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うすらひ(18/18)

2019.11.05.Tue.
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「ちょっとトイレ」

 2回戦までまだ時間がある。席を立って店の奥まったところにあるトイレに行こうとしたら「俺も行きます」と若宮が追いかけてきた。

「久松さんは飯のあとどうするんですか?」
「どうって、帰るけど」
「なんか、残ってボーリングするグループと、他のところに遊びに行くグループに分かれてるみたいなんですけど」
「へえ、みんな元気だな。俺は帰るけど」
「せっかくだし、どっか遊びに行きましょうよ。疲れるのが嫌なら、買い物行きません? 俺新しいスーツ欲しいんですよね。久松さんセンスいいし、アドバイスしてくださいよ。んで、そのあと晩飯ってどうですか?」

 若宮に肘を掴まれた。強い力じゃない。ただ添えた程度のものだ。だが俺みたいな人種はそれに意味があるんじゃないかと深読みしてしまう。

 若宮に思わせぶりな態度を取ったことはない。若宮がこうなのは誰に対しても同じだ。そこに特別な感情はないはずだ。でももし、思い過ごしじゃないとしたら?

 困る。

 それが真っ先に浮かんだ正直な感想だった。

「いや、俺は帰るって。洗濯物干したまんまだし」
「俺なんか乾燥機入れっぱなしで、そこがタンス代わりですよ」

 声をあげて若宮が笑う。
 まだ手を放さない。まさかこいつ、本当に俺のことを──?

「若宮!」

 大きな声がして二人とも振り返った。ツカツカと大きな歩幅で近づいてくるのは周防だ。背が高いから迫ってくる姿は迫力があった。

「古田さんが呼んでる。早く行ったほうがいいよ」
「えっ、古田さんが? まじすか。じゃ俺ちょっと行ってみます! 周防さん、ありがとうございます!」

 俺の手をはなすと若宮は小走りでいなくなった。無意識にほっと息を吐き出した。次の瞬間、周防に腕を引っ張られ抱きしめられた。

「な、ちょ、おい、なにしてるんだよ、こんなところで!」

 胸を押し返すがビクともしない。逆に強く抱きよせられて布越しでも周防の体の感触が伝わってくる。俺より一回り大きな体。懐かしい感触。脳が揺さぶられたような感覚のあと、不覚にも泣きそうになった。

「周防……! 誰かに見られたらどうするんだ、このばか!」

 周防は無言で俺を抱いたまま移動した。引きずられるように、通路の奥のトイレへ連れこまれる。

「なに考えてるんだ、おい、いい加減離せよ!」
「いやだ!」

 耳元で弾けた大きな声に驚いて抵抗をやめた。窮屈な腕のなかでなんとか周防を見上げる。苦しそうに歪んだ顔。それを見られまいと、周防は俺の肩に顔を埋めた。

「……僕のまえで、他の誰かと仲良くしないでください」

 絞りだされたような声はか弱く震え、俺の耳に届くのがやっとだった。俺にしがみつく体も小さく震えている。

「なんで……そんなことおまえが言うんだよ」
「若宮と付き合ってるんですか?」
「伊吹と?! そんなわけないだろ!」
「伊吹……」

 悲観的な自虐を含んだ声だった。

「あいつが呼べって言うから。俺だけじゃないだろ、ほかの奴も──」
「他の人の話はしてません」

 ぴしゃりと遮られる。

「別に……俺が誰とどうしようが……おまえに関係ないだろ」

 声が不安に揺れた。どうして周防は怒っているんだ? どうして俺を抱きしめる? 嫉妬? もう勘違いはしたくない。

「関係あります。僕が嫌なんです。今日だけじゃなく、歓迎会のときもそれ以外でも、若宮はなんていうか久松さんに対して……すごく、馴れ馴れしい」
「ああいう性格だろ、俺に限った話じゃない」
「若宮だけじゃないです。久松さんのまわりにはいつも誰かがいて、それがすごく嫌だった。俺以外の誰かと仲良くしているのを見ると、すごく気分が悪くなって腹が立った」

 やっと普通にしゃべれるようになってきたのに、こんな風に抱きしめられながらこんなことを言われたらまた元に戻ってしまう。もう俺をグラグラ揺さぶらないで欲しい。

「なんでそんなこと言うんだよ、おまえはもう俺が好きじゃないんだろ?」

 言いながら目の表面が熱くなり、鼻の奥がツーンと痛くなった。こんなところで泣きたくない。

「好きですよ、ずっと」

 熱のこもった声があっさり否定する。

「好きじゃないって言わなきゃ、久松さんが納得してくれないと思ったから言ったんです。僕は久松さんの結婚生活を壊す気なんかなかった。あなたには幸せになって欲しいと思ったから嘘をついたんです。でも離婚したって聞いて気持ちが揺れました。僕が誰かの身代わりだったって言われても嫌いになれなかった。辛くても苦しくても、どうしても久松さんが好きなんです。諦めるなんてできません。他の誰にも取られたくない」

 子供が所有権を主張するように、周防は俺を掻き抱いた。加減を知らない、息苦しさを感じるほどの強い力だった。いっそ壊れるほど抱きしめて欲しいなんて思う。

「嘘だ、だっておまえ、俺にいっぱい冷たい態度取ったくせに」
「恋人だと思ってた人に奥さんがいたんですよ。嫌いになろう、久松さんから離れようって、それしか頭にありませんでした。結局、そんなことできませんでしたけど」
「俺は辛かった。冷たくされても、周防が好きだったから、すごく辛かった」
「すみません。僕も久松さんに冷たくするのは辛かったんです。好きだって言われたら嬉しかったし、やり直したいって言われた時は夜になっても眠れませんでした。一度僕のものになったのにどうして手放さないといけないのかって考えだしたら、何が正しいのかわからなくなって苦しかった。僕以外の誰かに取られるんじゃないかって気が気じゃなくて、毎日不安でした」

 大きな手が俺の後頭部を包むように支える。

「今日も久松さんが心配だったから参加したんです。若宮にしつこく誘われているのを見ていたから。ただの監視です。男の嫉妬って本当に醜いですよね。若宮にも村野さんにもずっと嫉妬して、ぜんぜん楽しくなかった」
「おまえ、本当につまんなそうだった」

 周防のかすかに笑った吐息が耳元にかかった。温かい風。それは不思議と、密着している体より生身の周防の体温を俺に感じさせた。

「また僕と付き合ってくれますか? 僕のそばにいてくれますか?」
「ほんとに、俺なんかでいいのか? 嘘つきの最低男だぞ」
「だったら僕も最低です。久松さんが離婚したってきいて、正直少しほっとしました。とんでもないことをしてしまったって思う反面、これでもう久松さんは僕の知らない女の人と一緒に暮らさないんだって思ったら、安心した。僕って最低ですよね。久松さんのこと言えないです。それに久松さんが結婚してると知っていても、きっと好きになってた。諦められずに告白してた。僕も同罪です」

 一緒に罪を背負ってくれるという優しい周防の言葉に我慢も限界だった。それを認めた途端、視界がじわりとぼやけた。

「離婚したときに、なんでそれを言ってくれなかったんだよ」
「一度は久松さんを思って身をひたんですよ。僕なんかでいいのかって葛藤があったんです。それに身代わりだったって言われたら、なにも言えないじゃないですか」
「身代わりじゃない」

 涙で濁った声で言いながら、おずおずと周防の背中に手をまわす。熱い背中を抱きしめて、清潔な匂いがする首筋に鼻先を擦りつけた。

「周防が好きだ。諦めるなんてできなかった。俺だって南や立花にずっと嫉妬してた。おまえのことしか考えられない。他に何もいらない。周防がいれば、それだけでいい」

 頬に流れた水の粒が周防の首筋に伝い落ちる。周防はやっと体を離した。俺の顔を覗きこみ、泣いていることがわかると困り顔になった。不器用な手つきで目尻の涙を拭う。

「僕はずっと久松さんのそばにいます。もう二度と離れません」
「絶対に? 約束できる?」
「誓います」

 大きな手が俺の頬を挟む。軽く顎を持ち上げられると、唇にキスされた。ギリギリ保っていた最後のなにかが壊れそうな気配があった。いま声をあげたら号泣してしまう。

「このあと、若宮とどこにも行かないでください」
「行かない」
「僕と一緒に帰ってくれますか?」

 コクコクと頷く。

 遠くから「久松さーん」と若宮の声が近づいてくるのが聞こえた。周防も気付いたようで俺を抱きしめたまま一番奥の個室に入ると鍵をかけた。

 直後、若宮がトイレにやってきた。

「あれっ、いない」

 と呟き、トイレを出て行く。遠ざかる足音に安心して、周防の胸にもたれかかった。

「戻らなきゃいけませんね」

 扉のほうへ顔を向けている周防の首に腕をかけ、踵をあげた。周防の手が俺の腰を抱きよせる。角度を変え、深さを変えながら、俺たちは長いあいだキスをしていた。




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うすらひ(17/18)

2019.11.04.Mon.
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 カーテンをあけたら笑ってしまうほどの快晴だった。朝食をとり、そのあと洗濯機を回し、部屋に掃除機をかけても集合時間にはまだ余裕があった。

 結局俺は若宮に誘われてボーリングに行くことになった。前日になって、参加予定だった1人が都合で行けなくなり、すでにボーリング場には参加人数を伝えて予約をしてあるから久松さん行きませんか、と喫煙ルームまで追いかけてきた若宮に再度誘われた。

 一度は断ったが、なんだかんだ話しているうちに気が変わった。

 若宮は人の心を動かす話術を心得ている。部長の言う通り、仕入れ担当か販売が若宮の天職かもしれない。

 のんびり準備をして、少し早めの時間に家を出た。

 休みの日はいつも掃除と洗濯をしたあと、たいてい仕事をしているか本を読んで終わる。ひとりきりで家にいると気が滅入る。夕方になる頃には虚しさに襲われる。かと言って友達を誘って出かける気力もない。

 体力を使うようなことはしていないのに、なぜか休日はいつも疲れる。

 どうせ疲れるなら、外出して体を動かした方が建設的だ。

 時間より少し早めに集合場所についた。すでに何人か集まっている。若宮が俺を見つけて駆け寄ってきた。

「おはようございます!」
「休みなのに元気だな」
「今日めちゃ楽しみにしてたんすよ! 久松さんも来てくれたし」

 若宮をよく知らない奴が聞いたら勘違いされそうな台詞だ。慣れないうちは戸惑うし、もしかして好意を寄せられているのかもと警戒するが、誰にでも言っているからこれが素なんだろう。しんどい、疲れた等々ネガティブな言葉も口にするが、若宮は圧倒的にポジティブな言葉のほうが多い。暑苦しさがないから自然と心に入り込んでくる。

 少し待っていると他の連中も集まってきた。驚いたことにそのなかに周防もいた。咄嗟に南の姿を探したが見当たらなくてほっとした。

 全員が揃って店へ移動した。あちこちで声をかけられて若宮は忙しそうだ。俺は村野といつも通りダラダラと世間話をしながら歩いた。

 気になって後方の周防をさりげなく窺う。立花も名取もいないから、周防は1人でトボトボ歩いていた。構いたくなる寂しげな姿。

 若宮のことで嫌味を言われてから、周防とまともな会話はしていない。業務連絡をするときだって顔を見ず手短に済ませていた。謝罪のメールに返信しなかったから、周防は俺がまだ怒っていると思っているのだろう。向こうから声をかけてくることはない。

 いつの間にか若宮が俺たちの前を歩いていた。

「根明の若宮が来てからウェイ系の名取が霞むようになったな」

 村野の声に若宮が振り返る。

「この前名取さんにクラブ連れてってもらったんすよ。びびりますよ、一晩で知り合い12人増えましたもん」
「かわいい子いた?」
「やばいすね、モデルの子とかいましたよ。名取さんってめちゃ顔広いんすよ」
「それはやばいな。今度俺も誘え」
「久松さんも行きますよね?」
「俺はいいよ」

 苦笑しつつ断ると「枯れるにゃ早いぞ」と村野が意味深に笑う。

「当分いいよ、そういう気分じゃない」
「せっかくフリーなのに勿体ない」
「そのうちな」

 後ろの周防に聞かれたくなくて早々にこの話題を打ち切った。くだらない話をしていたらボーリング場に到着した。古田さんの仕切りで各レーンへのメンバー割が発表された。俺は村野と若宮と、よりによって周防と同じグループだった。

 周防を見ると、周防も気まずそうに俺を見ていた。先日の仲直りのいい機会だ。そう思わなければ今日一日乗りきれない。

「周防はボーリング得意?」

 俺から話しかけると周防は「あまり」とぎこちなく笑った。

「あの、久松さん、この前はほんとに──」
「その話はもういいって。気にしてないし、周防の言うことももっともだよ」
「そんなことは……っ、完全に僕が悪かったです、言い過ぎました」
「もう終わり、ほら靴履き替えようぜ」

 周防の背中を叩いた。俺のあとをついてくる気配がする。錯覚かもしれないが、後ろから周防にじっと見られているような気がして、歩くのが下手になった。

 靴を履き替えボールを選んで座席につく。村野と若宮はすでに待機中だ。プロを目指そうと思ったこともあるという村野は、重いという理由でマイボールは持ってこなかったがグローブは持参していた。グローブをする利点を若宮に説いている。

 古田さんがレーンに立ち、大会の挨拶と説明を行った。勝ちあがり方式で3回戦、最終的に点数の良かった1人が優勝。優勝者は打ち上げの食事代の負担無しと今日は不参加の部長からもらった御志が贈られるのだそうだ。

 思い付きで急遽開催されたボーリング大会にしてはまずまずな賞品。開始の号令のあとゲームが始まり、あちこちからボールがピンに当たって倒れる音が聞こえてきた。

「今日、他のおまえの同期たちは?」

 若宮が投げている間、村野が周防に話しかけた。

「なんか全員用があるらしくて」
「南ちゃんも?」
「はい、そうみたいです」
「おまえら付き合ってんじゃないの?」

 意外そうに村野が言えば、周防のほうは驚いた顔で首と手を横に振った。

「付き合ってないです!」
「まじ? あんなにイチャイチャしてたのに?」
「イチャイチャなんてしてませんよ」

 赤くなった顔で否定しながら、周防はちらりと俺を見た。なんで俺を見るんだ。もう俺に気を遣ってくれなくていいのに。

 次に周防が投げた。その次は俺、最後に村野。村野はさすがでストライクを取った。若宮は二回目を投げたあと、ちょっと写真撮ってきます、と隣のグループへ移った。

 周防、俺が投げ、村野は連続ストライク。ハイタッチをする俺たちの写真も若宮に撮られた。

「これあとでアルバムにあげときますね」

 SNSを自在に使いこなす姿を見るとやはり年の差を感じる。俺はツイッターもインスタもやっていないが、村野はインスタをやっている。たいてい外食した時の写真とか、家族で出かけた時に見た風景の写真をあげていた。

「久松さん、一緒にいいすか」

 村野が投げている間に若宮が隣に座り、スマホをかざした。無難な笑顔とピースサインで撮影に応じる。

「俺のフェイスブックにあげてもいいですか?」
「フェイスブックもやってんの?」
「大学の時のツレとか、いろいろ繋がってんすよ。志望してた会社の憧れの先輩とってみんなに自慢したいんですけど駄目ですか?」
「いいけど別に。悪口書くなよ」
「書きませんよ! 彼女募集中って書いときます?」
「いらない、余計なこと書くなよ。個人情報とかもっての外だからな」
「わかってますって、俺そこまで馬鹿じゃないですよ」

 あはは、と笑って若宮は俺の腕を触った。俺は馬鹿だから、そんなことに何か意味があるのかと勘ぐってしまうのだ。それも、周防の見ている前で。

 村野が戻って来て若宮は席をかわった。ボールを投げ終わるとまた写真撮影のために他のグループのところへ行く。忙しい奴だ。

 第五フレームまでゲームが進み、当然の結果ながら村野がトップ。次に若宮、俺、最下位は周防だった。

「なんだおまえ、バレーは得意でもボーリングは苦手か?」

 ふんぞり返って村野が言う。村野は時々悪気なく相手を見下したような言い方をしてしまう。

「実はボーリングをやるのは初めてなんです」
「よく今日来たな」
「楽しそうだし、一度やってみようと思って」

 足元を見ながら周防はぼんやり笑った。楽しそうとはまったく思えない顔だ。さっきから元気がない。まあこのメンバーじゃ、楽しめないのも無理はないかもしれない。

「フォームがなってないんだよ」

 周防の番が来ると村野は隣に並んで投げ方を教えてやった。それが功を奏したのか、周防が初めてのスペアを取った。村野とハイタッチする。俺も右手をあげた。はにかんだ周防が俺の手を叩いた。

 しかしながら巻き返しは敵わず、周防は最下位のままゲームは終了。他のグループも半数は終わっていて、接戦グループの応援にまわっている人もいた。




うすらひ(16/18)

2019.11.03.Sun.
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 良い雰囲気のまま歓迎会は終わった。基本的に二次会はしないので店の前で解散になる。今日は若宮にせがまれる形で部長と数人の社員でこのあと飲みに行くらしい。まんざらでもない部長の顔。若宮の人たらしの才能には舌を巻く。

「久松さんは行かないんですか?」

 帰ろうと傘を広げたら若宮が声をかけてきた。

「俺は帰るよ、眠くなってきたし」
「そうですか、残念です」
「お疲れ、じゃあまた明日」
「お疲れさまです、おやすみなさい!」

 ペコリと頭をさげ、部長たちのもとへ駆け戻る。疲れをしらない後ろ姿に脅威すら感じる。

 他の同僚にも挨拶をして、駅へ向かって歩き出した。いまだ雨はシトシトと降り続いている。

 急に寒気を感じて身震いした。風邪なんかひいたらシャレにならない。あとでコンビニに寄って栄養ドリンクでも買って帰ろうと考えながら駅のホームに立った。

「お疲れさまです」

 背後からぬっと長身の周防が顔を出した。

「お疲れ。幹事ご苦労様。大変だっただろ」
「いえ、ほとんど立花さんが仕切ってくれて僕は手伝うだけだったので」

 立花は司会進行も務めた。堂々とした姿はさすがと言ったところだ。

「久松さんは、部長たちと飲みに行かないんですか?」
「行かない、行かない。もう疲れた」
「若宮くんは残念そうでしたね」
「あいつの真似はできないよ」
「じゃあ、これからどこかへ行かれるんですか?」
「いや、帰るよ」
「方向が逆じゃないですか?」
「ああ……、いいんだ、こっちで」

 説明を待つように周防が俺をじっと見ていたが、気付かないふりで無視した。周防は諦めたように小さく息を吐いた。

「あの」
「なに」
「噂で聞いたんですけど、奥さんと別れたって本当ですか?」
「こっち来い」

 周防をホームの端に連れて行った。

「噂は本当。離婚したよ」
「そんなっ」

 周防は目を見開いた。

「そんなことをされても、僕は責任取れないって言いましたよね?!」
「責任なんて取ってもらおうと思ってないよ。俺の離婚と周防は無関係だから」
「無関係のはずないでしょう」

 と自分の前髪を掻き乱した

「周防のせいとか、周防のためとかじゃないから。全部俺のせい。俺の決断」

 納得してない顔、薄暗い目が俺を見る。ホームに電車が入ってきたのに動く気配はない。俺のことも行かせる気はなさそうだ。諦めて電車を見送った。ホームから人が消えて、静まり返る。

「もともと結婚しちゃいけなかったんだよ、俺は」

 溜息とともに言葉を吐き出した。

「どういう意味ですか」
「高校の時に、好きな奴がいた。そいつも俺のことが好きだったと思う。そういうのってなんとなくわかるだろ、自分を見る目とか、言動とかで。偶然装ってキスされたこともあったし。あの頃、そいつのことが好きだって自覚はなかったんだけど、告白されたら付き合う気だった。結局そいつから告白されることはなくて、卒業しちゃったけどさ」
「ちょっと待ってください、相手はもしかして」
「男だよ」

 周防は軽く息を吸いこんだ。

「男だったからそいつのことが好きだって自覚が遅れたと思うし、向こうも俺に告白できなかったんだと思う。やっぱり男が男に告白するのはハードル高いだろ。お互い確信があったのに有耶無耶で終わったせいで、俺はそいつのことをずっと引きずってた。大学行っても、彼女が出来ても、そいつのことを忘れたことはなかった」

 何かに気付いたように、周防の顔つきが変わる。

「結婚式にはそいつも呼んだ。結婚するなって式をぶち壊してくれるかもって、そんな期待がどっかにあった。結果的に式は恙なく終わったわけだけど、未練は捨てられなかった。ここまで言ったらもうわかるだろ。俺は結婚しちゃいけなかった。おまえは、そいつの身代わりだった」

 周防は苦しげに顔を歪め、固く目を閉じた。

「だから離婚はおまえのせいじゃない。おまえのためでもない」

 頭上の蛍光灯がジジ、と音を立てた。俺の告解が終わっても周防はずっと俯いたまま目を瞑っている。よく見ると睫毛が震えていた。

「最低ですね」

 絞りだすように周防は言った。

「最低だろ。だからおまえが気に病む必要はない」
「なんのために僕が身を引いたと思ってるんですか」

 俺を睨む目。真っ赤に充血している。

「僕が相手じゃ、結婚も子供もできないと思って──」
「おまえはちゃんとした相手を見つけろ」

 電車が到着するアナウンスがホームに流れた。まばらに人も増えていた。

「僕のことを好きだと言ってくれたのも、嘘だったんですか」

 涙で濁った声に胸が締め付けられた。嘘じゃない。嘘じゃないとも。最初はそうじゃなかったとしても、本当に好きになったし、いまも好きだ。だから俺も周防には、誰からも後ろ指さされることのない真っ当な幸せを掴んで欲しいと思えるようになったんだ。

 返事はせずに、ホームへやってきた電車に乗り込んだ。

 周防はさっきと同じ場所に立ち尽くしたまま微動だにしない。扉が閉まり、電車が動きだした。

 周防がどんどん小さくなる。見えなくなるまでその姿を追った。見えなくなっても、ホームにひとり取り残された周防の姿が脳裏に焼き付いてなかなか消えなかった。

 ※ ※ ※

 5月に入りやっと新居が決まった。会社から3駅の1K。マンションの1階にコンビニがあるのが決め手になった。新しく買いそろえたのは布団とテーブルと小さい冷蔵庫だけ。みすぼらしい再出発だが、満足だった。

 美緒との離婚条件についての話もまとまり、協議書にして俺たちは完全に終わった。

 その報告をしたら部長は本当に俺を飲みに連れて行ってくれた。まだ若いんだからこれからだ、と部長は言うが、なんとなく俺はもう結婚しないような気がした。

 高校時代の仲間は俺の離婚を知ると飲み会を開いてくれた。そこに公祐もいた。彼女とは順調かと訊ねたら「まあね」と笑った。

 あんなに親密だった俺たちも、いまはもう、ただの友人。公祐とキスだのセックスだの、してる自分が想像できない。

 恋人の話になって顔を緩ませる公祐に嫉妬もわかないし未練もない。

 それを確かめて少し安心した。いつか周防のことも諦められるだろう。

 単調な毎日を丁寧に過ごしていたある日、ボーリング大会の参加者を募るメールが送られてきた。発起人は古田さんだが、その前に若宮とボーリングの話で盛り上がっていたから、みんなでやりましょう!とねだられたのかもしれない。

 若宮の仕事ぶりはいたって普通だった。立花のように飛びぬけて優秀でもなく、周防ほど真面目でもなく、南ほど気がつくわけでも、名取ほど軽薄でもない。すべてにおいて平均点だが、天然の人懐っこさは努力だけでどうこうできない最大の武器だ。

 昼食のあと村野とオフィスに戻ると「久松さん!」と若宮が駆け寄ってきた。

「ボーリング、どうするんですか?」
「俺は不参加で」
「えーっ! 一緒にいきましょうよ!」
「休みの日はゆっくりしたい」
「そんなおじさんみたいなこと言わないで」
「おじさんだよ」
「なに言ってんすか。休みの日っていつも家で何してるんですか?」
「なにって、掃除したり洗濯したり」
「そんなの俺が手伝いますって! だから行きましょうよ」

 俺の腕を取って左右に揺する。若宮は誰に対してもこうだ。悪い奴じゃないとわかっているから、懐かれるのは嫌じゃない。距離なしを苦手に思う人もいるだろうが、そういう人にはちゃんと節度ある距離感を保っている。

「久松ばっか誘って俺はいいのかよ」

 一緒に戻ってきた村野が口を挟む。

「村野さんは参加の返事がきたって古田さんに聞きましたよ。村野さん、マイボール持ってるってほんとですか?」
「おお、ほんとだよ。学生の頃ちょっとハマッてさ。プロに教えてもらってた時期もあんのよ」

 それは俺も初耳で驚いた。

「じゃあプロになろうとしてたんですか?」
「ちょこっと、一瞬だけ夢見たこともあったけど、まあ冷静に考えたらそれで食ってくのは大変だからな、諦めたわ」

 若宮はしきりに感心している。それが演技にも見えない。若宮は人の警戒心を解くのもうまい。俺と村野は入社以来の付き合いだが、そんな話をしたことはなかった。

「伊吹って、根っからの営業職向きだよな」

 思ったことを言った。

「それ久松さんも言います? この前部長に、おまえ仕入れ担当になるかって言われたんですけど、本気じゃないですよね? 俺、久松さんに憧れてここに来たのに、いっしょに働けなくなったら意味ないじゃないですか」
「慕われてんじゃん」

 村野が俺をからかう。

「そういう恥ずかしいこと言うなよ、どうせ誰にでも言ってるんだろ」
「言ってないですよ! 俺ほんとに久松さんに憧れてんですから! 久松さんは俺の目標ですよ!」
「わかったわかった、もういい、もう言うな」

 顔の皮膚がじわ、と熱くなってきた。面と向かって憧れだの目標だの言われることに慣れていない。気の利いた返しが出来ず困ってしまう。顔を赤らめる俺を見て村野はニヤニヤと笑った。

「あの、久松さん」

 呼ばれて振り返ると周防がいた。

「お話し中すみません、ちょっと教えて欲しいことがあって」
「ああ、いいよ、なに」

 周防と連れ立って離れる俺に、若宮は「ボーリング行きましょうね」と大きな声で言った。周りの連中もクスクス笑っている。頼む、もう勘弁してくれ。

「……大学の後輩なんでしたっけ?」

 前を向いたまま周防がぽつりと呟いた。

「え? ああ、伊吹?」
「伊吹……。ずいぶん、仲がいいんですね」

 一瞬思考が止まった。茫然と周防を見上げる。周防は真顔だ。いや、少し怒っているように見える。なぜそんなことを言うんだ? なにが気に食わない? なんで怒ってる? まさか嫉妬──

「今度は若宮ですか。ちゃんと身代わりだって教えてあげたほうがいいですよ、期待させたら可哀そうですから」

 突き放すような言い方に、体中の血が逆流したと思うほどの怒りと羞恥がわきあがった。思わず振りあげた手で周防を突き飛ばした。少し体をよろめかせた周防がハッと俺を見る。

「ちが──、すみません、僕」
「しばらく俺に話しかけんな。わかんねえとこは他の奴に教えてもらえ」

 乱暴に吐き捨てて周防に背を向けた。俺を呼ぶ弱々しい声が聞こえたが無視した。若宮と村野は会話に夢中で俺たちのいざこざに気付いていない。他の同僚も午後の気だるさのなか、各々好きなことをしていて誰もこっちを見ていない。その隙に素早く目元を拭った。あんなことを言われて平気でいられるほど、俺の神経は図太く出来ていない。

 自業自得だとわかっている。これが俺の犯した罪の代償だということも。でも周防からあんな言われ方をするなんて思ってもいなかった。悔しさと、恥ずかしさと、悲しみで、止めようとしても目が潤む。

 戻ってきたばかりのオフィスを出てトイレに逃げ込んだ。個室に入って熱い息を吐き出す。直後、スマホがメールを受信した。予想した通り周防からで、本心じゃないだの、どうかしてましただのと、言い訳と謝罪の言葉が並んでいた。

 気にするなと言えないほど傷ついたが、許さないと言える立場でもない。返す言葉が見つからなくて、返事は送らなかった。
 
 こんなに女々しくなる恋愛はしたことがない。どうすれば立ち直れるのか、さっぱりわからなかった。



うすらひ(15/18)

2019.11.02.Sat.
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 3月中旬になって、それまで頑なに離婚を拒否していた美緒が急に離婚を受け入れた。昇進と部署変更を打診されたのがきっかけで、新しい環境でイチから始めるなら、そのタイミングで苗字を旧姓に戻すのが合理的だと、冷静に思ったのだそうだ。

 短い期間だが財産分与やら慰謝料やら、こまごまとした取り決めや処理はまだ残っているが、話が進展したことに、正直ほっとした。

 美緒は一旦実家へ戻り、今度は職場の近くで新しく部屋を借りるそうだ。

「あっという間だったね、結婚生活」

 2人で過ごした最後の日に美緒が言った。

「いまはまだ洋ちゃんの幸せを願ってあげられないけど、不幸になって欲しいとも思ってないから。洋ちゃんのこと許したわけじゃないし、離婚するのもほんとはまだ納得できてない。好きな人ができたなんて、そんな理由到底受け入れられない。でも離婚してあげる。これは私のためだから。洋ちゃんのせいで時間無駄にしたくないから、だから離婚してあげる」

 泣くのを堪える美緒を見ているのは辛かった。何度も謝って頭を下げた。当たり前の話だが、慰謝料は相場より多く出すつもりだ。

 美緒がいなくなって1人きりの生活が始まった。家具家電は全部売るか処分することで話はまとまっている。休みの日に業者がやってきて、二束三文で家具を引きあげて行った。がらんと広くなった2LDK。1人では持てあましてしまう。新居探しが急務だった。

 職場に近い場所は通勤が楽で魅力的だが、近すぎるのもどうかと思う。部屋を探しているとどうしても周防を思い出した。あまり近すぎると、ストーカーだと思われかねない。だから場所選びは慎重になった。

 そうこうしているうちに4月になり、うちの部署にも新たに3人の新入社員がやってきた。

 その中に見覚えのある顔があった。去年、俺のところへOB訪問でやってきた大学の後輩だ。久し振りに気持ちが明るくなった出来事だった。

 そいつは初対面のときから裏表のない本音トークをする奴で、それが不快じゃなく逆に好感を持てた。調子のいい性格で話が弾み、気付くと別れ際に連絡先を交換していたほど人の懐に潜り込むのがうまい。

 挨拶を終えた新入社員たちは古田さんから自分たちのデスクを教えてもらったり、会社内での決まり事、暗黙の了解のルールなど、細かい説明を受けながら点々と移動し、最終的に事務手続きのためフロアを出て行った。

 不安と緊張の顔ぶれを見ていたら、周防たちがやってきた1年前のことを思い出した。周防の第一印象は背が高くておとなしそうな奴、だった。その後、教育担当の顔合わせで改めて挨拶したときは、真面目で冗談も通じなさそうだ、と少し面倒に思った。

 真面目でおとなしいのは印象通りだったが、体育会系だけあって挨拶はきちんとできるし、言うことは素直に聞く、わからないことは質問できる、そしていつ誰に対しても礼儀正しかった。挨拶さえまともに出来ない奴が入ってくる昨今において、周防のような奴は貴重だった。

 基本は無口だったが慣れてくると冗談に笑うし、周防から軽口を言ってくることもあった。不器用ではあるが、優しくて、誠実な人間だということはすぐにわかった。俺を慕ってくれるのも、頼られるのも嬉しかった。

 いつからか、周防の俺を見る目が変化した。胸のうちに何かを秘めた、ひたむきな視線。

 嫌だとか、困ったとか、負の感情は一切湧かなかった。おそらく俺はバイセクシャルというやつなんだろう。だから公祐のときも、なんの抵抗も感じなかった。

 周防と付き合っていた間のことが、遠い昔の出来事に思える。いまは仕事でしか接点がない。同じチームだから会話もするし、たまに世間話だってする。俺たちの間にはまだわだかまりや緊張感が残っているが、もうほとんど、ただの同僚としての関係が成立していた。

 仕事がなければ、会話がなくても差支えがない。お互いの人生からいつ消えても支障がない。

 そんな日が、いつか来るのだろう。もしかすると周防の中ではもうそうなっているのかもしれない。そしていつか、時間の流れのなかで新しい出会いに夢中になり、俺のことを思い出すことさえなくなるのだろう。

 それを想像すると虚脱感に見舞われた。澱に足を取られ、暗い場所で身動きできない自分がいる。俺はいつになったら前に進めるのだろうか。

 ※ ※ ※

 4月下旬に開催された歓迎会はあいにくの雨だった。参加者たちが傘をさして雨のなかをぞろぞろ移動する姿はなんだか滑稽に思える。

 幸村先生から急な呼び出しをくらった村野は欠席で、話し相手のいない俺は1人で歩いていた。

 前には周防と南が並んで歩いている。周防たちは今年の幹事だ。打ち合わせやらなにやら、くっついて話をすることもあるだろう。
 仕事の一環だとわかっていても2人の親密な姿は見たくない。だから下を向いて歩いた。

 靴がくたびれていた。新しい靴が欲しい。スーツも春夏用のものを新調したい。いやその前に新居探しだ。生活に必要な最低限の家具家電を揃えたら初期費用で数十万が消える。

 そんなことを考えながら歩いていたら「久松さん!」と大きな声で名前を呼ばれ顔をあげた。

「どうしたんですか、そんな暗い顔して」

 入ってまだ1ヶ月も経っていないのに親しげに若宮が言う。こいつはOB訪問のときもそうだったが、入社後ほかの社員に対してもまったく臆した様子もなくパーソナルスペースにどんどん踏みこんでいった。

 ツッコミやすく、弄りやすい性格で、他の新入社員2人より職場に馴染むのも早かった。

「うわ、うるさい奴がきた」

 こんなことを言っても「酷いじゃないですか。俺の声、そんなにうるさいですか」と冗談と受け流しつつ、ちゃんと改めるべきポイントがあれば反省と改善の態度を見せる。1年目の新人にしてはコミュ力が飛びぬけていた。

「OB訪問のあと連絡がないから、てっきりうちの会社は駄目だったんだと思ってたよ」

 OB訪問直後は何度か連絡を取りあっていた。ESのアドバイスだってしたこともある。なのに秋頃からぱったり連絡が途絶え、悪い結果だったんだと思っていた。

「ほんとすいません。久松さんにはめっちゃお世話になったのに。卒論が大変だったんですよ。教授が『おまえならもっといいものができる!』とか熱入っちゃって、何回もやり直しくらったんでめちゃくちゃ苦労しました」

 困った笑顔で頭を掻く。教授にそう言われるということは、よほど可能性のある卒論だったか、お気に入りの学生だったかだ。おそらく後者だろうな、と思った。

「採用通知もらった時に、真っ先に久松さんに連絡しようと思ってたんですよ。ほんとに。でも忙しすぎてタイミング逃しちゃって。今更感あるし、どうせならドッキリで驚かせようと思って。希望通り久松さんと同じ部署に配属されてラッキーでした」

 どこまで嘘でどこまでが本当のことなのか。調子のいい奴だが憎めない。

「うちの部署希望してたの?」
「はい! だって久松さんと一緒に働きたかったですもん。久松さんって仕事ができるカッコいい男って感じで、俺OB訪問のあとからずっと憧れてたんですよ」
「若宮は口がうまいな」
「伊吹って呼んでください。俺、ほんとに思ってることしか言いませんよ」

 あっけらかんと言い放つ。若さか、恐れを知らない傲慢さか。どちらにせよ、若宮の力強い明るさは今の俺には救いだった。少しは気が紛れる。

「俺、ちゃんと一発芸考えてきたんですよ」
「うちの部署はそういうの必要ないよ」
「え、まじすか。せっかく練習もしてきたのに」
「やりたきゃやればいいよ。他の2人の負担にならないように、若宮は一番最後に挨拶した方がいいと思うけど」
「トリを飾る男っすね」

 馬鹿らしくて思わず笑う。若宮は嬉しそうに目じりを下げた。

 周防たちの進行で始まった歓迎会で、若宮が披露した一発芸はテレビでよく見る芸人のモノマネだった。練習したというだけあってなかなかのクオリティで鉄板ネタが大いにウケた。

 フットワークの軽い若宮は一処にじっとせず、あちこちお酌をしてまわった。序列をちゃんと弁えているあたり、ただ底抜けに明るいだけじゃないようだ。しかも自分一人だけが注目を浴びればいいというタイプでもないらしく、事あるごとに他の新入社員も会話に入れる気遣いもできた。

 ある意味、今年の歓迎会は若宮の独壇場と言えた。これで仕事もできるとなったら、期待どころではない大型ルーキーの誕生だ。




うすらひ(14/18)

2019.11.01.Fri.
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 今日何個目かわからないガムを口に入れた。強烈に広がるミントの味に少し気持ちが引き締まる。最近自分でも集中力が落ちている自覚がある。連日夜遅くまで美緒と話し合いで基本寝不足な上、俺は居間のソファで眠るから熟睡できたためしがない。美緒に離婚を切りだして二ヶ月、ずっとこんな調子だ。

 味のしなくなったガムを紙に包んで捨てた。またすぐ口寂しくなる。席を立ち、喫煙ルームへ向かった。先客の部長が俺を見て「珍しいな」と言う。

「ずっとやめてたんですけどね。最近また始めちゃって」
「俺はもう死ぬまでやめられんな」

 煙草の火を見つめて部長は苦笑した。

「家の中でも堂々と吸えないんだ。自分が必死になって建てたの家なのにだぞ。臭いだの壁が汚れるだのと、ベランダに追い出されちまうんだ、どう思う」
「それは辛いですね」
「まあな。孫の健康に悪いって言われたら、俺は何も言えねえけどな」

 部長は娘夫婦と同居していて、去年末は待望の初孫が生まれた。孫のことを話す口振りや顔つきを見ている限り、可愛くて可愛くて仕方がないようだ。家族の嫌煙ぶりを愚痴ってはいても、どことなく嬉しそうに見える。

 禁煙の流れであちこちから喫煙場所が消えていく。このオフィスビルも一時全館禁煙の話が持ちあがったらしいが各所からの猛反対にあって免れたと聞いた。

 正直俺はどっちだっていい。大学生の頃少し吸っていただけでやめようと思えばいつでもやめられる。今は生活が落ち着かないストレスで吸っているだけだ。

 いまは部長と2人きり。いいタイミングだと思い、煙草の火を消した。

「あの、部長」
「なんだ」
「非常に個人的な話なんですが、妻と離婚することになると思います」
「えっ、おまえまだ新婚だったろう」

 部長も煙草をもみ消した。

「そうですね、まだ一年です」
「なんで? 浮気されたか?」
「いえ、僕の不徳の致すところです」
「おまえが浮気か?」
「ああ、いえ、その」

 言葉を濁して頭を掻いた。相手は誰だと追及されかねない。

 美緒に離婚を切りだしたとき、当然美緒も俺の浮気を疑った。どこまで正直に話すべきか迷った。卑怯だが全部話す勇気はなかった。相手は誰だと騒がれたら困る。周防に迷惑はかけられない。

 だから好きな人ができたとだけ言った。相手は誰だときかれたが言わなかった。すでに告白して振られていると話したら、美緒は泣きながら「馬鹿じゃない」と言った。

 振られているならきっぱり諦めて夫婦でやり直せばいいでしょとも言われたが、それはできないと断った。俺の心がもう美緒にはない。こんな状態で夫婦としてやっていけない。時間が解決するものでもないから、早く決断するのが美緒のためにもなる、と。

 ずいぶん自分勝手で酷い話だ。我ながらクソ野郎だと思う。

 美緒は断固拒否した。休みを合わせ、お互いの両親を交えて話し合ったこともある。親父は俺を殴りおふくろは美緒と義両親に「うちのバカ息子が申し訳ない」と頭を下げた。

 共通の友人がかわるがわる家にやってきて離婚を思いとどまるよう説得してきた。俺の意思が変わらないことを知ると、数人は呆れ、数人は「こんな男とさっさと離婚しろ」と怒って帰り、数人は俺と縁を切った。

 そんなことがこの二ヶ月続いていた。自業自得とは言え疲労困憊でつい煙草に手が出た。

「僕は結婚しちゃいけない男だったんです」
「その結論を出すには一年じゃ早いだろ。誰にだって1回や2回の間違いはある。それにいちいちキレて離婚してたら、俺んとこはバツ何十かわからんぞ」

 にやりと笑いながら部長はまた煙草を咥え、火を付けた。

「僕が全部悪いんです。彼女には申し訳なくて。僕は……他の人を好きになってしまいました」

 部長は目を閉じ、煙を吐き出した。

「まあ、結局は当人同士の話だしな。外野の俺がとやかく言うことじゃねえや。他に目がいくのは男の、いや人間の性ってやつだ。理性だけでどうにかできるもんでもない。おまえが本気なら、一刻も早く別れてやるのが今の奥さんのためだな」
「はい」

 神妙に頷く。もっと厳しい言葉を覚悟していたのに、意外な優しさに感謝した。俺が悪いとは言え、この二ヶ月間はずっと責められ詰られることばかりで、精神的に参っていた。

「離婚は結婚の何倍もエネルギーがいるっていうからな。全部片が付いたら飯奢ってやる」

 俺の肩を叩くと部長は喫煙ルームから出て行った。1つ、肩の荷が下りた気がした。大きく息を吐いてから、俺も喫煙ルームを出た。

 ちょうど会議室の扉が開いて、周防と若い女の子が出てくるところに出くわした。

 見たことのない子だ。「今日はありがとうございました」とペコペコ頭を下げる初々しい言動から察するに、就活生によるOB訪問だろう。

「あ、あの、これよかったら皆さんで召し上がってください」

 女の子は茶色い紙袋を周防に手渡した。バレンタインデーがあったばかりだから中身はチョコレートかもしれない。

 女の子を送る周防と通路ですれ違った。なにか言いたげな視線を周防から感じたが、女の子へ会釈だけして気付かないふりをした。

 先日あったバレンタインデーで、南は周防に本命チョコを渡したらしい。立花と南の立ち話が偶然耳に入った。その夜は2人で食事の予定だとも聞いた。順調に距離が縮んでいるようだ。もう俺の入り込む隙はない。

 自分のデスクで仕事をしていたら、戻ってきた周防が俺の横に立った。机に手をつき、顔を近づけ小さく言った。

「さっきの子はOB訪問にきた学生ですから」

 呆気に取られて周防の顔を見つめた。

「わかってるよ。去年、俺のとこにも来たし」
「そうですか。一応、念のためにと思って」

 口をもごもごさせて口ごもる。また俺が嫉妬してるんじゃないかって? 余計なお世話だ。

「いいから早く仕事戻れ」
「はい。あ、さっきの子にお菓子をもらったんですけど」
「開けて給湯室に置いとけば誰か食べるだろ」
「はい、あの」
「まだ何かあるの」

 つい、きつい言い方になった。周防も少し怯んだ表情を見せた。

「いえ、なにもないです」

 ぺこりと頭をさげ、周防は自分のデスクへ戻って行った。その背中を見つめる。俺が望んだ通り、前のように接してくる。付き合っていたことも、別れたことも、なにもなかったみたいに。俺は周防の何気ない言葉や視線ひとつで心が乱されるのに、周防のほうはまるで無頓着だ。

 心がジクジクと痛んだ。いつまでこの痛みは続くのだろう。永遠に痛み続ける気がして、絶望的な気分になった。



兎の森 1