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右手左手(4/4)

2020.10.27.Tue.


 大学への進学か就職か、進路を決める時に「教師になりたい」と有から最初に打ち明けられたのは俺だった。俺はもちろん賛成した。次に打ち明けられた兄貴も賛成だった。爺さんは、教師という職業を聖職だと考えていたので大賛成だった。しかも、爺さんの影響で英語教師になりたいのだと知ると、そのあとの浮かれようは見ていて恥ずかしいほどだった。最近寝込むことが多かった爺さんだったが、それからしばらくは元気に動き回り、散歩にも出かけ、会う人に自慢してまわった。

 大学に入ってすぐ、留学の相談を一番に持ちかけられたのもやはり俺だった。俺から兄貴に話してみる、と有に言った。俺から話を聞くと兄貴は黙りこんだ。

「お金ならあるだろ、行かせてやろうよ」
「だがな……、アメリカだぞ、遠すぎる。何かあったらどうするんだ」
「そんなこと心配してたら、有はどこにも行けないよ」

 兄貴は自分の目の届くところに有がいないと心配でたまらないのだ。

「何ヶ月だ?」
「半年」
「半年……」

 とまた考え込んだ。その日、兄貴は首を縦に振らなかった。俺から話を聞いていると知っている有は、話しかけられることを拒絶している兄貴の雰囲気に何も言えず、黙って結果を待っていた。その顔は不安そうだった。

 兄貴はなかなか答えを出さなかった。悩んでいるのか、もとより出す気がないのか。焦れた俺が兄貴をせっついた。

「お前は平気なのか? 心配じゃないのか?」

 まるで俺が薄情だと言わんばかりの顔をする。さすがにムッとなって言い返した。

「過保護が有のためになるとは思えないよ。有だってもう子供じゃないんだ。自分で考えて留学したいと言い出したんだから行かせてやるのも親心だと思うけど」
「あいつはまだ子供だ」

 兄貴は俺から、現実から目を逸らした。

「有が俺たちに隠し事してるの、気付いてる?」

 びっくりした顔で兄貴が俺を見た。

「俺は有から何も聞いてないよ。これは俺の勘なんだけど、有、付き合ってる子がいるんじゃないかな」

 帰りはいつも門限ギリギリだし、休みもよく出かけている。勉強していてもたまに考え事をして手が止まっていることがある。その時有は、何かに想いを馳せる遠い目をしていた。あれはきっと恋をしているのだ。

「有が……? 何も聞いてないのか?」
「だから聞いてないって。有ももう大学生なんだ、いちいち俺たちに言ってくる年じゃなくなったんだよ。これからどんどんあいつは自分で決めて自分で行動するようになる。隠し事だって増えてくるさ」

 兄貴はショックを受けたのか、しばらく呆然としていた。そろそろ兄貴には弟離れしてもらわなくては困る。

「留学、行かせてやろうよ。せっかくやりたいことがあるんだからさ。応援してやろうよ、兄貴」

 兄貴は難しい顔で長い間考えていたが、ようやく決心したのか、諦めたのか、「そうだな、行かせてやろう」と溜息と共にに吐き出した。

 爺さんには兄貴が話をした。外国贔屓の爺さんが反対するはずはなかった。

「お前から有に伝えてやってくれ」

 爺さんと話をつけた兄貴が俺に言った。俺はそれを断った。

「有も兄貴から返事を聞きたいんじゃないかな」

 兄貴は珍しく頼りない顔をした。

 その夜、寝る前に、留学に行けることを兄貴が有に話した。有の顔がパッと明るくなった。

「ありがとうございます」

 と礼を言う。兄貴は照れくさいのか、ことさら顔を険しくして「遊びに行くんじゃないんだからな」と言っていた。それを見ていた俺は、吹き出すのを我慢するのに骨を折った。

※ ※ ※

 有がいない留学期間中、家の中はまた一層静まり返った。この頃爺さんは入退院を繰り返し、家で過ごすより病院で過ごすことのほうが多くなっていた。みるみるやつれて行き、声に覇気もない。目に見えて弱っていた。

 爺さんは入院中で、俺と兄貴、二人きりの夕食の時に爺さんの体調のことを話し合った。医者の話ではこれから調子を持ち直すことはないだろうということだった。

「ああいう人は案外長生きするもんだ」

 兄貴は皮肉って笑った。

「そうだね。もう少しこっちにいてもらわないと、あっちでばあちゃんがまた苦労させられるからね」

 俺も笑って言った。

 がしかし、爺さんは有が留学から戻った半年後にあっけなく死んだ。

 身内だけでひっそり葬儀を行った。静かに泣く有を慰めながら俺も一緒に涙を流した。兄貴は最初から最後まで泣かなかった。

 納骨も終わり、一息ついた夜、仏壇の前で兄貴が座っているのを見つけた。

「ばあちゃんに、引き止められなくてごめんって謝ってんの?」

 俺が部屋に入って声をかけても、兄貴は仏壇のほうに顔を向けたまま。

「礼、俺、ぜんぜん悲しくないんだ」

 静かに話す兄貴の背中に目をやった。兄貴は依然として前を向いたままだ。

「お前たちに手をあげる爺さんを殺したいほど憎んでた。それは隠しもしない。でも、あんな爺さんでも、俺たちを引きとって養ってくれた身内なんだ。それなのにぜんぜん悲しくないんだ。涙一つ出て来ない。俺を薄情だと思うか?」

 兄貴が振り返った。自虐に口元が歪んでいる。俺は首を横に振った。

「俺だって兄貴と似たようなもんだよ」
「お前は泣いてたじゃないか」
「あれは有が泣くからもらい泣きしたんだ。あそこで兄貴が笑い出してたら、俺も笑ってた」

 それは事実だった。俺も悲しみはなかった。肉親を見送るのは三度目だからだろうか、と心が空白なわけを考えてみたが、そうじゃないと本当はわかっていた。

「兄貴が薄情なら、俺だって薄情だよ」

 兄貴が苦しそうに目を伏せた。

「お前にも辛い思いをさせてきたな。頼りない兄貴で、ごめんな……」

 最後の声は震えていた。手で目元を押さえ、嗚咽を漏らす兄貴のそばに屈みこみ、背中をさすった。

「俺こそ、損な役を兄貴にばかりさせてごめん。いつまでも甘えてばかりでごめん。本当に兄貴には感謝してるよ」

 俺まで涙が溢れてきた。二人で一緒に泣いた。なぜこんなに泣けてくるのかわからなかった。

 しばらくして泣きやむと、兄貴は照れ隠しで俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。俺もやり返した。顔を見合わせ、吹き出した。憑き物が落ちたような兄貴の顔だった。

※ ※ ※

 有の就職が決まった。不況の中、私立高校の専任教員に採用されたのは幸運だった。俺たち二人から就職祝いに腕時計をプレゼントした。

 これで有も一人前だ。俺たちが満足していたある日、話があるから次の日曜は家にいて欲しい、と有が兄貴に言っているのを聞いた。俺は何も聞いていない。有が俺より先に兄貴に話をするなんて珍しいことだ。その日曜、俺は家をあけることにした。

 日曜日の朝、兄貴と有を残し、近くのホームセンターに出かけた。ばあちゃんが亡くなってから、ほったらかしだった庭の雑草をそろそろどうにかしなければならない。スコップと除草剤を買い、本屋に寄ってから帰宅した。玄関に見慣れない靴があった。有の友達だろうか。静かに中に入った。

 挨拶をしたほうがいいだろうか。考えながら台所へまわった。襖一枚隔てた隣の居間から話し声が聞こえて来る。

「僕は真剣です。遊びや気の迷いではありません。僕には一ノ瀬しか考えられないんです。申し訳ありません」

 若い男の声が聞こえてきた。あの靴の持ち主だろうが、いったい、何の話をしているんだ。有しか考えられないとはどういう意味だ。

「すみません、俺も真剣です」

 いぶかしむ俺の耳に有の声が続いた。雰囲気で二人が頭をさげているのがわかった。重苦しい空気がここまで伝わってくる。俺の頭に一つの仮説が浮かぶ。しかし、まさか、とそれを打ち消す。二人とも、男同士だ。

「二人とも顔をあげなさい」

 兄貴の静かな声が聞こえた。

「すべてわかった上なんだろう? わかった上で、それでも一緒に暮らすと言っているんだろう? だったら俺が許すも許さないもない。俺に謝る必要もない。二人の好きにするといい」

 一緒に暮らす? どういうことだ? 内容にも驚いたが、ものわかりのいい兄貴にはもっと驚いた。外泊するだけでも難色を示すのに、有が家を出ることをすんなり許すなんて今までじゃ考えられないことだ。

「よく打ち明けてくれたな。勇気がいっただろう」

 怒るどころか、声に優しさが滲んでいた。

「兄さんには、言わなきゃいけない気がしたんです」

 ほっとしたような有の声。

「そうか……。礼にはもう言ったのか?」

 隣の部屋で俺は一人、首を振った。

「いいえ、まだ。帰ってきたら話します」
「まだか……、そうか」

 そう呟く兄貴の声が嬉しそうだった。今までずっと有の相談は俺が先に聞いてきた。土壇場の大事な場面では、俺じゃなく兄貴が優先されたということか。あとまわしにされたことに寂しさはなかった。逆に嬉しく思った。

「一ノ瀬は僕が守ります。安心して下さい」

 男が言った。すかさず、

「これを誰かに守られるような男に育てた覚えはない」

 兄貴が反論した。男は慌てて「すみません」と謝罪した。そうだとも、本当は甘やかしたいのに、兄貴は心を鬼にして、有に厳しくしてきたんだ。誰かに守られるようには育てていない。

「いや、しかし、いざというときには力になってやってくれ」

 最後に甘いのは兄貴の愛嬌だ。俺は静かに苦笑した。

「有の料理には期待しないほうがいい。こいつは料理が下手で食材を無駄にするから」
「開兄ちゃんっ」

 有の慌てたような声。兄貴が声をあげて笑った。俺は驚いて息を飲んだ。兄貴の楽しげな笑い声なんていったい何年ぶりに聞いただろう。有が兄貴を「開兄ちゃん」と呼ぶのも、いったいいつぶりか。兄貴の心情を思うと、感動すら覚えた。

 三人が雑談を始めたので俺は庭に移った。今日買った除草剤を水で薄め、それを庭の雑草に撒いた。部屋に戻るとき、廊下で兄貴と鉢合わせた。

「帰ってたのか」
「うん」
「さっき有たちが出て行ったところだ。呼び戻すか?」
「いいよ。だいたい話はわかったし。相手、どんな男?」

 兄貴の顔が少し赤くなった。ゴホンと咳き込み眉間に皺を作った。

「相手は木村君だ。はじめて会ったが、まぁ、悪い奴じゃなさそうだ」
「木村君だったんだ、あれ」

 とすると、二人の付き合いは高校からということになるのか。その頃、有に彼女が出来たと思っていたが、相手は木村君だったのかもしれない。いったいいつ、深い仲になったのか。あの有が、あの声の男に……。

 無意識に顔が険しくなり、兄貴と同じように眉を寄せていた。

「まぁ、有が選んだ奴なら、仕方がないね」

 そう自分に言い聞かせる。

「この家、出て行くんだって? いいの?」

 兄貴の顔を窺った。兄貴はゆっくり頷いた。

「あいつももう大人なんだから、いつ出て行こうと自由だ。お前も彼女くらいいるだろう、結婚でも同棲でも、好きにしろよ」

 別人かと思う聞きわけの良さを見せて笑う。呆気に取られたがすぐ我に返った。

「なに言ってるんだよ。俺より先に兄貴が結婚してくれないと、俺も安心出来ないよ」

 兄貴が結婚するまで、心配でこの家を出て行けるわけがない。自覚はなかったが、俺も相当ブラコンだった。


(初出2009年)

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右手左手(3/4)

2020.10.27.Tue.


 ばあちゃんが亡くなったのはその翌年だった。夕食のあと急に倒れ、病院に運ばれたが一時間後に死亡した。心筋梗塞だった。俺も兄貴も泣いた。両親の時と違って死を理解できるようになった有は、ばあちゃんの遺体に泣き縋った。それを押し止めるのは大変だった。有はおばあちゃん子だった。

 爺さんは気丈に振舞おうとしていた。医者や看護師に礼を言ってまわり、家に戻ると早々に葬儀屋の手配をした。そんな爺さんを俺も兄貴も冷酷非情だと思っていたが、火葬が終わった時、爺さんがばあちゃんの小さい骨をすばやく手の中に隠し、それを誰にも見られないようにこっそり財布の中に入れたのを見た時は、その認識を少し改めた。

 ばあちゃんが早くに死んだのは間違いなく爺さんが無茶を押し付けてきたせいだ。我侭で頑固で偏屈な爺さんの伴侶として長年神経をすり減らしてきたからばあちゃんは死んだ。その考えにかわりはないが、爺さんは爺さんなりにばあちゃんを愛していたのだと、それだけは認めた。愛していたならもっと大事に出来なかったのか、そんなことを思っても、いまさら遅い。

 ばあちゃんがいなくなってから、家は前よりさらに静かに、陰気になった。有はしばらく泣いて過ごした。そんな有を見て爺さんは怒り狂った。兄貴は仕方なく有をぶって黙らせた。有はますます兄貴から距離を取るようになった。態度もよそよそしくなり、口調も他人行儀になった。そう兄貴が躾けた。この頃から兄貴は笑わなくなっていた。

※ ※ ※

 ばあちゃんが他界して三年が経った。ボーイスカウトは有が中/学生にあがるときに辞めた。部活動をさせるために爺さんが辞めさせたのだ。最近の爺さんはすっかり弱っていた。ばあちゃんに先立たれ、生きる気力を失ってしまったのかもしれない。体も痩せ細り、毎日していた散歩を休みがちになった。冬には体調を崩し一時入院した。俺と兄貴が交代で病院に通った。

 兄貴は就職し社会人、俺は大学生だった。俺も働くと言ったが兄貴が頑として許してくれなかった。

「俺が働けば二人の給料で有も養っていける。この家を出よう」
「出て行きたいなら一人で行け。俺は有とここに残る」

 兄貴はにべもなくそう言った。兄貴の決意はかわらない。俺は諦めて進学した。俺のためを思ってのことだとわかっていても、俺はその時、悔しくてたまらなかった。両親を失ったあの日から兄貴は俺たちの父親だった。そして俺はいつまでたっても弟であり息子だった。少しは一人前と認めて頼って欲しい。いつまでも子供じゃない。初めて兄貴に反感を抱いた。

 有は陸上部に入った。部活動のため、門限は20時に延ばされた。部活が終わると有はまっすぐ家に帰ってきた。靴をそろえて家にあがり、居間の爺さんに「ただいま戻りました」と報告し、子供部屋にやってくる。制服を着替えると、夕食の手伝いをし、夕食のあとは勉強をした。昔の子供の無邪気さはもうなかった。

 優秀な成績で中学を卒業し、大学付属の高校に有は進学した。爺さんはたいへん満足していた。部活には入らなかったが有は生徒会の役員になった。爺さんは、ボーイスカウトで協調性と自立心を育てた成果だと自分の判断が正しかったと悦に入っていた。

 しかし有には高校生らしさが少し欠けていた。携帯電話を欲しいと自分から言わなかった。俺が最初に兄貴に進言し、兄貴が有に欲しいか確認を取った。有は必要ないと断った。年頃の男の子が携帯を持っていないのは問題じゃないかと俺と兄貴で話し合い、結局持たせることにした。有は渡された携帯電話を見て「ありがとう」と遠慮がちに笑った。

 有はあまり友達と遊ばなかった。高校生の男子が今時門限20時なのだから、遅くまで遊べずに付き合いが悪くなるというのならわかるが、それとは関係なく、友達自体あまりいないようだった。

 たまに学校の話を聞くが、出てくる名前はいつも限られている。中でもよく出てくるのが、同じ生徒会のサンジャイ君だ。学年は一つ上だが、サンジャイ君は有と同じボーイスカウトの隊にいた子で、有を心配するあまり、弟のことをよろしく頼むと兄貴が頭をさげた相手だ。

 小さい頃から付き合いがあり、有のこともよくわかっているサンジャイ君がそばにいてくれるのは、俺たち兄弟としても心強かった。だが同じ年の子たちとももっと積極的に交流を持って欲しいという心配もあった。

 だから、有が二年生になった春、学校が休みの土曜日に、友達とバスケの練習試合を見に行くと言われた時は嬉しかったものだ。その時もサンジャイ君絡みだったが、一緒に見に行く相手が同じ二年生だったのだ。

 有を送り出したあと兄貴が話しかけてきた。

「有はバスケ部に入ったのか?」
「違うよ、サンジャイ君の練習試合を見に行くんだってさ」
「一緒に行くのは誰なんだ?」
「最近知り合った木村君っていう子。どんな子なのか聞いたら、よくわからないって難しい顔してたよ」
「そうか」

 と兄貴は小さく頷いた。

 有は何かあると真っ先に俺に言ってくる。相談事も俺にしてくる。兄貴はそのあとか、何も話されないかだ。その時は俺から報告しておいた。父親役を自任しているから納得済みかもしれないが、本当はそれをとても寂しく思っているはずだ。小さかった有が大きくなっても、兄貴のブラコンはなおっていない。

 有に友達が出来たと喜んだのも束の間、夏休みに入ったというのに有は遊びに出かけなかった。木村君と仲良くしているのか聞いてみると「もう関係ないんだ」と暗い顔で答えた。

「喧嘩したのか?」
「喧嘩……にもならなかった。俺の勘違いだったみたいなんだ」

 と寂しそうに笑う。

「お互いなにか誤解があるんだよ。仲直りしたい気持ちがあればまた元に戻るよ」
「そうかな」
「そうさ」

 頭をくしゃくしゃと撫でたら、有ははにかんで目を伏せた。

 有の様子がおかしい、と兄貴が俺に言ってきたのは、その一ヵ月後だった。夏休みが終わった頃から、有は目に見えて元気がなかった。それは俺も気になっていた。

「なにがあったか聞いてないのか?」

 直接本人に聞かず、俺に聞いてくる。

「前に友達と喧嘩したみたいだけど……、それが原因かな」
「喧嘩であんなに落ち込むか? 好きな子に振られたとかじゃないか?」
「好きな子が出来たとは聞いてないよ」

 高校生がわざわざ兄弟に好きな子がいると報告するわけがないのに、この頃の俺たちはそれがあると信じて疑わなかった。俺たちの中では、有はまだ子供だったのだ。

「本当に喧嘩しただけか? いじめられてるんじゃないだろうな?」
「わかった、有と話してみるよ」

 心配顔で兄貴は頷いた。

 その夜、勉強机に向かう有に声をかけた。

「その後、木村君とはどうなんだ?」

 有は「木村」という名前を聞いた一瞬、傷ついたような顔をした。

「まだ仲直りできてないのか……」

 有は黙って頷いた。暗い表情だった。

「開兄ちゃんが心配してたぞ」
「兄さんが?」

 伏せていた目をあげた。最近、有は兄貴のことを「開兄ちゃん」と呼ばず、「兄さん」と呼ぶ。兄貴は何も言わないが、前みたいに呼ばれたいと思っているはずだった。現に、有からはじめて「兄さん」と呼ばれたとき、わざわざ俺に言ってきたくらいだ。俺が今まで通り「礼兄ちゃん」と呼ばれていると知ると、静かに落ち込んでいた。

「有が女の子に振られたんじゃないかって言ってたよ」
「そんなんじゃないよ」

 否定する有の顔が少し赤くなった。

「好きな子とかいるの」
「い、いないよ、そんなの」

 ますます赤くなる。有は俺たちに嘘をつかない。その大前提があるので俺は有の言葉を信じた。

「仲直りしたいなら勇気も必要だよ」

 しばらく考えてから有はコクンと頷いた。

 有の表情が明るくなったのは、それからすぐ、文化祭が終わった直後からだった。どうやら仲直りできたらしい。俺と兄貴はほっと胸をなでおろした。

 二学期の終わりの生徒会選挙で、有はまた、副会長になった。

「生徒会長になった木村に指名されたから、仕方なく」

 有はなぜか赤い顔で言った。とにかく木村君とは仲良くやっているようで安心した。

「どうして二年連続副会長なんだ。どうして会長に立候補しないんだ。情けない奴め」

 爺さんは気に食わないようでしばらく有を責め続けた。有は「すみません」と項垂れた。物心つく前から爺さんのそばにいたからか、有は爺さんへの反抗心は一切持っていなかった。何を言われても「すみません」「わかりました」「ありがとうございます」だった。品行方正な有は、この頃にはもう、爺さんから怒鳴られ、折檻されることもなくなっていた。それは兄二人をとても安堵させた。

 冬休みに、有は木村君の家に泊まりに出かけた。有の外泊は初めてのことだ。俺は喜んでいたが、兄貴があまり快く思っていないのは険しい顔つきでわかった。

「いいことじゃないか。有は真面目すぎる。たまには夜遊びだってさせてやるべきだよ」
「そんなことはわかってる。粗相をしないか心配なだけだ」

 と、ぶすっと答える。

「大丈夫、有はどこに出しても恥ずかしくない子だよ。兄貴の教育の賜物だね」

 褒めたつもりが、兄貴の目元に暗い影が落ちる。

「それは厳しくしてきた俺を責めてるのか」

 弱った声で兄貴が言う。慌てて否定した。

「そんなことない。兄貴が有に厳しくしたのは爺さんから守るためだ。それは俺が一番よくわかってる。嫌味に聞こえたなら謝るよ、ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。兄貴には感謝してるんだよ」
「あいつはどうだろうな」

 ポツリと呟いた。有はどう思っているのか。

「有だってちゃんとわかってるよ。なぁ、兄貴、もういいんじゃないか?」
「何がだ」
「もう有につらくしなくてもいいんじゃないか? 最近爺さんが有を殴ることはないし、また前みたいに優しくしてやってもいいんじゃない? 有もそれを望んでると思うよ」

 兄貴は俯いて考え込んだが、しばらくして顔をあげ、フッと自嘲するように笑った。

「今更戻れない。有とどう接していたか、それも忘れてしまったんだ。俺にはもう出来ない」

 無意識に、兄貴の額の傷を見ていた。有のかわりに爺さんのステッキで殴られた傷。あの時から、兄貴は弟を守るため憎まれ役になり、有に厳しくしてきた。言いたくないことを言い、したくない体罰も与えてきた。あの時つけた仮面が、今では兄貴の本当の顔になってしまっていた。演じ続けるのが長すぎたんだ。

「ほんとに、兄貴は損な性格してるね」
「損をしていると思ったことはない」

 俺を安心させるためか兄貴は微笑んだ。兄貴の笑い声をもう長く聞いていない。


右手左手(2/4)

2020.10.26.Mon.
<1>

 有が小学四年生になると同時に、爺さんが有をボーイスカウトに入隊させた。

「こいつは根性がない。いつも上の兄共を頼って甘えているせいだ。一人で生きて行く強さも知恵もない。ボーイスカウトに入れて自立心を養わせる」

 という理由らしい。爺さんの言うことにも一理ある。確かに俺たちは何かと有を構いすぎるところがある。両親の記憶をほとんど持たない弟が不憫に思えるせいだろう。ボーイスカウトに入り、新しい世界、新しい人間関係を築くのは有にとってはいいことだ。俺はそう思っていたが兄貴はそうじゃないようだった。

「爺さんは何を考えているんだ。あいつは人見知りがひどいんだ。新しい環境に入れられたら楽しむ前にストレスでやられちまう。あの西洋かぶれは、イギリスでボーイスカウトに親切にされたことが忘れられないだけだろ。自分の理想を孫に押し付けるな」

 腹立たしそうに声を荒げ、爺さんがいる居間のほうを睨み付けた。

 爺さんは若い頃、しょっちゅう外国へ行っていたそうで、その話を俺たちは何度も聞かされた。イギリスに行った時、大きな鞄を持ってキョロキョロしていたら男の子が近づいて来て「どうしたんですか?」と声をかけてきたそうだ。宿泊するホテルの場所を探していると言うと、少年がそこまで案内してくれた。どうしてこんな親切をしてくれるのかと聞くと、人の役に立つことをしなさいとボーイスカウトで教えられたからだと少年は言った。爺さんはいたく感動し、年を取った今でもそれを忘れられないでいる。爺さんが有をボーイスカウトに入れると言い出したのは、この出会いがあるからに他ならない。

「でも新しい友達が出来るのは有にとってもいいことだよ」

 俺が言うと兄貴に睨まれた。

「爺さんの味方をするのか」
「そうじゃないよ、兄貴、有は確かに俺たちに甘えすぎるところがある。甘やかす俺たちが一番いけないんだろうけど、自分の世界を広げるのは有にとっていい事だよ」

 おまえたちも外国へ行って視野を広げろ、日本という狭い島国だけで人生を終わらせるな、それが爺さんの口癖だ。有にとってボーイスカウトは視野を広げ、自立心を育てるいい機会だ。

 兄貴は不服らしく険しい顔をしていたがそれ以上なにも言わなかった。動機はどうあれ、今回ばかりは爺さんのやることに反対する理由がないと悟ったのだろう。過保護を自覚している兄貴には苦渋の決断だったろう。

 ボーイスカウトのことを有に伝えると、意外にケロリとした顔で「わかった」と言った。それでも心配だったので、初日は俺と兄貴の二人で有を集合場所まで送った。

 心配性の兄貴は、有が入った隊の一人をつかまえ、弟のことをくれぐれも頼む、目を離さずに見てやってくれ、と頼み込んでいた。小/学生に頭をさげる兄貴を見ているのは少し恥ずかしかった。戻ってきた兄貴にそれを言ったら「あいつがいじめられでもしたらいけないだろ」真面目な顔で反論された。

 帰りも一緒に迎えに行った。俺たちを見つけた有が駆け寄ってきた。

「どうだった?」

 俺の腰にしがみつく有に声をかける。有は少し疲れた顔をしていたが、笑って「楽しかった」と答えた。俺たちの心配は杞憂だったようだ。

 有の送り迎えは俺と兄貴、交代でやった。そのために兄貴はできるだけ日曜のバイトを休むようにした。そのくせ有にはきつく当たる。爺さんが見ていない間くらい素直に優しくしてやればいいのにそれをしない。徹底した頑固さで有に厳しくし、そのあと自己嫌悪して落ち込んでいた。

 有はボーイスカウトの活動を楽しんでいるようだった。家にいても、気難しく、折檻を与えてくる爺さんに怯えて過ごさなければいけないから、外で同じ年齢の子たちと駆け回っているほうが楽しいのだろう。内気だった有がだんだん活発になっていくのは兄として嬉しい光景だった。はじめは反対していた兄貴も今では入れてよかったと言うようになった。

 一年が経ったある日曜日、その日はバイトが休みで兄貴も家にいた。部屋で俺は読書、兄貴は勉強をしているときだった。家の電話が鳴った。ばあちゃんが出て、血相変えて部屋にやってきた。

「有が怪我したって! 迎えに来て欲しいんだって!」

 最後まで聞かずに兄貴が家を飛び出した。俺はばあちゃんと家で待った。二時間以上経ってから兄貴が電話をしてきた。

『礼、悪いけど、有の保険証とお金、俺の着替えを持って病院まで来てくれ』
「病院って……、有、大丈夫なの?」
『足を数針縫ったくらいでたいした事はない。有も今は落ち着いてるから安心しろ』

 その言葉にひとまずホッとした。言われた物を持って急いで病院に向かう。待合室で二人を見つけた。有は椅子に座り、兄貴は腕を組んでそばの柱にもたれて立っていた。

「これ」

 と着替えを渡す。受け取る兄貴のシャツは血で赤く染まっていた。驚く俺に兄貴は苦笑いを浮かべた

「有を抱えて病院に行ったんだ。その時に血がついた」
「そんなに血が出たの?」
「木の枝で足を切ったらしい。出血は多いが、それほど深い傷じゃない」

 有に視線を移した。神妙な顔で俺たちを見ている。たいへんな騒ぎに罪悪感を感じているのかもしれない。

「しばらく外で遊べないな。兄ちゃんが遊んでやるからな」

 俺が笑うと、有も頷きながらニコッと笑った。

「痕は残るの?」
「縫ったところは残るだろうな」

 白い包帯が痛々しい。有を見る兄貴の顔が辛そうだった。

 病院から帰ると、爺さんが俺たちを居間へ呼びつけた。爺さんは有を心配するどころか逆に叱りつけた。

「どうせお前がぼんやりしていたせいだろう。まわりの人に迷惑をかけるなんてとんでもないことだ」

 包帯を巻いた足で有に正座をさせ、説教が始まった。兄貴が間に割って入った。

「邪魔だ、どけ!」

 爺さんが怒鳴る。

「僕がこいつに言って聞かせます」

 爺さんの剣幕にひるむことなく兄貴が冷静に言う。俺は有の横に座ったまま、兄貴の背中を見つめた。

「お前では駄目だ。お前らはすぐこいつを甘やかす。そんなことだからこいつはいつまで立っても半人前なんだ」
「僕が責任を持って一人前にします。来い、有」

 振り返った兄貴は有の腕を掴んで引っ張り立たせた。まごつく有の体を抱え、爺さんの制止を無視して居間を出て行く。俺も慌ててあとを追った。

 子供部屋に入ると、兄貴は有の体をそっとおろした。有が不安な顔で兄貴を見上げる。

「傷は痛むか」

 低い声で兄貴が問う。有は怯えたように小さく首を振った。兄貴は俺に向きなおると舌打ちし、顔を歪めた。

「これ以上なにを望むんだ、あの爺さんは」

 そう吐き捨てる兄貴の目は真っ赤だった。俺は兄貴が泣くのではないかと思った。兄貴は奥歯を噛みしめながら、深く呼吸し自分を落ち着かせようとしていた。

「傷が開いてないか見てやってくれ」

 俺は無言で頷いた。振り返った兄貴は、いつにも増して厳しい顔つきで有を見下ろした。

「傷が治るまでおとなしくしていろ。早く傷を治すんだ。わかったな」

 有は「うん」と小さな声で頷いた。

「うんじゃない、はいと返事しろと何度言ったらわかるんだ!」

 兄貴の怒鳴り声に有は体を震わせた。泣くのを必死に堪えながら「はい」と返事をする。俺はいたたまれない気持ちで二人を見守った。

「ボーイスカウトの委員の人たちに電話してくる。あとは任せた」

 自分の心も傷つけながら、兄貴は最後の一睨みを有に残し、部屋を出て行った。有の目には涙が溜まっていた。

「開兄ちゃんも怒りたくて怒ってるんじゃないんだよ。それだけはわかってあげような」

 肩を抱くと有が抱きついてきた。胸に顔を埋めてしゃくりあげる。その背中を手で撫でさすりながら、早く大人になりたいと強く思った。大人になって早くこの家を出て行きたい。俺より兄貴のほうがその思いは強いだろう。兄貴は大学には行かず、就職するつもりだった。爺さんもばあちゃんも進学を望んでいた。幸い、爺さんは人の金に手をつけない潔癖さを持っていたので、両親の生命保険はほとんど手付かずで残っている。進学する金はあった。それでも兄貴は就職を選んだ。もちろん早くこの家を出るためだ。

「俺も開兄ちゃんも、三人で仲良く暮らせるように頑張るからさ、有も頑張ろうな」

 泣きじゃくる有が俺の顔を見つめてくる。

「開兄ちゃん、俺の事嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「どうしてあんなに怒るの」
「有が大事だから怒るんだよ。開兄ちゃんだって本当は優しくしたいんだ」
「優しくない。前の開兄ちゃんがいい」

 また声をあげて泣き出した。首にしがみついてくる有を抱きしめ、落ち着くまで背中を撫でてやった。無力な俺には、そんなことしかしてやれない。



秘め婿(1)

邪馬台国BL! 【続きを読む】

右手左手(1/4)

2020.10.26.Mon.
※一ノ瀬兄弟の次男目線、子供への折檻、暴力描写あり、エロなし、BLでもない

 両親が交通事故で亡くなった時、兄の開は一度も俺たちの前で涙を流さなかった。まだ9歳だったのに、これから下の弟二人を自分が守っていかなくてはならないと、そういう使命感を自覚していたのだろうと思う。

 二つ下の俺は、まだ二歳にならない弟の有の子守をしながら、奥の座敷で声を殺して泣いた。

 俺たち三人兄弟は祖父母の家に引き取られた。世界にたった三人きりの家族。俺たちは運命共同体だった。

※ ※ ※

「有は?」

 高校から帰ってきた兄貴の開が、制服をハンガーにかけながら俺に訊いてきた。俺は見ていた雑誌から顔をあげ「寝てる」と答えた。

「学校から帰ってきて靴の脱ぎ方が少し雑だったからって爺さんに叩かれた。今はばあちゃんとこで泣き疲れて眠ったよ」
「そうか」

 暗い顔で兄貴が頷く。爺さんの暴力のような体罰は日常茶飯事だ。俺も兄貴も手加減なく何度も殴られ蹴られてきた。まだ小/学生の有にも容赦がない。俺たちは爺さんが嫌いだった。

「礼、迎えに行って来いよ」

 服を着替えて兄貴が言う。

「まだいいんじゃない、寝てるんだし」
「いつまでもばあちゃんとこに寝かせておくわけにはいかないだろ。ばあちゃんも家の仕事があるんだし」
「だったら兄貴が行って来いよ」
「俺が行くより、お前が行ったほうが有は喜ぶからな」

 と寂しそうに笑う。本当は七歳離れた弟が可愛くて可愛くて仕方ないのだ。自分で迎えに行きたいのに行けない。兄貴は損な性格をしている。

「もう少ししたら迎えに行くよ」
「頼む」

 兄貴が前髪をかきあげた。左の眉の上に傷跡が見えた。去年の秋に出来た傷。

 ※ ※ ※

 爺さんの体罰は近所でも有名だった。近所の人から俺たちは、両親を亡くし、暴力的な祖父に引き取られた可哀相な子供たちと認識されていた。

 ある日、有が17時の門限を破って帰ってきたことがあった。爺さんは近所中に聞こえる大声で有を怒鳴りつけ、足蹴にして表に追い出した。家の前の小さい川に突き落とし、そこで反省していろと言う。

 寒い秋の夕暮れ。有は体を震わせ、泣きじゃくった。

 騒ぎを聞きつけた近所の人たちが、心配そうに有と爺さんを見る。

 ばあちゃんがオロオロして、爺さんを止めようと声をかけるが、爺さんは人の言葉に耳を貸すような人じゃない。

 爺さんの暴力が怖くて、中学一年だった俺は黙って見ていることしかできなかった。その時、兄貴が学校から帰ってきた。

 川にずぶ濡れの有が震えて立っているのを見て、血相かえて俺にわけを聞いてきた。俺から事情を聞いた兄貴は歯軋りして爺さんを睨み付けた。俺はこの時はっきり、兄貴の全身から殺意が沸き立つのを感じた。

 いつまでも泣きやまない有に腹を立てた爺さんが、西洋かぶれで持っているステッキを振り上げた。殴られる。見ていた皆がはっと息を飲んた。

 が、振り下ろされたステッキは有ではなく、兄貴の額に打ちつけられた。兄貴が咄嗟に前に飛び出して有を庇ったのだ。額が切れて血が流れ落ちる。兄貴は流れる血に左目を瞑りながら爺さんを見据え、

「あとは、長男の僕が有を躾けます」

 と低い静かな声で言った。

 兄貴の迫力に爺さんが一瞬たじろいたが、何か口汚く喚きたてながら家の中に戻った。

「開兄ちゃん……」

 自分を助けてくれた兄貴の腰に有が抱きついた。兄貴はその腕を払い、振り向きざまに有の頬を打った。近所の人も俺も、兄貴のしたことに驚いた。

 兄貴は他の誰が見てもわかるほど末っ子の有を甘やかし可愛がっていた。爺さんの体罰という名の暴力から守るために、身代わりになって殴られたことは一度や二度じゃない。泣きじゃくる弟を優しく抱きしめ「恐くない、もう大丈夫だ」と慰める、それが兄貴だった。兄貴が有に手をあげるところなんて一度も見たことがない。

「これからは俺が爺さんのかわりにお前をぶってやる。ぶたれたくなかったら、ちゃんと時間通り帰って来い、わかったな!」

 爺さんに負けない剣幕で有を怒鳴った。こんな兄貴を見るのは初めてだった。

 有は寒さで白くなった顔を更に白くして、今朝までは優しかった兄貴の突然の豹変振りに言葉をなくしていた。無理もない、俺だって兄貴の頭がおかしくなったと思ったくらいだ。

「開兄ちゃん……」

 震える手を兄貴に向かって伸ばす。兄貴はその手首を掴んで乱暴に川からひっぱりあげ、ずぶ濡れの有を俺に向かって突き飛ばしてきた。

「風呂に入れてやれ」

 大きな苦痛を我慢しているような顔で言う。

「どうしたんだよ、兄貴」
「いいから早く入れてやれ!」

 怒鳴って俺たちから背を向けた。集まってきた近所の人たちに向きなおり、頭をさげる。

「お騒がせして済みません」
「開君、血が……」
「平気です、本当にすみませんでした」

 深く頭をさげる兄貴を横目に、俺は有を連れて家に入った。兄貴の言う通り有の体は冷え切っていて、このまま外にいたら風邪をひかせてしまう。今は早く風呂に入れてやる方がいい。

 風呂場で服を脱ぎながら、有が涙をこぼした。

「開兄ちゃん、俺のせいで怪我した」
「有のせいじゃないよ」
「開兄ちゃん、怒ってた」
「あれは有に怒ったんじゃないよ」
「本当に?」
「うん、でもこれからはちゃんと門限を守って帰ってくるんだよ」
「わかった」

 一緒に風呂場に入り、有の体を洗ってやった。

 今更ながら、兄貴の考えていることがわかってきた。

 爺さんのかわりに有を叱ることで、有を爺さんから守るつもりなんだ。爺さんの体罰は小/学生の有にはきつすぎる。だから長男の自分が有を躾けると憎まれ役をかって出たんだ。弟想いの優しい兄貴には辛い役割だ。

 風呂から出ると、ばあちゃんが兄貴の傷の手当を終えたところだった。

「傷、どうなの」
「病院行ったほうがいいって言ったんだけど……」

 と兄貴を見上げる。兄貴は強張った表情で「大袈裟にしないで」と言った。

「開兄ちゃん、ごめんね」

 俺の腰に抱きついた有が背後から言う。

「同じことをしたらまたぶつからな」

 冷たく言い放ち、兄貴は部屋に戻って行った。傷ついた顔をした有を俺とばあちゃんとで慰めた。

 この日から兄貴は有に冷たくなった。最初は兄貴の豹変振りに戸惑いつつも以前のように話しかけていた有だったが、そのたび冷淡にあしらわれ、時に叱られたりしたので、兄貴が怖くなったのかあまりはなしかけなくなった。兄貴と二人きりでいると、俺かばあちゃんを探して部屋を出るようにさえなった。

「あそこまで厳しくすることないんじゃない」

 いつか兄貴に言った。

「なんのことだ」
「爺さんから守るために有にきつくしてるんだろ。あいつ、最近爺さんと同じくらい兄貴に怯えてるよ」
「それでいい。そうじゃないと爺さんがまた有を殴るからな。小学二年の有をステッキで殴ろうとした奴だぞ、これぐらいやらないと納得しないさ」

 自虐的に笑った兄貴から、また殺気が立ち昇るのを感じた。兄貴は俺が思う以上に色んなことを感じ、我慢してきたのだと気付く。

 俺だって爺さんは憎い。でも兄貴のそれは俺以上だ。それだけ、弟二人が痛めつけられるのを見てきた傷が深いということだろう。

「傷、残っちゃったね」

 額の傷跡を指差して言った。兄貴は隠すように手で押さえた。

「有には何も言うなよ」
「何って何を」
「何もかもだ。俺が憎まれ役になるから、お前はあいつをフォローしてやってくれ」
「兄貴はそれでいいの」
「これがお前たちを守る一番いい方法なんだ」

 兄貴は伸ばした前髪で、傷と本心を隠した。



ありがとう(2/2)

2020.10.25.Sun.
<前話>

 いつの間にか僕は中/学生になっていた。前と違う制服に身を包み、前と違う学校へ通う。担任の先生が僕に何かと話しかけてくる。バスケ部の顧問で、僕を部に誘ってくる。とりあえず見に来てくれと放課後、体育館へ連れて行かれた。興味を持てなくて僕は体育館の床ばかり見ていた。

 強制的にバスケ部に入れられた。まずは基礎からとドリブルの練習をひたすらさせられる。体育館を何周も走らされた。体力のない僕はみんなについていくことが出来なかった。他の一年生は上級生たちから怒鳴られたりしごかれたりしていたが、僕にはそれが一切なかった。落ち零れなのに、と不思議に思いながら、体を動かす気持ち良さを味わい、僕は一人、満たされていた。

 バスケ部の練習があった日の夜は気絶するように眠った。部屋の隅を見る暇もなかった。思い出しもしなかった。その頃から虫たちの音が小さくなっていた。

 朝、早くに目が覚めると僕はベッドを飛び起きた。じっとしていられなくて、制服に着替えると学校に行った。早く来すぎて門は閉まっていた。それをよじ登り、中に入って体育館へ向かった。体育館も当然閉まっていた。早く練習がしたかった。

 その日の放課後、僕はスポーツ用品店でバスケットボールを買った。これで毎日練習出来る。家のガレージでドリブルの練習をしていたら、ある日学校から帰ってくるとガレージの奥にバスケットゴールが設置されてあった。僕はシュートの練習を始めた。

 なかなかうまく入らない。ボールが充分に入るリングの大きさなのに、どうしてリングに弾き返されてしまうのか。本屋に行き「バスケットボール入門」というDVD付きの本を買った。何度もそれを読み、何度もDVDを見た。

 体を動かすのは僕には未知の感動があった。新しい方程式を覚え、今まで解けなかった問題を解いた時のような、一瞬味わえる、疲弊を伴う感動ではなく、僕自身の体を使ってヘトヘトになるまで粗野に動き回る、純粋な運動に対する感動だった。僕はそれに夢中になった。虫の声を聞くことも、思い出すことも少なくなっていた。

 家の近くに、バスケットゴールを一対設置した公園を見つけた。僕はそこで練習を始めた。何度練習しても失敗する。一度間違った問題は二度と間違えたりしなかったのに、バスケットだけは思い通りにいかない。それがまた、僕を喜ばせた。

 学校の授業になると、僕の耳はまた虫たちによって塞がれた。声が聞こえなくても黒板の文字を見ればだいたい何をしているのかわかる。ノートに書き止めていると文字が動き出した。虫の仕業だ。文字はニョロニョロ体をくねらせながらノートの上を移動し、机から飛び降り、ぞろぞろ教室から出て行く。文字の大行進を見ていたら可笑しくて笑えてきた。隣の席の奴はそんな僕を見て顔を強張らせていた。こいつにはこれが見えないんだろうか。こんなに楽しいパレードなのに。

 ~ ~ ~

 今日は朝から雨だった。大粒の雨が大量に空から降り注ぐ。雨音と虫のざわつく音は少し似ている。最近、すっかりおとなしくなった虫たちは、その力が弱まっているようだった。そろそろ寿命なのだろうか。僕は虫たちを心配した。

 集中豪雨を降らせた雨雲が風に押し流され、四時間目が始まる前に雨はあがった。雲の切れ間から太陽の光が差し込む。今日、バスケ部の練習が休みだったことを思い出し、僕はボールを持って学校を出た。

 いつもの公園で練習をしていると男が三人、やってきた。

「中坊が学校サボッて何してるんだ」

 と一人が言う。

「俺たちにボール貸せよ」

 別の一人が言った。首を左右に振るとまた違う一人が僕の手からボールを取り上げた。途端、僕の頭の中で虫たちが一斉に騒ぎ出した。あまりのうるささに顔を顰めた。

「返せ……あいつらがうるさい……」
「なん…って…………に……って……が………言って……!」

 虫の鳴き声と、僕の頭をひっかきまわす音で、男が何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。

「うるさいから静かにしてくれ……」

 虫に向かって言った言葉に男たちは形相をかえた。僕の胸倉を掴み何か怒鳴っている。虫たちがギャアギャア騒ぐので、何を言っているのかさっぱりわからない。

「ボールを返せ。お前たちのせいで頭が割れるように痛むんだ」

 目の前の男が残忍に笑った。次の瞬間、僕はその男に殴られていた。その衝撃で地面に倒れこむ。腹に男の靴の先がめり込んだ。胃がせりあがり、ゲェッと音を立てて中身を吐き出した。その中に虫たちが混じっていた。ビクビクと悶え、やがて動きが弱まり、虫は息耐えた。それを見て僕は正気でいられなくなった。男たちに掴みかかり、生まれて初めて人を殴った。その後、三人から気を失うまで殴られ、蹴られた。

 痛みで目を覚ました。男たちはいなくなっていた。体を起こすとあちこちが痛んだ。座りこんでぼうっとしていたら、目に何か液体が流れ込んできた。手で拭うと赤い血だった。こんなに鮮やかな赤を見たのは久し振りのような気がする。黒い血じゃなくて良かったと安心しつつ、ガクガク震える膝に手をついて立ち上がった。鞄とボールを拾いあげ、今日は帰ろうと出口へ向かった。たいした高さのない階段で尻餅をついた。ボールが転がって離れていく。

「大丈夫か」

 低く擦れた声に顔をあげる。また別の男が立っていた。制服から高校生だとわかった。今まで聞いた事のない声で虫たちが騒ぎ出す。不安がっているようだ。こいつから離れよう。立ちあがろうとしたが、手にも足にも力が入らない。

「来い、すぐそこだから手当てしてやる」

 男は僕の腕を掴んで引き上げた。首を横に振って断ったが、男はそれを無視して、強い力で僕の腕を引いて歩いて行く。しばらく行った先の店のシャッターをあけて中に入った。二階に連れ込まれ、傷の手当を受けた。

「終わりだ」

 男が言う。人から親切にされたことに僕は敗北感のようなショックを感じた。こんな風に他人と関わるのはとても久し振りで戸惑う。親切を受けたら礼を言う、と小さい頃教わったことを思い出し、遠慮がちに頭をさげた。

「お前、何年だ」

 男は煙草を咥えて火をつけた。煙草は二十歳にならなきゃ吸っちゃいけないはずだ。日本の法律を思い出しながら、僕は人差し指を立てた。

「一年か?」

 無言で頷いた。

「いじめられてんのか?」

 首を横に振った。

「口ん中、怪我したか?」

 違う。首を振る。

「名前は?」

 僕の頭の中で虫たちが悲鳴のような鳴き声をあげる。黙れ。頭の中で命令すると、虫たちの声は小さくなった。ポケットから生徒手帳を取り出し、男に見せた。

「木村……論?」

 頷く。

「ロンか、なぜしゃべらないんだ」

 虫たちがしゃべらせてくれないんだ。この人にはそれを知られたくなかった。だから黙って目を伏せた。「まぁ、いいけどな」と男は床に寝転がる。目線が僕から逸れた。僕は座っていたベッドからおりて男の横に腰をおろした。煙草を吸う口元をじっと見ていたら「吸いたいか?」と聞いてくる。いらない、と断りかけ、思いなおして頷いた。

 男が吸っていた煙草を受け取り、恐る恐るそれを口に運ぶ。男の唾液で少し湿っていたが不快ではなかった。深く吸い込むと、僕の中の虫たちが煙にあぶられ弱々しいうめき声を発した。

「うまくないだろ」

 男の言葉に僕は頷いた。うまくはない。むしろマズイ。だけどなぜか、いやに特別なものに見えてくる。煙草の先のオレンジの焔。こんな色は初めて見た。

 男の名前は瀬川鉄雄といった。口の中で何度もその名前を繰り返し言ってみた。それに抵抗するように虫たちが僕の中で騒ぐ。弱々しい声はすぐ封じ込めることが出来た。

 力関係は僕の方が上になっていた。鉄雄さんのそばにいると虫たちの力は弱まるようだった。まわりの音を掻き消そうと虫たちが足掻くが、鉄雄さんの声だけはクリアに聞き取る事が出来た。鉄雄さんの声を聞き逃したくないと集中すると、虫の発するノイズが消えるのだ。逆に、このまま消してしまっていいのだろうかと不安になる。

 虫の音が消えるということは、これまで聞かなくて済んできた音も全部聞かなくてはいけなくなるということだ。僕を押しつぶそうとする母さんの声。僕を拒絶する父さんの声。僕を傷つけようとする家庭教師の声。僕を否定するクラスメイトの声。その全部に、僕はこれから先、正気を保って耐えていけるだろうか。

 その日の夜、僕は不安で寝付けなかった。引っかいた傷がいつまでもジクジク痛むように、鉄雄さんの声が僕の耳から離れないのだ。

 あの人は僕を傷つけるようなことを言わない。僕を追い詰めることも言わない。何かをしろとも言わない。擦れ気味の声で呼ばれる自分の名前が、こんなに心地よく聞こえたことは生まれて初めてだ。

 頭の隅で虫たちが怯えたようにカサカサ物音を立てていた。僕の心臓は、今まで感じた事のない高鳴りに震えていた。

 朝日が昇るのと同時に家を抜け出し公園に向かった。バスケの練習に集中する。余計なことを考えず、虫の鳴き声も聞かず、ボールの跳ねる音だけを聞いて体を動かしていた。何時間そうしていたのか。

「ロン」

 不意に、僕の鼓膜を揺らす声。いつの間にか鉄雄さんがコートに立っていた。

「こんな朝早くから練習か」

 クリアに聞こえる鉄雄さんの声に恐怖すら覚えながら黙って頷く。

「ボール貸してみ」

 鉄雄さんが手を出してくる。ボールを投げて渡した。鉄雄さんはリングに向かってシュートした。ボードにも届かず地面に落ちる。鉄雄さんは意地になって何度もシュートを打つ。ようやくゴールを決め、得意げな顔で僕を見る。僕もつられて笑っていた。

 こんなふうに人に笑いかけるのなんていつぶりだろう。やっぱり違う。鉄雄さんは他の誰とも違う。不思議だ。昨日知り合ったばかりの人に、こんなに惹きつけられる理由がわからない。わからないから不安になる。その不安を取り除きたくて、原因をつきとめようとすればするほど、この人に惹きつけられる。僕はこの人を手に入れたい。虫を失っても、煩雑な物音を全部聞くことになっても、僕はこの人の声をひとつも聞き逃したくない。

「じゃ、俺帰るわ」

 鉄雄さんがコートを出て行こうとする。僕はその背中に呼びかけた。

「鉄雄」

 僕の体が軽くなっていく。虫が消滅していくのを感じる。それでも構わない。

 足を止め、鉄雄さんが振り返った。僕はもう一度名前を呼んだ。

「鉄雄」
「お前、今俺を呼んだか?」

 頷く。

「さんを付けろよ、中坊が」

 鉄雄さんが苦笑する。

 僕を支配し、時に僕を助け、時に僕を苦しめてきた虫たちは、部屋の隅にある暗闇の世界へ戻って行った。この時以降、虫たちの音を聞くことも、姿を見ることもなくなった。

 ~ ~ ~

 午前五時過ぎ、鉄雄さんの店の二階で、俺は酒瓶を片手に床に寝転がっていた。明日、学校は休み。酒でも飲むか、と鉄雄さんに誘われ、それが嬉しくて加減なく飲んでしまった。この店のバイトは今年の頭から始めた。俺がバイトを探していると言うと、ここでやればいい、と言ってくれたのだ。

「ロン、寝るならベッドで寝ろ」

 俺の手から酒瓶を取りあげ鉄雄さんが言う。ヘラヘラ笑う俺を見て溜息をついた。

「風邪ひくぞ、お前は、まったく」

 俺の腕を引っ張り、肩に担いで立ち上がる。感じる鉄雄さんの体温。甘えたい気持ちがわいて、わざともたれかかった。

「重いな……、無駄にでかくなりやがって」
「今は俺のほうが鉄雄さんよりでかいもんね」
「外に放り出すぞ」

 そう言いながら、鉄雄さんは俺をベッドにおろした。その腕を掴んで抱き寄せる。

「おい、ロン」
「一緒に寝ようよ」
「こんな狭いベッドじゃムリだ」
「平気だって、昔はよく一緒に寝たよね」

 鉄雄さんは無言だった。もしかして俺を警戒してるのかな。

「鉄雄さん、俺ね、いま、好きな奴がいんの。同じ学校の奴でね、寝ても覚めてもそいつのことばっかり考えてんの」
「あーそう、わかったからはなせって」
「俺がまともに人を好きになれたのは鉄雄さんのおかげだよ。鉄雄さんに会わなかったら、きっと俺、ずっと一人きりのままだった」
「なに馬鹿なこと言ってんだ」

 鉄雄さんが俺を睨み付ける。どうして鉄雄さんは怒っているんだろうか。

「ごめん」

 嫌われたくなくて謝った。

「なに謝ってんだよ」
「鉄雄さんが怒ってるみたいだったから」
「怒ってねえよ」
「じゃあ一緒に寝て。いいでしょ。昔みたいにさ、久し振りに一緒に寝ようよ」
「ったくもう」

 昔から鉄雄さんは優しい。溜息をつきながら俺の横に寝転がる。背中を向ける鉄雄さんに背後から抱きつく。

「懐かしいね」
「まあな」
「ありがとう、鉄雄さん」
「ん」

 人を好きになる感情を教えてくれて、本当に、ありがとう。


(初出2008年)

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