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ありがとう(2/2)

2020.10.25.Sun.
<前話>

 いつの間にか僕は中/学生になっていた。前と違う制服に身を包み、前と違う学校へ通う。担任の先生が僕に何かと話しかけてくる。バスケ部の顧問で、僕を部に誘ってくる。とりあえず見に来てくれと放課後、体育館へ連れて行かれた。興味を持てなくて僕は体育館の床ばかり見ていた。

 強制的にバスケ部に入れられた。まずは基礎からとドリブルの練習をひたすらさせられる。体育館を何周も走らされた。体力のない僕はみんなについていくことが出来なかった。他の一年生は上級生たちから怒鳴られたりしごかれたりしていたが、僕にはそれが一切なかった。落ち零れなのに、と不思議に思いながら、体を動かす気持ち良さを味わい、僕は一人、満たされていた。

 バスケ部の練習があった日の夜は気絶するように眠った。部屋の隅を見る暇もなかった。思い出しもしなかった。その頃から虫たちの音が小さくなっていた。

 朝、早くに目が覚めると僕はベッドを飛び起きた。じっとしていられなくて、制服に着替えると学校に行った。早く来すぎて門は閉まっていた。それをよじ登り、中に入って体育館へ向かった。体育館も当然閉まっていた。早く練習がしたかった。

 その日の放課後、僕はスポーツ用品店でバスケットボールを買った。これで毎日練習出来る。家のガレージでドリブルの練習をしていたら、ある日学校から帰ってくるとガレージの奥にバスケットゴールが設置されてあった。僕はシュートの練習を始めた。

 なかなかうまく入らない。ボールが充分に入るリングの大きさなのに、どうしてリングに弾き返されてしまうのか。本屋に行き「バスケットボール入門」というDVD付きの本を買った。何度もそれを読み、何度もDVDを見た。

 体を動かすのは僕には未知の感動があった。新しい方程式を覚え、今まで解けなかった問題を解いた時のような、一瞬味わえる、疲弊を伴う感動ではなく、僕自身の体を使ってヘトヘトになるまで粗野に動き回る、純粋な運動に対する感動だった。僕はそれに夢中になった。虫の声を聞くことも、思い出すことも少なくなっていた。

 家の近くに、バスケットゴールを一対設置した公園を見つけた。僕はそこで練習を始めた。何度練習しても失敗する。一度間違った問題は二度と間違えたりしなかったのに、バスケットだけは思い通りにいかない。それがまた、僕を喜ばせた。

 学校の授業になると、僕の耳はまた虫たちによって塞がれた。声が聞こえなくても黒板の文字を見ればだいたい何をしているのかわかる。ノートに書き止めていると文字が動き出した。虫の仕業だ。文字はニョロニョロ体をくねらせながらノートの上を移動し、机から飛び降り、ぞろぞろ教室から出て行く。文字の大行進を見ていたら可笑しくて笑えてきた。隣の席の奴はそんな僕を見て顔を強張らせていた。こいつにはこれが見えないんだろうか。こんなに楽しいパレードなのに。

 ~ ~ ~

 今日は朝から雨だった。大粒の雨が大量に空から降り注ぐ。雨音と虫のざわつく音は少し似ている。最近、すっかりおとなしくなった虫たちは、その力が弱まっているようだった。そろそろ寿命なのだろうか。僕は虫たちを心配した。

 集中豪雨を降らせた雨雲が風に押し流され、四時間目が始まる前に雨はあがった。雲の切れ間から太陽の光が差し込む。今日、バスケ部の練習が休みだったことを思い出し、僕はボールを持って学校を出た。

 いつもの公園で練習をしていると男が三人、やってきた。

「中坊が学校サボッて何してるんだ」

 と一人が言う。

「俺たちにボール貸せよ」

 別の一人が言った。首を左右に振るとまた違う一人が僕の手からボールを取り上げた。途端、僕の頭の中で虫たちが一斉に騒ぎ出した。あまりのうるささに顔を顰めた。

「返せ……あいつらがうるさい……」
「なん…って…………に……って……が………言って……!」

 虫の鳴き声と、僕の頭をひっかきまわす音で、男が何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。

「うるさいから静かにしてくれ……」

 虫に向かって言った言葉に男たちは形相をかえた。僕の胸倉を掴み何か怒鳴っている。虫たちがギャアギャア騒ぐので、何を言っているのかさっぱりわからない。

「ボールを返せ。お前たちのせいで頭が割れるように痛むんだ」

 目の前の男が残忍に笑った。次の瞬間、僕はその男に殴られていた。その衝撃で地面に倒れこむ。腹に男の靴の先がめり込んだ。胃がせりあがり、ゲェッと音を立てて中身を吐き出した。その中に虫たちが混じっていた。ビクビクと悶え、やがて動きが弱まり、虫は息耐えた。それを見て僕は正気でいられなくなった。男たちに掴みかかり、生まれて初めて人を殴った。その後、三人から気を失うまで殴られ、蹴られた。

 痛みで目を覚ました。男たちはいなくなっていた。体を起こすとあちこちが痛んだ。座りこんでぼうっとしていたら、目に何か液体が流れ込んできた。手で拭うと赤い血だった。こんなに鮮やかな赤を見たのは久し振りのような気がする。黒い血じゃなくて良かったと安心しつつ、ガクガク震える膝に手をついて立ち上がった。鞄とボールを拾いあげ、今日は帰ろうと出口へ向かった。たいした高さのない階段で尻餅をついた。ボールが転がって離れていく。

「大丈夫か」

 低く擦れた声に顔をあげる。また別の男が立っていた。制服から高校生だとわかった。今まで聞いた事のない声で虫たちが騒ぎ出す。不安がっているようだ。こいつから離れよう。立ちあがろうとしたが、手にも足にも力が入らない。

「来い、すぐそこだから手当てしてやる」

 男は僕の腕を掴んで引き上げた。首を横に振って断ったが、男はそれを無視して、強い力で僕の腕を引いて歩いて行く。しばらく行った先の店のシャッターをあけて中に入った。二階に連れ込まれ、傷の手当を受けた。

「終わりだ」

 男が言う。人から親切にされたことに僕は敗北感のようなショックを感じた。こんな風に他人と関わるのはとても久し振りで戸惑う。親切を受けたら礼を言う、と小さい頃教わったことを思い出し、遠慮がちに頭をさげた。

「お前、何年だ」

 男は煙草を咥えて火をつけた。煙草は二十歳にならなきゃ吸っちゃいけないはずだ。日本の法律を思い出しながら、僕は人差し指を立てた。

「一年か?」

 無言で頷いた。

「いじめられてんのか?」

 首を横に振った。

「口ん中、怪我したか?」

 違う。首を振る。

「名前は?」

 僕の頭の中で虫たちが悲鳴のような鳴き声をあげる。黙れ。頭の中で命令すると、虫たちの声は小さくなった。ポケットから生徒手帳を取り出し、男に見せた。

「木村……論?」

 頷く。

「ロンか、なぜしゃべらないんだ」

 虫たちがしゃべらせてくれないんだ。この人にはそれを知られたくなかった。だから黙って目を伏せた。「まぁ、いいけどな」と男は床に寝転がる。目線が僕から逸れた。僕は座っていたベッドからおりて男の横に腰をおろした。煙草を吸う口元をじっと見ていたら「吸いたいか?」と聞いてくる。いらない、と断りかけ、思いなおして頷いた。

 男が吸っていた煙草を受け取り、恐る恐るそれを口に運ぶ。男の唾液で少し湿っていたが不快ではなかった。深く吸い込むと、僕の中の虫たちが煙にあぶられ弱々しいうめき声を発した。

「うまくないだろ」

 男の言葉に僕は頷いた。うまくはない。むしろマズイ。だけどなぜか、いやに特別なものに見えてくる。煙草の先のオレンジの焔。こんな色は初めて見た。

 男の名前は瀬川鉄雄といった。口の中で何度もその名前を繰り返し言ってみた。それに抵抗するように虫たちが僕の中で騒ぐ。弱々しい声はすぐ封じ込めることが出来た。

 力関係は僕の方が上になっていた。鉄雄さんのそばにいると虫たちの力は弱まるようだった。まわりの音を掻き消そうと虫たちが足掻くが、鉄雄さんの声だけはクリアに聞き取る事が出来た。鉄雄さんの声を聞き逃したくないと集中すると、虫の発するノイズが消えるのだ。逆に、このまま消してしまっていいのだろうかと不安になる。

 虫の音が消えるということは、これまで聞かなくて済んできた音も全部聞かなくてはいけなくなるということだ。僕を押しつぶそうとする母さんの声。僕を拒絶する父さんの声。僕を傷つけようとする家庭教師の声。僕を否定するクラスメイトの声。その全部に、僕はこれから先、正気を保って耐えていけるだろうか。

 その日の夜、僕は不安で寝付けなかった。引っかいた傷がいつまでもジクジク痛むように、鉄雄さんの声が僕の耳から離れないのだ。

 あの人は僕を傷つけるようなことを言わない。僕を追い詰めることも言わない。何かをしろとも言わない。擦れ気味の声で呼ばれる自分の名前が、こんなに心地よく聞こえたことは生まれて初めてだ。

 頭の隅で虫たちが怯えたようにカサカサ物音を立てていた。僕の心臓は、今まで感じた事のない高鳴りに震えていた。

 朝日が昇るのと同時に家を抜け出し公園に向かった。バスケの練習に集中する。余計なことを考えず、虫の鳴き声も聞かず、ボールの跳ねる音だけを聞いて体を動かしていた。何時間そうしていたのか。

「ロン」

 不意に、僕の鼓膜を揺らす声。いつの間にか鉄雄さんがコートに立っていた。

「こんな朝早くから練習か」

 クリアに聞こえる鉄雄さんの声に恐怖すら覚えながら黙って頷く。

「ボール貸してみ」

 鉄雄さんが手を出してくる。ボールを投げて渡した。鉄雄さんはリングに向かってシュートした。ボードにも届かず地面に落ちる。鉄雄さんは意地になって何度もシュートを打つ。ようやくゴールを決め、得意げな顔で僕を見る。僕もつられて笑っていた。

 こんなふうに人に笑いかけるのなんていつぶりだろう。やっぱり違う。鉄雄さんは他の誰とも違う。不思議だ。昨日知り合ったばかりの人に、こんなに惹きつけられる理由がわからない。わからないから不安になる。その不安を取り除きたくて、原因をつきとめようとすればするほど、この人に惹きつけられる。僕はこの人を手に入れたい。虫を失っても、煩雑な物音を全部聞くことになっても、僕はこの人の声をひとつも聞き逃したくない。

「じゃ、俺帰るわ」

 鉄雄さんがコートを出て行こうとする。僕はその背中に呼びかけた。

「鉄雄」

 僕の体が軽くなっていく。虫が消滅していくのを感じる。それでも構わない。

 足を止め、鉄雄さんが振り返った。僕はもう一度名前を呼んだ。

「鉄雄」
「お前、今俺を呼んだか?」

 頷く。

「さんを付けろよ、中坊が」

 鉄雄さんが苦笑する。

 僕を支配し、時に僕を助け、時に僕を苦しめてきた虫たちは、部屋の隅にある暗闇の世界へ戻って行った。この時以降、虫たちの音を聞くことも、姿を見ることもなくなった。

 ~ ~ ~

 午前五時過ぎ、鉄雄さんの店の二階で、俺は酒瓶を片手に床に寝転がっていた。明日、学校は休み。酒でも飲むか、と鉄雄さんに誘われ、それが嬉しくて加減なく飲んでしまった。この店のバイトは今年の頭から始めた。俺がバイトを探していると言うと、ここでやればいい、と言ってくれたのだ。

「ロン、寝るならベッドで寝ろ」

 俺の手から酒瓶を取りあげ鉄雄さんが言う。ヘラヘラ笑う俺を見て溜息をついた。

「風邪ひくぞ、お前は、まったく」

 俺の腕を引っ張り、肩に担いで立ち上がる。感じる鉄雄さんの体温。甘えたい気持ちがわいて、わざともたれかかった。

「重いな……、無駄にでかくなりやがって」
「今は俺のほうが鉄雄さんよりでかいもんね」
「外に放り出すぞ」

 そう言いながら、鉄雄さんは俺をベッドにおろした。その腕を掴んで抱き寄せる。

「おい、ロン」
「一緒に寝ようよ」
「こんな狭いベッドじゃムリだ」
「平気だって、昔はよく一緒に寝たよね」

 鉄雄さんは無言だった。もしかして俺を警戒してるのかな。

「鉄雄さん、俺ね、いま、好きな奴がいんの。同じ学校の奴でね、寝ても覚めてもそいつのことばっかり考えてんの」
「あーそう、わかったからはなせって」
「俺がまともに人を好きになれたのは鉄雄さんのおかげだよ。鉄雄さんに会わなかったら、きっと俺、ずっと一人きりのままだった」
「なに馬鹿なこと言ってんだ」

 鉄雄さんが俺を睨み付ける。どうして鉄雄さんは怒っているんだろうか。

「ごめん」

 嫌われたくなくて謝った。

「なに謝ってんだよ」
「鉄雄さんが怒ってるみたいだったから」
「怒ってねえよ」
「じゃあ一緒に寝て。いいでしょ。昔みたいにさ、久し振りに一緒に寝ようよ」
「ったくもう」

 昔から鉄雄さんは優しい。溜息をつきながら俺の横に寝転がる。背中を向ける鉄雄さんに背後から抱きつく。

「懐かしいね」
「まあな」
「ありがとう、鉄雄さん」
「ん」

 人を好きになる感情を教えてくれて、本当に、ありがとう。


(初出2008年)

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ありがとう(1/2)

2020.10.25.Sun.
※虫・閲覧注意、エロなし、木村が病んでます

 眠れないんじゃない。眠らないんだ。僕は天井の四隅をじっと見つめる。真夜中。部屋は真っ暗。角の集まった部屋の隅に目を凝らす。そこだけは、どんなに目が慣れても、はっきり見る事が出来ない真の暗闇が凝縮されていた。だから僕はそこを見てやろうと、躍起になって見つめ続ける。いや、見たいんじゃない。目が離せないんだ。その真っ黒い部分から、目を逸らすことが出来ないんだ。

 その暗闇が、不意に形を変えた。黒く、小さい、無数の生き物が、ざわざわとそこから溢れてきた。目の錯覚だと思った。瞬きせずに見ていた僕の目が疲れて見せる幻覚だ。蟻よりも小さい黒い点は、天井、壁へと、どんどん侵食し広がっていく。何千、何万という膨大な数で、僕の部屋を黒く塗りつぶす。

 僕の耳には、そいつらのザワザワと耳障りな音しか聞こえなくなる。すぐ間近で「カサカサ」という音を聞いた。そいつらは、とうとう僕のベッドにまでやってきた。カサカサ、カサカサ、と音を立て、近寄ってくる。チカチカ、という鳴き声を聞いた。仲間同士で話し合っているみたいだ

 僕は身動きせず、その話し声に耳を澄ませた。こいつらは何を相談しているんだろう。僕という獲物を前に、どこからどう攻めてやろうかと、その作戦会議でもしているのだろうか。僕は無抵抗にお前たちのなすがままになってやるからさっさと来いよ。僕の中身を食いつぶして、空っぽにしてくれ。それは僕の願いでもあるんだから。

 チキチキ。虫共が甲高い鳴き声をあげ、一斉に僕に飛び掛かってきた。細く、尖った足で体のあちこちを引っかかれ、鋭い牙が僕の皮膚を噛み千切る。僕の耳、鼻、口、目、臍、尻、尿道、全ての穴から、虫共が入り込んでくる。僕は不思議と痛みも感じず、虫によって体が膨らんで行く感じに、乾いた感動を覚えた。そうだ、もっと入って来い。

 薄い皮膚の下で、無数の虫がうごめいている。それを見ようと手を目の前に持って来たが、眼球にも虫が張り付いていて見ることが出来なかった。それが少し、残念だった。僕は真っ黒な塊になった。

 ~ ~ ~

 朝起きると、僕の体は元に戻っていた。でも頭の中にはザワザワと虫が這い回る音と、キチキチという鳴き声がたくさん反響していた。虫たちはすっかり全部僕の中におさまったらしい。

 鏡の前に立ちもう一度確認したが見た目は前と何もかわっていなかった。

「おはよう、論」

 僕の内部の異変に気付かない母さんが朝の挨拶をしてくる。僕も「おはよう」と返した。

「今日は運動会だからあなたは行かなくていいのよ。今日はずっとおうちでお勉強していればいいから。先生が朝から来てくださるから朝ご飯を食べたらお部屋に戻って」
「はい」

 椅子を引いて座る。テーブルに並ぶ朝食。見ていたら吐き気がした。駄目だ、今吐いたら、僕の口から虫が出てきてしまう。あいつらは何が好物なんだろうか。何を食べたら喜んでくれるだろうか。昆虫のイメージに近いから僕は果物を選んで食べた。歯で噛み切った瞬間、果汁が口の中に広がった。気持ち悪くて吐き出してしまった。それを見て母さんが顔を歪める。

「どうしたの、お行儀が悪い」
「ごめんなさい、腐ってます、これ」
「そんなことないでしょ」

 母さんが同じものを食べる。

「ほら、やっぱり。おいしいわよ、甘くて」

 僕の中の虫たちが、頭の中を引っ掻き回した。

「アアアァァ──ッ!! 痛いっ! 痛い、やめてくれ!」

 激痛に頭を押さえてうずくまる。虫たちが怒っている。あんなものを食べた僕に怒っている。

「もう食べない、食べないから、アァァッ……痛い、怒らないでよ、もう、食べないってば!」
「論、どうしたの、どこが痛いの? 誰もあなたを怒ってないじゃない」

 母さんは知らない。僕の中に支配者がいることを。

 虫たちは僕がすっかり服従したのを確認してからおとなしくなった。痛みが引き、あいつらのキチキチと言うも鳴き声おさまった。ヨロリと立ち上がり、テーブルの上の料理をチラと見る。それだけですっぱいものがこみ上げてきた。

「ご馳走様でした、もういりません」

 吐き気を堪えて言う。

「そう、だったらお部屋に戻りなさい。もうすぐ先生がみえるわ」

 母さんは取り乱した僕に驚いた様子で、恐々、僕の背中を押した。

 僕は部屋に戻り、勉強机に座って先生を待った。しばらくして先生がやってきた。いつもの家庭教師。

「前回の続きから」

 冷たく言って問題集を僕の前に広げる。僕はノートに解答を書いていく。チッ、チッ、チッ、という先生の腕時計の秒針が、今日はやけに耳についた。集中しようと思っても集中出来ない。

「先生、その音がうるさいので、腕時計を外してくれませんか」

 堪え切れずに頼んだ。先生は眉をひそめ、

「わからない問題でもあるのか?」

 と言う。

「違います、その腕時計の音が耳障りなんです、集中出来ないんです」
「これは私がいつもつけている時計だが。君は今までそんなこと一度も言わなかったじゃないか」
「今日は特別耳にうるさいんです、外してください、あいつらが怒り出す前に」
「あいつら?」

 先生が片眉をあげた。この人に僕の中にいる虫のことを言っても理解できないだろう。話すだけ時間の無駄だ。

「とにかく外してください」

 先生は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「わからない問題があるなら素直にそう言いなさい。人に教えを請うのは恥ずかしいことではないよ」

 この人は何を勘違いしているんだろう。僕は呆れて溜息をついた。先生の頬がひきつった。

「君、自分が人より優秀だと自惚れているね。確かに君はそこらへんの子供より出来のいい頭を持っているが、君の知らないことは世の中にたくさんあるんだ。だから私が君の家庭教師について教えてやっているんだ。だから私に教えてくださいと頼みなさい。無駄に時間を稼いでも問題は永遠に解けないんだよ」

 僕は先生の言っていることがさっぱり理解出来なかった。この人は僕に何かを頼んで欲しいのだろうか。僕は首をかしげ、先生を見上げた。

「じゃあ先生、教えてください」
「うん、なんだ、言ってみなさい、どの問題がわからないんだ?」
「部屋の隅から出てきた虫たちは何が好物なんですか? 朝、果物を食べたら怒らせてしまったんです。頭の中で怒り狂って、僕を苦しめるんです」
「何を言っているんだ、君は」

 満足そうに笑っていた先生の顔が怪訝に歪んだ。

「虫を飼っているのか? そんなもの捨ててしまいなさい。なんの役にも立たない」
「飼ってるんじゃありません。共生しているんです。あいつらは今、ここにいます」

 僕は自分の頭を指差した。先生が驚いた様子で立ち上がり、青ざめた顔で僕を見下ろした。

「君、何を……、私をからかっているのか……」
「とんでもありません。やっぱり先生じゃわからないんですね」

 先生の顔が今度は赤くなった。

「わ、私を馬鹿にするのか。私は君の家庭教師なんだぞ。なんだ、その反抗的な態度は」
「反抗なんてしてません。ほら、先生には聞こえませんか、あいつらが動き出した音が」

 僕は耳に手をかざした。僕の耳からあいつらのカサカサと動き回る音が外に聞こえないかと思ったからだ。先生はそんな僕を見て顔を強張らせた。

「待っていなさい、お母さんと話をしてくる」

 先生は足早に部屋から出て行った。僕の中の虫たちがキチキチ鳴く。笑っているような鳴き声だった。

 ~ ~ ~

 先生が帰った午後、僕は母さんの運転で病院に連れて行かれた。

 診察室の、ゆったりとした椅子に寝そべるように座らされた。大きな机の向こうに座る先生は、顔に笑顔をはりつけて、「リラックスして」と言う。

「僕、帰って勉強しなきゃなんないんだ」
「いいんだよ。今日はもう勉強はいいんだ。なぜここに連れてこられたかわかるかい?」
「さぁ、家庭教師の先生を怒らせたからかな」
「うん、君の頭の中にいる、虫のことについて聞かせて欲しいんだ」
「先生、信じるの、それ」
「信じているよ」

 嘘だ。虫たちの鳴き声が僕の頭の中で不協和音を立てる。不快な音に僕は冷や汗を流した。

「虫はね、嘘を見抜くんだ。先生のことが嫌いだって言ってる」

 カサカサカサ。カリカリカリ。キチキチキチ。だんだん音が大きくなってくる。痛みを感じて頭を抱えた。

「それは虫が言っているのかな、君が言っているのかな」
「虫だよ。痛い。先生が嫌いだって。痛い。虫が言ってる……痛い、先生、痛い……、あいつらが怒ってる。僕の頭の中で暴れてる。アッ、イッ……ゥァアアアアアア──ッ!!!」

 頭に激痛が走り、僕は悶絶して、椅子から転げ落ちた。駆け寄ってきた先生が僕を抱き起こし、瞳孔を見る。慌てた様子で人を呼んだ。僕はあまりの痛みに気を失った。

 ~ ~ ~

 目が覚めた。見覚えのない天井。僕はすぐ、部屋の四隅を探した。見慣れた暗闇がそこにあった。視界の端で何かが動いた。母さんだった。僕が起きた気配に、母さんも目を覚ましたようだった。僕の顔を見て安心したように笑う。

「…………!…………?………」
「え? なんて言ったの?」

 母さんの声が聞こえなかった。僕の声も遠くに聞こえる。そうか、虫だ。あいつらが僕の耳を塞いでしまったんだ。

「………!……!…!」

 母さんが口を動かし、何かしゃべっている。だが僕の耳には何も聞こえない。母さんの声だけじゃない、他の物音も何一つ聞こえない。聞こえるのは、満足そうに笑う虫たちの鳴き声だけだ。僕もつられて笑った。母さんの顔がひきつる。

「………、…………?…………!」

 何も聞こえないっていうのは案外いいものだ。僕も何も答えなくていい。聞こえないんだから、答えようがない。

 僕は布団をひっぱりあげ、寝返りを打って母さんに背を向けた。母さんが僕の肩を持って激しく揺する。横目にみると、何かを必死に伝えようとしているのはわかったが、内容がわからないので無視して目を閉じた。

 何も聞こえない。満足した虫たちも静かにしている。静寂。天井の四隅で見つけた暗闇が僕の頭に浮かび上がる。僕はそこに目を凝らす。暗闇がどんどん広がり、僕をすっぽり飲み込んだ。

 ~ ~ ~

 数日経っても母さんの声は聞こえなかった。久し振りに家に戻ってきた父さんの声も聞こえない。僕は黙って母さんたちが醜く言い争うのを見ていた。

「お兄ちゃん、耳が聞こえないの?」

 妹の智美の声だけは聞こえた。僕は首を横に振った。

「聞こえるよね。私の声、聞こえてるもんね?」

 うん、と頷く。智美がにっこり笑う。僕も笑い返そうとしたら中の虫たちがキィキィ鳴き出した。僕が誰かと親しくするのを嫌うみたいだ。僕は部屋にこもった。

 朝になると学校に送り出された。一歩家の外に出ると僕の中の虫たちが喜んで騒ぎ出す。その音に混じってたくさんの音が僕の鼓膜を揺さぶってくる。世界はこんなに物音に溢れているのかと驚く。

 学校のクラスメイトは誰も僕に声をかけてこない。ヒソヒソと僕のことを話す声が聞きたくないのに聞こえてくる。

「耳が聞こえないらしいよ」
「でもあいつ、こっち見たぞ」
「聞こえないんじゃなくて、話せないんだろ」
「俺はしゃべれなくなったって聞いた」
「病気なの?」
「ココロのビョーキだよ」
「勉強のし過ぎでオカシクなったんだって」
「あ、まだこっち見てる」
「恐い、あっち行こう」

 僕は病気なんだろうか。確かに頭の中に虫がいるなんて正常じゃないな。こんなことを言うから僕は病院に連れて行かれたんだ。

 あれ以来、僕は誰にも虫の話をしていない。誰にも理解されないことだと諦めたからだ。話しかけられても聞こえない。自分から誰かに話しかけたいとも思わない。それに虫たちは僕に誰とも話をさせたくないようだった。

 体育の時間はいつも見学。怪我をしたらいけないし無駄に体力を消費しないためだと母さんに止められた。いつもは教室で自習するが、今日は先生から、みんなが動いているのを見ているといい、と外に引っ張り出された。母さんの意向でもあるらしい。

 卒業も間近で、体育の時間は遊びの時間になっていた。みんなが楽しそうにドッヂボールをするのを、僕は少し離れたところから見学していた。外野が取りそこねたボールが僕の前まで転がってくる。

「木村、それ、放って!」

 僕は聞こえないふりをした。虫たちの冷たい息使いを聞いた気がしたからだ。

「取ってくれてもいいだろ!」

 外野の奴が走ってやってきて文句を言う。ボールをひろいあげた時、そいつは僕の影を踏んだ。

「ギャアアアアァァァァァ──!!!!」

 頭の中でブチブチと虫が踏み潰された音が聞こえた。虫たちが悲鳴をあげる。僕も悲鳴をあげた。ひどい痛みにのた打ち回る。ボールを取りに来たそいつはその場に凍りつき、恐怖に顔を歪めて僕を見ていた。

「なにするんだ……僕の影を踏むなよ……、虫が痛がってるだろ……!」
「なに言ってんだ、お前……」

 虫たちが僕の耳を塞いだ。先生たちが僕のまわりに集まってくる。口々に何か言っているが、その喧騒は僕には聞こえない。抱えられるように保健室へ運ばれた。保健室で寝ていると母さんが迎えに来た。僕は車で家に帰った。母さんは泣いていた。どうして泣くのか、僕にはわからなかった。



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