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2020.12.05.Sat.
<1>

 部屋に戻り、ソファに座って一息ついた。今日はいったいなんて日だろう。立て続けに初めて会った男から言い寄られるなんて僕の行動にも問題があるのだろうか。

 そういえば基樹くんのときもそうだった。一目惚れだと言って、妻が寝室で寝ているにもかかわらず僕を抱いた。今日の2人と違うことと言えば、僕は基樹くんのときは、本気で抵抗できなかった。

 妻と結婚後しばらくして、夫としてはおろか男としても見られず家政婦のように扱われていた。彼女が浮気をしていることも知っていた。それを追及する勇気はなかった。

 基樹くんが妻に連れられうちへやってきた時、怒りや悲しみはなくただ諦めの感情しかなかった。僕の心は死んでいたも同然だった。

 そんな時に基樹くんから熱烈に口説かれ求められて、僕の心と体に熱が灯ったのを感じた。妻への愛情はとっくの昔に失っていたことに、この時やっと気付いた。

 誰でも良かったわけじゃない。屍同然だった僕を慰め、労わり、受け入れてくれた基樹くんだったからこそ、僕も彼を好きになったのだ。

 だからもうこれ以上、基樹くんを悲しませることはできない。自分は男だからと気を抜いたりしない。自意識過剰だと笑われてもいい。僕の操は自分で守らなくては。

 気を取り直して部屋の片づけを再開した。それが終わると買い物へ出かけた。八百屋のおじさんから「配達してやろうか?」と善意の申し出も悪いが断った。スーパーの男性スタッフがなぜか連絡先を寄越してきたが突き返した。帰る道すがら派手に転んだ男子高校生に出くわし助け起こしてやると、お礼をしたいからと連絡先を求められたが、必要はないと帰ってきた。

 ここまで警戒しなければいけないのかと、自分の自惚れが死ぬほど恥ずかしくなってソファに顔を埋めて悶絶した。なんの取り得もないバツイチのおじさんが、引く手あまたの若く美しい娘ほどに警戒しているなんて、基樹くんが知ったらきっとお腹を抱えて笑うだろう。

 基樹くんの笑顔を思い出したら、今すぐにでも会いたくなった。たった数時間離れているだけでもう彼が恋しい。

 ソファから顔をあげた。そろそろ夕飯の準備にかかろう。今日届いた新しいテーブルで夕食だ。

 ~ ~ ~

 夜になって基樹くんが帰ってきた。

「ただいま」
「おかえり」
「今日、何も変わったことなかった?」
「何もなかったよ」

 宅配業者や上の階の住人の顔が浮かんだが、わざわざ基樹くんに言うこともない。

 鞄を預かり、ジャケットを脱ぐのを手伝う。大きい背中を見ていたら我慢できなくなって後ろから抱きついた。

「寂しかった?」
「うん、ずっと君のことが恋しくて、帰ってくるのが待ち遠しかった」
「そんなこと言われたらご飯どころじゃなくなるよ」

 基樹くんが振り返り僕を抱きしめてキスをする。手はもう服の中に潜り込んで背中を撫でまわす。それだけで腰が砕けそうになる。基樹くんに引きずられるようにベッドへ移動し倒れ込んだ。

「テーブル見たよ。組み立ててくれたんだね。ありがとう」
「僕こそ、一緒に選んでくれてありがとう」
「そんなことでお礼言ってくれるの、悠さんくらいだよ」

 と基樹くんは笑うけれど、そんなことが僕にはとても嬉しいことだったのだ。体を起こし、基樹くんのベルトを外した。ズボンとパンツをずらして、股間に顔を寄せる。

「シャワー浴びてないからいいよ」
「僕がしたいんだ」

 一日中働いた基樹くんの匂いがする。優しく食んで先端を口に含む。口蓋と舌で挟むように扱くとそれはすぐ体積を増して口いっぱいになった。口から出して陰茎にも舌を這わせる。それ越しに基樹くんと目があった。優しく切なげに僕を見ている。

 顎をくすぐるように手招きされて体を伸びあがらせた。彼に跨る格好でキスをする。僕のお尻を基樹くんが揉みしだいた。布越しに奥の窄まりを指で押されて腰が跳ねあがる。

「汚すといけないから脱いで」

 言われた通り素直に服を脱ぎすてた。基樹くんに、一糸まとわぬ姿を見られている。その視線に晒されるだけで心臓が壊れそうだ。

「恥ずかしい?」

 頷くと基樹くんはクスリと笑った。

「もう何回も何十回も悠さんを抱いてるのに俺もまだ見慣れないよ。いつも悠さんの綺麗な体に見惚れる。どこを責めてどうやって泣かせてやろうかって、初めてのときみたいに緊張するし興奮する。誰にもやらない。悠さんは俺だけのものだ」

 いきなり濡れた手で奥を触られた。優しくゆっくり指が入ってくる。基樹くんと出会うまではそんなところを他人に預けるなんて夢にも思わなかった。まして体を熱くして感じてしまうなんて、それまでの僕には考えられないことだ。

 僕の体を知り尽くした基樹くんは中を解しながら僕の弱い場所も器用に責める。僕は基樹くんにしがみついて、時に声をあげ、時に体をひくつかせながら、早く早くと次の工程を待ち望んでいる。しかし基樹くんはなかなか次に進んでくれない。

「基樹くん、お願い……もうそれはいいからっ……入れて……っ」
「待てない? もう欲しいの?」
「……欲しい……ッ」

 自分がいまひどく淫らな顔をしている自覚がある。僕を見て基樹くんは目許を引きつらせた。基樹くんもスイッチが入ったようだ。理性を一枚剥ぎ捨てた基樹くんの顔が僕はとても好きだ。

 体を入れ替えて基樹くんが上になった。僕の膝を割り開き、先端で奥の場所をノックする。

「やっ……ああっ……意地悪、しないで……早くっ」
「いま入れてあげる。大好きだよ、悠さん」
「僕も──、あ、ああ、ア──……ッ!!」

 ぐぬり、と刺し貫かれた瞬間、目の前が真っ白になった。お腹に生温い感触。まただ。彼に入れられた瞬間に達したことは今日が初めてじゃない。おもらしのように射精してしまう自分がたまらなく恥ずかしい。これは年のせいなんだろうか。

「出ちゃったね。入れただけなのに。そんなに嬉しかった?」
「と、年を取ると、緩くなるのかな?」

 目を瞬かせたあと、基樹くんは「アハハ」と声をあげて笑った。

「違うよ、年は関係無いよ。トコロテンって聞いたことない? 挿入されただけで気持ち良くて射精しちゃうんだ。それだけ悠さんがえっちな体になったって証拠」

 いくら受け側のセックスばかりしていたからって、なんて体になってしまったんだ。

「基樹くんのせいだ」
「そう、俺のせいだよ。だから一生かけて償わせて」

 基樹くんは嬉しそうだ。ならば悪いことではないのだろう。

 僕のなかで基樹くんが動く。射精したばかりのペニスの根本がジンジンと痛いほどに熱い。またすぐ勃起した。それを基樹くんに扱かれた。

「だめっ……手を離して……また出てしまうから……っ」
「何度でもイッていいよ。今朝言ったよね、覚悟してって。一晩中かわいがってあげるからって」

 悪戯っぽい口調。でも基樹くんの目は本気だ。それを見て僕の体は期待に震えた。基樹くんの言う通り、僕の体はえっちになってしまったようだ。

「基樹くん、今日は君の好きにして……君のためになんでもしてあげたい」
「後悔しても知らないよ」

 彼の律動が早く激しくなる。敏感な部分を擦りあげられて僕は嬌声をあげた。性別も年齢も、基樹くんに触れられるとどうでもよくなってしまう。僕はただ、彼を受け入れるだけのものになる。

「出すよ、悠さん」
「きて、中に……基樹くん、僕の中に出して……!」

 彼のものを一滴だって取りこぼしたくなかった。熱い迸りを受けて僕もまた果てた。小休止のような愛撫のあとにまた挿入。今度はおしゃべりしながら長い時間、基樹くんは僕の中に留まっていた。彼と繋がった場所が熱く蕩ける。2人で1つになったような気さえする。本当にそうなれればどんなに幸せだろう。

 基樹くんの頬に手を添え僕から何度もついばむようなキスをする。彼の大きな手があやすように僕の頭を撫でる。優しい目が嬉しそうに細められる。その目を見る度に、僕は基樹くんのことが誰よりも世界で一番好きだと実感する。

 僕のなかで基樹くんが立派に力を取り戻し、硬度を増していく。ゆったりした腰の動き。心地よい波に揺られているようだ。

 それがだんだん激しくなっていく。気持ち良すぎて彼にしがみついた。身震いすると同時に絶頂に上り詰めた。それでもまだ彼の動きは止まらない。連続して押し寄せる快感の波に蹂躙され、僕は何度も強制的にいかされた。涙を流しながら彼を求め、はしたない声をあげた。終わってもまた次が始まる。基樹くんは宣言通り、僕の体を一晩中放さなかった。

 ~ ~ ~

「悠さんおはよう」

 声に目を開けると基樹くんの顔が迫ってきて額にキスを受けた。

「おはよう、基樹くん」

 起き上がろうとしたら「まだ寝てていいよ」と軽く肩を押された。今度は口にキスをしてくる。だんだん意識が覚醒してきて、朝ご飯のいい匂いに気付いた。

「ご飯作ってくれたの?」
「ゆうべは無理させたからね。体つらいでしょ」

 目覚ましがなくても時間がくれば目が覚めるのに、今朝は基樹くんに起こしてもらわなければ昼まで寝ていたかもしれない。それもこれも、明け方近くまで基樹くんとセックスしていたせいだ。

「無理なんかじゃないよ。僕もしたかったんだから」
「そんなこと言われるとまた朝からしたくなる」
「そ、それはちょっと困るかも」

 慌てる僕を見て基樹くんが笑う。

「ご飯食べる? 先にお風呂入る? 俺も悠さんも体がベトベト」
「一緒にお風呂にしよう」

 起き上がろうとしたら体が悲鳴をあげた。全身筋肉痛のように強張っている。それを察したのか基樹くんが僕を抱き起こした。その顔が少し申し訳なさそうだ。

「基樹くん」
「ん?」
「今日は一日中ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろんそのつもりだよ」
「基樹くん」
「ん?」
「愛してるよ」

 驚く基樹くんにキスした。彼さえいれば、他にはもう何もいらない。



受けが可愛すぎる…!
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訪問者(1/2)

2020.12.04.Fri.
<「旦那さん」→「元旦那さん」→「元上司」→「隣人」→「支配人」→「伴侶」>

 朝食の後片付けをしていたら基樹くんに後ろから抱きしめられた。首筋に音を立ててキスをされる。くすぐったくて首をすくめた。

「ふざけてないで。遅刻するよ」
「悠さんの後ろ姿見てたら急に不安になった。もうどこにも行かないで」

 基樹くんの言葉に胸が締め付けられる。彼には本当に悪いことしてしまった。

 妻と別れ、基樹くんと一緒に生きていく覚悟をした矢先、彼を裏切る行為をしてしまい、僕は彼の前から姿を消した。離れ離れでいた期間、基樹くんを忘れることなんかできなくて、ただ愛しい気持ちだけが募っていった。

 基樹くんが僕のアパートを探し当て、「あなたを奪いに来ました」とまた言ってくれた時、彼を諦めることなんて到底不可能なことだったと思い知った。自分の犯した罪を忘れたわけじゃない。最期は地獄に落ちてもいいから、彼のそばで罪を償わせて欲しいと願ってしまったのだ。

「ずっとここにいる。もうどこにも行かない。だからほら、支度して」

 臀部にごりっと固いものが擦りつけられた。たった数時間前、それで泣かされたばかり。ぞくり、と体の奥底が妖しく疼く。

「基樹くん……駄目だ……、本当に遅刻してしまうよ」
「触って」

 僕の髪の毛のなかで基樹くんが囁く。その吐息にすら感じてしまう。甘えた声に抗えない。僕は基樹くんのどんな我儘もきいてしまうだろう。

 腕の中で基樹くんと向かい合い、手をそっと下へ伸ばした。スラックス越しにそれが隆起しているのがはっきりわかる。ベルトを外し、下着の中からそれを外へ解放した。もう火傷しそうなほどに熱い。手で擦っていたらじわりと先端が濡れてきた。

「悠さん」

 名前を呼ばれて顔をあげると目の前に基樹くんの顔があって唇が重なった。上唇をめくって入ってきた舌が僕の舌を絡め取り奥へと誘い出す。彼の口のなかでもつれあい、甘噛みされるだけで腰が砕けそうになる。

 これ以上続けていたら、僕まで彼が欲しくなってしまう。手元へ意識を集中した。しばらくして手の平に熱い迸り。基樹くんは深く息を吐き出すと「帰って来たら覚悟して。明日は休みだから一晩中、悠さんをかわいがってあげる」と僕を赤面させるようなことを言って離れた。

 ジャケットを羽織る広い背中を見つめながらこっそり息を吐き出した。僕だって本当は基樹くんとずっと抱き合っていたいし、キスの続きだってしたい。出奔から戻って一カ月、ほとんど毎日のように基樹くんと愛しあい、体もそれに慣れてしまった。中途半端に火をつけられた僕の基樹くんを見る目はきっと色欲にまみれた浅ましい目をしていることだろう。

「帰る前に電話するから」
「うん、待ってるよ」

 玄関に立つ基樹くんが僕にキスをする。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 彼を見送り、彼の帰りを待つ。こんな幸せな日常に戻れた幸運を心の底から感謝している。僕からそれを壊すような真似は二度としない。もう二度と彼を裏切らない。

 ~ ~ ~

 朝食の片づけを終え、洗濯を待つ間に部屋の掃除。僕はこの部屋が大好きだ。基樹くんの元へ戻るとき、2人で新しく部屋を探した。元妻と暮らしていた家に比べて手狭にはなった。家具や調度品も高価なブランドものはない。それでもここは基樹くんとの思い出が詰まっている。一緒に選んだカーテン、基樹くんが好きな青色のソファ、毎晩泣かされてしまう寝室のベッド、基樹くんが手触りを気に入ったカーペット、お揃いのスリッパ。すべてに彼との思い出がある。それを思い出すだけで僕は幸せな気分になれる。

 掃除が終わった頃にインターフォンが鳴った。モニターに出ると「宅急便です」と宅配業者の姿があった。先日購入したテーブルと椅子が届いたようだ。

「ご苦労様です」

 と玄関の戸を開けた。

「立橋さんのお宅ですか」
「そうです」

 伝票にサインをし、背後の荷物に目をやる。台車に乗った大きな段ボール。あれを運ぶのは大変そうだと思っていたら「中に運ぶの、手伝いましょうか?」と宅配業者の男性が言ってくれたので甘えることにした。

 2人で大きな段ボールを抱え部屋の奥へ進む。リビングに置いて、次は椅子を二脚運んだ。

「おっと」

 段ボールに足を取られて男性がバランスを崩した。ちょうど前にいた僕に覆いかぶさるように倒れ込んでくる。僕より一回り以上大きな体を支えきれず、一緒にソファに倒れ込んだ。

「すいません」
「いえ、大丈夫ですか」

 先に立ちあがった男性が僕へ手を伸ばす。断るのも悪いと思ってその手を取った。ぐいと強い力が僕を引っ張りおこす。

「旦那さん、なにか香水とかつけてます?」
「特には」
「なんかすごい良い匂いがしたから」
「洗剤とか、柔軟剤の匂いかもしれないですね」
「ちょっといいですか」

 肩を掴んで男性が僕の首筋に鼻を突っ込んできた。さすがにこれはおかしいと思い、胸を押し返したがびくともしない。

「あの、もういいですか」
「さっき抱きしめたときに思ったんですけど、ずいぶん痩せてらっしゃいますよね。それに良い匂いがするし、同じ男同士なのにソワソワしてしまいますよ。妙に色気があるというか。言われたことありません?」

 間近に僕の目を覗きこんでくる。目力のある強い眼差しに戸惑う。

「そんなことを言われたことはありません。あの、もう離れてください。あなたもお仕事が残っているでしょう。荷物を運んで頂いて、ありがとうございました」

 身を捩って強引に男性の腕から逃れた。何を考えているのかわからない目でしばらく見つめられたが、男性は営業スマイルに戻ると「失礼いたしました」と軽く頭を下げ、部屋を出て行った。

 急いで鍵を閉めた。基樹くん以外の男性に触れられた過去の記憶が嫌でも蘇る。僕が望んだものもあれば、無理矢理だったものもある。僕の自意識過剰でなければ、あんな目で見られることも久しぶりで、恐怖と嫌悪からくる震えがしばらく止まらなかった。

 気持ちを切り替えて荷解きを開始した。基樹くんが帰ってくる前に組み立てておいて驚かせたい。

 段ボールから部品を出し、テーブルの脚をねじ回しで固定して、あらかじめ決めておいたリビングの壁際に置いた。椅子のビニールも取り去って並べてみる。小さいテーブルに椅子が二脚だけ。充分身の丈にあっている。

 段ボールの後片付けをしていたらまたチャイムが鳴った。もう荷物が届く予定もないし、誰だろうとモニターを見ると知らない男性が映っている。

「はい」
『こんにちは、上の階に越してきました竹田と申します。ご挨拶に伺いました』
「それはご丁寧に。少々お待ちください」

 急いで玄関の戸を開けた。

「竹田といいます。上の階に越してきました。もしうるさかったりしたら遠慮なく言ってください。妻と二人暮らしなんですが、今日は仕事なので、僕1人でご挨拶に伺いました」

 竹田さんからのしのついた箱を受け取った。

「小泉といいます。もう一人、立橋という同居人がいます。こちらは男の二人暮らしです。僕たちのほうこそ何かとうるさくしてしまうかもしれません。その時は言ってください」
「良かったあ、ご近所さんが良い人そうで」

 と竹田さんは顔を綻ばせた。とても人の良さそうな笑顔で、僕もつられて笑顔になった。

「実は俺、在宅ワークなんで一日中家にいるんですよ。もしかして小泉さんもそうですか?」

 あんまり個人情報を漏らすのはどうかと思ったが、竹田さんが話してくれた以上、こちらも教えるのが筋だろう。

「僕もたいてい家にいます。ただ、僕の場合は無職なので……」

 このあとの反応に身構える。いい反応が返ってきたことはない。

「ご病気ですか?」
「いえ、求職中です」
「求人自体が減ってるって言いますもんね。大変ですね」
「ええ」

 男の二人暮らしで主夫をしているとは言いにくい。それに求職中というのは本当だ。基樹くんは僕が働くことを本音ではよく思っていないようだが、経済面でも彼におんぶに抱っこで甘えてしまうのは気が引ける。僕の稼いだお金で基樹くんにプレゼントを買いたいという思いもある。

「あ、じゃあもしかして小泉さんがご飯とか作ってたりします?」
「ええ、僕が作ります」
「俺もご飯当番なんですよ。いいスーパーとか知ってたら教えてもらえません? この辺の土地勘がぜんぜんなくて」
「僕たちも越してきたばかりなんですけど、駅前の商店街のほうへ行ったらたいていのものは揃いますよ。値段も良心的なお店が多いし」
「駅前かあ。行ったことないなあ。良かったら地図を書いてもらえませんか?」
「いいですよ、ちょっと待ってください」

 メモを取りに部屋へ戻った。届いたばかりのテーブルの上で地図を書く。

「お邪魔してもいいですか?」
「えっ」

 僕の返事を待たずに竹田さんがやってきた。部屋を見渡し、まとめてある段ボールを一瞥したあと、僕に視線を移した。

「綺麗に片付いてますね。男の二人暮らしなのに」
「越してきたばかりで荷物が少ないせいかも」

 心臓が重たい鼓動を打つ。さっきの恐怖が蘇る。どうして竹田さんは部屋に入ってきたのだろう。もしかして地図はその口実? なぜ?

「もしかしてなんですけど、小泉さんってゲイカップルってやつですか?」

 ハッと竹田さんの顔を見る。もう否定もごまかしもきかない。僕の様子から自分の勘が当たっていたことを確信して竹田さんは得意そうに笑った。

「やっぱりそうなんだ。男の二人暮らしって聞いたときにピンときたんですよね。小泉さんって、ちょっと男をその気にさせる何かがありますもん。初対面ですけど、小泉さんなら俺、イケるかも」

 言うと竹田さんは僕を抱きしめた。

「なにをっ……やめてください、離して……!」
「無職っていうか、主夫なんでしょ? 男の帰りを待ってるあいだ1人で暇なんじゃないですか? 俺も在宅で時間は自由になるし、どうです? 割り切った関係で俺と付き合いませんか?」
「冗談はやめてください、誰があなたなんか……!」
「そう言わず、まずは一回、試してくださいよ。あなたを満足させられると思いますよ?」

 手を掴まれたと思ったら股間に押し当てられた。すでに硬く熱いものに手が当たる。カッと顔が熱くなった。

「やめてください! 何考えてるんですか!」
「怒ってる顔もそそりますね。男なのに色っぽい」

 今度は竹田さんが僕の股間を鷲掴んできた。クニクニとそこを揉まれて鳥肌が立った。ただ嫌悪しか感じない。

「やめ……っ、いやだっ、いやっ……! 離せ!!」

 竹田さんの頬を引っぱたき、力の弱まった隙に腕から逃れた。「待てっ」と叫ぶ声に血を凍らせながらもつれそうになる足を動かして部屋を飛び出した。エレベーターを待っている暇はないと判断して階段を駆け下りる。背後から同じような足音が追いかけてくる。叫び出しそうな恐怖。心の中で基樹くんに助けを求めた。

「待てって……! 往生際が悪いな!」

 追い付いた竹田さんが僕を掴まえ羽交い絞めにする。もう恥も外聞も関係無い、大声で助けを呼ばなくては──。

「なにしてんの、あんた」

 突如聞こえた女性の声。2人してそっちを見る。

「美加……」

 竹田さんが呟くと僕を突きはなした。

「美加、お、おかえり。あれ、どうして? 仕事は?」

 上ずった声。挙動が見るからにおかしい。

「今日ちょっと熱があるから早退したんだけど……、そんなことより何してるの? その人は?」

 美加と呼ばれた女性が鋭い眼差しを僕に向けてくる。ビジネススーツを着こなした、いかにも仕事ができそうな女性。元妻と姿がだぶる。竹田さんの奥さんかもしれない。

「この人は別になんでもない。下の、俺らの下の階に住んでる人で、いまちょうど引っ越しの挨拶してたとこ。ね、小泉さん!」

 どの面下げてそんな白々しい口裏合わせを僕に求めてくるのか。無言で睨み返してやると竹田さんは目を泳がせた。

「どうして二人とも靴を履いてないの? さっきこの人に抱きついてなかった? なにあんた。また悪い病気出ちゃったの? 今度は男? どこまで見境がないの?」

 美加さんの眦が吊りあがって行く。竹田さんは何か言い訳しながら後ずさりを始めた。

「合意ならまだしも無理矢理? しかもこんな往来で? 馬鹿じゃないの! この前ので懲りたんじゃないの? この恥知らず!!」

 美加さんは叫ぶと持っていた鞄を振り回し、それで竹田さんを殴りつけた。手で顔と頭を庇いながら竹田さんが逃げ回る。通行人が好奇の目で二人と、茫然と立ち尽くす僕を見て通りすぎていく。

 体から力が抜けてへたりこんでしまいそうだった。まだ膝が震えている。

 鈍い音がして二人を見れば、鞄が顔に当たったらしく竹田さんが鼻血を流していた。それでもまだ美加さんの怒りは収まらないようで、今度は髪の毛をひっつかんで竹田さんを振り回していた。

 止める気力もない。ふらつく足でその場を立ち去った。




往時渺茫としてすべて夢に似たり(15/15) 

2018.06.21.Thu.
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 翌日、現地スタッフが運転する車に乗せてもらい、国見さんとマネージャーの林田さんと一緒に撮影場所へ向かった。

 中国の俳優と国見さんが談笑している。片言の中国語と英語と日本語。あとは身振り手振りでなんとかなるらしい。

 監督らしき男がやってきて二人に指示をした。通訳がその言葉を国見さんに伝える。国見さんの表情は真剣そのものだ。彼の仕事風景を見られるなんて幸運だ。

 興奮していて、ポケットの携帯がマナーモードで震えていることになかなか気づかなかった。スタッフらしい若い女性が近づいてきて電話を耳にあてる仕草で私に教えてくれた。

「謝謝了」

 覚えたての言葉で礼を言い、少し離れた場所で電話に出た。

『おう。うまくいったのか』
「おかげさまで。広田には感謝してもしきれないよ」
『中国土産頼むぞ』
「もちろん。みんなに買って行くよ。迷惑なのはわかってるんだけど、もう少しこっちにいてもいいか。今週、彼の誕生日だから一緒に祝いたいんだ」
『今月一杯そっちにいてもいいぞ。有給溜めすぎなんだよお前は』
「ありがとう。甘えさせてもらうよ」

 国見さんがこちらへ駆けてきた。小声で「もうすぐ撮影始まるよ」と教えてくれた。

「オーナーから。もう切るよ」

 と応えた声を広田は聞き逃さなかった。

『そこに国見栄一がいるのか? 代われ』
「え、いや」

 大きな声が漏れ聞こえていたのか、国見さんが何か察した顔で自分の顔を指さす。申し訳なく頷くと、国見さんは手を出した。私のスマホを彼に渡す。

「もしもし、国見です」

 広田が失礼をしないか心配になり耳を寄せた。

『諸井の上司の広田です。初めまして』
「初めまして。諸井さんが仕事を放って中国に来たのは僕のせいなんです。すみませんでした。お詫びします」
『とんでもない。なかなか有給取らない奴なんで、助かりましたよ。今月一杯休みにしてありますから、戻ってこないようそっちで縛りつけておいてください』
「わかりました、そうします」

 国見さんが苦笑する。

『今度またうちの店に来てください。最高の料理でおもてなしさせていただきます。諸井の恋人なら私にとっても身内のようなものですから』
「ありがとうございます。是非うかがわせていただきます」

 通話を切って、私にスマホを返した。

「いい人だね」
「お節介な奴なんですよ」
「ちょっと嫉妬する」

 国見さんの唇が小さく尖る。

「あいつとは何にもありませんよ」
「大学生の時からの付き合いなんだよね。僕はその頃の諸井さんを知らない」
「あいつが知らない私をあなたは知っていますよ」
「例えば?」
「ベッドの中の私とか」

 声をあげて彼は笑った。嫉妬されるのは嬉しいが不安にはさせたくない。

「それならいいや。もうすぐ撮影だから。見てて」

 国見さんは元いた場所へ戻って行った。現場の緊張感が高まっていくのがわかる。部外者の私は邪魔をしないよう、端っこに立って息を潜めた。

 しかし待っていてもなかなか撮影が始まらない。中国語だからなにを喋っているのかもわからない。

 手持無沙汰にしていると林田さんが隣に来て映画のことを教えてくれた。内容はサスペンス。国見さんは中国と日本のハーフという設定で、美しき殺人鬼の役らしい。優秀な刑事との絡みはちょっと同性愛を思わせる演出がなされる予定だそうだ。

「作りものなんで、妬かないでくださいね」

 林田さんが冗談めかして言う。

「事務所は黙認なんですか。私と国見さんのことは」
「僕は国見さんが十代の時からの付き合いなんですよ。引退しようかと真剣に相談されたこともありましたけど、そんなことで引退させるなんて勿体なくて。うちの社長も同意見です。俳優としてこれ以上ない才能があります。これはファンだけじゃなく、世間も認めざるを得ない才能です。国見さんは私生活が安定している時のほうがいい仕事をするんですよ。ひとりのファンとして、ずっと見守ってきた者として、国見さんの恋愛は応援しますが、良くない相手だと思ったら全力で止めます」

 林田さんが横目に私を見た。彼を守る一人の男としてシビアに私を見定める目だ。

「この程度のスキャンダルで潰れる男じゃありません。この先もっと飛躍しますよ、国見栄一は」

 誇らしげに語る林田さんにつられて国見さんを見た。私が見たことのない顔でカメラの前に立つ、俳優国見栄一がいた。

 ※ ※ ※
 
 今日は、先月の誕生日に国見さんからプレゼントされたスーツに袖を通した。オーダーメイドのスーツは体にピタリとフィットして動きやすい。既成のスーツとはやはり着心地が違う。

 同じく一昨年の誕生日にもらった濃紺のネクタイを締め、去年のクリスマスにもらった腕時計をつけてて振り返った。全身、国見さんからのプレゼントだ。

 ベッドに腰かける国見さんは「似合う」と顔をほころばせた。

 立ちあがって360度私の体を眺める。途中襟を直したり、皺を引っ張ったりする。

「やっぱり千秋さんはスーツ姿が一番かっこいい」
「おほめに預かり光栄です」

 恭しく礼をしてから彼の腰に腕を回した。

「本当に一人で大丈夫?」
「大丈夫。もう仕事辞めろなんて言わないよ」
「連休を取って会いに行くから」
「待ってる」

 彼に引きよせられてキスした。しばらく触れられなくなる体を名残惜しく求めてしまう。国見さんは今日、中国へ発つ。久し振りの芸能活動だ。

 一昨年開始した中国での映画を撮り終わると国見さんは一年間の休業宣言をした。

 急な休業宣言に日本のワイドショーは連日それを取りあげた。しかしその少し前のお祭り騒ぎに比べればおとなしいものだ。

 撮影終盤の頃、国見さんは中国の雑誌のインタビューを受けた。そこで撮影現場に連れて来た男は恋人かという質問に、そうだと答えた。

 彼はそこでバイセクシャルを公表し、私を恋人だと認めた。日本のマスコミは大盛り上がりを見せた。日本の芸能リポーターがわんさか中国へやってきた。邪魔になるからと撮影現場から芸能記者はシャットアウトされた。私は帰国したあとだったので、彼らは2ショットは撮りそこねた。

 このことはもちろん私も彼の所属事務所も全て了承済みだ。話し合って決めた。言いだしたのは国見さんだった。嘘をついたり隠したりすることに疲れてしまったと言った。私は反対しなかった。彼の恋人として世間に知られることの恐れはもちろんあったが、私自身、彼に嘘をつかせるのも、彼を隠すこともいやだった。

 事務所側は時期尚早だという考えだった。話し合いが長引きそうだと思った時、味方してくれたのはマネージャーの林田さんだった。国見さんの意思が固いということ。もうずっと我慢させ続けてきたこと。この程度で潰れる彼ではないことを訴え、説得してくれた。

 撮影が終わると同時にマスコミ各社へ休業宣言のファックスが送られた。

 十代の頃からずっと仕事を続けてきた。一度芸能の仕事から離れ、自分を見つめ直す機会が欲しいと思った。なにが大事でなにを大切にすべきなのか、今後芸能活動を続ける上で休業は必要不可欠な選択だった。

 という内容だ。

 ワイドショーは彼のバイセクシャルの公表と交際宣言だけでお祭り騒ぎだったのに、その熱も冷めやらぬうちに今度は休業宣言。

 交際相手が一般人であること、自分も休業に入ることを理由に、取材および報道は控えて欲しい旨も伝えられていたが、マンションの外に怪しげな車が止まっているのを何度も見かけたし、二人で出かけた姿が週刊誌に載っていることもあった。

 大手の雑誌社は事務所と話しあいがついているらしく行き過ぎた取材はなかった。そのかわり、復帰後の便宜が図られるのだろう。

 一年間、国見さんを独占してゆっくりしていられると思ったが、休業して間もなくまた中国から映画の出演オファーが入った。以前とは違う監督だ。

 最初キャスティングされていた中国の俳優が降板し、急遽代役を探すことになって国見さんに白羽の矢が立った。イメージにぴったりで国見栄一しかいないと熱烈な出演依頼だったそうだ。

 今度の映画は時代もの、日本でも有名な三国志。彼は三国志に出てくる周瑜という武将の役だ。
 
 日本人が中国人の役を、と批判もあったらしいが、監督は「国見栄一こそ美周郎にふさわしい。私は何も心配していない。努力家で完璧主義の彼なら中国語も吹き替えが必要ないレベルにしてくるだろう。それに、映画を観た観客が彼が大陸の人間かどうかなんて気にしなくなることもわかっている。なぜかって、みんな彼の虜になるからだ」とべた褒めだ。

 他の演者のキャスティングやスケジュールの都合で、どうしても今しかなったらしいが、そこまで言われたら、と国見さんは予定を半年早めて復帰することになった。

 と言っても雑誌やテレビの取材はNG、ただ映画の撮影をするだけという条件だ。

 映画の撮影が終わってもゆっくりはできない。

 復帰後の彼のスケジュールはすでに予定が詰まって真っ黒になっている。林田さんの言っていた通り、この程度のスキャンダルで潰れる男ではなかった。さらなる高みへ飛び立とうとしている。

 私は彼との家でその帰りを待つ。疲れて帰って来た彼を癒してあげられる存在でいたいと思う。

 国見さんが日本に戻ってきてすぐ二人で暮らす部屋探しをした。この半年間は誰にも邪魔されない二人きりの時間を過ごした。蜜月だった。

 深く口付けするほど、彼の体に触れるほど、別れが辛くなる。

「そろそろ林田さんが来る頃ですね」

 理性で唇を引きはがした。濡れた唇が「そうだね」と返事をする。

「夜に電話するから」
「体に気を付けて」
「僕がいなくても浮気しないでよ」
「しません。栄一くんこそ、向こうのイケメンに口説かれないように」
「これがあるから大丈夫。お守り」

 左手を私に向けて微笑む。薬指には私とおそろいの銀の指輪が嵌めてある。なんの法的拘束力もないが、私と彼の永遠の誓い、その証だ。

 国見さんのスマホから着信音が流れて切れた。林田さんが駐車場についた合図だ。

「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」

 彼の左手に唇を落とす。この指に指輪を嵌めたときの誓いを改めて心に誓う。病める時も健やかなる時も、喜びの時も悲しみの時も──。

 私はもう完全に過去から脱していた。いま現在を、愛する人と共に生きている。これ以上の幸せがあるだろうか。

 




往時渺茫としてすべて夢に似たり(14/15)

2018.06.20.Wed.
10111213


 19時過ぎ、中国に到着した。タクシーに乗って国見さんが宿泊しているとされるホテルへ向かう。国見さんに会わせて欲しいとフロントへ言っても相手にされないだろう。

 駄目元で国見さんの携帯へ電話をかけてみた。呼び出し音が続く。

 国見さんのマネージャーを思い出して、今度はそっちへかけてみた。事件のあと必要があって連絡先を交換しておいたのが役に立った。呼び出し音が続いて、駄目かと諦めかけた時『はい、林田です』繋がった。

「お久しぶりです、諸井です」
『お久しぶりです。お変わりありませんか』
「はい。林田さんに折り入って頼みが。国見さんに会わせてくれませんか」
『えっ、知ってると思いますけど、いま中国に来てるんですよ?』
「私もこっちに来ています」
『そうなんですか?! でもどうして僕に?』
「怒らせてしまって、電話に出てくれないんです」
『ハハハ、なんとなく国見さんの様子を見てそうじゃないかなと思ってましたけど』

 笑い事じゃない。いいから会わせてくれ。

『国見さんはいま監督と打ち合わせ中なんで、電話に出れなかったんだと思いますよ』

 それが本当ならどんなにいいか。

「体調を崩していると聞いたんですが」
『ああ、ちょっとこっちの空気に合わなかったっていうか。今はもう平気です。アクションのトレーニングも再開してますしね』

 それを聞いて安心した。テレビでは軽い鬱だとかなんだとか言っていたから、心配でたまらなかった。

『僕から諸井さんに電話するように言っておきましょうか?』
「お願いします」

 礼を言って電話を切った。そういえば今晩泊まる宿を確保していなかった。国見さんと同じホテルに空き部屋があったので、チェックインして部屋で電話を待った。

 テレビをつけても言葉がわからない。窓から外を眺めたり、ベッドに寝転がって時間を潰した。23時を回った頃、やっと電話が鳴った。

 ベッドから飛び起きてスマホを耳に当てた。

「諸井です、国見さん?」

 沈黙。かすかに物音が聞こえるので繋がっているのは確かだ。

「林田さんから聞いたでしょう。私もいまこっちに来ています。一度会って話がしたい」
『なんでこっちに来たの』

 よそよそしく硬い声だったが、間違いなく国見さんの声だ。

「あなたに会いたいからです。体調を崩したと聞きました。大丈夫なんですか?」
『あんたとはもう別れるって言っただろ』
「嫌です。私は納得してません。ちゃんと会って話をさせて下さい。君はあんな終わり方で本当にいいんですか?」

 長い間のあと、ボソッと部屋番号だけを伝えると国見さんは通話を切った。それだけで充分だ。

 教えてもらった部屋へ急いで向かう。ノックをして待った。ドアが開き、難しい顔の彼が私を出迎えた。思っていたより元気そうで安心する。役柄のためなのか、前に会ったときより髪が短くなっていた。

「その髪型、よく似合ってる」
「うん」

 私から目を逸らし、彼は自分の襟足を撫でた。短い返事は照れ隠しだろうか。だとしたらまだ望みを持っていいということだろうか。

「あんなに中国へ行くの嫌がってたのに、どういう風の吹きまわし?」

 この嫌味も、まだ私に関心があるからだと思ってもいいのだろうか。

「何が大事がわかったんですよ」
「仕事。でしょ?」
「君が本当に私に仕事を辞めて欲しいなら、いつだって辞めますよ」
「嘘だ」
「なにが大事か、やっとわかったんです。私はできるだけ君と対等でいたかった。君に釣りあう男でいたかった。そんなつまらないことにこだわる自分がいかにちっぽけだったかやっと気付いたんです。仕事より何より一番、君が大事だ。君のいない人生は考えられない。私には君が必要だ。君がまだ私を必要としてくれるなら、このままずっとここに残ります」

 彼は疑わしそうに私を見た。

「本当に仕事を辞めてもいいの?」
「まずは休職できないか頼んでみます。駄目なら辞める。でも日本へ戻ったら仕事は探します。君に養ってもらうのも悪くないが、そうなると対等に話ができなくなってしまいそうで、それは嫌なんです。働きながらでもできるだけ君のそばにいられる仕事を探してみます。君も私のスーツ姿を好きだと言ってくれたでしょう?」
「そうだけど……本当にそれでいいの?」
「君と仲直りできるなら」 

 私を凝視していた国見さんの端麗な顔が歪んだ。唇が震える。

「国見さん?」
「……ごめんなさい……! 仕事、辞めないで……っ」

 彼の赤く潤んだ目に涙が溜まる。やはり彼は泣き顔も綺麗だ。以前感じた別人のようには見えなかった。私が愛した生身の国見栄一だ。腕を伸ばすと彼が胸に飛び込んできた。体中で感じる国見さんの感触と温もりに私まで目が熱くなる。視界が潤む。

「ごめんなさい、馬鹿なことを言って……僕が間違ってた……、あの時はもう、諸井さんについてきて欲しくて、わけわかんなくなってて……」
「あの頃は色々あった直後でしたから。私も意地になっていたしね。君から求められることがどれほど幸せなことか、私はつい、そのことを忘れてしまってたんです」
「僕が悪い……、僕が……わがままを言って諸井さんを困らせて……」

 私の胸に額を擦りつけて彼はかぶりを振った。頭を撫でて柔らかな髪にキスした。私の指も震えていた。

「別れないでくれますか?」
「別れない。諸井さんはこんな僕でいいの?」
「君がいいからここに来たんですよ」
「こっちに来てから、ずっと後悔してて……、なんであんなこと言っちゃったんだろうって……、絶対愛想尽かされたと思ってた。電話もメールも怖くてできなかった。諸井さんに嫌われたと思って……」
「前よりもっと君のことが愛しくなりました。君の言う通りにして良かった。後悔したくなかったので、必死になってみました」

 自分の言ったことを忘れているのか、彼はきょとんとした顔を見せた。頬は赤く、目は涙で潤んで、唇は赤くなっていた。あどけない表情に胸が締め付けられた。もう二度と見られなくなっていたかもしれないのだ。

「君を失ったかもしれないと思って、すごく怖かった」

 彼にしがみついた。私の震える声を聞いた彼が、優しく背中を撫でてくれた。

 ※ ※ ※

 お互い泣きやんだあと、ベッドに座って近況報告をしあった。私が統括マネージャーになったと聞くと「すごいね。お祝いしないと」と自分のことのように喜んでくれた。

「自分のことばっかで、諸井さんの話をぜんぜん聞いてなかったんだね。何でも話してって僕が言ったのに」
「今度からなんでも言うようにするよ。じゃあ早速ひとついい?」
「なに?」
「城田さんはどうしてここに来たの?」

 彼はあっ、と気まずそうな顔をした。

「知ってるの?」
「たまたま日本でテレビを見て知った」
「向こうも僕が体調崩したってテレビで知って、大丈夫かって電話くれたんだ。その時に、ちょっと愚痴ったらわざわざ来てくれて。以前は僕の主治医みたいなもんだったから」
「城田さんはまだ君のことが好きなんだね」
「ぜんぜん! そういうんじゃないよ。向こうも研修医のこと僕に愚痴ってきたんだ。付き合うことになったらしいんだけど、その途端病院でも彼氏面されて先輩後輩の立場がどうとかって喧嘩になったんだって。そういうのと付き合ったのはそっちなんだから知らないよって話なんだけど。こっちに来たのは完全に研修医へのあてつけだよ。僕は利用されただけ」

 と国見さんは苦笑した。その話を聞いてもやはり嫉妬してしまう。

「妬けるよ、正直」
「ごめん」

 彼は笑みを引っ込めた。

「でも城田さんには感謝もしてる。あの人がここに来てると知って、ブチ切れて飛んできたんだから」
「諸井さんがブチ切れたの? 想像つかないよ」
「仕事もほっぽりだしてきた。お詫びにお土産を買って帰らないと」

 彼の顔が少し曇ったように見えた。

「まだ帰らないよ。ここにいる」

 申し訳なさそうな安堵の笑みを浮かべ、私にもたれかかってきた。

「あまり僕を甘やかさないほうがいいよ。諸井さんがいなきゃ、なにもできなくなる」

 肩を抱きよせてキスした。ベッドへ倒れこみ深く口づける。彼の手が背中にまわされる。服をたくしあげ、胸に吸い付いた。

「あっ、待った! シャワー! 今日トレーニングしたから汗かいたんだ!」
「このままでいいよ。君の匂いが好きなんだ。それに私が待てない」

 ベルトに手をかけた時だった。携帯電話の着信音が部屋に鳴り響いた。顔を見合わせたあと、彼はテーブルの携帯電話を取った。画面を見て舌打ちする。私に視線を戻すと電話に出る仕草をした。私は頷いた。

「はい。こんな時間になんの用……、あっそう、明日帰るの。わざわざ報告してくれなくてよかったのに。彼によろしく。あっ、あんたのこと日本のワイドショーで話題になってるって。俺のせいじゃないよ。そっちが勝手に来たんだろ。……はいはい、わかったわかった。あ、一応礼だけ言っとく。心配してくれてありがとう。……言われなくてもとっくに仲直りしたよ。たった今ね」

 彼は私に目配せして悪戯っぽく笑った。電話の相手は元彼の医者。どうやら明日帰るらしい。

「そういうこと。だからもう切るよ。じゃあね。気を付けて」

 電話口に吹きこむように言って彼は通話を切った。ついでに電源も落とした。前に城田さんと電話をしているのを見た時は、元彼に会いに行く国見さんを見送る立場だった。今日は私の元に残ってくれる。この違いに密かに感動してしまう。

「さて。続きしよう」

 彼は自ら服を脱ぎすてた。前より引きしまった体になっている。

「少し痩せた?」
「ちょっと」
「私のせいだね」
「違うよ。役作りで落としただけ」

 彼の額にキスする。愛しさが際限なく溢れてくる。学生の時の遊びでは得られなかった感情。小泉さんの時には与えられなかった満ち足りた幸福感。幸せ過ぎて死んでしまいそうだ。


 

うつくしい体(1)

往時渺茫としてすべて夢に似たり(13/15)

2018.06.19.Tue.
101112

 エリア巡回のあと、オーナーに呼び出されていたので指定された店へ向かった。黒い壁に囲まれた、一見するとなんの建物なのかもわからない店だ。

 内装も黒で統一されていて照明も薄暗く、通路を歩くことも覚束ないほどだ。右手にカウンター、左手は全て個室。店員の出入りでチラリと見えた客層は若い。

 奥の部屋で広田が待っていた。

「先にやってる」

 とグラスを傾ける。

「お疲れさまです」
「お疲れ。どうこの店」
「暗すぎます。これじゃ食事どころか、一緒に来た連れの顔も見えやしない」
「こういう店、増えたよなあ。若いのに流行ってるらしい」
「まさかうちの店も照明を絞る気ですか」
「うちは舌でも目でも料理を味わってもらうまっとうなレストランだからそんな真似はしないよ」
「それを聞いて安心しました」
「隣の客と顔を合わせたくない奴にはいいんだろうな。芸能人とか」

 また広田のお節介虫が騒ぎだしたのだろうか。その手には乗らない。

「店の売り上げですが、いま現在前年比を上回ってはいるものの、常連のお客様にはそろそろ目新しいメニューをお出しする必要があると思いますね」
「売り上げがいいのは国見栄一効果だな。お菓子の詰め合わせは通販しないのかって問い合わせがいまだにくる」
「検討されてもいいかもしれませんね。それで、新メニューですが──」
「うまくいってるのか、お前たち」
「従業員のプライベートに上司が首を突っ込まないでください」
「テレビで見たけど、いまは中国にいるんだろ」
「らしいですね」

 先日、中国へ発ったとネットニュースで知った。ホテルで喧嘩別れしてから連絡は一度もこない。私からしても無視をされる。もう駄目なのだろうか。望みが小さく萎んで行く。

「休み取って会いに行っていいんだぞ。お前は変に義理堅くて真面目だから遠慮してんだろうけど」
「そんなことは……。彼とは喧嘩中なので」
「だったらなおさら、仲直りのために会いに行けよ。尻込みしてたら手遅れになるぞ」

 耳に痛い。もうすでに手遅れかもしれないのだ。

「人の恋愛なんかどうでもいいだろ」
「よくない。相手はあの国見栄一だぞ。嫁と麻帆が大ファンなんだと。その恋人と噂される男が俺の店で働いてるんだ。家の中で俺の株爆上りよ。会わせろなんだのやかましいんだ」

 弱々しく笑い返した。奥さんとお嬢さんの頼みはきいてやれないかもしれない。

 私の表情の変化に、敏い広田はすぐ気がついた。

「喧嘩って、深刻なやつなのか?」
「誰にも譲れない部分はあるだろう」
「まあな」

 広田は少し黙って考えこんだあと、頭をガシガシと掻いた。

「俺から言えるのは、理性で恋愛すんなよってことだけだ。本能で国見栄一と向き合え」
「彼と出会ってから煩悩まみれの私が理性的だとでも?」
「俺の目にはまだそう見えるね。喧嘩した恋人が中国に行ったら普通追いかけるだろ」
「追いかけたところでまた口論になる。同じことの繰り返しだ」
「口論上等。仲直りのあとのセックスは最高に燃えるぞ」
「ばか」

 私が吐き捨てると広田は笑った。

 お嬢さんの名前が出たとき、記憶の襞から何かが零れ落ちてきた。それは懐かしい小泉さんの記憶。お嬢さんが連れて来た相手が、まさかの小泉さんの元彼だった。

 小泉さんが去ったあと毎日思い出していたのにいつの間にか思い出すことを忘れていた。私の全部を国見さんが占めている。

 小泉さんのことが遠い過去になったのなら。いつか国見さんとのこともそうなるのだろうか。

 少し考えてみただけで、胸が引き裂かれたように痛んだ。

※ ※ ※

 アラームで目が覚めた。くるまった布団から出たくない。覚悟して布団を出て、冷たいフローリングに足を置く。いつの間にか肌寒い季節になっていた。

 朝食をとりながら新聞に目を通す。食器を片付けてから身支度をした。ストライプの濃紺のネクタイを横目に見ながら違うネクタイを選んで首に巻いた。コートを腕にかけて家を出る。

 11月半ば。もうすぐ国見さんの誕生日だ。11月に入ってからずっとそれを意識している。しかしプレゼントを渡したい相手は日本にはいない。

 ホテルで喧嘩別れした日が、彼に会った最後の日になってしまったら──。

 あんな終わり方をするなんて本意じゃない。彼が帰国する頃にまた連絡をしてみるつもりだった。その頃には彼も冷静になって話を聞いてくれるかもしれない。祈る気持ちでそう願う。

 午前中、店を回って新メニューの試食とアドバイスをした。昼は古巣のまかないを頂くことにした。なんだかんだ長年働いた店が一番居心地がいい。

 店の駐車場に車を入れ、裏口から入った。支配人室をノックしたが木原さんはいなかった。休憩室のほうへ足を向ける。馴染みの顔が私を見て挨拶を寄越す。

「支配人は?」
「厨房だと思います」
「ありがとう」

 厨房へ向かうと、途中で話声が聞こえてきた。

「俺の仕事は料理を作ることだ。それに集中させてくれよ」
「もちろん集中してもらわないと困ります。でも新人教育も三井さんの仕事なんですよ。キッチンスタッフは三井さんがリーダーになってまとめてもらわないと」
「そんなのスーシェフに任せりゃいいだろう。そもそも連絡なしにブッチするような奴、どうまとめろっていうんだ」
「聞いたら初日の挨拶だけで、それ以降まともに話もしてないそうじゃないですか」
「当たり前だろ。なんで俺が新人相手にご機嫌取りしてやらなきゃなんないんだ」
「三井さんは怖いんですよ! 話しかけにくいし、口も態度も悪い!」
「なっ、誰がそんなこと言った? 木原ちゃんもそう思ってるのか?」
「私のことは支配人と呼んでくださいって、何回も言ってますよね」
「今更呼びづらいんだよ。別にいいだろ、俺は」
「よくありません。いいですか、三井さんの評価を上げるも下げるも私の印象次第なんですからね」
「おい、それは職権乱用だろう」

 たまらず吹きだしてしまった。二人が揃って振り返る。私を見て木原さんは笑顔になり、三井くんは少し照れの混じった気まずそうな顔をした。

「いらしてたんですか。恥ずかしいとこ見られちゃいましたね」
「うまくやっているようじゃないですか、問題児の三井くんと」
「ちょ、俺は問題児なんかじゃないでしょ」
「本気でそう思ってるんですか?」

 木原さんの鋭いツッコミに三井くんは言葉を詰まらせた。最初は不安だったが、案外この二人はいいコンビのようだ。

 まかないの用意を待っている間、支配人室で木原さんと仕事の話をした。入って二週間目の厨房スタッフが今週から無断欠勤をしている話も聞いた。

「三井さんって横柄じゃないですか。あの人のせいで辞めたスタッフ何人いるか」
「腕は確かなんだけどね」
「ですよね。料理の腕だけは男前なんですけどね」

 木原さんの表現に笑ってしまう。言い得て妙だ。大胆であり、繊細。彼の料理は確かに男前だ。

 スタッフに呼ばれてホールへ出た。テーブルに並ぶまかない料理。作った若いスタッフの説明を聞いてからみんなで食事をとる。三井さんが厳しくも的確な指導をしている。下のものに慕われるようになれば、彼も一人前だ。

 食事のあと、外へ出かける者、椅子を並べて仮眠を取る者、みんなそれぞれの方法で時間を潰す。私は他の数名と一緒に休憩室へ移動し、コーヒーを飲みながら三井くんが作る新作メニューの完成を待っていた。

 休憩室のテレビがついていた。ワイドショーの司会者が女性アイドルの熱愛スクープを伝えている。

「それじゃ、次。こちらも熱愛と言っていいのかな。映画の撮影のために中国へ渡った国見さんなんですが、ついてすぐ、体調を崩したそうなんですね」

 国見さんの名前が出て休憩室はシンと静かになった。休憩室にいるスタッフが私をチラリと見る。

 国見さんが中国へ行って体調を崩したなんて話は、テレビを見ない私には初耳だった。国見さんから連絡もきていない。私はもう頼られる存在じゃないのだろうか。まだ怒っているだけだと信じたい。あんな喧嘩ひとつで別れてしまうなんて納得できない。

「やっぱり生活環境がかわって、言葉も通じませんしね、体調も崩しますよね。それにあの事件のことがありましたから。普通の人だって体調崩しますよ。だって怖いですよ。家帰ったら知らない女がいたなんて。ねえ」
「普通に怖いです。トラウマになります」

 アシスタントの女性が深く頷く。

「あの事件があって連日マスコミに追いかけられて、気が休まらないからって中国行きを早めたらしいんですが、言葉通じないでしょ、生活環境もがらりとかわって精神的に相当参って、軽い鬱状態だっていう話らしいんですよ」

 良かれと思った選択が裏目に出たんですかね、とコメンテーターが訳知り顔で言う。

「で、ですよ。国見さんと親しくされていた例のお医者さんが中国まで会いに行ってるそうなんです。国見さんの泊まってるホテルにそのお医者さんが出入りする姿が何度も目撃されてるそうなんですね」

 体中の血が逆上した。みんなテレビを見ていて良かった。私の顔はいま般若のようになっているだろう。私の知らないところで、知らないうちに二人が再会していた。それをワイドショーの芸能ニュースで聞かされるなんて。

「異国の地で不安になっている時に駆けつけてくれるってかなり心強いですよ」

 アシスタントの言葉に司会者が同意する。

「国見さんが呼んだのか、お医者さんが心配になって会いに行ったのかはわかりませんけど、二人の絆は相当強いってことですよね。仕事休んでちょっと中国行ってくるってなかなかできませんよ」

 今度は燃えてしまいそうなほど自分が恥ずかしくなった。いっそ燃えて消えてしまいたいくらいだ。

 彼から涙ながらにあんなに懇願されたのにそれを突っぱねた私と、彼の体調不良を聞いてすぐに中国へ飛んだ医者の元彼。彼にも仕事が、待っている患者がたくさんいるだろうに、それを差しおいて国見さんを選んだ。何が大事かを、よくわかっている。

 仕事にしがみついた私はなんて小さな人間だ。本当は自分に自信がなかったから、仕事を理由に国見さんの頼みを断ったんだ。芸能人の彼に内心引け目を感じていた。元彼の医者にも。

 自分の仕事に誇りを持っている。だが無意識に二人の仕事と比べていたのではないか。私にはかわりがたくさんいる。現に支配人を辞める時、木原さんに引き継いでもなんの問題も起らなかった。統括マネージャーの仕事も、いつだって他の誰かへ引き継げる。

 だが国見さんの代わりはいない。国見栄一だから仕事の依頼がある。人の命と健康を守る医者の仕事も立派だ。私とは比べ物にならない。

 三ヶ月くらい休めばいいと国見さんに言われて、私が彼に抱く一番のコンプレックスを刺激された。だから私も意地になった。今になってわかった。

 何より大事だと思っていた国見さんより、私は自分のプライドを優先していたのだ。彼なしの人生など考えられないと思っていたのに。それが本音なら、事件があって不安な彼を一人にはさせなかったはずなのに。

 そうだ、彼は不安がっていた。距離があけば心も離れると。医者と別れた理由もそれだった。すれ違いが続いて、医者が研修医によそ見した。あの二の舞を恐れていた。私ならわかったはずなのに、なぜ失念していたのだろう。

「でもこの二人って、レストランで喧嘩して以来、仲違いしてたんじゃないですか? それで、国見さんはレストランの支配人と親しくなったって」

 コメンテーター席の女性タレントが言う。まるで私を嘲笑うかのような顔で。

「芸能リポーターの人にきいた話では、支配人の方とはあの事件以降、会ってないそうですよ。まあ、マスコミとか世間の目がありますから会わないようにしてたのかもしれませんが。でも今回、国見さんが体調崩した時に飛んで行ったのがお医者さんだったってことは、やっぱまだこの二人は続いてたってことじゃないですか」

 司会者が締めくくったことで次の話題へ移った。

 ここが店の休憩室で良かった。自分の家なら私は喚いて家中のものを壊していたかもしれない。いや。なぜ休憩室で良かったと? 大事なものもわからずに、一番愛する人を傷つけて、その結果失ったのに、私はまだ外面やどうでもいいことを気にするのか? なんて愚かしいことだろう。

 私はまた同じ間違いを犯した。小泉さんを元彼に奪われたのと同じように、国見さんも医者に奪い返されてしまった。

『あんた、物わかりいいふりして、指咥えて見てそうだもん』

 国見さんに言われた言葉が頭に蘇った。一言一句、彼との会話を覚えているほど好きだったのに。

『ほんとに好きなら必死になったほうがいいよ。後悔しても遅いから』

 胸が苦しくなった。今更遅いかもしれない。彼が私を見限り医者を選んだのなら潔く身を引くしかない。だが、もう一度、それを確かめるチャンスだけは与えて欲しい。

 休憩室を出て支配人室をノックした。

「すみません、急用ができたので帰ります。三井くんには申し訳ないと伝えておいてください」

 驚く木原さんを残し、すぐに店を出た。車に乗り込みエンジンをかける。ハンズフリーで広田へ電話をかけた。

『おう、どうした』
「諸井です。私をクビにしてください」
『なんだ急に。なにかあったのか?』
「中国に行ってくる」

 電話の向こうで広田が息を飲む音が聞こえた。そして、笑い声。

『本能で恋愛する気になったか。いいよ。有給扱いにしてやる。行って来い』
「恩に着る」

 急いで自宅へ帰り、パソコンを開いた。調べれば彼が宿泊するホテルの名前がすぐに出てきた。セキュリティーはどうなっている。近くの空港を調べ、すぐ乗れる飛行機を予約し、パスポートを持って家を飛び出した。




百と卍