した。


 ビジネスホテルに部屋を取った。弁護士の知り合いがいるという友人へ電話した。留守電に繋がり、連絡が欲しいと伝言を残した。
 ベッドに腰掛けながら、二人の言葉を反芻していた。嫁は浮気していた。それも俺の異動の前から。そして子供は俺の子じゃなかった。雅美は「まあ君」と呼ばれていた男の子供だった。
 背筋がぞくりとした。もしかして。「雅美」という名前はまあ君と明美から一文字ずつ取った名前なのでは…。

 また胃が痙攣して、トイレに駆け込んだ。腹の中のものを全て吐き出す。胃液に胃が焼けつく。滲む涙を袖で拭った。
 誰のために今まで頑張ってきたのだろう。嫁のため子供のために寂しいのを我慢して耐えてきたのに。
 伴侶を裏切っていた俺が嫁を責める立場にないのは重々承知だが、浮気相手の子を育てるのだけは真っ平御免だ。代償があまりに大きすぎる。自分の子だと思うからこそ、育児書を読んだり、子持ちの同僚に話を聞いたりしてきたのに。
 嫁が俺に会いに来たのは計画的に妊娠するためだった。それは俺との子が欲しかったからじゃない。俺の浮気に勘付いて繋ぎとめるためでもない。ただ浮気相手の子を堂々と妊娠したいがために、好きでもない俺のところへ抱かれにやって来たのだ。

 水道で口をゆすいでいたら携帯が鳴った。さっき電話した友人からだ。
 挨拶もそこそこに、弁護士を紹介して欲しいと頼んだ。


 すべての片がつくまでに半年近くかかってしまったが、なんとか嫁とは離婚し、子供の籍を抜いてもらうことが出来た。
 嫁からは人でなしと罵られた。浮気相手からは家庭を壊されたから慰謝料を請求すると言われた。こんな馬鹿に嫁を寝取られ、気付かなかった自分が情けなかった。

 嫁の両親が喚くので、双方の弁護士立ち合いのもと、2度目のDNA鑑定を行った。その結果、嫁と雅美の親子関係は証明されたものの、俺とは赤の他人であるとの結果が出た。真実を突き付けられたのはこれで二度目。心に大きな穴が開く
 嫁は何かの間違いだと泣き叫んで話にならず、両親は顔を真っ青にして呆然自失だった。
 慰謝料の請求はしないかわりに、家は嫁が買い取ること、子供の籍を抜くことを条件に出した。
 あとのことはこちらと話し合ってくれ、と浮気相手の情報をまとめた書類を嫁の弁護士に渡した。
 浮気相手の家族と嫁家族とが大揉めし、なかなか進展しなかったが、やっと俺と嫁の婚姻は解消され、雅美は籍を抜けた。

 幼い子のことを思うと胸が痛んだ。子供に罪はないと自分が極悪人に思えてしかたなかった。嫁を責める資格が俺にはない。だから慰謝料の請求はしなかった。
 人でなし!私と雅美を飢え死にさせるつもりなの!
 目を吊り上げて俺を詰る明美の顔が忘れられない。夢に出て来る。赤ん坊の泣き声が聞こえる。また眠れなくなった。


 俺が嫁と離婚したとき、折しも世間は俺と同じ境遇のタレントのニュースでもちきりだった。父性関係ゼロ。事情を察した同僚たちの視線が痛かった。
 またどこかへ異動させてくれないだろうか。海外支社でもいい。むしろ言葉がわからないほうが助かる。
 スーパーで食材を買わずに酒ばかりを買って帰宅する。学生時代に戻ったかのようなワンルームのマンション。家財も何もかも家に置いてきた。必要最低限の家具を買いそろえると貯金は底をついた。

 つまみも食べずに酒を飲んでいたらメールの受信音。明美からのメール。画像が添付されている。見なくてもわかる。雅美の写真だ。こんなに大きくなったのよとメールに書いてある。親子3人でやり直したいと。
 親子はお前たちだけじゃないか。
 新しい缶を開けた。


 最近、何か食べると吐くようになってしまった。物忘れが酷くなり、注意力が散漫になり、運動をしていないのに動悸が激しくなるときがあった。
 明らかに酒の飲み過ぎだった。しかし飲むのを止められない。仕事をしている最中に酒が恋しくて飲みたくなる。
 スーパーに行くと大量の酒を買い込んだ。半額で買った惣菜の味がしない。わからない。酒で流し込む。
 携帯電話は鞄に仕舞ったまま、出すこともしなくなった。電話をかけてくる相手は決まっている。心配する俺の親か、復縁を迫る元嫁、たまにある無言電話はおそらく嫁の浮気相手だろう。
 どれも俺を憂鬱にさせる。だから鞄から出さない。
 どうせ英一からはかかってこない。

 今更俺が英一を恋しがるのは筋違いだし、調子が良過ぎる。英一にはもう新しい男がいる。独身で優しい男が。
 アドレスを消しておいてよかった。もし残していたら俺はまた英一を頼ってしまう。もう英一に甘えちゃいけない。あいつの幸せを邪魔しちゃいけない。

 夜は眠れないから酔っぱらうために飲む。酔えずに追加で何本も空ける。浅い眠りを繰り返し、赤ん坊の声で目を覚ます。暗い部屋の中に一人。涙が零れる。嗚咽を漏らしながら布団にくるまり朝を渇望する。


 仕事に行くと俺の顔を見た上司は渋面になって「そんな状態で仕事が出来るか。今日は休んで病院に行け」と俺を追い返した。
 言われた通り会社を出た。病院には行きたくない。その必要を感じない。自宅に帰る気にもならない。でもどこにも行くところがない。
 赤信号で立ち止まる。目の前を車が通り過ぎる。飛び込んだら楽になれるだろうか。車にぶつかる瞬間を想像する。骨が砕かれる音を想像する。
 信号がかわっても俺はそこに立ち尽くしたままぼうっと往来を見ていた。

「大丈夫ですか?」

 通行人が心配して不審がって声をかけてくる。

「はい、大丈夫です」

 返事をしたのにそいつは眉を顰めて行ってしまった。信号が点滅する。横断歩道を渡った。
 近くのコンビニに入って缶ビールを買った。少し歩いた先の公園のベンチで朝っぱらから酒を飲む。

 ポケットで携帯電話が鳴った。見ると登録されていない番号だった。また嫁の浮気相手か。こいつのせいで俺の人生めちゃくちゃだ。
 文句の一つでも言ってやろうと通話ボタンを押した。

「お前も暇だな。既婚者と浮気してた自分は棚あげか?人の家庭ぶっ壊しといて俺を恨むなんて筋違いなんだよ。今からでも慰謝料請求してやってもいいんだぞ」

 電話の向こうで浮気相手がハッと息を飲む音が聞こえた。慰謝料請求という言葉にびびったのか。その現金さにカッと頭に血が上った。

「おい、なんとか言えよ。今日もだんまりかよこの野郎。人の嫁孕ませた上に知らん顔して俺に育てさせようなんて頭どうかしてんじゃないか?子供が可哀そうだとは思わなかったのか?人でなしはお前らのほうじゃないか。どういう神経してたらそんなことできんだよ。子供をなんだと思ってるんだよ。お前が責任もって子供と明美の面倒を見ろ。俺にはもう関係ない。二人とも赤の他人になったんだ。だからもう電話してくるな。これ以上俺を苦しめるな」

 捲し立てる間に感情が昂ぶって俺の目からは勝手に涙が溢れてきた。憎い浮気相手に泣いていると知られるのが癪で、言うだけ言うと通話を切った。手で顔を覆ってしゃくりあげる。

「英一」

 嗚咽の合間に名前が口をついて出た。忘れるようにしていた名前。思い出さないようにしていた存在。足元がガラガラ崩れ落ちる。俺はもうだめだ。

「寂しいよ…英一、会いたい、お前に会いたい…」

 ポロポロと涙が零れ落ちた。

 ふわりと背中に温もりが降りてきた。

「こんなに飲んじゃ駄目じゃないですか」

 聞き覚えのある声に呼吸が止まる。

「こんなになっても僕に電話してこないなんて」
「……っ」
「ほんとに意地っ張りな人ですね、田中さんて」

 顔をあげると俺の横に英一が座っていた。

「ど…う、して」
「配属先がこっちだったんです。たまたま交差点で田中さんを見つけて、様子がおかしかったんであとをつけてきました」

 悪戯っぽく笑ったあと、英一は優しく目を細めて俺の手を握った。

「会うつもりはなかったんですけど、見てられなくて電話しました。さっきの電話、俺だったんですよ。おかげでだいたいの事情はわかりました。大変でしたね」

 労わる声にまた涙が出てきた。優しい手が俺の背中を撫でさする。張りつめていた心の糸が切れた。子供のように泣きじゃくった。

「いま、だけでいいからっ…今だけ、俺のそばにいてくれ」
「ずっといますよ」

 と俺の涙を英一が食む。
 英一の手を強く握り返しながら俺は何度も頷いた。


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すばらしい日々(2/3)

2014.09.04.Thu.
<前話はこちら>

 俺が別れを告げた直後に聞いた英一の声はかすかに震えていた。そりゃそうだ。嫁と別れてお前と一緒になると愛を囁いていた男から、急に別れようと言われたのだから。
 よりにもよって、どうしてこのタイミングなのだろう。
 携帯の受信フォルダに新しいメールがないか何度も確かめた。今朝、嫁から届いたメールを最後に一通もきていない。センターに問い合わせても結果は同じ。

 誰もいない社の屋上で声に出してため息をついた。ため息というより唸り声に近かった。
 夢じゃないか。何かの間違いじゃないか。
 もう一度嫁からのメールを読んでみる。

『嬉しいお知らせがあります。さて、なんでしょう?ドキドキ?!実は…私たちに新しい家族が出来ました!ジャーン!!さっき病院に行ってちゃんと赤ちゃんがいますって確認してもらったよ!この前、あなたに会いに行った時の子だね。私が寂しがってるから神様が授けてくれたのかな?仕事は続けられるだけ続けて、あとはお母さんに来てもらうからあなたは心配しないでね。また報告しまーす』

 何回読んでも「嘘」だとも「冗談」だとも書いていない。嫁が妊娠したのは間違いないようだ。
 確かに嫁が会いに来たあの五日間、毎日セックスした。子供が出来たら、と俺が外に出そうとすると、大丈夫だから、と嫁は中に出すことを促した。最初から子供欲しさに来たのかもしれない。

 女の勘は鋭いという。もしかしたら俺の浮気を疑って来たのかもしれない。遠く離れた暮らしに不安になって、俺を繋ぐために計画的に妊娠した可能性だって考えられる。
 自分の子供が出来たというのに、その知らせを聞いて喜べなかった。動揺してパニックになって、嫁になんとメールを返していいかわからずほったらかしのままだ。

 最初に考えたのは英一のことだった。そんな自分に嫌気がさした。最低な父親だと思った。最低な男だと思った。
 足元がぐらついた。心の底から英一を求めていたが、男としての責任がそれを引き留めた。生まれてくる子供のためを思うと、選択肢は一つしかなかった。だから英一と別れることにした。

 どうしてこのタイミングなのだろう。英一のことが好きだと自覚した途端、嫁との離婚を決めた途端の妊娠。
 嫁を裏切り、男にうつつをぬかしていた俺への天罰に思えた。


 お義母さんが来るからといって放っておくわけにもいかず、次の休みに久しぶりの我が家へ帰った。赴任前と少しインテリアがかわっていて他人の家のように感じる。
 嫁が嬉しそうに母子手帳を見せて来る。体は大丈夫なのかと聞けば平気と笑う。
 お義母さんに電話して、単身赴任中の妊娠で世話をかけることを詫び、嫁の面倒を頼んでおいた。
 まだ大きくなっていない嫁の腹に手を当てる。この中に俺の子がいる。俺の子がこの中で生きている。

「悪いな、一人で不安なときにそばにいてやれなくて」
「いいのよ、それに一人じゃないし」

 嫁は慈愛に満ちた表情で自分のお腹をさすった。
 この嫁と子を裏切ってはならないと決意を新たに、単身赴任先へ戻った。

 最初の頃は嫁と子のためにと頑張ってこれたが、数か月経つとやはり寂しさが募り英一が恋しくなった。
 携帯のメモリーから英一を呼び出し、それを見ながら酒を飲んだ。あまり飲み過ぎると勢いでボタンを押してしまいそうだ。
 日を追うごとに大きくなる嫁の腹。その写真を送ってくる。それを見るたび、飲む酒の量が増えていく。
 もしかしたら俺は英一に電話したいがために、酒を飲んでいるのかもしれない。酔ったせいだという言い訳のために。

 英一はあれから一切連絡してこなかった。俺の一方的な別れ話を簡単に飲み込んだ英一を恨んだりもした。所詮俺はその程度だったのかと。
 外したままの結婚指輪。嫁のため子供のためと言いながら、俺はまだ迷って指輪をはめられないでいる。お腹が大きくなる嫁の写真をみながら、英一を恋しがっている。
 こんな最低な男、英一にはつりあわない。あいつにはもっといい男と付き合って幸せになってもらいたい。
 今日も英一のアドレスを見ながら缶ビールを開けた。

※ ※ ※

 帰宅する途中、胸ポケットで携帯が振動していた。電車の中なので出るわけにもいかず放置する。それに仕事終わりでヘトヘトだ。
 就職した物流会社の方針で、新入社員はまず各地の倉庫へ行かされる。注文の入った商品を広い倉庫から探し出し、注文先へ送りだす。
 在庫管理も厳しく数字が合わないと倉庫中を走り回って時に棚を全部ひっくり返してまで確認しないといけない。当然それは新人の仕事なので一日でかなりの体力を消耗する。
 手を動かして着信の相手が誰かを確認するのも億劫だというのが本音かもしれない。仕事でかなり汗をかいたので、それさえシャワーで流せば食事もそこそこに泥のように眠る毎日だ。
 今の俺にはこのくらい忙しいくらいがいい。時間があると突然自分を捨てた男のことを考えてしまう。

 理由も何も教えてくれなかったから推測するしかない。田中さんは自分が全部悪いと言っていた。おそらく田中さんは最終的に奥さを選んだのだ。もともとノンケだったのを俺が誘って引きずり込んだようなもの。責める資格も、泣く資格もない。
 電車をおり、駅前のコンビニで新商品のシールが貼られた冷麺を買った。帰る途中、着信を思い出して履歴を見た。
 表示された名前を見て心臓が止まるかと思った。

 なぜ今頃になって電話してきたのだろう。電話で別れようと言われてから4カ月以上が経っている。
 淡い期待を抱いてしまう。また落胆するだけだと自分に言い聞かる。しかし震える指が呼び出しボタンを押していた。
 恐怖に似た感情を抱きながら携帯を耳に当てた。呼び出し音が続く。寝ているのかもしれないと思ったとき、ふいに途切れた。ガサガサと擦れる雑音が聞こえたあと、

『英一』

 少し弾んだような田中さんの声が聞こえた。数か月ぶりの田中さんの声に胸がぎゅっと締め付けられた。まだ好きだと実感した。

「すみません、寝てました?」
『あっ、いや、携帯落として』
「あの、電話、あったみたいなんですけど」
『ごめん、俺、酔ってて、間違ってかけたみたいで』
「そうだったんですか…」
『悪い』
「いえ…」
『…元気だったか?』
「はい、田中さんは?」
『俺もなんとか』
「そうですか」

 二人とも押し黙った。のどに何かが詰まったみたいに言葉が出てこなかった。

「あの、じゃあ、切りますね」
『英一っ』

 呼びとめる声に耳をそばだてた。

「なんですか」
『……寂しいんだ』

 掠れた田中さんの声を聞いて、俺の目は出てきたばかりの駅へ向けられた。


 自分がこんなに馬鹿で愚かだとは思っていなかった。寂しいと言われて、すぐさま「行きます」と返事をし、自分を捨てた男のもとへのこのこやってきてしまった。
 インターフォンを押すとすぐ扉が開いた。以前より髪の伸びた田中さんが俺を出迎える。

「スーツ」

 俺の格好に驚いたように呟いた。

「もう社会人ですから」
「そっか、そうだったな」

 田中さんからも部屋の中からも強い酒の匂いがする。

「相当飲んでますね」
「寝酒だよ」
「体によくないですよ。控えないと」
「寝つきが悪いんだ」
「困りましたね」
「うん」

 叱られた子供のように俯いた。電話では素直に寂しいと言えたくせに、俺を目の前にすると本音を言えないんだこの人は。

「田中さんは寂しがり屋ですもんね」

 上目使いに俺を睨む。酒で赤い顔。落ち着きなく指遊びをする手。年上なのに、可愛いと思う。

「一緒にいてあげましょうか?」
「いいのか?」
「今日だけですよ」
「すまん」

 俺の名前を呼びながら田中さんは抱き付いてきた。


 仕事でいっぱい汗をかいたからから、と言ってもシャワーを貸してくれなかった。ワイシャツのボタンを一つずつ外しながら、俺の唇や首筋にキスして舐めて吸い付いた。
 自分の汗のにおいが気になったが、田中さんはそれを舐めとるように舌を這わせていった。

 奥さんはいいんですか。
 のどまで出かかった言葉を飲み込む。裏切り者。誰が。誰を。俺が。俺を。
 指が抜かれ、かわりに田中さんの勃起が押し当てられた。久しぶりの挿入。顔を顰めた。

「俺と別れてから、誰かとしたか?」

 腰を振りながら田中さんがきいてくる。なんて答えるのが正解なんだろう。正直に答えたら田中さんが気にしそうで、いつまでも俺が田中さんを引きずっていることがバレそうで、俺は「した」と嘘の答えを言った。
 田中さんはムッと眉を寄せた。嫉妬してくれたのだろうか。本当はその顔が見たくて嘘をついた。

「結局お前は、咥えこめるなら誰でもいいんだ」

 酷い言葉を投げつけながら乱暴に突きあげてくる。苦痛に声が漏れそうになる。
 田中さんの言葉を訂正する気はなかった。
 酷くされれば未練を断ち切れるかもしれない。少しでも幻滅して嫌いになれるかもしれない。

「そんなことありませんよ。今度の人は独身で優しくて、いきなり俺を振るような人じゃありませんから」
「俺を恨んでるんだろ」
「まさか。……少しだけ」
「本当にお前と一緒になるつもりだったんだ」
「もういいですよ」
「お前と一緒になりたかったんだ」
「その言葉だけでいいです」

 田中さんの首に腕をかけ、引き寄せてキスする。舌を絡め合う。田中さんが俺のペニスを握って扱く。俺のなかで田中さんの体積が増す。

「早く、動いて」

 締め付けながら腰を揺らした。田中さんが動き出す。出し入れの速度が増していく。

「はぁっ…んっ、あっ、あんっ…あぁっ…」

 仕事で疲れていたはずなのに、体の芯が燃えさかって熱い。一度で済まずに何度も、朝になるまで俺たちはお互いを求め合った。


 昨日と同じシャツに袖を通し、昨日と同じネクタイを締めた。どうせ倉庫に行ったらジャンパーを着るから誰も気づかない。
 歯磨きをしながら鏡に映る自分の首筋に、キスマークを発見した。そこへ指をあてる。ずっと消えなければいいのに、と思う。
 寝不足と二日酔いで田中さんは酷い顔だった。
 ボサボサの頭に手櫛を入れて整えてやった。されるがままおとなしくしていた田中さんが、ふいにポツリと呟いた。

「嫁が妊娠した」

 手を止めた。

「俺の子だ。放ってはおけない」

 これが別れの本当の理由。ほんのわずかに残っていた期待が粉々に打ち砕かれた。子供が相手じゃ仕方ない。勝てっこない。

「当たりまえですよ。妊娠した奥さん捨てる男なんて最低すぎます」
「すまん、俺は最低だ」
「わかってるなら、もう電話してこなで下さいよ。俺には新しい彼氏がいる。田中さんもパパになるんだから、寂しくても頑張って下さい」
「うん」

 頼りなく俯く。寂しいからと捨てた男に縋り付いてくるどうしようもない男。愛しい。放っておけない。利用されるだけでもいい。寂しいときにそばにいてあげたい。

「もうお前には電話しない。会うのも最後にする。今まで悪かった。ありがとう」
「いえ、こちらこそ」

 さようなら、と今度こそ本当に俺たちは別れた。


すばらしい日々(1/3)

2014.09.03.Wed.
<前話「大迷惑@一角獣」はこちら>

 連休に有休を合わせた長期休暇を取ってこちらへやってくるという嫁の計画を聞かされたとき、俺は英一のケツにちんこを突っ込んだままだった。

「えっ、こっちくんの?!」

 驚いて言うと、電話の向こうで嫁は「嫌なの」と不機嫌そうに言い、英一は気まずそうな顔で腰をずらして体を起こした。ズルリと俺のちんこが抜け出る。萎みかけたそれがゆっくり頭を垂らしていく。

「嫌じゃないって、ちょっとびっくりしただけ。だって明美、こっち来るのすごく嫌がってたから」
『嫌がってたわけじゃないよ。買ったばかりの家を空けるのが嫌だったの。人に貸すなんてもってのほかだし、私も仕事あったから残っただけだもん』

 その話はもういい。異動が決まったときに散々話し合った。

「で、いつくんの?」
『明日だよぉ!』

 驚いたでしょ、うふふっ。と嫁の笑い声を聞きながら俺は頭が真っ白になった。顔面蒼白になりながら英一を見ていたら、なにか察したらしく、英一はそそくさと服を身に着け始めた。
 我に返り、腕を掴んでとめた。声に出さず「でも」と英一が口を動かす。

「明日の何時?新幹線?飛行機?…わかった、じゃあ明日、空港に迎えに行くから。うん…気を付けて来いよ。…そんなことないって。楽しみにしてるって。うん…わかってるって。じゃあ、明日」
「奥さん、明日来るみたいですね」

 服を着た英一が三角座りで俺に言う。俺は力なく頷いた。

「はぁ…あんなに来るの嫌がってたくせに、明日は観光に連れてけってさ」
「仲いいんですね」
「そりゃ夫婦だからな…って俺、無神経?」
「別に。最初から田中さんが既婚者なのは知ってたし」

 と床に「の」の字を書いている。
 一年半前、ゲイのハッテンバと知らずに公園で飲んでいた俺はそこで英一に出会った。出会ったその日のうちに勢いだけで肉体関係を持った。それ以来、セフレのような友人のような状態を続けていた。
 俺は女が好きだし、今だって性欲がたまったときはエロDVDの女の体を見ながら抜いている。それとは別に英一のことも抱きたくなる。無性に一人が嫌で会いたくなる。 
 英一に連絡を取り、都合が合えば部屋に呼んだ。英一のほうから連絡を寄こすことは滅多にないが、たまにふらりとやってくることがあった。そんな時は二人の気分次第でセックスしたり、テレビを見て過ごしたりした。

 好きだの嫌いだの言ったことはないが、肌を合わせている以上、憎からず思っているはずだ。明日からしばらく嫁がいるから連絡は遠慮してくれ、と言うのはさすがにちょっと躊躇してしまう。

「続き…どうする?」
「明日奥さん来るんでしょ。においが残ってたらやばいじゃないですか。今日はもう帰ります」
「なんか悪いな」
「何も悪くないですよ。田中さんの夫婦仲壊したくないし。俺も責任持てないし」

 鞄を背負って英一は部屋を出て行った。あまりにあっさり引き下がったので、身勝手にも俺の方が少し腹を立てたくらいだった。


 翌日、嫁の明美が本当にやってきた。久しぶりに見た嫁はなんだか別人のように見えた。それを口にすると「あなたのためにおしゃれしてきたのに」と口を尖らせる。確かに付き合い始めの頃のように若々しく見えた。
 観光するあいだ嫁が腕を組んできた。妙に気恥ずかしい。逃げようとすると、今度は手を繋いできた。何年振りかの恋人繋ぎだ。

 外食し、部屋に戻ると嫁が抱き付いてきた。「ずっと会いたかった」と俺に口づけしてくる。久しぶりの嫁の体。やはり見ず知らずの他人に思えて緊張した。嫁は興奮しているようで、早く、と俺を急かしてくる。風呂も入らずセックスした。
 あらゆる場面で頭に英一がちらついた。英一のツボを心得たフェラに比べて嫁は下手糞だった。嫁を貫きながら、英一を思い出していた。一回で充分だと思ったのに、再度求められて義務的に立たせた。

 嫁も家に残り、一人寂しい思いをしていたのだ。だが俺には英一がいる。その後ろめたさから嫁の要求にすべて応えた。
 帰るまでの五日間、毎日セックスした。仕事終わりで疲れているときは正直寝かせてくれと思ったが、温かい食事を用意して待っててくれた妻を思うと断れなかった。

 だから嫁が土産を手に帰ったときはほっとした。その安堵を申し訳なく思いつつ、空港帰りに俺は英一に連絡を取っていた。


「奥さんがいなくなった途端僕を呼び出すなんて悪い人ですね」
「自分でもそう思う。でもお前に会いたくて仕方なかった」

 英一に抱き付き、懐かしいにおいを吸い込む。雄の匂い。柔らかくない体。なのにたまらなく欲情する。
 英一の服を剥ぎ取り、半立ちのちんぽをしゃぶる。一年前は自分が男のちんぽを進んでしゃぶる日がくるなんて想像したこともなかった。
 オイルで穴を解し、ゴムをはめて英一の中に入った。

「あ、あぁ…今日はなんだか…いつもより、大きい…?」
「そうか?久しぶりだからお前の穴がきつくなったんだろ」

 英一にキスした。音を立てて舌を絡めながら英一のちんぽを扱いた。英一の内部が痙攣するように俺を締め付ける。

「…っ…先に一回出していいか」
「今日は早いですね」
「お前が良過ぎるんだよ」

 腰を振った。英一は顎を持ち上げて咽喉を晒した。
 射精後、すぐまたエレクトした。新しいゴムをつけようとしたら止められた。

「そのままで」
「いいのか」
「田中さんの、中に欲しい」

 今度はバックから英一と繋がった。俺が突きあげるたび英一の背中がしなる。引き締まった体が俺の動きに合わせてビクビク反応する。

「はぁっ…んっ、あぁっ、あっ…、いいっ、気持ちいいっ…!」

 シーツに顔を押し付けて英一が自分のちんぽを扱いていた。ピストン運動を激しくする。

「あっ、あぁっ、あっ、あんっ、イク、イキそう、田中さん、イク…っ!」
「イケよ。俺はあと最低二回はイケる。お前もいまのうちに一回イッとけ」
「あぁっ!あんっ、そんなっ…激し、く…されたら…っ、あっ、やだっ、田中さ…っ、んっ、あっ、あぁっ、ああぁぁっ…!!」

 英一が果てたのを見下ろしながら俺は腰を振り続けた。
 嫁とさんざんセックスしてきた。昨夜もした。なのに英一に会ったとたん性欲のスイッチが入ってしまった。しかもぶっ壊れたかのように無尽蔵に湧き上がってくる。まるで英一と会っていなかった分を取り戻そうとしているみたいだった。

「もしかして俺、お前のこと好きなのかも」
「え…嘘…」

 驚いて英一が振り返る。

「迷惑か?」
「迷惑じゃ、ない…嬉しいです…」
「嫁よりお前の体のほうに興奮する。お前の顔見た途端、めちゃくちゃセックスしたくなった。嫁としてても、なんか…風俗行ってるみたいな感じだったんだ」
「俺は、違う…?」
「あぁ、お前とはちゃんとセックスしてるって感じがする。一回出してもまだイケる。お前にとって俺はただのセフレかもしれないけど」
「そんなこと、ないです…っ、俺は田中さんだけ、田中さんしか、嫌…」

 全身、ぞわりと総毛立った。目の前の引き締まった英一の体がたまらなくエロく見える。細い腰回り、適度な筋肉、汗で湿った肌、齧り付きたくなる項。こいつを独占したい、誰にもやりたくない。
 英一の腰をつかんで突き上げる。パンパンと音が鳴る。粘り気のある水音も弾ける。

「あっ、アァンッ、あぁっ、アッ、もっと、して、もっと…!」
「はぁ…ぁ…あ、イクぞ、英一」
「中に…っ、田中さん、俺の中に…っ!」
「わかってる、中出ししてほしいんだろ。お前の腹ん中、俺の精子でいっぱいにしてやる」
「いっぱいにして…っ、田中さんっ、俺を田中さんで…あっ、あぁっ、んっ」
「英一、好きだぞ、英一…!」
「あぁっ、あんっ、俺も…っ、田中さん、好き…好きっ…!」

 激しく腰を打ち付けながら、英一の中へ吐き出した。

※ ※ ※

「なんだか締りのない顔」

 呆れたように言ったのは、数少ないゲイ友、タカ君。タカ君には同い年の恋人がいる。ラブラブなブログを読んでいたらつい「羨ましいです」と書き込んだのをきっかけに付き合いが始まった。
 今日は俺の大学の卒業記念にプレゼントを渡したいと喫茶店に呼び出された。

「好きになったセフレに振られそうってすっごい落ち込んで電話してきたの、つい2、3ヶ月月前じゃなかったっけ?」
「それがあのあと、好きだって言ってもらえたんだ」

 田中さんの奥さんが来るとわかったとき、嫌な予感がした。きっと罪の意識から俺との付き合はやめようと言いだすだろうと思っていた。田中さんはもともとノンケで、ただ寂しさと気持ちよさからズルズル続いているだけだと思っていたから。
 久し振りに会いに行ったときは怖くて仕方なかった。部屋に入るなり田中さんが抱き付いてきてセックスになだれ込んでも、終わったらこれで最後と言われるのだと覚悟していた。なのに「好きだぞ、英一…!」なんて言われるなんて…。

 それからというもの俺たちはハイペースで逢瀬を重ねて恋人同士のようにイチャイチャした。目を合わせればキスしたし、気分が乗ればセックスした。田中さんは離婚を口にした。もう少し考えてみて、と俺は言ったが、本心では早く別れて欲しいと願っていた。
 この前会ったとき、田中さんは結婚指輪を外していた。もう必要ない、と。

「思い出し笑いやめてー、キモイー、ニヤけすぎー」
「ごめん。だって、田中さんは俺のことただのセフレとしか思ってないと思ってたから」
「だから言ったじゃん。さっさと好きだって告白しちゃえばいいって」
「奥さんいるのに無理だよ。迷惑がられると思ってたし、それで気まずくなって会えなくなったら嫌だし」
「一目会ったその日から恋の花咲くこともある、ってねー」
「なにそれ」
「ごめんねー、おじさんでー」

 タカ君は田中さんと同じ、30歳だ。おじさんなんて思ったことない。
 携帯電話の着信音が聞こえてきた。

「あ、田中さんだ」
「噂をすればってやつ?」

 通話ボタンを押して耳に当てる。外からかけているのか、背後に雑音。

『あ、英一、あの、俺』
「どうしました?」

 受話口からは雑音ばかりが聞こえてくる。田中さんはずっと黙ったまま。もしかして電波が悪いのかな。もう一度声をかけようと息を吸い込んだとき、

『悪い。もうお前とは会えない。別れてくれ』
「えっ…どうしたんですか…?僕、何か気に障ることしました?」
『お前は悪くない。俺が全部悪いんだ。だからもう来ないでくれ』

 最後は投げつけるように言うと、田中さんは通話を切ってしまった。
 突然切り出された別れ。好きだと、妻と離婚すると言っていたのはつい先日のことなのに。指輪の外れたあとを罪悪感と幸福感を味わいながら眺めていたのはほんの数日前なのに。

「ちょっと、どうした?」

 携帯を耳に当てたまま呆然としている俺の顔の前でタカ君が手を振る。ぼんやりとタカ君に焦点を合わせた。

「別れようって。もう俺とは会えないって、田中さんが……」
「えっ」

 タカ君も絶句する。俺は泣き出しそうになるのを堪えることで精一杯だった。


スイッチON!