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続・ひとでなし(2/2)

2017.10.19.Thu.
(前話はこちら)

 今日も寝不足のまま家を出た。昨日の夜は再就職で心が決まっていたのに、嫁の妊娠、入院した父親が臭わせた退職話のせいでその決心はグラグラに揺らいでいた。

 出産までに再就職できれば問題ない。できるだろうとも思う。が、出来なかったらという不安もある。ちょっとした冒険すら、家族を背負った今は大冒険に感じる。妊娠したばかりの嫁にいらぬ心労をかけたくないという思いも強い。

 退職せず、現状を維持できるのが望ましい。

 そのためにいま俺ができることと言えば「あれ」しか、思いつかない。

 伊能とセックスするしかないのだろうか。それ以外、俺が会社に残る方法はないのだろうか。

 考えながら会社へ到着した。

 伊能は俺より先に来ていた。女性社員となにやら楽しげに談笑中だ。誰がどう見ても女好き。事実、そのように遊びまわっている。なのにどうして、男もいけるんだ。なぜその興味の矛先を俺に向けるんだ。傲慢なほどに貪欲すぎる。

 フェラの次は、セックス。会社に残るための代償として、それは相応しいのだろうか。今の俺に正常な判断はできない。

 ただ、昨日嫁の妊娠を知ってから今朝までの間に、半分ほど諦めの覚悟はついていた。あとは自棄になって開き直る瞬間を待つだけだ。



 得意先を回り、定食屋で昼飯を食べていたら伊能からメールが来た。

『決心ついた?』

 短いメール。憎々しい顔が頭に浮かぶ。あと少し。今の心境はバンジージャンプのジャンプ台の上。吹っ切れた一瞬を待つ感覚。
 メールは無視してやった。逐一あいつに報告してやる義務はない。

 午後の仕事が終わり社へ戻った。伊能の姿はない。まだ仕事か、もう帰ったか。俺が帰るまでに戻って来たら、セックスしてやろうじゃないか。自分の中で賭けを始める。

 帰り支度をしながら、今日のタイミングを逃したら一生自分から言いだすことは出来ない気がして、これでいいのかと手が緩まる。必要のない机の上の整理を始めたりする。

 結局伊能が戻る前に退社した。こんな時に限って戻りが遅い伊能に腹が立つ。

 明日なら覚悟できているだろうか。そもそも、覚悟できる日なんてくるのだろうか。男同士でセックスだなんて、今まで想像すらしたことがないのに。

 今日も寝不足の予感がしつつ駅のホームで電車を待った。このままどこか遠くへ逃げてしまいたい。

「お疲れ」

 声と共に肩を叩かれて飛びあがった。

「びびりすぎだろ。やましいことでもあるのか」

 伊能が横に並ぶ。会社で待ってた時には現れなかったのに、どうしてホームで出くわすんだ。この場合はどうしたらいい? 会社じゃないから賭けはなし?

「明日島さんと飲みに行く予定なんだ。例の件、それまでに返事してくれよ」

 それを聞いた瞬間、俺はジャンプ台から飛び降りていた。自分の意思ではなく、突風に背中を押されて気付いたら落ちていたような感じだ。待ち続けていた諦めと開き直りの瞬間が、伊能の言葉によってもたらされた。

「今日の夜は?」

 勢いのまま問いかける。

「お? やる気になった?」
「やるしかないだろ」

 俺の顔をじっと見たあと、伊能はにっと笑った。

「じゃあ、ホテル、行こうぜ」



 嫁には伊能と飲みに行くから帰りが遅くなるとメールを送っておいた。すぐさま「飲み過ぎないでね」と返事がきた。嘘を吐いたのは心苦しいが、すべては愛する家族のためだ。

 伊能に連れて行かれたのは、大通りから外れた場所にあるホテルだ。男二人で入るところを誰かに見られたらと躊躇していたら伊能に腕を掴まれて引きずり込まれた。こいつは気にならないのだろうか。それともそんな感情が麻痺するほど慣れているのか。

「先に風呂入る?」

 と言われたのでシャワーを浴びることにした。気を遣う相手ではないが、一応のエチケットとして。

 俺のあとに伊能もシャワーを浴びた。待っている間、今ならまだ逃げられると迷いが生まれる。逃げても解決にならないし、同じことで悩むのは目に見えている。それなら一度は決心のついた今日、終わらせてしまう方がいい。素面では無理だ。冷蔵庫のビールを飲んで待った。

 バスタオルを腰に巻いた伊能が戻って来た。

「俺も一口」

 と、飲みかけのビールに口をつける。以前なら気にも止めなかった。今は、間接キスだ、と馬鹿なことに気付いてしまう。

「さっそくだけど、斉藤はどっちがいい?」
「どっちとは?」
「入れるほう? 入れられるほう? 俺はどっちでもいいよ」

 漠然と、俺が入れられるほうなのだろうと思っていた。その覚悟で来たのに、妙な選択をさせないでほしい。

 入れるほうか、入れられるほうか。

 女のように突っ込まれる方がいいか、伊能を女のように扱うほうがいいか。

 どちらも究極の選択だが、男だからこそ処女を失うほうが怖い。生まれて初めて経験した貞操の危機は想像以上だ。

「俺が、抱く」
「おっけー」

 伊能は腰のタオルを床に落とした。モロに見てしまった伊能の股間。同じ男同士。興奮なんかしない。気持ち悪い。

「そんなんで抱けるのかよ」

 揶揄する伊能も俺の股間を見ていた。タオルを取らなくてもそこがピクリとも反応していないのはわかる。

「仕方ないだろ」
「しゃーねえな」

 伊能は俺の足元に跪くと、タオルをめくって俺のものに口を寄せた。

「ちょ、やめっ」
「こんなフニャチンじゃ無理だろ」

 ぱくりと伊能に咥えられる。熱くて濡れた口腔内。嫁にしてもらうのとかわらないのに、すさまじい羞恥と嫌悪がわきおこる。

 伊能は慣れた様子で顔を前後に揺すっている。俺の同僚で友人でもあった男だ。昨日は俺にフェラをさせた。その伊能が、今日は俺のものをしゃぶっている。意味がわからなすぎてどうにかなりそうだ。

「やっと大きくなってきた」

 伊能は楽しげに唇を舐めた。言われなくてもわかってる。頭と下半身は別物。刺激に呼応しただけとわかっていても、自己嫌悪は拭えない。

「伊能はこういうの平気なのか?」
「こういうのって……、お前のちんこしゃぶること?」
「そうだ」

 はっきり言うな。

「お前、嫁に同じこと訊いたことある?」

 ない。

「でも、お前は男だろ」
「嫁にクンニしてやったことねえの?」
「お前に答える必要はない」
「人に訊いておいて」

 呆れたように伊能が笑う。

「平気だからお前にフェラさせたし、俺もフェラしてやるんだよ」

 再び伊能は俺のものを咥えた。しゃぶりながらタオルの結び目を解いた。自分のものが伊能の口の中を出入りしている光景が目の前に現れる。伊能の唾液で濡れ光っている陰茎や、俺のものに這わす伊能の赤い舌とかが、ダイレクトに。

 力関係は俺のほうが弱い立場なのに、これを見ると伊能を征服したような優越感が生まれて来る。

「そろそろいけそうだな」

 チュポンと間抜けな音を立てて伊能は口を離した。視線をさらに下に落とすと、触ってもいないのに伊能もガチガチに勃起していた。

 本当に男とのセックスが好きらしい。汚らわしいな、と思う。

「入れてやるから、ベッド行けよ」
「急に強気だな」
「俺に突っ込まれたいんだろ」
「そういうのも悪くない」

 伊能はベッドに寝転がった。自分で膝を持ち上げて尻を俺に向ける。

「こいよ」

 俺も覚悟を決めてベッドに乗った。自分のペニスを掴んで伊能の穴に狙いを定める。女と違う穴。興奮もしない。

「いきなり入れて大丈夫なのか」
「一応風呂で準備してきたから」

 準備ってなんだ。伊能が言ってる意味がわからない。わかりたくもない。とりあえず早く終わらせたい。家に帰りたい。こいつの肌に触りたくない。話しかけられたくない。見られたくない。

「そんな嫌そうな顔すんな。萎える」

 伊能が軽く胸を蹴って来た。

「仕方ないだろ。もう入れる」
「あそう。じゃ、早く」

 尻込みするのは時間の無駄。ぐっと腰を押したら伊能の尻の穴をこじ開け、更に押したら亀頭丸ごとなかに飲みこまれた。こんな簡単に入るものなのか。驚きつつ更に奥へと侵入した。

「……っ……ぅ……はぁっ……」

 呻き声が聞こえて視線を動かすと顔を顰める伊能が見えた。

「痛い?」
「それなりには苦痛」
「なんでそこまでして」
「したいからに決まってるだろ」

 伊能は俺の腰に足を巻きつけ、自分のほうへ引きよせた。

「早く。お前のそれ、俺の一番奥まで突っ込めよ。そんでグッチョグチョに掻きまわせ」
「おい」
「嫁には突っ込んでるんだろ」
「嫁のことは言うなよ」

 うるさい口を黙らせるために言われた通り奥まで押し進めた。中は熱かった。もっと硬いかと思っていたのに柔らかかった。キュウキュウと俺を締め付ける。思わず腰を動かしたくなる気持ちいい窮屈さ。

 頭と体は別。心と下半身は別。どんなに嫌でも気持ちいいものに男は弱い。

 ゆっくり腰を引いた。そしてまた奥まで入れた。伊能が呻く。

 腰を引く、戻す。出す、入れる。何度も何度も、伊能の中を擦った。

「んっ……くぅ……はあ……はあっ」

 伊能の息遣いが乱れる。気持ちいいのは股間を見ればわかった。完立ちしてフルフル震えながら切なげに先走りを漏らしている。男のくせに、女のように喘ぐ。 

「これがいいのか、お前」
「……ぁっ……あ、いい……ッ……」

 ひきつれた笑みを浮かべて肯定する。信じられない。男が男にちんこ突っ込まれて気持ちがいいなんて。伊能を心底軽蔑しながら腰を振る動作が止まらない。男だから、突っ込める穴に突っ込んでしまうと気持ちよくなってしまうんだ。伊能はただのオナホだ。

 そう割り切ると心に残っていた遠慮もなくなって、ガンガン伊能を突きあげることができた。

「はっ、あっ……はあ! ちょ……ぁ……ッ……んんっ!!」
「約束守れよ」

 苦しそうに目を閉じていた伊能がうっすら俺を見る。こんな時にそんなことを言うなと責めるような目だ。知るか。こっちは生活のために嫌々やってるんだ。楽しんじゃってるお前と一緒にするな。

「斉藤は、気持ちいい?」

 掠れた伊能の声。仕事場でもプライベートでも聞いたことのない、初めて聞く声だった。

「俺のことはいいだろ」
「俺でイケそう?」
「……わからない。たぶん……」
「中、出していいからな」

 そう言うと伊能はまた顎をあげ、目を閉じた。俺もまたピストン運動を再開した。奥のほうでグチャグチャと音が立つ。中に出すのが伊能のお望みならそうしてやる。男に中出しされたいなんて、伊能はおかしい。

「……さいと……っ……俺……先、イキそ……ッ……」

 伊能の足が腰に絡みついた。動けなくなって伊能の様子を伺う。眉を寄せて浅く早い呼吸を繰り返している。伊能の中はビクビクと痙攣したように震えていて、俺を食いちぎらんばかりに締め付けてきた。

 伊能は俺に見られながら射精した。触られることなく、ペニスを上下に揺らしながら二度三度と精液を吐きだす。本当に達しやがった。

「斉藤、お前も早くイケよ。お前がイカなきゃ、終わりじゃねえぞ」

 疲労感さえ心地良さそうに、満足したような顔で言う。置いてかれた俺も急いでまた腰を振った。グチョグチョと卑猥な水音と、肌と肌がぶつかる音が部屋に響く。

 ぶっちゃけもうイケそうだった。伊能のすぐあとにイクのが癪なのでタイミングを図る。長引かせるのも気持ちいい。

 伊能が小さく笑うのが聞こえた。

「なんで笑うんだよ」
「お前も気持ちよさそうな顔してるから、嬉しくって」
「してねえよ」
「したね。俺ばっちり見たもん。目に焼き付けた」
「勝手に言ってろ」

 もう我慢も限界だ。伊能の中に吐き出してやった。



 俺が着替え終わる頃になっても伊能はベッドに横たわって天井を見つめたままだった。見たくないものが見えるのでシーツをかけてやると目だけ動かして俺を見た。

「ありがと」
「俺は帰る。お前は?」
「だるいし、今日はここに泊まろうかな」
「一人で?」
「一緒に寝る?」
「冗談じゃない」

 鞄を拾い上げ、出口へ向かった。ここの料金は誰が払うんだ? やっぱり島さんへの口利きを頼んだ俺か。財布から五千円札を見つけてそれをテーブルに置いた。足りなかったら伊能が出すだろう。

「島さんに頼んでみてくれよ」

 部屋を出る前に念を押す。「わかってる」と返事が聞こえた。





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続・ひとでなし(1/2)

2017.10.18.Wed.
前話「ひとでなし」


 約束通り、伊能はその日の夜、島さんに会わせてくれた。

「誰がリストラ対象かは教えられない」

 伊能に連れられて入った店の個室で、先に一杯飲んでいた島さんは俺の顔を見るなり言った。伊能から先に話が行っていたと見える。

「それは承知で、伊能に頼んでこうして時間を作ってもらったんです」

 島さんの横に立って頭をさげた。伊能はさっさと席についてメニューを見ている。

「聞いてる。家族がいてローンの返済をしているのは君だけじゃない。会社は個人の事情まで考慮できない。何百人という従業員を守るるために、無能な社員を切るのは致し方ないことだ」

 はっきり無能な社員だと言われたことはショックだった。その声に覆すことのできない冷たさも感じた。

「せめて半年待ってもらえないでしょうか。その間に必ず成果を出してみせます」
「みんなそう言う。俺からすれば、こうなる前になぜ成果を出さなかったのだと問いたい」
「それは……」

 正論過ぎてぐうの音も出ない。俯いて手を握りしめた。

「島さん、そいつをいじめるのはもうよして、とりあえず飲みましょうよ」
「俺はあと一時間でここを出るぞ」

 俺に向けられたのとは違う、親しみのこもった声で島さんが応じる。二人はそれなりに親しい付き合いらしい。

「ほら、斉藤、お前も座れ」

 伊能が隣の椅子を引く。従うほかなく、椅子に腰をおろした。伊能が適当に飲み物と食べ物を注文する。俺にはわからない共通の話題で二人は盛りあがっている。もしかしたら伊能なりに、島さんの気を解そうとしてくれているのかもしれない。

 二人の間で、俺の知らない人たちや出来事の話が飛び交う。俺が出来ることは相槌と愛想笑いだけ。

 島さんが腕時計で時間を気にしだした頃、最後にもう一回頼んでみようと息を吸いこんだ時、テーブルの下で伊能に足を蹴られた。

「俺はそろそろ帰るが、お前ら二人はどうする?」

 島さんは椅子から腰をあげた。

「俺たちはもうちょっと飲んでから帰ります」
「そうか。見送りはいらん。じゃあな」
「お疲れさまです」

 伊能が立ちあがり頭をさげる。俺も慌ててそれに倣った。島さんは背広を羽織ると颯爽と個室から出て行った。無駄のない動き。仕事のできる男という感じだ。あの人の前では甘えは通じない。土下座したって意味はなかっただろう。

「さっきなんで俺の邪魔をしたんだ」

 足を蹴って止めたことを責めた。伊能は料理を口に運びながら「しつこいのはあの人には逆効果だ」と言った。伊能が言うならその通りなんだろう。

「でも最後のチャンスだったかもしれないのに」
「無理だ。諦めろ」
「ひとごとだと思って」
「ひとごとだよ」

 そっけなく言い捨て、伊能は料理を次々口に放り込んで行く。

「ま、早期退職優遇制度があるから、いきなり肩を叩かれることはないだろうよ」
「……今度はお前から島さんに頼んでみてくれないか? 大学の後輩のお前の言うことなら、ちょっとは耳を傾けてくれるかもしれない」
「俺にそこまでする義理が?」
「ないけど……」

 会社のトイレであんなことさせられたんだから、もうちょっと俺のために努力してくれたってバチは当たらないと思うが。

「何か見返りがないと」
「またアレをやれっていうのか?」

 睨みつけたら伊能はニヤリと唇を舐めた。

「島さんはおっかない人だから俺だって機嫌損ねたくない」
「一回くらい頼んでくれたっていいじゃないか。俺と家族の人生がかかってる」
「そんな重いもの俺にも背負わせる気なら、そっちもそれ相応の覚悟してんだろな?」

 伊能は目を細めた。

「またあれをしろって言うんだろ」
「あれって?」

 とぼけた口調。わかっているくせに。

「舐めろって言うんだろ」

 伊能は俺の耳に口を寄せると「フェラじゃ足りねえよ。セックスしようぜ」と囁いた。

「なっ……!! 馬鹿いうな! 冗談じゃない!!」

 近すぎる伊能の体を押し返す。

「俺が優秀だから島さんは一目置いてくれてるんだ。感情に流される奴だと思ったらあの人は俺を見限るかもしれない。このリスクにはちょうどいい代償だろ」
「どこが!! 俺の、俺のプライドは?! 尊厳は?! どこまで俺をコケにする気だ!!」

 あまりの怒りで声が裏返り震えた。

「会社でも言ったけど、お前がやるかどうかで、俺は別にどっちでもいいんだよ」

 俺の激高とは裏腹に、落ち着き払った伊能は紙ナプキンで口を拭うと、グラスに残っていた酒を飲みほした。

「俺が無償でお前を助ける義理はないし、助けを必要としてるのはお前だけでギブアンドテイクも成立しない。もっと落ち着いてよく考えてみろよ。会社の決定を覆そうとしてるのに、お前は駄々っ子みたいに俺に喚くだけなのか? そっちこそ俺を舐めてんじゃないのか?」
「そんなことはない! もし頼みを聞いてくれるなら、いつかお前が困った時は絶対助ける! 俺に出来ることは限られてるだろうけど、なんだってやるよ!」
「いつになるかわからない恩返しを待つより、いま手っ取り早く体で返して欲しいって言ってんの俺は」
「だから、それは……!!」

 泣きそうな気持ちで伊能を見つめる。いくら家族のためだからって、さすがにそこまでは出来ない。伊能のものをしゃぶった後に感じた疲労感、喪失感。あれ以上のものを味わうことになったら俺は俺でいられなくなる気がする。なんのために働くのか。なんのために家族を守るのか。もう嫁と子供の前に立てなくなる。

「そんな無茶を言わないでくれよ、頼むから」

 がくりと項垂れた。目に浮かんだ涙を見られたくなかったからだ。

 隣で伊能が椅子を引いて立ちあがった。

「選ぶのは斉藤だよ。俺は待つだけ。じゃ、お先に。お疲れ」

 俺の背中を叩いて伊能は個室を出て行った。瞬きしたら涙がこぼれ落ちた。自分の未熟さが腹立たしい。伊能の豹変ぶりが悲しい。こんな時になってもまだ、土壇場で伊能が助け舟を出してくれるのではないかと期待してしまう自分が悔しい。
 
 気持ちが落ち着いてから店を出た。帰る足取りが重い。

 島さんに頼むかわりに尻を差し出せという条件はさすがに飲めない。自分でどうにかするしかない。出来るはずだ。

 言っても俺はまだ29歳だ。再就職に遅いという年でもないはずだ。伊能の言うとおり、早期退職優遇制度を利用して、退職金をもらって再就職先を斡旋してもらえばいい。給料は下がるかもしれないが、頑張って上げていけばいい。

 営業は俺には向いていなかったが、今度こそ自分に合った仕事が見つかるかもしれない。そうなれば出世だって夢じゃない。

 それまでは嫁にも働いてもらえばいい。夫婦なんだからこんな時は支え合うべきだ。意地やプライドなんて言ってる場合じゃない。共働きの夫婦なんてごまんといるんだ。情けなく思う必要はない。

 そうだ。必死にやればなんとだってなるはずだ。

 退職して再就職すると決めると心が軽くなった。気分も前向きになって、この選択は正しい選択だと自信も沸いて来る。

 こんなことならもっと早く覚悟を決めていればよかった。この会社にしがみつくことばかり考えて、しなくてもいい屈辱的なことまでしてしまった。

 伊能と離れられるのもいい点だ。人の弱みに付け込んで自分の性欲を晴らすなんて犬畜生にも劣る。

 あんな奴の顔を見ながら仕事をしなくて済むだけでも、転職の価値はあるというものだ。

 余計な迷いが生じないよう自分を鼓舞しつつ帰路についた。明るい家。夕食の匂い。娘を抱っこした嫁が「おかえり」と出迎えてくれた。何があっても俺たち家族は大丈夫だ。

「なんだ、まだ起きてるのか?」
「今日はお見舞いに行ったから、変な時間にお昼寝しちゃって。でもさすがにもう眠いみたい」

 言ったそばから娘があくびをする。

「あとで、ちょっと話があるんだけど」
「わかってる。お義父さんのことでしょ?」

 嫁に言われて父が骨折し入院していたことを思い出した。

「どうだった、親父」
「なんか、単純骨折じゃないから治りは遅いだろうって。でもお義父さん、元気だったよ。桃香ともいっぱい遊んでくれたし。ねー?」

 嫁がほっぺにキスすると娘はキャッキャと笑い声をあげた。

「次の休みに俺も行ってみるよ」
「うん。そうしてあげて。なんかね、色々あるみたい」
「色々って?」
「お義父さん、この際だから仕事辞めて、畑仕事やりたいって言いだしたみたいなの」
「畑?! ほんとに?」
「お義母さんは反対してるみたいだけど。お義父さんがそろそろ俺もゆっくりさせてくれって、ちょっと険悪ムードになってさ。なんで急にそんなこと言いだしたのか、息子のあなたならお義父さんも本音で話せるかもしれないし」
「わかった。見舞い行った時にきいてみるよ」

 突拍子もない話には、なにか理由があるのかもしれない。正直、いまそんなことを言いだされるのは困る。ちゃんと収入を確保してもらわなければ。親が年金をもらえるのはまだ先なのだ。

 先に風呂に入ってから夕食を済ませた。娘はもう眠ってしまっている。話すならこのタイミングだ。

 どういう風に切りだそうか。考えていたら嫁がビールを持ってきてくれた。

「俺だけ? 飲まないのか?」
「私はいい」
「一緒に飲もうよ」
「飲めなくなっちゃったの」
「え? なんで?」
「実はね。まだ病院に行って確かめたわけじゃないんだけど、妊娠したみたいなの」

 嫁は自分のお腹を大事そうに撫でた。妊娠ということは、そこに赤ん坊がいるということだ。

「そっ……」

 それはすごいぞ! と喜び半分、戸惑い半分。素直に喜ぶ自信がなくて言葉に詰まった。感動のすぐあとに襲って来たリストラという現実。嫁が働きに出る選択肢が潰れた事実。でもそれを悟られちゃいけない。これは喜ばしいことなんだから。

「やったな。おめでとう! まだ病院に行ってないなら、俺も一緒に行こうか?」
「一人で大丈夫。私も頑張るから、あなたもお仕事頑張ってね」
「ああ。無理するなよ。大事な体なんだから」

 自分の言葉がこんなに空々しく感じるとは。子供が出来たことは嬉しいのに、のしかかってくる不安がそれを台無しにしている。とにかく嫁に不安を気取られてはいけない。その一心でむりやりにでも笑顔を保った。

 働きに出て欲しいということはもちろん、リストラされそうだなんてとても言えなくなってしまった。





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