Question (11/11)
2020.09.05.Sat.
<1→2→3→4→5→6→7→8→9→10>
「本当はもっと早くに伺うつもりだったんですが、夜中にお邪魔してしまってすみませんでした」
翌朝、食事の準備をするうちの母親に一ノ瀬は深々と頭をさげた。母さんは驚いて目を丸くした。
「いいのよ、論から連絡をもらっていたから。こちらこそお出迎えできなくてごめんなさいね」
「とんでもありません。あんな非常識な時間に来た僕がいけないんです」
僕ときたよ。ほんとに一ノ瀬は根っから真面目だ。手伝います、と母さんと一緒にキッチンへ行ってしまった。
テーブルに朝食を並べる母さんを手伝いながら一ノ瀬が微笑む。俺でさえ見た事のない優しい笑みだ。
もしかして一ノ瀬って年上の女が好きなのか? ちょっと焦ってしまうくらい一ノ瀬は母さんに優しかった。
朝食のあとも後片付けを手伝う一ノ瀬の笑い声がキッチンから聞こえてきた。あの一ノ瀬が初対面の誰かにあんなふうに声をたてて笑うなんて初めてのことだ。俺は本気で焦って嫉妬した。おいおい、まさか本当に母さんがタイプなのか?
皿を食器棚に入れていた一ノ瀬の腕を掴んで二階へ連れて行った。
「まだ手伝いの途中だったのに」
俺の腕を振り払って言う。邪魔するな、という目で見られた。焦りを通り越して冷や汗をかいた。
「お前って、年上が好み?」
そういえばサンジャイにもこいつは素直だった。
「なんの話だ。お邪魔させてもらっているんだから手伝いくらいするだろ」
まくっていた服の袖を元に戻しながら一ノ瀬が言う。ただの手伝いのわりに随分親しげだったじゃないか。あんなふうに笑う一ノ瀬は滅多に見られるもんじゃない。
「いいお母さんだな、大事にしろよ」
お前は親戚のおっさんか。
「ところで一ノ瀬、昨日の宿題なんだけど」
「わかったか?」
「いや、わかんね。なんか約束したっけ?」
「いや」
「何か貸した?」
「いや」
「何か借りてる?」
「いや」
「何か言った?」
「いいや」
首を横に振る。楽しげな顔だ。
「お前は大事なことをすっ飛ばしてる」
「俺が? 何を?」
「俺はお前の気持ちを知らない、聞いてない」
「は?」
何を言ってるんだ、一ノ瀬は。俺の気持ち? 何についての俺の気持ちだ?
「ここまで言っても気付かないなんて、相当アホだな」
呆れたように、しかし愉快そうに一ノ瀬は笑った。俺は閃いた。愕然となる。
「……言ってなかったっけ、俺」
まじでか。俺、こんな大事なこと今まで一ノ瀬に言ってなかったのか。
「ようやく気付いたようだな」
「うん、あまりに基本的なこと過ぎて、俺言ったつもりになってた」
逆にそれを一ノ瀬に言わせようとしていた。俺はそれを一ノ瀬に言っていないのに。
「言ってみろ、正解かどうか確かめてやる」
「一ノ瀬が好きだ」
少し間をあけ、
「正解だ」
一ノ瀬が微笑む。
「人に聞くまえに自分から言え、馬鹿」
前髪をかきあげる一ノ瀬に抱きついた。
「ごめんなさい、俺が馬鹿でした」
素直に謝る。そうだ、今までつきあってきた奴に好きだの嫌いだのそんな台詞使ってこなかったから、一ノ瀬にもちゃんと伝えていなかったんだ。俺って本当に馬鹿だ。中/学生の恋愛みたいで良いと言っていながら、肝心な言葉を一ノ瀬に言っていなかった。
「ごめん、一ノ瀬」
「俺も昨日まで気付かなかった」
「どうして気付いたの」
「瀬川さんに告白してお前が振られたと聞いた時だ。俺はお前に好きだと言われたことがない」
「だったね」
自分の間抜けさに笑えてきた。
「じゃあ改めて、俺は一ノ瀬が好きだ。一ノ瀬は俺が好き?」
顔をのぞきこむ。
「それはまた宿題だ」
ずるい。俺に言わせておいて自分は言わないつもりか。
一ノ瀬の顎を持って上を向かせる。
「その宿題が解けたら?」
「また次の問題を出してやる」
「それも解けたら?」
「また出してやる」
「全部解けたら、一ノ瀬は俺のものになってくれる?」
「あぁ、全部解けたらな」
挑発的な笑み。こんなに心を揺さぶられる奴はこいつが初めてだ。
「その宿題、他の奴には出すなよ」
「お前専用の問題だよ」
嬉しいこと言ってくれる。顔を近づけてキスしたが一ノ瀬は逃げない。
もちろん、全問正解してやる。俺にはその自信がある。
「本当はもっと早くに伺うつもりだったんですが、夜中にお邪魔してしまってすみませんでした」
翌朝、食事の準備をするうちの母親に一ノ瀬は深々と頭をさげた。母さんは驚いて目を丸くした。
「いいのよ、論から連絡をもらっていたから。こちらこそお出迎えできなくてごめんなさいね」
「とんでもありません。あんな非常識な時間に来た僕がいけないんです」
僕ときたよ。ほんとに一ノ瀬は根っから真面目だ。手伝います、と母さんと一緒にキッチンへ行ってしまった。
テーブルに朝食を並べる母さんを手伝いながら一ノ瀬が微笑む。俺でさえ見た事のない優しい笑みだ。
もしかして一ノ瀬って年上の女が好きなのか? ちょっと焦ってしまうくらい一ノ瀬は母さんに優しかった。
朝食のあとも後片付けを手伝う一ノ瀬の笑い声がキッチンから聞こえてきた。あの一ノ瀬が初対面の誰かにあんなふうに声をたてて笑うなんて初めてのことだ。俺は本気で焦って嫉妬した。おいおい、まさか本当に母さんがタイプなのか?
皿を食器棚に入れていた一ノ瀬の腕を掴んで二階へ連れて行った。
「まだ手伝いの途中だったのに」
俺の腕を振り払って言う。邪魔するな、という目で見られた。焦りを通り越して冷や汗をかいた。
「お前って、年上が好み?」
そういえばサンジャイにもこいつは素直だった。
「なんの話だ。お邪魔させてもらっているんだから手伝いくらいするだろ」
まくっていた服の袖を元に戻しながら一ノ瀬が言う。ただの手伝いのわりに随分親しげだったじゃないか。あんなふうに笑う一ノ瀬は滅多に見られるもんじゃない。
「いいお母さんだな、大事にしろよ」
お前は親戚のおっさんか。
「ところで一ノ瀬、昨日の宿題なんだけど」
「わかったか?」
「いや、わかんね。なんか約束したっけ?」
「いや」
「何か貸した?」
「いや」
「何か借りてる?」
「いや」
「何か言った?」
「いいや」
首を横に振る。楽しげな顔だ。
「お前は大事なことをすっ飛ばしてる」
「俺が? 何を?」
「俺はお前の気持ちを知らない、聞いてない」
「は?」
何を言ってるんだ、一ノ瀬は。俺の気持ち? 何についての俺の気持ちだ?
「ここまで言っても気付かないなんて、相当アホだな」
呆れたように、しかし愉快そうに一ノ瀬は笑った。俺は閃いた。愕然となる。
「……言ってなかったっけ、俺」
まじでか。俺、こんな大事なこと今まで一ノ瀬に言ってなかったのか。
「ようやく気付いたようだな」
「うん、あまりに基本的なこと過ぎて、俺言ったつもりになってた」
逆にそれを一ノ瀬に言わせようとしていた。俺はそれを一ノ瀬に言っていないのに。
「言ってみろ、正解かどうか確かめてやる」
「一ノ瀬が好きだ」
少し間をあけ、
「正解だ」
一ノ瀬が微笑む。
「人に聞くまえに自分から言え、馬鹿」
前髪をかきあげる一ノ瀬に抱きついた。
「ごめんなさい、俺が馬鹿でした」
素直に謝る。そうだ、今までつきあってきた奴に好きだの嫌いだのそんな台詞使ってこなかったから、一ノ瀬にもちゃんと伝えていなかったんだ。俺って本当に馬鹿だ。中/学生の恋愛みたいで良いと言っていながら、肝心な言葉を一ノ瀬に言っていなかった。
「ごめん、一ノ瀬」
「俺も昨日まで気付かなかった」
「どうして気付いたの」
「瀬川さんに告白してお前が振られたと聞いた時だ。俺はお前に好きだと言われたことがない」
「だったね」
自分の間抜けさに笑えてきた。
「じゃあ改めて、俺は一ノ瀬が好きだ。一ノ瀬は俺が好き?」
顔をのぞきこむ。
「それはまた宿題だ」
ずるい。俺に言わせておいて自分は言わないつもりか。
一ノ瀬の顎を持って上を向かせる。
「その宿題が解けたら?」
「また次の問題を出してやる」
「それも解けたら?」
「また出してやる」
「全部解けたら、一ノ瀬は俺のものになってくれる?」
「あぁ、全部解けたらな」
挑発的な笑み。こんなに心を揺さぶられる奴はこいつが初めてだ。
「その宿題、他の奴には出すなよ」
「お前専用の問題だよ」
嬉しいこと言ってくれる。顔を近づけてキスしたが一ノ瀬は逃げない。
もちろん、全問正解してやる。俺にはその自信がある。
(初出2008年)

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Question (10/11)
2020.09.04.Fri.
<1→2→3→4→5→6→7→8→9>
体を揺さぶられて目が覚めた。目の前に鉄雄さんが立っている。
「風邪ひくぞ、お前」
「今何時?」
「12時だ。俺は近くに部屋を借りてるから、お前たちはここに泊まって行くか?」
「ううん、帰るよ」
今日は一ノ瀬と楽しい時間を過ごす予定なんだ。 一ノ瀬はこちらに背を向けたまま動かない。 まだ寝ているようだ。
「バイトのことだけど、本当にいいの?」
「あぁ、俺はいつでもいいぞ」
「ありがとう、鉄雄さん。 今日は誘ってくれて嬉しかった」
「俺も久し振りにお前に会えてよかったよ。じゃ、俺は店に戻るから」
下におりて行く鉄雄さんを見送り、俺は一ノ瀬に向きなおった。動かない肩に手を置く。
「一ノ瀬?」
呼ぶとすんなり瞼が開いた。むくりと起き上がり、目を伏せる。寂しげに見える、あの目だ。俺の庇護欲がかきたてられる。あの時手を出さなくて本当に良かった。
「そろそろ帰ろうか」
一ノ瀬は無言で頷き、ベッドから立ち上がった。少しふらついたのを手で支えた。一ノ瀬が俺の顔を見る。まだ酔っているのか、目が潤んでいた。
「気分が悪いな」
そう言って目を逸らす。テキーラを二杯も飲むからだ。気だるい様子の一ノ瀬をつれて下におりた。
菱沼さんはまだ酒を飲んでいる。鉄雄さんと菱沼さんに挨拶をしてから店を出た。
冷たい外気に首がすくんだ。吐く息も白い。早く家に帰らないと一ノ瀬が風邪をひく。一ノ瀬はマフラーを手に持ったままぼんやりして巻こうとしない。それを取って俺がかわりに首にまいてやった。酒が残っている一ノ瀬は俺のやることにいちいち文句を言わないからやりやすい。
「こっから歩いて20分くらいだから」
一ノ瀬の手を握り、俺のコートのポケットに入れた。そのまま手を繋いで歩いたが一ノ瀬は無反応。 こんなふうに手を繋いで歩けるなら、絡み酒を我慢する価値はある。
家までの道のり、二人とも黙って歩いた。ポケットの中で繋いだ手が温かい。どうしようもなく一ノ瀬が愛しかった。
~ ~ ~
家の前に到着して一ノ瀬も正気に戻ってきたのか、
「こんな時間に非常識だ、やっぱり今日は帰る」
なんていい出した。 今何時だと思ってんの。 電車ないよ。
「大丈夫、遅くなるって連絡したし、静かに入ればいいから」
「いや駄目だ、俺は失礼する」
本当に帰ろうと背を向ける。慌てて腕を掴んだ。逃してたまるか。
「電車もないのにどうする気」
「どこかで時間を潰す」
「馬鹿なこと言うなって、頼むから中に入ってくれ。お前が来てくれなきゃ俺も野宿するぜ」
一ノ瀬は口を噤んで眉を寄せた。
「……わかった、明日家の人にお詫びをする」
どこまでも固い奴だ。そんなことより一ノ瀬の気が変わる前にとっとと家の中に入れてしまおう。
勝手口の戸をあけ、一ノ瀬を中に押し込んだ。腕を掴んだまま玄関へ。そこもクリアし、家の中に入った。真っ暗な廊下を一ノ瀬の手を握って歩く。階段をのぼって俺の部屋へ。明かりと暖房をつけた。
「すごい本の量だな」
一ノ瀬が本棚を見て呟いた。壁にはめ込んだ棚に数百冊の本がぎっしり。今はほとんど見ることのない無駄な本ばかりだ。
「コート、かけておくよ」
一ノ瀬からコートを預かり、自分のものと一緒に奥のクローゼットにかけた。一ノ瀬は本棚の前に立って背表紙を見ている。その背中に抱きついた。
「何か興味のある本でもある?」
「全部読んだのか?」
「半分くらいしか見てないよ」
「それでも半分は見たのか」
と壁一面の棚を仰ぎ見た。昔両親がせっせと買ってきたものだ。半分くらい目を通したところで飽きてしまった。
「なにか飲む?」
「いや、いい」
「もう酔いはさめた?」
「あぁ、大丈夫だ」
そう言う時、一ノ瀬の顔が少し赤くなった。自分の失態を思い出して恥ずかしくなったのだろう。一ノ瀬が嫉妬するなんて初めてのことだ。あんなふうに素直になってくれるなら、たまに酒を飲ませるのもいいかもしれない。
「で、いつまで俺に抱きついてる気だ」
「寒いかと思ってね」
「寒くない」
「俺が寒い」
「暖房が効いてきてる」
「こういうの嫌?」
一ノ瀬は黙った。嫌じゃないって解釈でいいんだよな。
「一ノ瀬は俺のことどう思ってる?」
一ノ瀬のにおいがする首筋に顔を埋めて聞いた。皮膚すれすれに唇を這わす。一ノ瀬は首をすくめた。
「不真面目で軽薄でお調子者でいい加減な奴だと思ってる」
そういう意味で聞いたんじゃないけど、ひとつも褒め言葉がないのはさすがに酷くないか?
「ひでぇな、一ノ瀬にはいつだって真面目だぜ」
「どこが」
心底馬鹿にした言い方。
「俺を怒らせたな」
首筋にキスした。抵抗する一ノ瀬を強く抱きしめる。力は俺の方が勝ってる。
「放せ、馬鹿」
「俺が本気出したら 一ノ瀬なんか簡単に組み敷けるんだぜ、それをしないのはどうしてだと思う? お前に本気だからだ」
引きずるように移動してベッドに押し倒した。暴れる一ノ瀬の肩を掴んで仰向かせる。上から押さえ込み、ベッドに磔にした。下から一ノ瀬が俺を睨んでいる。
「さっきだって酔ったお前に手出ししなかったんだ。酔った一ノ瀬をものにしたって嬉しくないからな。素面のお前でなきゃ、俺はいらない」
怒った表情だった一ノ瀬が不意に笑った。
「だったら俺はずっと酒を飲んでいよう」
脱力して一ノ瀬の上に覆いかぶさった。
「そんなに俺が嫌か」
「嫌だなんて言ってない」
背中をポンポン叩かれた。心地いい。
「だったら好き?」
「おまえはそればかりだな。 その前に何か忘れていないか?」
俺を見て不敵に笑う。あまり見せない表情に引きこまれる。反射的にキスしていた。一ノ瀬の舌を絡め取る。服の中に手を入れながら一ノ瀬の言葉を考えた。
俺が何を忘れた?
「わからないなら宿題だ」
俺を押し返し、一ノ瀬は立ち上がった。服の乱れをなおし、
「さ、もう寝るか」
涼しい顔で言う。
俺はその宿題を寝ずに考えた。 一ノ瀬と何か約束したか? 俺は一体何を忘れているんだ?
思わせぶりな言い方に、何か大事なものを取りこぼしているような焦燥感が募る。隣の一ノ瀬は寝息を立て眠っている。むしょうに腹が立った。一度ならず二度までもチャンスをフイにしたのだ。完全に一ノ瀬のペース。
外が白んでくるまで考えてみたが、結局答えは見つからなかった。
映画化…!
【続きを読む】
体を揺さぶられて目が覚めた。目の前に鉄雄さんが立っている。
「風邪ひくぞ、お前」
「今何時?」
「12時だ。俺は近くに部屋を借りてるから、お前たちはここに泊まって行くか?」
「ううん、帰るよ」
今日は一ノ瀬と楽しい時間を過ごす予定なんだ。 一ノ瀬はこちらに背を向けたまま動かない。 まだ寝ているようだ。
「バイトのことだけど、本当にいいの?」
「あぁ、俺はいつでもいいぞ」
「ありがとう、鉄雄さん。 今日は誘ってくれて嬉しかった」
「俺も久し振りにお前に会えてよかったよ。じゃ、俺は店に戻るから」
下におりて行く鉄雄さんを見送り、俺は一ノ瀬に向きなおった。動かない肩に手を置く。
「一ノ瀬?」
呼ぶとすんなり瞼が開いた。むくりと起き上がり、目を伏せる。寂しげに見える、あの目だ。俺の庇護欲がかきたてられる。あの時手を出さなくて本当に良かった。
「そろそろ帰ろうか」
一ノ瀬は無言で頷き、ベッドから立ち上がった。少しふらついたのを手で支えた。一ノ瀬が俺の顔を見る。まだ酔っているのか、目が潤んでいた。
「気分が悪いな」
そう言って目を逸らす。テキーラを二杯も飲むからだ。気だるい様子の一ノ瀬をつれて下におりた。
菱沼さんはまだ酒を飲んでいる。鉄雄さんと菱沼さんに挨拶をしてから店を出た。
冷たい外気に首がすくんだ。吐く息も白い。早く家に帰らないと一ノ瀬が風邪をひく。一ノ瀬はマフラーを手に持ったままぼんやりして巻こうとしない。それを取って俺がかわりに首にまいてやった。酒が残っている一ノ瀬は俺のやることにいちいち文句を言わないからやりやすい。
「こっから歩いて20分くらいだから」
一ノ瀬の手を握り、俺のコートのポケットに入れた。そのまま手を繋いで歩いたが一ノ瀬は無反応。 こんなふうに手を繋いで歩けるなら、絡み酒を我慢する価値はある。
家までの道のり、二人とも黙って歩いた。ポケットの中で繋いだ手が温かい。どうしようもなく一ノ瀬が愛しかった。
~ ~ ~
家の前に到着して一ノ瀬も正気に戻ってきたのか、
「こんな時間に非常識だ、やっぱり今日は帰る」
なんていい出した。 今何時だと思ってんの。 電車ないよ。
「大丈夫、遅くなるって連絡したし、静かに入ればいいから」
「いや駄目だ、俺は失礼する」
本当に帰ろうと背を向ける。慌てて腕を掴んだ。逃してたまるか。
「電車もないのにどうする気」
「どこかで時間を潰す」
「馬鹿なこと言うなって、頼むから中に入ってくれ。お前が来てくれなきゃ俺も野宿するぜ」
一ノ瀬は口を噤んで眉を寄せた。
「……わかった、明日家の人にお詫びをする」
どこまでも固い奴だ。そんなことより一ノ瀬の気が変わる前にとっとと家の中に入れてしまおう。
勝手口の戸をあけ、一ノ瀬を中に押し込んだ。腕を掴んだまま玄関へ。そこもクリアし、家の中に入った。真っ暗な廊下を一ノ瀬の手を握って歩く。階段をのぼって俺の部屋へ。明かりと暖房をつけた。
「すごい本の量だな」
一ノ瀬が本棚を見て呟いた。壁にはめ込んだ棚に数百冊の本がぎっしり。今はほとんど見ることのない無駄な本ばかりだ。
「コート、かけておくよ」
一ノ瀬からコートを預かり、自分のものと一緒に奥のクローゼットにかけた。一ノ瀬は本棚の前に立って背表紙を見ている。その背中に抱きついた。
「何か興味のある本でもある?」
「全部読んだのか?」
「半分くらいしか見てないよ」
「それでも半分は見たのか」
と壁一面の棚を仰ぎ見た。昔両親がせっせと買ってきたものだ。半分くらい目を通したところで飽きてしまった。
「なにか飲む?」
「いや、いい」
「もう酔いはさめた?」
「あぁ、大丈夫だ」
そう言う時、一ノ瀬の顔が少し赤くなった。自分の失態を思い出して恥ずかしくなったのだろう。一ノ瀬が嫉妬するなんて初めてのことだ。あんなふうに素直になってくれるなら、たまに酒を飲ませるのもいいかもしれない。
「で、いつまで俺に抱きついてる気だ」
「寒いかと思ってね」
「寒くない」
「俺が寒い」
「暖房が効いてきてる」
「こういうの嫌?」
一ノ瀬は黙った。嫌じゃないって解釈でいいんだよな。
「一ノ瀬は俺のことどう思ってる?」
一ノ瀬のにおいがする首筋に顔を埋めて聞いた。皮膚すれすれに唇を這わす。一ノ瀬は首をすくめた。
「不真面目で軽薄でお調子者でいい加減な奴だと思ってる」
そういう意味で聞いたんじゃないけど、ひとつも褒め言葉がないのはさすがに酷くないか?
「ひでぇな、一ノ瀬にはいつだって真面目だぜ」
「どこが」
心底馬鹿にした言い方。
「俺を怒らせたな」
首筋にキスした。抵抗する一ノ瀬を強く抱きしめる。力は俺の方が勝ってる。
「放せ、馬鹿」
「俺が本気出したら 一ノ瀬なんか簡単に組み敷けるんだぜ、それをしないのはどうしてだと思う? お前に本気だからだ」
引きずるように移動してベッドに押し倒した。暴れる一ノ瀬の肩を掴んで仰向かせる。上から押さえ込み、ベッドに磔にした。下から一ノ瀬が俺を睨んでいる。
「さっきだって酔ったお前に手出ししなかったんだ。酔った一ノ瀬をものにしたって嬉しくないからな。素面のお前でなきゃ、俺はいらない」
怒った表情だった一ノ瀬が不意に笑った。
「だったら俺はずっと酒を飲んでいよう」
脱力して一ノ瀬の上に覆いかぶさった。
「そんなに俺が嫌か」
「嫌だなんて言ってない」
背中をポンポン叩かれた。心地いい。
「だったら好き?」
「おまえはそればかりだな。 その前に何か忘れていないか?」
俺を見て不敵に笑う。あまり見せない表情に引きこまれる。反射的にキスしていた。一ノ瀬の舌を絡め取る。服の中に手を入れながら一ノ瀬の言葉を考えた。
俺が何を忘れた?
「わからないなら宿題だ」
俺を押し返し、一ノ瀬は立ち上がった。服の乱れをなおし、
「さ、もう寝るか」
涼しい顔で言う。
俺はその宿題を寝ずに考えた。 一ノ瀬と何か約束したか? 俺は一体何を忘れているんだ?
思わせぶりな言い方に、何か大事なものを取りこぼしているような焦燥感が募る。隣の一ノ瀬は寝息を立て眠っている。むしょうに腹が立った。一度ならず二度までもチャンスをフイにしたのだ。完全に一ノ瀬のペース。
外が白んでくるまで考えてみたが、結局答えは見つからなかった。
映画化…!
【続きを読む】
Question (9/11)
2020.09.03.Thu.
<1→2→3→4→5→6→7→8>
「俺だって酒くらい飲める」
「はいはい、わかったわかった」
文句を言う一ノ瀬をとりあえずベッドに寝かせた。いったん下におり、水をもらって戻った。
「水、飲むか」
「いらない」
と言って俺に背を向ける。
「気持ち悪くない?」
「平気だ」
「どうして飲んだりしたの」
「俺が飲んじゃいけないのか」
「飲むタイプじゃないでしょが」
「お前は中/学生の時から飲んでたんだろう」
「あの二人と付き合ってたら避けて通れない道だったんだよ」
なんだか機嫌の悪い一ノ瀬をこれ以上刺激しないよう二人のせいにした。
「お前はあの二人とどんな付き合いをしてたんだ。酒も煙草も女もだって? 中/学生だったんだろ」
一ノ瀬は飲んだら絡み酒になるタイプなのかな。今後一切飲ますのはやめさせよう。
「少しだけ、試しただけだよ。一ノ瀬も好奇心で試したことあるでしょ」
「俺はない」
「だったら、どうして飲んだの今日は」
「うるさいな、もういいからお前は下に行け」
「心配だからここにいる」
「あの人が好きなんだろう」
「鉄雄さん? 昔はね。俺の初めての人だし」
「初めての人?」
「そ、初めて好きになった人。あと、俺の体に傷をつけた人」
怪訝な顔で一ノ瀬が振りかえる。 言葉足らずだったな。
「こっちのピアスの穴、あの人にあけてもらったんだ」
左の耳たぶを触った。 鉄雄さんに頼んであけてもらった。あの人の手によって、何か体に消えないものを残して欲しかった。ちょっと歪んだ愛情だと今だから思うが、当時は真剣そのものだった。穴を塞がないために学校から帰ってくるとすぐピアスをつけた。今では微笑ましい思い出だ。
「でも今は一ノ瀬しか眼中にないから」
これは本心だ。懐かしいけれど、鉄雄さんに昔のような恋心は抱かない。
「今だってあの人の言うことには素直じゃないか」
「そうかな、俺、一ノ瀬にはもっと素直だよ」
「ここで働くのか」
「うん、金貯めて免許とって、一ノ瀬を隣に乗せてドライブする」
考えただけで楽しい未来の想像が止まらなくなる。
「ここでないと駄目なのか」
「家からも学校からも近いからベストだと思ってるけど」
「ふぅん、俺には関係ない」
と、また向こうをむいた。拗ねたような、怒ったような口調に聞こえた。これは俺の気のせいか。もしかして一ノ瀬は嫉妬しているのか。ベッドに手をつき、一ノ瀬の顔を上からのぞきこんだ。赤く険しい横顔。頬にキスした。
「妬いてくれるの」
「違う」
「嬉しいな」
「違うって」
「こっち向いて、一ノ瀬」
動かない一ノ瀬の肩を持ってこちらに向かせる。仰向けになった一ノ瀬の唇にキスした。舌をいれたら酒の味がした。
「嫉妬したから、ヤケ酒だったんだ?」
俺が言うと一ノ瀬は目を逸らした。図星。顔がにやけるのを止められない。今度は額にキスした。
「一ノ瀬は嫉妬しないんだと思ってた。俺が他の誰と話そうがいつも知らん顔してるんだもんな」
「あの人は、他の人と違ったから」
「俺のこと好き?」
「知らない」
「キスしてもいい?」
「さっきしたじゃないか」
「していい?」
「好きにすればいいだろ」
怒ったように言う一ノ瀬が好きだ。 ベッドに体重を預け、一ノ瀬に覆いかぶさるようにキスした。左手を服の中に入れ、直にその肌に触った。まっ平らな胸に手を滑らせる。一ノ瀬の舌が震えていた。
俺の手の動きに合わせて一ノ瀬が息を飲む。その反応に我を忘れそうになる。
いつもならこんなこと絶対させてくれない。突き飛ばされる。最悪容赦なく殴られる。なのに一ノ瀬は俺にされるがままになっている。
一ノ瀬は酔ってる。 まともな判断ができないに違いない。俺は素面だ。なのに俺まで酔ってしまったような気がする。
ベルトに手をかけた。抵抗はない。本当にこのまま進めていいのかと一ノ瀬を窺う。どこかぼんやりした目が俺を見ていた。
俺は二つの感情の間を行き来していた。めちゃくちゃにしてやれ。駄目だ、一ノ瀬は大切にすると決めたんだ。葛藤して手が止まる。
残酷な試練。俺に全てをゆだねたような一ノ瀬を前に俺は理性を失いかけている。抵抗してくれれば俺も素面に戻るのに、一ノ瀬は無抵抗。
こんな状態の一ノ瀬をものにしたって嬉しくない。そうだ、今日の俺の目標は一ノ瀬に好きだと言わせることだ。
正気に戻り一ノ瀬から離れた。
「これくらいにしておかないと止まんなくなっちゃうね」
ベルトから手を放し、服を元に戻した。一ノ瀬の上から退いて床に腰を下ろす。
溜息が出た。どっと襲ってくる疲労感。一ノ瀬に手を出さなかった自分を褒めてやりたい。俺はいつからこんなに我慢強くなったんだろう。 いつからこんなに理性的な紳士になったんだろう。声をかけてその日のうちにセックスしていたかつての俺はどこへ行った?
一ノ瀬はまた俺に背を向けた。もう少し一ノ瀬の酔いがさめるまでここにいさせてもらうか。そのあと、一緒に俺の家へ行こう。そこで素面の一ノ瀬から、好きだという言葉をもらうことにしよう。何も今焦る必要はない。楽しみはその時までとっておく。
家に連絡して遅くなる旨伝えた。
一ノ瀬に布団をかけてやり、俺もベッドにもたれながら座って少し眠った。
「俺だって酒くらい飲める」
「はいはい、わかったわかった」
文句を言う一ノ瀬をとりあえずベッドに寝かせた。いったん下におり、水をもらって戻った。
「水、飲むか」
「いらない」
と言って俺に背を向ける。
「気持ち悪くない?」
「平気だ」
「どうして飲んだりしたの」
「俺が飲んじゃいけないのか」
「飲むタイプじゃないでしょが」
「お前は中/学生の時から飲んでたんだろう」
「あの二人と付き合ってたら避けて通れない道だったんだよ」
なんだか機嫌の悪い一ノ瀬をこれ以上刺激しないよう二人のせいにした。
「お前はあの二人とどんな付き合いをしてたんだ。酒も煙草も女もだって? 中/学生だったんだろ」
一ノ瀬は飲んだら絡み酒になるタイプなのかな。今後一切飲ますのはやめさせよう。
「少しだけ、試しただけだよ。一ノ瀬も好奇心で試したことあるでしょ」
「俺はない」
「だったら、どうして飲んだの今日は」
「うるさいな、もういいからお前は下に行け」
「心配だからここにいる」
「あの人が好きなんだろう」
「鉄雄さん? 昔はね。俺の初めての人だし」
「初めての人?」
「そ、初めて好きになった人。あと、俺の体に傷をつけた人」
怪訝な顔で一ノ瀬が振りかえる。 言葉足らずだったな。
「こっちのピアスの穴、あの人にあけてもらったんだ」
左の耳たぶを触った。 鉄雄さんに頼んであけてもらった。あの人の手によって、何か体に消えないものを残して欲しかった。ちょっと歪んだ愛情だと今だから思うが、当時は真剣そのものだった。穴を塞がないために学校から帰ってくるとすぐピアスをつけた。今では微笑ましい思い出だ。
「でも今は一ノ瀬しか眼中にないから」
これは本心だ。懐かしいけれど、鉄雄さんに昔のような恋心は抱かない。
「今だってあの人の言うことには素直じゃないか」
「そうかな、俺、一ノ瀬にはもっと素直だよ」
「ここで働くのか」
「うん、金貯めて免許とって、一ノ瀬を隣に乗せてドライブする」
考えただけで楽しい未来の想像が止まらなくなる。
「ここでないと駄目なのか」
「家からも学校からも近いからベストだと思ってるけど」
「ふぅん、俺には関係ない」
と、また向こうをむいた。拗ねたような、怒ったような口調に聞こえた。これは俺の気のせいか。もしかして一ノ瀬は嫉妬しているのか。ベッドに手をつき、一ノ瀬の顔を上からのぞきこんだ。赤く険しい横顔。頬にキスした。
「妬いてくれるの」
「違う」
「嬉しいな」
「違うって」
「こっち向いて、一ノ瀬」
動かない一ノ瀬の肩を持ってこちらに向かせる。仰向けになった一ノ瀬の唇にキスした。舌をいれたら酒の味がした。
「嫉妬したから、ヤケ酒だったんだ?」
俺が言うと一ノ瀬は目を逸らした。図星。顔がにやけるのを止められない。今度は額にキスした。
「一ノ瀬は嫉妬しないんだと思ってた。俺が他の誰と話そうがいつも知らん顔してるんだもんな」
「あの人は、他の人と違ったから」
「俺のこと好き?」
「知らない」
「キスしてもいい?」
「さっきしたじゃないか」
「していい?」
「好きにすればいいだろ」
怒ったように言う一ノ瀬が好きだ。 ベッドに体重を預け、一ノ瀬に覆いかぶさるようにキスした。左手を服の中に入れ、直にその肌に触った。まっ平らな胸に手を滑らせる。一ノ瀬の舌が震えていた。
俺の手の動きに合わせて一ノ瀬が息を飲む。その反応に我を忘れそうになる。
いつもならこんなこと絶対させてくれない。突き飛ばされる。最悪容赦なく殴られる。なのに一ノ瀬は俺にされるがままになっている。
一ノ瀬は酔ってる。 まともな判断ができないに違いない。俺は素面だ。なのに俺まで酔ってしまったような気がする。
ベルトに手をかけた。抵抗はない。本当にこのまま進めていいのかと一ノ瀬を窺う。どこかぼんやりした目が俺を見ていた。
俺は二つの感情の間を行き来していた。めちゃくちゃにしてやれ。駄目だ、一ノ瀬は大切にすると決めたんだ。葛藤して手が止まる。
残酷な試練。俺に全てをゆだねたような一ノ瀬を前に俺は理性を失いかけている。抵抗してくれれば俺も素面に戻るのに、一ノ瀬は無抵抗。
こんな状態の一ノ瀬をものにしたって嬉しくない。そうだ、今日の俺の目標は一ノ瀬に好きだと言わせることだ。
正気に戻り一ノ瀬から離れた。
「これくらいにしておかないと止まんなくなっちゃうね」
ベルトから手を放し、服を元に戻した。一ノ瀬の上から退いて床に腰を下ろす。
溜息が出た。どっと襲ってくる疲労感。一ノ瀬に手を出さなかった自分を褒めてやりたい。俺はいつからこんなに我慢強くなったんだろう。 いつからこんなに理性的な紳士になったんだろう。声をかけてその日のうちにセックスしていたかつての俺はどこへ行った?
一ノ瀬はまた俺に背を向けた。もう少し一ノ瀬の酔いがさめるまでここにいさせてもらうか。そのあと、一緒に俺の家へ行こう。そこで素面の一ノ瀬から、好きだという言葉をもらうことにしよう。何も今焦る必要はない。楽しみはその時までとっておく。
家に連絡して遅くなる旨伝えた。
一ノ瀬に布団をかけてやり、俺もベッドにもたれながら座って少し眠った。
Question (8/11)
2020.09.02.Wed.
<1→2→3→4→5→6→7>
またしばらくして鉄雄さんたちの知り合いらしい面々が何人か店にやってきた。途端店内が騒がしくなったが、菱沼さんがそっちに移動したのでカウンターの俺たちは静かになった。
「いい奴とは言えないけど、悪い奴でもないんだ、気を悪くしないでくれよ」
鉄雄さんが俺と一ノ瀬の前にコーラが置いた。 一ノ瀬は控えめな笑みとともに首を振った。
「俺の方こそお邪魔してしまってすみません。三人はどういう?」
「こいつがさっきの公園でバスケの練習してる時に知り合ったんだよ。確か、ロン、お前あの時中1だったよな。短い期間だったけど、一緒につるんでたんだ」
「俺が鉄雄さんに振られて終わりってわけ」
さっき菱沼さんがバラしたから隠す必要もない。 一ノ瀬は「ふぅん」と興味なさそうに返事をしコーラに口をつけた。
「上も改装して綺麗になってるんだ。見て来るか?」
鉄雄さんが煙草で二階を指す。好奇心で頷いた。
「一ノ瀬、ちょっとここで待ってて。 すぐ戻ってくるから」
一ノ瀬の肩を叩いて店の奥の階段へ向かった。急勾配な階段とその狭さは昔のまま。軋む階段をあがり、引き戸をあけた。
以前は畳だった部屋がフローリングになっていた。ベッドの位置はかわらず奥の窓際。左手に机とパソコンと小さな本棚。物とゴミで溢れ返っていたあの頃とは大違い。置いているものも必要最小限。
ベッドのそばに煙草と灰皿。飲みかけのペットボトル。雑誌が数冊落ちている。
少し胸が痛むような懐かしさ。俺は鉄雄さんが好きだった。
ベッドに腰をおろした。枕もとにコンドーム。見つけて苦笑した。あいかわらずそっちも盛んらしい。
下から菱沼さんの馬鹿笑いが聞こえてきた。ずいぶん盛り上がっている。一ノ瀬を一人残してきたことが急に心配になった。
店に来てから一ノ瀬は無口だ。もともとあまり人と関わるのがうまい性格じゃないようだし、特に菱沼さんの強烈な個性にあてられて余計に大人しくなっているんだろう。帰ったら文句を言われるかもしれない。
帰ったら。
そうだ、今日は一ノ瀬と一緒に俺の家に帰るんだ。思い出したら顔が綻んだ。
友人でもない、恋人とも言えない俺と一ノ瀬の関係。キスはしたけどそれだけ。それすら俺からむりやりしてるようなもの。
一ノ瀬の言動一つ、表情一つに俺は振り回されている。二つの相反する欲求を抱え、こっちの頭がおかしくなりそうだ。
こんなふうに不安定なのは、俺と一ノ瀬の関係がまさに不安定そのものだからだろう。
今夜はそこのところをはっきりさせてもいい頃だ。せめて「好き」の一言は頂かないと、俺だって不安になってしまう。
一ノ瀬は好きだと言ってくれない。自分からキスしてくれたこともない。嫌われてはいないと思うが、俺の事を好きだという自信は正直ない。
また下が一際騒がしくなった。一ノ瀬が気になって下におりた。
俺に気付いた鉄雄さんが、 顎をしゃくって一ノ瀬を指す。一ノ瀬はカウンターに肘をついて前かがみになっていた。
「どうした、一ノ瀬」
顔をあげた一ノ瀬から強い酒の匂いがした。まさか飲んだ? あの一ノ瀬が? 確認のため鉄雄さんを見た。
「悪い、ヒシが飲ませたんだ」
「一ノ瀬、お前大丈夫か?」
一ノ瀬の顔をのぞきこむ。うるさく手で払われた。
「お、ロン、次はお前だ」
俺を見つけた菱沼さんが向こうのカウンターから人垣を縫ってこちらにやってきた。その手にはショットグラス。まさかと思うが一ノ瀬が飲んだのはテキーラか?
「俺はいいよ」
「何言ってんだ、こいつは飲んだぞ」
一ノ瀬の肩に腕をまわし、顔を近づける。さっきから妙に馴れ馴れしくて距離が近い。その腕をほどき、間に立った。
「こいつは酒とか飲まないから勘弁してよ」
「何真面目ぶってんだ、お前はよ、昔のほうが付き合いよかったじゃねえか」
しつこいな。苛々し始めた俺の背後で一ノ瀬が立ち上がった。
「俺が飲む」
止める間もなく菱沼さんの手からグラスを取り上げ一ノ瀬は一気にそれを飲み干した。
「見かけによらず、面白い奴じゃないか。気に入った」
菱沼さんが手を叩いて喜ぶ。さっき上にいた時に聞こえてきた歓声と同じもの。これだったのか。
「一ノ瀬、なに酒なんか飲んでんだよ」
一ノ瀬の顔が赤い。これで二杯目。無茶しすぎだ。
「ロン、ここにいたらまた飲まされるぞ。そいつ連れて上に行っとけ」
鉄雄さんに頷いて、 俺は一ノ瀬をつれて二階に避難した。くそ、こんなことになるなら一ノ瀬のそばから離れるんじゃなかった。一瞬でも目を離したことを後悔した。
またしばらくして鉄雄さんたちの知り合いらしい面々が何人か店にやってきた。途端店内が騒がしくなったが、菱沼さんがそっちに移動したのでカウンターの俺たちは静かになった。
「いい奴とは言えないけど、悪い奴でもないんだ、気を悪くしないでくれよ」
鉄雄さんが俺と一ノ瀬の前にコーラが置いた。 一ノ瀬は控えめな笑みとともに首を振った。
「俺の方こそお邪魔してしまってすみません。三人はどういう?」
「こいつがさっきの公園でバスケの練習してる時に知り合ったんだよ。確か、ロン、お前あの時中1だったよな。短い期間だったけど、一緒につるんでたんだ」
「俺が鉄雄さんに振られて終わりってわけ」
さっき菱沼さんがバラしたから隠す必要もない。 一ノ瀬は「ふぅん」と興味なさそうに返事をしコーラに口をつけた。
「上も改装して綺麗になってるんだ。見て来るか?」
鉄雄さんが煙草で二階を指す。好奇心で頷いた。
「一ノ瀬、ちょっとここで待ってて。 すぐ戻ってくるから」
一ノ瀬の肩を叩いて店の奥の階段へ向かった。急勾配な階段とその狭さは昔のまま。軋む階段をあがり、引き戸をあけた。
以前は畳だった部屋がフローリングになっていた。ベッドの位置はかわらず奥の窓際。左手に机とパソコンと小さな本棚。物とゴミで溢れ返っていたあの頃とは大違い。置いているものも必要最小限。
ベッドのそばに煙草と灰皿。飲みかけのペットボトル。雑誌が数冊落ちている。
少し胸が痛むような懐かしさ。俺は鉄雄さんが好きだった。
ベッドに腰をおろした。枕もとにコンドーム。見つけて苦笑した。あいかわらずそっちも盛んらしい。
下から菱沼さんの馬鹿笑いが聞こえてきた。ずいぶん盛り上がっている。一ノ瀬を一人残してきたことが急に心配になった。
店に来てから一ノ瀬は無口だ。もともとあまり人と関わるのがうまい性格じゃないようだし、特に菱沼さんの強烈な個性にあてられて余計に大人しくなっているんだろう。帰ったら文句を言われるかもしれない。
帰ったら。
そうだ、今日は一ノ瀬と一緒に俺の家に帰るんだ。思い出したら顔が綻んだ。
友人でもない、恋人とも言えない俺と一ノ瀬の関係。キスはしたけどそれだけ。それすら俺からむりやりしてるようなもの。
一ノ瀬の言動一つ、表情一つに俺は振り回されている。二つの相反する欲求を抱え、こっちの頭がおかしくなりそうだ。
こんなふうに不安定なのは、俺と一ノ瀬の関係がまさに不安定そのものだからだろう。
今夜はそこのところをはっきりさせてもいい頃だ。せめて「好き」の一言は頂かないと、俺だって不安になってしまう。
一ノ瀬は好きだと言ってくれない。自分からキスしてくれたこともない。嫌われてはいないと思うが、俺の事を好きだという自信は正直ない。
また下が一際騒がしくなった。一ノ瀬が気になって下におりた。
俺に気付いた鉄雄さんが、 顎をしゃくって一ノ瀬を指す。一ノ瀬はカウンターに肘をついて前かがみになっていた。
「どうした、一ノ瀬」
顔をあげた一ノ瀬から強い酒の匂いがした。まさか飲んだ? あの一ノ瀬が? 確認のため鉄雄さんを見た。
「悪い、ヒシが飲ませたんだ」
「一ノ瀬、お前大丈夫か?」
一ノ瀬の顔をのぞきこむ。うるさく手で払われた。
「お、ロン、次はお前だ」
俺を見つけた菱沼さんが向こうのカウンターから人垣を縫ってこちらにやってきた。その手にはショットグラス。まさかと思うが一ノ瀬が飲んだのはテキーラか?
「俺はいいよ」
「何言ってんだ、こいつは飲んだぞ」
一ノ瀬の肩に腕をまわし、顔を近づける。さっきから妙に馴れ馴れしくて距離が近い。その腕をほどき、間に立った。
「こいつは酒とか飲まないから勘弁してよ」
「何真面目ぶってんだ、お前はよ、昔のほうが付き合いよかったじゃねえか」
しつこいな。苛々し始めた俺の背後で一ノ瀬が立ち上がった。
「俺が飲む」
止める間もなく菱沼さんの手からグラスを取り上げ一ノ瀬は一気にそれを飲み干した。
「見かけによらず、面白い奴じゃないか。気に入った」
菱沼さんが手を叩いて喜ぶ。さっき上にいた時に聞こえてきた歓声と同じもの。これだったのか。
「一ノ瀬、なに酒なんか飲んでんだよ」
一ノ瀬の顔が赤い。これで二杯目。無茶しすぎだ。
「ロン、ここにいたらまた飲まされるぞ。そいつ連れて上に行っとけ」
鉄雄さんに頷いて、 俺は一ノ瀬をつれて二階に避難した。くそ、こんなことになるなら一ノ瀬のそばから離れるんじゃなかった。一瞬でも目を離したことを後悔した。
Question (7/11)
2020.09.01.Tue.
<1→2→3→4→5→6>
扉に「S.P.WOOD」の文字。 この店こんな名前だったっけ? 鉄雄さんが鍵を開け中に入る。黒を基調にした店内、左手に棚一杯の酒瓶とグラス、バーカウンターとスツール、右手も壁にカウンターのような板が渡らせてある。こちらは椅子なし。入って驚いたのは店の狭さだ。記憶の中ではもう少し広かった気がする。俺が子供だったせいだろうか。
鉄雄さんはカウンターの中に入り、荷物を冷蔵庫にしまった。
「ま、座れよ」
促され、一ノ瀬と椅子に座った。一ノ瀬は緊張した顔つきでさっきからずっと黙っている。二人きりになるのは帰ってからのお楽しみとしよう。
火をつけた煙草を口に咥え、服の袖をまくった鉄雄さんが俺たちに珈琲を淹れてくれた。湯気の立ちのぼるカップを両手で包み込む。熱くて心地よい。
「なんか、店の雰囲気かわったね」
俺の言葉に煙の向こうで鉄雄さんが微笑んだ。
「改装したからな。下にシャワールームも作って、前よりちょっと狭くなったんだ」
「道理で、なんか違うと思った」
「それよりそっちの子、さっきから一言も喋んねえけどどうかしたか? 酒のほうがいいか?」
そっちの子、と言われた一ノ瀬は首を横に振って断った。一ノ瀬が酒なんか飲むわけがない。
「俺は大丈夫です。仕事の邪魔にはなりませんか」
「もう仕込みも終わったし、あとは開店の時間を待つだけさ。お前ら、夕飯は食ったのか」
「まだだよ」
「じゃ、作ってやるよ」
手際よく鉄雄さんが料理を始めた。俺も一ノ瀬も黙ってそれを見つめた。出てきたのはほうれん草とベーコンのパスタ。
それを食べている時、外で車のエンジン音が聞こえた。しばらくして店の扉が開いた。
「鉄雄、なんか食わしてくれ」
ドカドカ足を踏み鳴らして、短い金髪を逆立てた男が入ってきた。サングラスをしていたが声でわかった。鉄雄さんの親友、菱沼さんだ。前からちょっと危ない感じの人だったが、会わない間にそれに磨きがかかったように見える。堅気でない雰囲気。隣の一ノ瀬の顔が強張っている。
「入ってくるなりそれか。菱沼、こいつに見覚えないか」
呆れ顔の鉄雄さんに言われて菱沼さんが俺と一ノ瀬の顔を交互に見る。俺の顔をしばらく見て目を見開いた。
「ロンじゃねえか! 何やってんだここで、久し振りだなぁ!」
強い力で背中を叩かれた。でかい指輪をしているから痛い。
「さっきそこの公園にいたのを連れてきたんだよ。隣はロンの友達だそうだ」
「へぇ、お前の友達ねぇ」
菱沼さんが一ノ瀬の肩に腕をまわし、顔をのぞきこむ。一ノ瀬はのけぞるようにして菱沼さんの顔を見返す。
「ロンと違うタイプだな」
興味をなくしたように腕を放し、菱沼さんは一ノ瀬の隣に座った。
「まぁ、ロンのダチなら俺のダチだ。困った事があったら俺に言えよ。とりあえず一通りのツテはあるからな」
同じように一ノ瀬の背中も叩いた。叩かれた一ノ瀬の体が前に傾く。
「そうだ、菱沼さん、中古車扱ってる知り合いいる?」
菱沼さんは煙草に火をつけながら、「いるよ」と返事をした。
実は近々免許を取りに行こうと考えている。動機はもちろん、一ノ瀬を乗せて二人でドライブをするため。思えば俺の行動原理はすべて一ノ瀬だ。
「車買うつもりなら紹介してやるよ。その前に、お前免許は?」
「来年取る」
「金はあるのか?」
これは鉄雄さん。
「これからバイトして貯める」
「だったらここで働くか?」
「えっ、いいの、鉄雄さん」
これは願ってもないことだ。家からも学校からも近い。バイトするには申し分ない場所。それに夜の仕事だから、学校終わりで充分間に合う。
「ああ、いいよ。お前なら信用できるしな」
「まぁた始まったよ、てっちゃんの悪い癖がよ」
呆れた顔の菱沼さんが言う。悪い癖? 鉄雄さんはバツの悪そうな顔をあちらへ向け、煙草の煙を吐き出した。
「ま、お前さえ良かったらの話だ」
付け足すように言う。断る理由なんてない。嫌われて今後一切会えないと思っていた鉄雄さんからの提案。こんなありがたいことはない。
「鉄雄さんがいいならすぐにでも働かせて欲しいな」
「俺はいつでもいいぞ。好きな時に来い」
「なんか昔に戻ったみたいだなぁ、おい」
ニヤニヤ笑って菱沼さんはカウンターに身を乗り出した。確かに三人そろうと昔に戻ったような気がする。三人で女遊びや喧嘩をした。夏休みの短い期間だったが、強烈に覚えている。
これから鉄雄さんの下で働ける。車を買うための金を貯められる。車を買ったら一ノ瀬とドライブだ。今日の俺はついてるぞ。
隣の一ノ瀬は静かにコーヒーを飲んでいた。
「ヒシ、出来たぞ」
菱沼さんの前にも俺たちと同じパスタが出された。菱沼さんはそれを食べながら、どこの誰が仕事をしくじっただの、喧嘩で捕まったときの検察官の態度が気に入らないからと楯突いて拘留が延期された話だの、知り合いじゃなかったらそばから離れたくなるような話題ばかりを散り散りに話した。
何かのきっかけですぐ話が飛ぶので、続きと思って話を聞いていたら別の話だったりして、混乱することが何度もあった。
鉄雄さんは慣れてるようで、たまに菱沼さんの話に質問したり、笑ったりして相槌を打っていた。
20時になり、開店の時間。 しばらくして客が入ってきた。まだ若い二十歳前後の男が二人。ドリンクを注文し、入って右手のカウンターについた。注文のドリンクを鉄雄さんが作って俺に差し出す。
「悪いな、持って行ってくれ」
「いいよ」
立ち上がり、客の前に置く。
「お前らも何か飲むか」
戻ってきた俺に鉄雄さんが言う。俺は一ノ瀬を見た。こいつの前で酒なんて飲んだら何を言われるかわかったものじゃない。
「俺はいいよ、まだ未成年だしね」
「中坊の頃から酒も煙草も女もやってたお前が何ぬかしてんだ」
一ノ瀬の向こうから菱沼さんが余計なことを言った。一ノ瀬が厳しい顔で俺を見る。俺は笑って誤魔化した。
「知ってるか、ロンの奴な、あそこの鉄雄が好きだったんだぜ」
一ノ瀬の肩に腕を置いた菱沼さんが、一ノ瀬に耳打ちするのが聞こえた。だから余計なこと言うなって。ここからは一ノ瀬の表情は見えない。さすがの俺も後頭部からは読み取れない。どんな顔をしてるんだ?
「ま、告白した瞬間振られたらしいけどな。こいつは男もいけるから、お前、気をつけたほうがいいぞ」
「ヒシ、くだらねえこと言うな」
注意する鉄雄さんを一ノ瀬が見た。なんの感情も浮かんでいない無表情な一ノ瀬の横顔に俺はがっかりした。少しくらい嫉妬してくれてもいいんじゃないかと思う。
扉に「S.P.WOOD」の文字。 この店こんな名前だったっけ? 鉄雄さんが鍵を開け中に入る。黒を基調にした店内、左手に棚一杯の酒瓶とグラス、バーカウンターとスツール、右手も壁にカウンターのような板が渡らせてある。こちらは椅子なし。入って驚いたのは店の狭さだ。記憶の中ではもう少し広かった気がする。俺が子供だったせいだろうか。
鉄雄さんはカウンターの中に入り、荷物を冷蔵庫にしまった。
「ま、座れよ」
促され、一ノ瀬と椅子に座った。一ノ瀬は緊張した顔つきでさっきからずっと黙っている。二人きりになるのは帰ってからのお楽しみとしよう。
火をつけた煙草を口に咥え、服の袖をまくった鉄雄さんが俺たちに珈琲を淹れてくれた。湯気の立ちのぼるカップを両手で包み込む。熱くて心地よい。
「なんか、店の雰囲気かわったね」
俺の言葉に煙の向こうで鉄雄さんが微笑んだ。
「改装したからな。下にシャワールームも作って、前よりちょっと狭くなったんだ」
「道理で、なんか違うと思った」
「それよりそっちの子、さっきから一言も喋んねえけどどうかしたか? 酒のほうがいいか?」
そっちの子、と言われた一ノ瀬は首を横に振って断った。一ノ瀬が酒なんか飲むわけがない。
「俺は大丈夫です。仕事の邪魔にはなりませんか」
「もう仕込みも終わったし、あとは開店の時間を待つだけさ。お前ら、夕飯は食ったのか」
「まだだよ」
「じゃ、作ってやるよ」
手際よく鉄雄さんが料理を始めた。俺も一ノ瀬も黙ってそれを見つめた。出てきたのはほうれん草とベーコンのパスタ。
それを食べている時、外で車のエンジン音が聞こえた。しばらくして店の扉が開いた。
「鉄雄、なんか食わしてくれ」
ドカドカ足を踏み鳴らして、短い金髪を逆立てた男が入ってきた。サングラスをしていたが声でわかった。鉄雄さんの親友、菱沼さんだ。前からちょっと危ない感じの人だったが、会わない間にそれに磨きがかかったように見える。堅気でない雰囲気。隣の一ノ瀬の顔が強張っている。
「入ってくるなりそれか。菱沼、こいつに見覚えないか」
呆れ顔の鉄雄さんに言われて菱沼さんが俺と一ノ瀬の顔を交互に見る。俺の顔をしばらく見て目を見開いた。
「ロンじゃねえか! 何やってんだここで、久し振りだなぁ!」
強い力で背中を叩かれた。でかい指輪をしているから痛い。
「さっきそこの公園にいたのを連れてきたんだよ。隣はロンの友達だそうだ」
「へぇ、お前の友達ねぇ」
菱沼さんが一ノ瀬の肩に腕をまわし、顔をのぞきこむ。一ノ瀬はのけぞるようにして菱沼さんの顔を見返す。
「ロンと違うタイプだな」
興味をなくしたように腕を放し、菱沼さんは一ノ瀬の隣に座った。
「まぁ、ロンのダチなら俺のダチだ。困った事があったら俺に言えよ。とりあえず一通りのツテはあるからな」
同じように一ノ瀬の背中も叩いた。叩かれた一ノ瀬の体が前に傾く。
「そうだ、菱沼さん、中古車扱ってる知り合いいる?」
菱沼さんは煙草に火をつけながら、「いるよ」と返事をした。
実は近々免許を取りに行こうと考えている。動機はもちろん、一ノ瀬を乗せて二人でドライブをするため。思えば俺の行動原理はすべて一ノ瀬だ。
「車買うつもりなら紹介してやるよ。その前に、お前免許は?」
「来年取る」
「金はあるのか?」
これは鉄雄さん。
「これからバイトして貯める」
「だったらここで働くか?」
「えっ、いいの、鉄雄さん」
これは願ってもないことだ。家からも学校からも近い。バイトするには申し分ない場所。それに夜の仕事だから、学校終わりで充分間に合う。
「ああ、いいよ。お前なら信用できるしな」
「まぁた始まったよ、てっちゃんの悪い癖がよ」
呆れた顔の菱沼さんが言う。悪い癖? 鉄雄さんはバツの悪そうな顔をあちらへ向け、煙草の煙を吐き出した。
「ま、お前さえ良かったらの話だ」
付け足すように言う。断る理由なんてない。嫌われて今後一切会えないと思っていた鉄雄さんからの提案。こんなありがたいことはない。
「鉄雄さんがいいならすぐにでも働かせて欲しいな」
「俺はいつでもいいぞ。好きな時に来い」
「なんか昔に戻ったみたいだなぁ、おい」
ニヤニヤ笑って菱沼さんはカウンターに身を乗り出した。確かに三人そろうと昔に戻ったような気がする。三人で女遊びや喧嘩をした。夏休みの短い期間だったが、強烈に覚えている。
これから鉄雄さんの下で働ける。車を買うための金を貯められる。車を買ったら一ノ瀬とドライブだ。今日の俺はついてるぞ。
隣の一ノ瀬は静かにコーヒーを飲んでいた。
「ヒシ、出来たぞ」
菱沼さんの前にも俺たちと同じパスタが出された。菱沼さんはそれを食べながら、どこの誰が仕事をしくじっただの、喧嘩で捕まったときの検察官の態度が気に入らないからと楯突いて拘留が延期された話だの、知り合いじゃなかったらそばから離れたくなるような話題ばかりを散り散りに話した。
何かのきっかけですぐ話が飛ぶので、続きと思って話を聞いていたら別の話だったりして、混乱することが何度もあった。
鉄雄さんは慣れてるようで、たまに菱沼さんの話に質問したり、笑ったりして相槌を打っていた。
20時になり、開店の時間。 しばらくして客が入ってきた。まだ若い二十歳前後の男が二人。ドリンクを注文し、入って右手のカウンターについた。注文のドリンクを鉄雄さんが作って俺に差し出す。
「悪いな、持って行ってくれ」
「いいよ」
立ち上がり、客の前に置く。
「お前らも何か飲むか」
戻ってきた俺に鉄雄さんが言う。俺は一ノ瀬を見た。こいつの前で酒なんて飲んだら何を言われるかわかったものじゃない。
「俺はいいよ、まだ未成年だしね」
「中坊の頃から酒も煙草も女もやってたお前が何ぬかしてんだ」
一ノ瀬の向こうから菱沼さんが余計なことを言った。一ノ瀬が厳しい顔で俺を見る。俺は笑って誤魔化した。
「知ってるか、ロンの奴な、あそこの鉄雄が好きだったんだぜ」
一ノ瀬の肩に腕を置いた菱沼さんが、一ノ瀬に耳打ちするのが聞こえた。だから余計なこと言うなって。ここからは一ノ瀬の表情は見えない。さすがの俺も後頭部からは読み取れない。どんな顔をしてるんだ?
「ま、告白した瞬間振られたらしいけどな。こいつは男もいけるから、お前、気をつけたほうがいいぞ」
「ヒシ、くだらねえこと言うな」
注意する鉄雄さんを一ノ瀬が見た。なんの感情も浮かんでいない無表情な一ノ瀬の横顔に俺はがっかりした。少しくらい嫉妬してくれてもいいんじゃないかと思う。