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Phantom (10/15)

2016.09.06.Tue.
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 樫木は芳明の腰に跨るように膝で立ち、苛立った手つきで前髪を掻きあげた。肩で息をしながら、横を向いて呼吸を整えようとしている。

 怒っている様子の樫木からふと視線を移した先でそれを見つけた。少しの驚きと喜び。芳明はそれに手を伸ばした。もうすでに、硬く太い。

 手首を掴まれた。

「やめてくれ……!」

 低く押し殺した声が呻くように言う。

「俺に触られるのは嫌?」
「そうじゃない、ただ、こういう形では嫌だ」
「嫌なのになんでこんな事になってるの?」

 自由なほうの手で樫木の勃起したペニスを触った。ズボンの中でそれがむくりと動く。

「それはっ……! 男なら誰だって……こうなる、だろう! 好きな相手とこんな状況になったら……誰だって!」
「好きな、相手?」

 布越しに弄っていた指を止め、芳明は首を傾げた。樫木は掴んでいた芳明の腕を離した。両手で顔を覆い隠し、深い溜息をつく。

「そうだ。久世のことが、ずっと好きだった」
「俺を……ずっと……? いつから?」

 予想外の言葉に軽く目を見開いた。そんな素振りはまったくなかった。そもそも、恋愛感情を持つほどの間柄だったろうかと困惑する。

「学生の時からだ。こんなことにならなきゃ、言うつもりなんかなかった。言った今だって後悔してる」

 ずっと顔を隠したままなので泣いているのかと思った。芳明は体を起こし、樫木の腕に手をかけた。力を入れて、顔から引き離す。泣いてはいなかった。だが、それに等しい顔つきだった。

「なんで後悔してるなんて言うんだよ」
「状況に便乗して、久世の混乱を利用しているみたいで、こんなのは嫌だ。卑怯だ」
「卑怯なんかじゃない。利用すればいい。俺だって樫木を利用してるんだからおあいこだ」

 唇を噛みしめて樫木は首を左右に振った。真面目で頑固だ。潔癖なところが樫木のいいところだが、今はただじれったいだけだ。

「本音は昔の俺と違うから嫌なんじゃないの?」
「それは違う! 久世は何も変わってない!」

 予想通りの反応が返って来た。芳明は口の端に笑みを浮かべた。

「だったら、躊躇う理由はないだろ」

 樫木の首に手をかけ引きよせながら、自らも腰を浮かせて顔を近づけた。最後の抵抗のように弱々しい反発を見せたが、最終的に折れて芳明を抱きしめた。ベッドに戻る芳明を追って、樫木の体が降りて来る。

 抱き合いながら唇を合わせた。同時に舌も絡めあった。求めっあった者同士、貪るようなキスだった。

「……俺なんかのどこが好きなわけ?」

 まだ口が触れ合うほどの距離で樫木に訊ねてみた。

「裏表がなくて、前向きで、良くも悪くも他人に無関心で、そっけないくせに優しくて、責任転嫁をしない高潔さと、強い精神力と、たまに俺に甘えて来るところ」

 のどの奥でくっと芳明は笑った。

「なにそれ。俺じゃなくて別の誰かと間違えてない?」
「知りあってからずっと、俺は一度も久世を見失ったことはないよ」

 優しい口づけが落ちて来た。樫木の手が再び芳明の股間のものを握った。

「んっ」

 弾んだ声が漏れる。入れ替わりにあの匂いが入ってくる。思考を停止させる匂い。

「ん……ぁ……あっ……」

 のけぞった芳明の首元に樫木は舌を這わせた。跡が残るほど強く吸う。シャツをたくしあげ、露わになった胸を舐めた。立ちあがった乳首を口に含み、もどかしそうに甘噛みして舌で転がした。

「ふ……んっ……あっ、あっ! や……ぁあっ……」

 芳明は頭を振って悶えた。股間では音が立つほど激しい手つきで扱かれた。樫木を挟むように広げた足がガクガク震える。

「ま……はぁっ……まって、あっ……あああ……俺も、触らせて……!」

 背中の服を引っ張ると、樫木の顔が目の前に戻って来た。股間に手を伸ばし、樫木の勃起したものを握った。熱くて硬くて、先端からは先走りが滴り落ちている。

 野性的で男の本能が剥きだしだと思った。いつもきっちりしている樫木の隠された面を見た気分だ。

 扱き合いながらキスをした。敏感な部分を二か所も同時に擦り合わせている。気が昂る。昇りつめる感覚がする。腰が重たくなってきた。股間が切ない。

「……んっ……んん……ぁっ……で、る……!」

 樫木のシャツを引っ張って鼻に押し当てた。

「んっ、んっ、あ、あああ……出るっ……出っ……はあっ、あ……あっ!!」

 男の匂いに包まれるなか、体を突っ張らせながら芳明は達した。熱い塊が体の外へ飛び出していく。久し振りに味わう達成感に頭が真っ白になった。以前樫木のシャツでしたときとは全然違う。

 息を整えながら、芳明は止まっていた手を動かした。

「俺はいいよ」
「こんなにしておいて?」

 笑って言いながら先端を挟むように指を小刻みに動かす。クチュクチュと水音がする。それを亀頭に馴染ませ、全体を手で包みこんだ。優しく扱く。カサがぶわっと膨らんで開いた。

 芳明は唇を舐めた。

「……挿れる……?」

 誘うような声色になったのは無意識だった。樫木は首を振った。

「それは駄目だ」
「どうして」
「歯止めが効かなくなる。それに道具もない」
「道具って?」
「例えば……ローションとか、ゴムとか」

 全部いらないんだけど、と言いかけてやめた。頭に浮かんだのは、いつも男がしてくれていたこと。男は時間をかけて芳明の尻を舐めた。唾液と舌だけでそこを解していた。流石にそれを樫木にさせられない。

「じゃあ次。用意して、しようよ」

 樫木の頬に手を添えた。顔をずらした樫木が手の平に口づけする。

「久世は酔ってる。酒と、香水の匂いに。素面になってもそう思うなら、そうしよう」

 樫木らしい言葉だ。そして的を射ている。酒を飲んでいなければ、香水が手元になければ、樫木とこんなことはしていなかっただろう。発情して、自分に好意を寄せてくれている親切な友人を利用した。最低の人間だ。

「樫木が嫌じゃなかったら、俺はしたい」

 そしてとことんズルイ。

 樫木は答えなかった。芳明の肩口に顔を埋め、ほどなくして射精した。



 朝のリビングは白い光に溢れて輝いて見えた。周囲に建造物がないとこんなにも明るいのかと感心しながら、洗顔と歯磨きを済ませてリビングに戻った芳明はキッチンに立つ樫木の隣に並んだ。

 樫木はフライパンで卵とベーコンを焼いていた。食欲をそそる匂いがする。

 芳明はこっそりと樫木のことを観察した。昨夜、あんなことになったせいで、もう以前のようには見られない。友人ではなく、男として意識してしまう

「パンとご飯、どっちがいい?」

 ベーコンを裏返しながら、樫木がちらりと視線を寄越す。

「朝からそんなに食べないから、それだけでいい」

 芳明はフライパンを指さして答えた。わかった、と頷く樫木は、芳明がリビングに戻って時からずっと笑顔だ。

「俺が昨日のこと謝りださないように予防線張ってる?」
「えっ?」

 意表をつかれたように樫木は少し驚いて見せながら、少量のサラダが乗った皿にフライパンの中身を移し替えた。

「香水が似てるだけって嘘ついたこと。樫木の気持ちを聞いたのに利用したこと。あんなことに付き合わせたこと。俺が謝りださないように、わざと満足げな顔してんじゃないの?」

「そんな顔してたか?」

 フライパンをコンロに置いて、樫木は自分の顔を撫でた。持ちあがっていた頬を下げる。ふっと芳明は皮肉に笑った。

「謝んないぜ、俺は。昨日言った通り、樫木が嫌じゃなかったら、続きをしたいと思ってるから」
「俺も気持ちは変わらない。素面の久世がそう思うなら、俺はそこに付け入ることにしたから」

 そうきたか、と芳明は内心で苦笑した。開き直って攻めに転じたふりで、芳明の罪悪感を軽くしようとしてくれているのだろう。

 素早く樫木にキスした。離れる前に腰に腕を回され、引きよせられた。朝から予定していなかった濃厚なキスになった。まだ微かに香水の匂いがする。ふと、芳明は思い出した。

「そういえば、彼女いるんだっけ」

 香水は彼女からの誕生日プレゼントだと言っていたはずだ。

「今は……いない」

 樫木はバツの悪そうな顔をした。

「誕生日プレゼントをもらったって」
「あれは嘘なんだ。香水をくれたのは前の従業員の子なんだ」
「なんでそんな嘘を?」
「見栄、かな。それに、久世を好きだって気付かれたくなかったから、そういうことにしておいた」
「ふん、だからコンドームも常備してないんだ」
「今度買っておくよ」

 皿を両手に持つと、樫木は逃げるようにそれをテーブルへ運んだ。横を通りすぎる樫木の耳は赤くなっていた。芳明の頬は自然と緩んだ。




Phantom (9/15)

2016.09.05.Mon.
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 順番でシャワーを浴び、寝支度を済ませた。芳明は先にベッドに入った。リビングの明かりを消した樫木もあとからやってきた。掛け布団をめくって、芳明の隣に身を滑り込ませる。

「明かりは全部消したほうがいいか?」

 照明を絞りながら樫木が声をかけてきた。

「真っ暗じゃないと眠れない」
「わかった」

 ピッと音がして、部屋は真っ暗になった。カーテンも閉めているから本当に視界ゼロの真っ暗闇だ。遠近の感覚さえ掴めず、目の前に天井が迫っているような感覚に陥る。

「おやすみ」

 隣の樫木が言う。芳明も「おやすみ」と返した。

 寝返りを打ち、枕の下に手をいれ、アトマイザーを取り出す。蓋を外し、噴射口に鼻を近づけた。真新しいあの匂いがする。新鮮すぎて、監禁されてすぐの、男の匂いを認識した頃を思い出した。

 あの頃は恐怖しかなかった。強/姦されるのはもちろん、触られることも嫌悪でしかなかった。屈辱と恐怖の中、ただ無事に帰れることだけを祈り続けていた。

 今もそのころの恐ろしさを思い出すことは出来る。一生忘れられない恐怖を植え付けた男なのに憎みきれない部分もある。正確には、その怒りや憎しみが持続しないと言ったほうが正しいかもしれない。

 一度も顔を見なかったせいもあるだろう。憎むべき姿形を知らないのだ。匂いと、皮膚による感触と、たまに聞く息遣いしか知らない。本当に存在していたのかさえ怪しくなる時がある。

 それに感覚が麻痺していたとは言え、最後の一ヶ月あまりは恋人同士のような蜜月を過ごした。男はいつも優しく、慈しみに溢れていた。自分が反抗しなければ乱暴されない確信もあった。

 素直でいれば男が喜んでいるのが伝わってきた。媚びれば確実に男は喜び興奮していた。それは身をもって証明されている。

 ただの欲望の捌け口として使われていただけかもしれない。だが、大事には扱われていた。セックスをすれば男より気をやる回数は多かった。前戯も、後始末も、雑にされたことは一度もない。

 だから尚更、本当は悪い奴ではないのではないか、なんて間違った擁護をしてしまう。自分がただ男の嬲り者にされたという現実を受け入れられたくない心理が働いているのかもしれない。大事にされていた、愛されていたということにして、暴力と変わらない凌辱に意味を持たせたい一心かもしれない。

 どうであれ、芳明は男を恐れつつも、飼いならされたあの頃に特別な郷愁を抱いてしまうのを止められなかった。

 持て余す感情の着地点を探るように、何度もアトマイザーから男の匂いを吸いこんだ。微量な匂いに鼻が慣れてしまった。このあたりで切りあげて眠ることに集中しなければ。

 アトマイザーを握り締め、枕の下に手を隠した。すぐ匂いが欲しくなる。もう我慢の限界がくる。

 目の前、手のなかに男の匂いがあるのに、寝るなんて無理な話だった。そろりと手が下半身へ伸びる。直接刺激はしない。ただ、上から触るだけ……

「眠れないのか?」

 突然の声にぎくりと心臓が震えあがった。芳明が何度もため息をついていたせいだろう。声の硬さから、樫木も寝ていなかったとわかる。

「飲み過ぎたせいかな、目が冴えちゃって」
「やっぱり俺は別の部屋で寝たほうが……」
「平気だって」

 身動きする気配に、芳明は振り返った。思いがけず至近距離に樫木の顔があった。息がかかるほどに近い。自分をじっと見つめる二つの目が、暗闇のなかぼんやりと見える。

「無理をするな。俺に嘘はつかなくていい」
「無理なんてしてない」

 胸の苦しさを感じながら芳明は喘ぐように言った。

 手の中に収まる容器を強く握りしめる。なぜこれを持ってベッドに入ってしまったのだろう。こんなものを枕元に置いて、寝る直前まで匂いをかいでいたら男の夢を見そうなものなのに。

 むしろ、夢を見たかったというのだろうか。

 それとも────。

 ああ、そうか。ここが着地点だったのか。

 何かに操られるように手が動き、樫木の胸元に香水を一吹きしていた。

「えっ、なに……これ、さっき渡した……?」

 いきなりの行動に驚いた樫木が布団をめくりあげ、体を起こした。自分の胸元に手をあて、困惑した眼差しを芳明に向ける。

「やっぱり……、この香水、犯人が身につけていたものと同じなのか……?」
「同じ、だと思う」

 確信していながら、最後の悪あがきで意味もなく言葉を濁した。

「それは俺が預かっておく」

 取りあげられる前に芳明は腕を反対側へ伸ばした。それを追いかけて樫木も腕を伸ばす。樫木の体が芳明の顔の前を覆う。ちょうど、香水を振りかけた胸元が目の前にくる。芳明は飢えたもののように、樫木の胸倉を掴んで引きよせると匂いを吸いこんだ。

「久世、やめろ!」

 肩を掴まれ、ベッドに押し戻された。強い力で引き剥がされてカッと頭に血が上る。

「……なんでもっ……してくれるんじゃなかったのか!」

 押さえつけられながら芳明は声を荒げた。

「力になれることがあったらなんでも言えって、そう言ったのはお前だろ!」
「この香水は……! 事件を思い出すだけじゃないか!」
「思い出したいんだよ俺は!」

 はっと樫木が息を飲んで絶句する。

「ネットでなんて書かれてるかお前も知ってるだろ?! その通りなんだよ! 毎日毎日! 寝て食ってる時間以外、俺はずっと犯されてたんだよ!」
「そんなこと言わなくていい!」
「ケツに突っ込まれて中出しされまくって! あいつのちんこしゃぶって! アンアン喘いでたんだよ俺は!!」
「もういい!」

 樫木にぎゅっと頭を抱きしめられた。

「わかったから、もう何も言うな」

 押し殺した樫木の声。乱れた息遣いが聞こえる。それを聞いていると、記憶が揺さぶられた。芳明は荒く息を吸った。鼻腔に男の匂いが充満する。さらに深く吸いこんだ。細胞の隅々へ行き渡る。

 樫木の背中に腕をまわし、目を閉じた。意識があの部屋へ飛んでいく。あの時間へ戻って行く。胸が締め付けられた。

「なんでも……してくれるって……」
「確かに言った。俺が悪かった。俺はなにをすればいい?」

 思考が渦巻いた。ひとつに絞るためにまた深呼吸する。

「このままでいい。このまま、いさせてほしい」
「わかった。少し体勢をかえてもいいか?」

 樫木は芳明の上から退くと、横に寝転がり、腕を広げた。その腕のなかに芳明は収まった。樫木にぴたりとくっついて、気の済むまで匂いを吸いこんだ。

 懐かしくて、白い微粒子のような粉っぽさがあって、冷たさと、甘さと、上品ささを感じさせるあの匂い。

 芳明は再び目を閉じた。すぐ、あの頃へ戻った。あの部屋の、男の腕の中へ。

 薄い生地越しに感じる肉体の厚みと体温。全身で感じたくて体に手足を巻きつけた。お互いを隔てる布が邪魔だと思った。

 甘えるように頬を擦りつけた。頭を撫でられた。いつもなら、もっと強い刺激をくれるのに。

「……っ! 久世……っ」

 逃げるように腰から下が離れていく。それを足を使って引きよせた。

「久世……、当たってる……っ」

 芳明の股間は熱く滾っていた。

「……はぁっ……っ……ぁっ……」

 それを樫木の太ももに押しつけるだけで気持ちいい。男の匂いを取り込んで、熱い息を吐きだす。

 切羽詰まった呼吸を繰り返した。

「ん……っ……は……はぁ……あ……っ……ど…ぉ……して……?」

 触ってこない。キスもない。動かない肉体がもどかしくて泣きたくなる。物足りない部分は自分で埋めるしかない。芳明は股間へ手を移した。

 樫木が身じろいだ。横向きになり、芳明の手の隙間から割り込んでそこを触って来た。待ち焦がれていた感触に、芳明は嘆息を漏らした。

 大きな手が股間を包みこむ。すでに引き返せない状態にまで育っている。さらに育てるように手が動いた。

「あっ、あっ」

 樫木に抱きついて声をあげた。咽喉から勝手に出て来る色のついた声だ。樫木も芳明の体に回した腕を引きよせ、しっかり抱きとめた。

「もっ……と……ちゃんと、触って……」

 一瞬動きを止めた手が、芳明のズボンと下着をずらした。直接握り、上下に擦る。すでに鈴口には水溜りが出来ており、指でそれを掬い取って潤いとした。

「これでいいか?」
「いい……気持ちいい……っ」

 布団の中からグチュグチュと音が聞こえ始めた。大量のカウパーが樫木の手を濡らし、滑りを良くした。竿は少し強めに、カリのあたりは柔らかく。強弱つけて扱かれると腰が蕩けて何も考えられなくなった。

「あっ、ああ……っ……す、ご……気持ち…ぃ……ん……はあんっ……!」

 芳明は無意識に腰を揺らしていた。胸に甘酸っぱいものが広がる。樫木の首にしがみついて耳に唇を掠め当てた。熱い息とともに嬌声をそこへ吹きこむ。

「久世…………ッ!!」

 いきなり体をベッドに押さえつけられた。同時に腕の中にあった体が離れていく。中断されて芳明は目を開けた。

「樫木……?」

 そこにいたのが誰であったか今思い出したような口調だった。目を閉じている間、芳明の頭にいたのはあの男だった。



Phantom (8/15)

2016.09.04.Sun.
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 法務局で用事を済ませたあと、スーパーで買い物をしてから樫木の家へ向かった。今日は樫木がパスタを振る舞ってくれるらしい。

 待っている間、先にあけたワインを飲みながら、窓から外の景色を眺めていた。外の世界はせわしないが、ここの空間は時間の流れがゆっくりだ。その落差に、早く仕事を見つけなければという焦燥が募る。

 樫木に呼ばれてテーブルについた。きのことベーコンのパスタが目の前に置かれる。アボカドのサラダとガーリックトーストもある。

 食べようとしたら、スーパーの肉屋で買っていたローストビーフも追加された。

「豪華」
「今日は久世がいるから。いつもはもっと適当だよ」
「女だったら確実に落ちてるな」
「女じゃなくて残念」
「えっ」
「食べよう。お腹すいた」

 いただきます、と手を合わせた樫木に習い、芳明も手を合わせてから箸をつけた。味付けも申し分なくて、全部食べきれるか心配だった量をぺろりと平らげた。

 後片付けは一緒にした。芳明が鍋を洗い、樫木は軽く汚れを取ってから食器やグラスを食洗器にセットした。

 片づけのあとはソファに移動して、発泡酒を飲みながらテレビでスポーツ観戦した。

 途中で何か思い出したように樫木が立ちあがり、何かを持って戻って来た。

「警察の人に渡してくれ」
「なにこれ」

 受け取った小さな容器。芳明は名前を知らないが、アトマイザーと呼ばれるものだ。

「なかに例の香水が入ってる。同じじゃなくても似てるなら、捜査に役立たないかと思って」

 ざわっと胸が騒ぐ感覚がした。

「……ありがとう。今度会った時に渡しとく」

 透明な液体を見つめながら芳明は返事をした。これがあの男と同じ匂いの香水。あの男の匂い。それが今、自分の手のなかにある。

 無意識に深い呼吸をしていた。体があの匂いを欲している。求めている。助かるためとは言え、浅ましい痴態を演じた醜い自分を思い出す匂いなのに、時間が経てば経つほどに、あの時間は現実味のない淫靡なものになる。

 アトマイザーをテーブルに置いて、また酒とスポーツ観戦に戻った。

 意識の半分はあの香水に引きよせられる。目の前に甘いお菓子を置かれた子供みたいに、ちらちら物欲しそうに見てしまう。

 それを誤魔化すように発泡酒を空けた。一時間もすれば酔いがまわって、顔が火照った。酒もすべて飲みほし、手持無沙汰で落ち着かない。自分の髪に手を入れボサボサに搔き乱した。これではただのジャンキーだ。

 目が香水に吸い寄せられる。酒なんかではなく、あの匂いを嗅ぎたい。一発で泥酔してエクスタシーを感じられるのに────。

「大丈夫か、久世」

 目の前で大きな手が振られた。アトマイザーを睨むように見ていた芳明は我に返って樫木を見た。

「ああ……、大丈夫」
「かなり飲んだな」
「……飲み過ぎた……。今日、泊まっていいか?」
「もちろん。またソファで寝かせるわけにはいかないから、客用の布団を買っておいたんだ。さっそく役に立つ」

 満足そうな顔で樫木は立ちあがるとリビングルームを出て行った。廊下の途中にあった部屋の一つを開けて、何やらゴソゴソしている。芳明はアトマイザーを手に握ってそちらへ向かった。

 玄関から見て一番手前の部屋に樫木はいた。6帖より少し広い部屋の中央に布団を敷いている。

「今日はここで寝るといい。一応マットレスも用意したけど、もし体が痛かったら俺のベッドと代わるから言ってくれ」

 戸口にもたれて立っている芳明を振り返って樫木は言った。

「樫木の部屋、見てもいい?」
「いいよ」

 芳明の横をすり抜けて樫木が先に廊下を進む。リビングに近い戸を開けて、部屋の明かりをつけた。主寝室らしく広い部屋だった。

 正面には目を引くクイーンサイズのベッドがあり、左には大きな棚と、パソコンが2台並んでなお余裕のある机。棚の裏側にもまだ空間があり、そこはウォークインクローゼットだと樫木が教えてくれた。

「寝室兼、作業部屋。一日のほとんどはここにいる」

 ふぅん、と生返事を返しながら芳明は深く息を吸いこんでいた。かすかにあの匂いがする。芳明は手の中の香水を握り締めた。

「この大きさなら男二人で寝ても大丈夫じゃないか?」
「ここに……二人で?」

 樫木は戸惑った表情を浮かべた。

「ベッドに慣れてるから、布団じゃ眠れないかも」
「だったら俺が布団で寝るよ」
「そんなの悪いから、一緒でいいじゃん。俺と……一緒じゃ嫌か?」

 卑怯だとわかりつつ、芳明は自虐的に笑いながら樫木を見上げた。予想通り、樫木はすぐさま首を振って「嫌じゃない」と言ってくれた。

「俺は構わないんだ。ただ、久世が……、久世のほうこそ、平気なのか?」

 心配顔の樫木が言いたいことはわかる。三ヶ月間、見知らぬ男にレ/イプされ続けて来たのに、男と同じ布団で落ち着いて眠れるのかと言いたいのだ。

「お前となら平気」

 と冗談めかして笑ってみせる。樫木は口元を引き締め、怒りとも悲しみともとれる目で芳明をじっと見つめたあと、小さく息を吐いて「わかった」と頷いた。




I HATE

Phantom (7/15)

2016.09.03.Sat.
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 芳明の一家は春に引っ越しをした。引っ越し先は父親の勤め先の近くにある中古マンション。リノベーションされたとかで設備はよくなり内装は新築同然で綺麗だった。部屋は一階だから値段も安く抑えられた。

 歩いていける距離に、駅、スーパー、銀行、病院があって利便性は高く、将来的に手放すことになってもすぐ買い手が見つかりそうな物件だ。

 年を取ったら平屋かマンションに引っ越すつもりだったと親は言っていた。確かにそういう話を聞いた記憶がある。でもこんなに早い予定ではなかっただろう。

 通路側の6帖の部屋が芳明にあてがわれた。荷ほどきのついでに衣替えも済ませた。引っ越しの荷造りの際に、不要なものはあらかた処分した。小学校入学から使っていた勉強机がなくなった分、部屋は以前より広くなった。

 机や棚に入っていた小物や本は急いで使うものもないので、クローゼットの空スペースに段ボールのまま仕舞った。

 古くなったベッドも買い替えた。木製で頑丈なベッドだったから捨てる時に苦労したので、今度は捨てやすそうなパイプベッドにした。

 ある程度片付けると芳明は新しいベッドに寝転がった。ギシッという軋みにぎくりとした。あの部屋で使っていたベッドも、そういえばパイプベッドだった。

 脈が早くなるのを感じながら芳明は静かに呼吸を繰り返した。それはすぐに治まった。

 夕方近くに刑事二人が挨拶にやってきた。年の近いもの同士、小田崎はリビングで両親とお茶を飲み、金子は芳明の部屋を見に来た。

「前よりすっきりしましたね」

 部屋を見渡して金子は笑顔で言った。

「そうでしょ。ミニマリストになろうかな」
「あー、いま流行りの? 断捨離? だっけ?」
「そうかな? 身も心も軽くなりますよ。ヤなことも忘れられるかも」

 金子は笑顔を消して、神妙な面持ちになった。

「本当に、久世さんには申し訳ないです。引っ越しまですることになってしまって」
「もともと親は年取ったらマンションに住むつもりだったらしいですよ」
「なんとしても、犯人を見つけ出して法の裁きを受けさせてやりますから」
「もう無理でしょ。ぶっちゃけ」

 芳明は半笑いで肩をすくめた。金子は難しい顔で口を結んだ。

「手がかりゼロ、目撃者ゼロ、容疑者ゼロ、ホームレスのおじさんは何も覚えてないし、俺も何も見てないし、聞いてない。警察だって、諦めムードなんじゃないですか?」
「いや、自分はまだ諦めてなんかいません」
「捜査はとっくに打ち切られてるし、金子さんたちだっていまは別の事件の捜査してるでしょ」
「確かに中断している状態です。しかし決して諦めたわけではありません。新しい証拠や情報があればすぐにでも捜査を、」
「そんなの出る可能性は低いって金子さんだってわかってるでしょ」
「低いかもしれませんが、ゼロじゃないですよ。人間ですから、必ずボロを出すんです。思わぬ展開で逮捕に至った例はあります。例えば、別件で逮捕された犯人から事件に繋がる証言が出たりとか」
「あんまり期待はしてないからさ、金子さんも、もう俺に気を遣って会いに来てくれなくていいですよ。せっかく引っ越したのに、刑事が出入りしてるのを見られるのも、ね。悪いですけど」
「……いえ、仰る通りです。軽率でした」

 金子は折り目正しく、深々と頭を下げた。ちくっと胸が痛んだ。

 事件解決の進展が望めないのは事実だ。死人が出たわけでもない、世間も忘れ去った事件をいつまでも捜査し続けてくれるほど、警察は暇じゃない。

 だからこそ、気を遣わないで欲しかった。こちらはもう諦める心構えは出来ている。ならばもう事件とは関わらずに生きていきたい。両親と自分の生活を守りたい。もう好奇の目に晒されるのは嫌だ。

 沈黙を破るノックの音がした。

「金子、そろそろ失礼するぞ」

 外から小田崎の声がした。「はい」と返事をした金子が部屋を出る。親と一緒に二人を玄関まで見送った。

 金子は厳しい刑事の顔に戻っていた。もう打ち解けた様子はない。そんな金子を見ることは二度とないだろうという予感がした。

「小田崎さん、金子さん、今までありがとうございました」

 芳明は二人に頭を下げた。

※ ※ ※

 5月になってすぐ、樫木からドライブに行かないかと誘われて出かけることにした。迎えに来てくれるというので新しい住所を伝えた。樫木は引っ越したことを驚きつつ、以前より20分短縮される、と感想をそれだけに留めた。

 マンションの前に到着した樫木の車に乗り込む。

 構えていたのにあの男の匂いはしなかった。安心すると同時に落胆する部分もある。あの匂いに惹かれている。何も考えずに済んだあの部屋が恋しいだなんて、どうかしている。

 樫木は郊外のほうへ車を走らせた。

「どこに行くんだ?」
「ちょっと見てみたい物件があるんだ。そのあとご飯でも食べに行こう」
「樫木も引っ越すのか?」
「いや。今から見に行く物件の近くに複合商業施設が出来るらしいんだ。周りの環境を見てから買うかどうか決めようと思って」
「不動産投資ってやつ?」
「そういうやつ」
「住んでる世界が違うって感じ」
「同じだろ」

 と樫木は笑った。手首には高級腕時計。さらりと羽織っているジャケットも、どこぞの有名ブランドのものだろう。靴だって、いったいいくらするのやら。ニートの自分とは大違いだ。

 そう考える自分に嫌気がさして、芳明はサイドウィンドウに目をやった。

 いまは事件のあとだからと親が許してくれているが、2年、3年と経てばそうもいかなくなるだろう。いつまでも無職ではいられないという現実問題が眼前に突きつけられ、気が重くなった。

 パーキングに車を止めると樫木は外へ出た。スマホで地図を見ながら歩き始める。芳明も続いた。

 このあたりのメイン道路なのだろう。道幅は広く、両脇にはイチョウが植えられている。秋が深まれば黄色く色づいたイチョウ並木が見物だろう。石畳の歩道。若者向けの洒落た店と、昔からある味わい深い店が混在している。変化の途中にある街のようだ。

 駅から少し離れた場所で樫木は立ち止まった。

「もしかして、これ?」
「うん」

 マンションの一室か、中古の戸建てを買うものだと思っていた芳明はそれを見上げて驚いた。樫木が買おうとしているのは4階建てのビルだった。

「いくらすんの、これ」
「一億切ってる」
「いっ……あ、そう」
「どう思う?」
「どうって俺に聞かれても」
「少し行けば住宅街でマンションも多い。そのわりに医療機関や学習塾が少ないんだ。狙い目だと思わないか?」
「まぁ、いいんじゃない。俺にはよくわかんないけど」
「久世がそう言うなら決めようかな」
「俺のせいにするなよ」
「しないしない。最後の一押しをして欲しいだけだよ」

 笑って言って樫木はスマホをポケットに仕舞った。パーキングに向かって来た道を戻る。

「ついでに法務局に行ってもいいか? 所有者がころころ変わっていないか調べておきたい」
「あー、いわくつきの物件とか」
「うん。やっぱり人が一番怖いだろ」
「金持ってると、人のこと信用できなくなりそうだな」
「まぁ、色んな種類の人は見てきたよ。悪い奴ほど優しくて親切だ。その点、久世は信用できる」
「言うね」
「悪い意味じゃない。久世は裏表がなくて正直だろ。久世になら、例えば俺が入院したとき、家の鍵を渡して通帳の暗証番号を教えられる」
「無職の俺に? 持ち逃げするかもよ」
「しないよ、久世は」
「なんで俺、そんなに信用されてんの」
「久世だけだったんだ。俺がIT系の小さい会社を興すって話を聞いても馬鹿にせずに応援してくれたのは。それがうまくいって利益をあげるようになっても、態度をかえずに純粋な友達のままでいてくれた。そんな奴は久世だけだった」

 樫木が起業する話は友達伝手に聞いた。在学中に起業するのは珍しくはあったが、ない話でもない時代だった。同い年の、しかも知っている男が挑戦すると聞いて感心したし、応援したいと思った。

 だから講義室で見つけた時に、「頑張れよ」と声をかけた記憶はある。そしてそれが成功したと聞いた時もやったな、と嬉しい気持ちになった。確かに周りには、どう見てもやっかみとしか取れないような陰口を叩く奴もいた。

「あの頃は嫉妬するほど樫木のこと知らなかったし、そんなに親しくもしてなかっただろ」
「友達だと思ってたのは俺だけか?」
「どっちかっていうと、たまに飲みに行ったりご飯行ったりするクラスメート的な感覚だった」
「それ友達って言わないのか?」
「言うのかな」
「終電逃して俺の部屋に泊まったこともあっただろ。オールナイト上映してた映画を見に行ったこともある」

 言われて段々思い出した。いつもべったりつるんではいなかったが、たまに二人で遊ぶことになると閉店時間まで店で喋っていたり、次の日朝から講義があっても、どちらかの部屋に行って明け方までゲームをしたり飲んだりしていた。

 他の友達とは違う、密度の濃い時間の過ごし方だった。

「ごめん、友達だったわ」
「良かった。俺の一方通行じゃなくて」

 パーキングの料金を払って車に乗り込んだ。カーナビを操作する樫木を見ながら、自分がとてもリラックスしていることに今頃気が付いた。

 卒業してから一度も会わなかったのに、電話一本で会う気になった。事件直後で神経質になっている時期だったはずなのに、こいつなら大丈夫だという安心感もあった。

 学生の時は気付かなかったが、実は樫木とはかなり相性が良かったのかもしれない。きっと最初からあまりに自然に馴染んでしまったから、その自覚が遅れたのだ。

「俺も樫木のこと信用してるって言えるかも」
「さっきまで友達以下だったのに?」
「いや。うーん、そんなにベタベタした付き合いをしなくても、樫木なら何年経っても今と同じ付き合い方が出来そうって意味で。樫木とは反りが合うんだろうな。一緒にいてすごく気が楽だし、何時間いても苦じゃない」
「嬉しいな。俺も同じ気持ちだ」

 にこにこと樫木が笑う。それを見たら急に気恥ずかしくなった。

「男同士で褒め合って気持ち悪いな」
「そうか? 俺は久世の本心を聞けて良かった」
「言うんじゃなかった」

 芳明は唇を尖らせた。「もう遅い」と樫木は笑った。




Phantom (6/15)

2016.09.02.Fri.
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 樫木は都内のタワーマンションの駐車場に車を入れた。高層階まで一気にエレベーターで昇り、ホテルのような通路を歩いて、重厚な造りのドアの前に立つと鍵を使ってなかに入った。

 広く高級感のある玄関でスリッパに履き替え、滑りそうなくらい磨かれた廊下を歩いた先のリビングに通された。黒と白で統一されたモダンなモデルルームのようだった。

 気密性が高いのか部屋の気温は低くなく、コートを脱いでも平気だった。

 大人が10人は座れそうなL字に配置されたソファに腰をおろした。座り心地や手触りで安物でないとわかる。

「すごい家」

 芳明が言うと、冷たいお茶をグラスに注いでいた樫木が顔をあげた。

「意外に高く会社が売れたから、一括で買ったんだ」

 と照れ臭そうに笑う。

「維持できてんのがすごいな」
「東京タワーの見えるタワマンって、いかにもって感じだろ」

 グラスをテーブルに置いて、樫木もソファに座った。その動作で生じるかすかな風に乗って、あの匂いが芳明の鼻に届いた。

 せっかく治まっていたものがまた呼び起こされそうになる。芳明は気を紛らわせるためにお茶に口をつけた。

「そういえばプレゼントって彼女? 男同士で香水のプレゼントなんかしないよな」
「そんなところだ。誕生日にもらった」
「誕生日っていつ?」
「五日前」
「ごめん、何も用意してない」
「気にするな。俺だって久世に何か贈ったことなんかない」

 それもそうだ、と納得した。

「言いたくなければいいんだが、捜査は進んでるのか? 犯人の目星とか」

 膝の上で組んだ手を見ながら、樫木が言いにくそうに切りだす。

「さあ。関係者だからって詳しく教えてくれるわけじゃないんだ。目星がついてるなんて話はいまのところ聞いてない」
「早く捕まえてくれないと、久世も安心して暮らせないだろ」
「どうかな。口封じに来るとは思えないんだよな。顔も見てないし、声も聞いたことないから」
「また攫いに来る可能性だって」
「それはないと思う。最初から期間限定だって言われてたし」
「喋ったのか?」
「違う違う。紙に書いてただけ」
「そうか。どこまでも用心深い奴だな」
「ネット見た? 俺とそいつ、ホモカップルだって言われてるんだぜ。俺は捨てられて騒いでるだけの、女々しいホモなんだって」
「言わせておけ」

 樫木は気分を害したように顔を顰めたあと、呷るようにお茶を飲んだ。上下する咽喉仏に、気付くと目が釘付けになっていた。視線を引き剥がし、唾を飲みこんだ。男の精を飲んだ時のことが思い出された。

 温くて、生臭くて、咽喉に絡まる、あの不快な感じを。

 それを流し込むように、芳明はまたお茶を飲んだ。

 その様子を樫木がじっと見ていた。

「なんだよ」

 口を尖らせると、樫木は目を伏せた。

「さっきの話だけど……、俺がいまつけてる香水は犯人と同じものなのか?」
「いや、違うよ。似てる気がして、ちょっと驚いただけ」

 彼女から贈られたプレゼントにケチをつけるような真似をしたくなかったのと、本当のことを言えば樫木は2度とそれを使わないだろうと思って、芳明は嘘をついた。

 真偽を確かめるようとする慎重な目がしばらく芳明を見ていたが、やがて逸らされた。

「久世と会う時はつけないようにする」
「そんな必要ないって。外歩いてたら今の似てるなって思うことは何度もあるし。人の記憶ってそんなもんなんだよ。覚えているようで、ちゃんとは覚えてないんだ。匂いとか、そういう曖昧なものは、特にさ」
「それでも控えるよ。もらいものだから捨てることはできないけど」
「ほんと、気にするなって」

 樫木が使わなくなったらこの匂いを嗅げなくなる。そう思ってしまう自分がいる。忌まわしい記憶が付きまとう匂いなのに、完全に拒絶できない。

「東京タワー見えるんだっけ」

 芳明はソファから立って窓に近づいた。レースのカーテンを引くと、都内の景色が眼下に広がっていた。その合間に赤と白の電波塔がそびえ立っている。女を口説くには最高のロケーションだ。

「もうすぐライトアップされる」

 樫木がすぐ隣に並んだ。さっきよりもはっきり匂いが届く距離。芳明の心臓が早くなる。

「不便もあるけど、夜景は自慢できる。見て行くだろ」
「なに。俺のこと口説こうとしてんの?」

 冗談で言ったつもりが、樫木は笑わず驚いたように目を見開いた。自分にはまだこの手の軽口は早すぎたようだ。

「ごめん、冗談だから聞き流して」
「わかってるよ」

 そう言いながら樫木の目がぎこちなく逸らされる。頬から耳のあたりが赤くなっていた。それを見たら、心臓の底がトンと持ちあがった。

 衝動的に樫木の肩に頭を乗せていた。

「久世……?!」

 慌てる樫木の声を上の空で聞きながら、満足するまで匂いを肺に貯めた。

「……飯はどうする?」
「えっ? ……ああ、食べに行ってもいいし、人のいるところが嫌なら、出前でも頼むか?」
「そっちがいい。東京タワーをつまみに、酒も飲みたい」
「用意するよ」

 ポンポン、と樫木は撫でるように優しく芳明の頭に手を置いた。声だけで、樫木が微笑んでいるのがわかる。突如甘えて来た友人に戸惑いながらも、最終的には甘えさせてやろうと受け入れたようだ。

「なんでそんなに優しくしてくれんの?」
「友達なら普通だろ」
「俺が事件の被害者だから?」
「……そういうわけじゃないけど、違うとも言いきれないな。久し振りに久世に電話したのも、知り合いからあの事件の被害者が久世らしいと噂を聞いて心配になったからだし。久世は怒るだろうけど」
「怒らないよ。嬉しい」
「それなら良かった。力になれることがあったら遠慮なくなんでも言って欲しい」
「うん。その時は遠慮なく言うよ」

 芳明は目を閉じて、深く息を吸いこんだ。



 樫木といると学生時代を思い出すのか無性にそばが食べたくなる。出前はそばにして二人で食べた。そのあと、酒をちびちびと飲みながら、昔話に花を咲かせた。

 久し振りのアルコールだからか、酔いが早い気がした。口をつける前にグラスを傾けて胸元にこぼしてしまった。濡れた胸元をぼんやり見ながらヘラヘラと笑っていたら、樫木がタオルで拭いてくれた。

 酔っていても、樫木から漂ってくるこの匂いを嗅ぐと、一瞬酔いが醒めた。夢のように遠くなっていた記憶を昨日のことのように思い出す一瞬だ。

 痛みに快感が伴うように、芳明はその匂いを求めることを止められなかった。気付くと樫木の腕を掴んで引きよせていた。自分からも近づいて、樫木の首筋に顔を埋めた。

 毛細血管の隅々にまで行き渡らせるように深呼吸をする。深く味わおうと目を閉じた。

 視界がなくなると、ここはもう、監禁されていた部屋とかわりがなかった。手から伝わる体温は、男の体温と同じだった。

 芳明は樫木の首に、熱い息を吹きかけた。

「……どうして急に…………僕を、捨てたの…………?」
「っ!!」

 耳元でハッと息を飲む音を聞いた直後、肩を掴まれ、体を揺さぶられた。芳明はゆっくりと目を開け、自分を引き剥がした樫木を見た。樫木は険しい顔つきをしていた。芳明は夢見心地でそれを眺めた。

 何が現実かわからないまま、芳明は重くなった瞼を下ろした。



 寝返りを打った時、肌に当たる布の感触が実家の布団と違うことに気付いて芳明は目を覚ました。

 体を起こしてあたりを見渡す。暗い室内。広々とした空間。ここは樫木の部屋のソファの上だった。飲んでいる途中で寝てしまったようだ。この毛布をかけてくれたのは樫木だろう。テーブルの上も綺麗に片付けられていた。

 ソファから立ちあがり、ペタペタと部屋の中を歩いた。カーテンが開けっ放しの窓から夜景が見える。ライトアップの終わった東京タワーが静かに佇んでいた。

 口の中が気持ち悪かったので玄関近くにパウダールームを見つけてうがいをした。適当に引きだしを開けたら歯ブラシの予備を見つけ、それで歯を磨いた。勝手に使ったことは明日の朝、謝ればいい。

 口をゆすいでタオルで手を拭いた。そのタオルを開けっ放しの洗濯機に放り込む。その中に、今日樫木が着ていたシャツがあった。頭では駄目だとわかりつつも、手が伸びてそれを取りあげた。

 躊躇も一瞬、芳明はそのシャツに鼻を近づけた。目を閉じて、胸を苦しくさせるあの匂いを肺へと送り込む。理性が薄れて、常識も法律も存在しなかったあの部屋に気持ちが引き戻される。

 覚えているのは男の匂いと、たまに聞こえる掠れた息遣いだけだ。それを思い出しながら、芳明は自分の股間へ手を伸ばした。

 前を広げ、硬くなったペニスを取り出して扱いた。

「……ぁ……ハァ……っ……はあっ……あっ……」

 荒くなった息遣いは樫木のシャツに吸収される。鼻からも口からも匂いを吸いこみながら、芳明は射精するまで手を動かし続けた。

 射精後は素早く汚れた手を洗い、シャツを洗濯機に戻した。リビングのソファに戻り、久し振りの倦怠感に溜息をついた。

 自己嫌悪よりも、堕ちるところまで堕ちた自分が悲しいだけだった。